九章 光の道(一)
結末に向けてまっしぐらです。
ただし、この章も長いので2つに分けさせていただきました。
待ち望んだ、その日。
闇という帳が降りるまでの間が、これほど長く感じられたことはなかった。
それでも順天は、朝からひたすら平静を保って、普段どおりに過ごそうと努力した。
午前は、日課の勉学にいそしんだ。
午後は、公務と、友人とのお茶会があった。
しかし、結局は、すべてが上の空になってしまった。
朝方になにを学んだかさえ、彼女は覚えていなかった。
公務では挨拶もおろそかになり、お茶会でお茶をこぼす始末。
我ながら、こんな情けない日は初めてだった。
周りから、「具合がお悪いのですか?」と聞かれ、順天はこれ幸いと、体調がすぐれないことにした。
両親も、彼女の体調を気づかい、夜に開かれる予定だった食事会も出席しなくてよいと言ってくれた。
内心、これで動きやすくなると、順天は喜んでいた。
そして、夕闇が近づいた頃。
順天は、あらかじめ事情を話しておいた、もっとも信頼できる側近の女官と衣装を交換した。
そうして夕飯を運ぶ女官に扮し、人目を避けるようにして、来客専用の別宅の前に来ていた。
順天は、木製の龍の彫り物が周囲を囲む扉の前に立つと、深呼吸をかるくする。
手は、食膳でふさがっている。
念のため、周りを見わたす。
誰もいない。
それでも一応、小声にする。
「仙人様。お食事をお運びさせていただきました」
しばらくすると、扉がすっと内側に開いた。
「ご苦労様。奥に運んでくれ」
開けたのは、風龍だった。
順天を招き入れると、風龍がすぐに扉を閉めた。
風龍は、正式に客として、この家に宿を借りていた。
仙人は龍を守り、龍の力を具現化する者だった。いわば、敬われる龍の使い的な存在である。
そんな仙人、しかも天仙であり、九龍でもある風龍を宿に泊めることは、その家にとって誉れであった。
普通ならば、晩餐を家族と共に楽しんでもらうところではあるが、風龍も旅の途中で疲れていたということになっていたし、ちょうど順天の両親も他家との食事会があったので、別宅で食事を取ることになったのだ。
閉めた扉の外を探ってから、風龍が順天に頭をさげた。
「順天殿。このようなことに巻きこんでしまって申し訳ない」
順天は、慌てた。
まさか、九龍に頭をさげられるとは思いもしなかったのだ。
「そのようなもったいないこと、なさらないでくださいませ。頭をお上げください。むしろ、わたくしは、嬉しゅうございます」
他意などなく順天は、ほほえんで返した。
「光斗様は、わたくしを信じてくださっている。それだけでわたくしはもう……」
盆に乗った質素な食事を机に並べながら、順天は本当に心がかるくなった思いだった。
(もうすぐ逢える……)
光斗の身にふりかかっている禍は、充分にわかっていた。
浮かれるなど不謹慎だと、何度も何度も自分に言い聞かせた。
でも、喜びがとまらなかった。
ただ、逢いたい。
それだけで、十分だった。
「順天殿……」
光斗の姿に思いをはせていた順天は、突然、風龍に手を取られて我に返った。
「あなたは、なんと一途ですばらしい女性だ」
「あ、あの……」
「自らの身よりも、愛する者の身を按ずる……」
風龍の貫くような視線が、順天の眼を捕らえた。
順天は一瞬、なにもかも思考が吹き飛んでしまう。
女性と見まちがうぐらい端正な、それでいて男の強さを感じさせる明眸の風龍。
彼は、天仙の中でも、女性にもっとも人気があった。
しかし、九龍という地位から滅多に近よることなどできはしない。
それどころか、ほとんどの者が街の絵描きが描いた絵でしか彼を知らなかった。
順天とて、出会ったのは昨日が初めてだった。そして、その姿は、街にあふれる絵よりも、さらに魅力的であった。
そんな彼に、手を握られて見つめられているのだ。
「あああ、あの……手を……」
どぎまぎした口調で、順天は手をはずそうとするが、まったく手がはずれない。
いや、緊張して彼女の体が動いていなかった。
そこに、さらに風龍の顔が近づく。
「あなたのような美しく、やさしく、聡明な女性は初めてです」
「あの、風龍様……こここ、こま、こまります!」
――ビュッ!
それは、風を斬るような音だった。
同時に、風龍の顔のあたりに、なにか黒い棒状の影が現れる。
が、それは一瞬で消えてしまう。
上半身をそらして影を避けた風龍の口角が、くいっとあがった。
そのまま影の退いた右に視線をむけるので、順天もつられて目をむけた。
「あまり、純情な子供をからかうものではありませんよ」
裏庭に続く、大きな窓がいつの間にか開いていた。
そして、そこには見慣れぬ黒い尖った帽子に、黒い外套をまとった青年が立っていた。
眼は人なつっこそうで、どちらかといえば順天には愛らしく感じた。男臭さのない、自分と同じぐらいの年輪しか感じられない容姿だった。
だが、その雰囲気は、独特だった。
冷たくも温かくもない。
初めて会った人に対して、順天がこのように、つかみどころなく感じたのは初めてであった。
「お早いおつきだったな」
「これでも葉陰をまくのに、少し手間どったんですけどね」
黒い青年は、風龍に微笑して答える。
「それから、早く彼女の手を離してあげてください。私の弟子が殺気だって困ります」
そう言った彼の背後から、また一つ影が現れる。
「……光斗様!!」
そこに現れたのは、順天が待ち望んだ姿だった。
きれいにそろえられていた短髪は、少し伸びてぼざぼさになり、短く髭をはやし、皮膚も汚れなのか黒ずんでいた。
さらに、天仙の長袍を身にまとい、大きな黒い棍棒を携えた見慣れぬ姿をしている。
しかし、彼女が見間違えるはずもなかった。まちがいなく光斗であった。
彼女は、乱暴に風龍の手をふりほどくと、小走りに光斗へ近寄っていく。
「光斗様」
飛びこみそうになる勢いをとめて、彼女は光斗の眼前で足を止めた。
いけない。自分は、王家に嫁ぐ女である。簡単にとりみだしてはならない。
下唇にそっと歯をのせ、自分に言い聞かせた。
「お帰りをお待ちしておりました……」
あふれるものを抑えながら、順天は敬礼する。
「順天殿……心配をかけた」
「光斗様……」
久々に聞いた、どこかぶっきらぼうな声。
でも、その中にある温かさに、順天の抑えはすぐに効かなくなってしまう。
気がつかないうちに、瞳が曇りだし、熱い滴が頬を伝う。
「光斗様!」
人目も気にせず、順天は光斗の胸に飛びこんだ。
◆
深くは眠れなかったのか、順天は夜中にふと目を覚ました。
光斗と再会し、それまでのいきさつを聞いたあと、そのまま風龍に貸している別宅の二階の一室に泊まることにした。
別宅といっても、二階建てで、部屋は一〇室ほどあり、大浴場もあれば、専用の庭もある。
客の四、五人が泊まったところで、なんの問題もない。
風龍はもちろん、ホークという不思議な天仙の青年も、一緒に来たというリエ、ソフィアという一風変わった女の子たちも、そして光斗も、それぞれの部屋で就寝しているはずだった。
「明日……」
順天は、就寝前に話したことを思いだす。
とりあえず、今日はゆっくりと休んで、明日の夜に貴先に闇討ちをかけるというのである。
かなり無謀な話だったが、結局は貴先を捕らえて悪事を暴露するしかない。
手段は話してもらえなかったが、明日の夜にはすべてが決まるのだ。
もし、彼らが失敗すれば、光斗だけではなく、自分の命もなくなるだろう。
それはまだいい。自分は、光斗のために死んでも惜しくはない。しかし、両親の命にさえ、危険はおよんでしまう。
決して失敗は、許されない。
そんな緊張感からか、目が冷めてしまうと、まったく寝つけなくなってしまった。
朝日が出るまでには、まだ時間がある。
青蓮特有の低い寝台から起きあがると、誘われるように彼女は、月明かりのさしこむ窓際に立った。
窓の下は、この別宅の庭があった。
大きさは、それなりにある。三~四〇人ぐらいで立食の宴が行われても、狭くは感じないほどの大きさであった。
四角い庭の四隅と所々には、灯籠が置かれて、ほのかに庭を浮きあがらせていた。
そのわずかな光の中で、一つの影が動いているのがうかがえた。
長い棒が曲線を描くようにふりまわされている。見ているだけで、空を斬る音が聞こえてくるようだった。
「あれは……」
さっと踵を返した順天は、寝間着である白い単衣の上から、やはり白い厚手の長袍を身につけた。
そして、部屋を出ようと、扉の取っ手にかけた手を慌ててひきもどす。
早足に鏡台へむかい、その上にあった蝋燭に火を入れる。
ぼんやりと浮かびあがる自分の身なりを確認する。
(暗いから……)
化粧などはよいだろうと、乱れた髪を梳くと、静かに部屋を抜けだした。
階段を抜き足ながらも、すばやく降りて、彼女は急いで庭にむかった。
庭に出ると、相手はすぐにこちらに気がついた。
「順天殿?」
やはり、光斗だった。
彼は、いつも武術の練習に着ている単衣を着ていた。
臙脂色の地に、金刺繍の縁。その刺繍は、龍草模様と呼ばれる、空を舞う龍のような幾何学的な模様をしていた。
それにおそろいの下履きも身につけ、すっきりと動きやすそうな身なりだった。
もろん、光斗が来るとわかってから、あらかじめ順天がいろいろと手を尽くして用意しておいたものである。
「光斗様……」
気がつかれないように息を整えながら、順天は襟髪の乱れを梳いて後ろに流す。
「お眠りにならないのですか?」
暗闇に浮かぶ光斗を見つめて、順天は目を細くした。
「順天殿こそ。まだ、夜明けには早いぞ」
「一睡したのですが、目が覚めてしまいました」
近づいてくる光斗の影に胸を躍らせながら、順天は暗闇の中でも、自分にできる限りの笑顔を作った。
「同じだ」
それが見えたのかわからないが、光斗の頬がかるくあがったように見えた。
「一睡したのだが……」
「やはり、光斗様もご不安……でございますか」
頭一つ分は大きい、光斗の長身が目の前にくる。
順天は、少し上目づかいに見つめる。
「不思議と、不安はないのだ」
光斗にうながされて、順天は庭に面した廊下に腰かけた。
木のひんやりした感触を感じていると、隣に光斗も腰かける。
「さすが、光斗様です。落ち着かれて……」
「いいや。本当は、不安はあるのだが……」
光斗の苦笑が、順天に懐かしさを感じさせた。
ほんの二十日間ほど逢わなかっただけだった。
しかし、彼女には、遠い昔に失った宝がもどってきたような想いだった。
明日、うまくいけば、昔と同じようにいられる。また、この宝がもどってくる。彼女はそう思っていた。
「それよりも……」
だが、光斗はすぐにその懐かしい苦笑いをやめて、星々を見つめるように天を仰いだ。
そして光斗は、順天が知らない顔を見せていた。
「どうやら、気が高ぶっているらしい」
「…………」
記憶にある、同じように空を仰いで、「この国の王になる」と語った時の顔。
それとは、明らかに違っていた。
あの時、固く結ばれた口元は、今は頬とともにかるくあがっている。
あの時、どこも見ていなかった双眼は、今は確かにはるか遠くを睨んでいた。
こんな彼を見たのは、初めてだった。そんな驚きと同時に、今の光斗に順天は、なぜだか紅潮してしまう。
「すまん。不謹慎だな」
気まずそうな光斗に、順天はやはりとまどう。
どこか、今までと違う。
「いえ、そのようなことは……」
「不思議だ。自分の中から、なにか力がわきだしている感じがする。それが、先の見えない困難さえなんとかなると、私に思わせる……」
薄明かりの中で、ぐっと拳を握りしめる光斗を、順天はじっと見つめ続けた。
光斗は自分の握りしめた拳の中に、なにかを見いだすように凝視していた。
鋭く、迷いのない瞳だった。
「根拠はない……がな」
そして、自然に破顔する。
その表情に虚をつかれて、順天はまた赤面した。
どちらかといえば、彼は慎重派だった。
それに、生真面目な性格だった。
逆に言えば、それは大胆さにかけるという欠点でもあった。
また、物事がうまくいかなかったときに、もろい部分も感じさせた。
しかし、どうだろう。
目の前にいる光斗は、「なんとかなる」と大胆不敵なことを言ってのけている。
それを語る口元に、彼の言うとおり不安は感じられない。
父親殺しの汚名をきせられ、不帰の者とされ、さらには義母と義弟殺しの汚名まできせられようとしている。
味方は、数人。
敵は、国軍だ。
もちろん、まともに国軍とやりあうことはないだろう。
だが、貴先一人が相手だとしても、彼は老齢ながら、国で少なくとも五本の指にはいる武術家である。
さらに彼には、絶対服従の葉陰たちがいる。
一筋縄でいくわけがない。
なぜ、光斗は笑いながら話していられるのだろう。
順天は、考えれば考えるほど不安になっていたというのに。
「どうかしたか?」
そんな表情が出てしまったのか、光斗が心配そうに覗きこむ。
順天は、慌てて笑顔を作ろうとする。
だが、うまくいかない。
強ばってしまい、笑えない。
自分よりも辛いのは、光斗のはずなのだ。
自分が不安な顔を見せてはいけない。
「いえ。な、なんでもないのです……」
結局、順天は顔をそらすしかなかった。
情けない。彼を支えなければならないというのに、自分のことさえままならない。
思わず見えないように、彼女は下唇を噛んでいた。
「…………」
光斗が不意に立ちあがった。
(光斗様?)
彼は、黙って棍棒を構える。
そして、見事な手並みで回して見せた。
先端に龍の彫り物がされた黒い棍棒は、右へ左へと円を描く。
そのたびに、風が裂かれて、ウォンウォンと鳴いていた。
武術など詳しくはない順天が見ても、それはすばらしいと感じられた。
ともかく、動きによどみがないのだ。
止まることを知らずに、棍棒は闇を払うように動き続けた。
そして最後に、鋭くすばやく棍棒は突きだされた。
目の前にある見えない壁でも、突き破るように。
「この棍棒は、龍泉という」
呼吸を整えながら、光斗が棍棒を見せる。
「師匠……ホーク殿が創って、龍神様が宿られた……私に与えられた力だ」
「龍泉……」
光斗が目の前に来る。
順天の前で片膝をついた。
「このようなことに巻きこんで、本当にすまないと思っている」
「こ、光斗様。そのような……」
順天は、狼狽した。
王子に片膝をつかせるなど、なんと畏れおおいことだろうか。このようなことが周りにしれれば、ただではすまされないだろう。
彼女は、慌てて光斗を立ちあがらせようとする。
が、光斗に手振りでそれを止められてしまう。
「聞いて欲しい。この龍泉だけではない。私には、多くの力が与えられた。いいや、与えられていたのだ」
順天は、光斗が何を言いたいのかまったくわからなかった。だが、愛しい相手が、何かを強く訴えたいことだけはわかる。
「ホーク殿が与えてくれた新しい力だけでなく、亡き父が与えてくれていた生きるための力。私はそれを活かしたい」
「……光斗様。変わられましたね」
順天は、素直に思っていることを口にした。
光斗が「そうか」と首を捻る。
順天は、うなずいてみせた。
確かに変わったのだ、いい意味で。
流されるのではなく、自分の足で踏みしめながら進もうとしているように見えた。
しかし、それは彼女にとって不安でもあった。
その進む先に、自分の居場所はあるのだろうか。
順天は、怖々と尋ねる。
「その力で光斗様は、なにを成すのですか」
「まずは、順天殿。あなたをなんとしても守ってみせよう」
そう言うと、光斗はさっと立って順天に背中をむけた。
予想外の行動に、順天は困惑する。
だが、次の彼の言葉で、状況が理解できた。
「いるのであろう、葉陰」
光斗が庭の闇に、言葉を投げた。
順天は立ちあがって、思わず光斗の背中にかるくすがった。
「よくおわかりになりましたな……」
「その声は、角行。長が自らとは……」
正面の闇が動いた。
まるで、闇の一部が切り取られたように、人の輪郭を結んだ。
その数、五、六人。
見るのは、初めてだったが、彼女とてその名前は知っていた。
唯一の禁忌は、「王族の命を奪ってはならない」ということだけ。あとは、道具のように軍長の命令を、善悪も考えずに遂行する闇の部隊。
それが、葉陰だ。
少数ながら精鋭で、数多くの術や技を持ち、一人で数百人の兵力に値するとまで言われている。
「光斗様、お逃げください!」
順天は、光斗の前に出ようとした。
光斗が多少なりとも腕が立とうが、葉陰に勝てるわけがなかった。
いくら「王族の命は取らない」とはいえ、戦って無事に済むわけがない。
また、捕らえられれば、貴先の思惑どおりに利用されてしまうだろう。そうなれば、結局は同じことだ。
ならば、少しでも逃げる時間稼ぎの盾になればと、順天は思ったのだ。
しかし、順天は前に出るどころか、光斗に片手で抑えられて動くこともできなかった。
「光斗様、どうか……」
光斗は、語らなかった。
ただ、ふりかえり、その暗闇でも光るような強い眼光だけを順天に見せた。
まるで、「大丈夫だ」と言わんばかりに。
(光斗様……)
順天は、口を閉ざした。
目の前の彼を信じると……決めた。
本来、この章は「襲撃」という話でもう少し短い物でした。
その後に「反撃」という章が続く予定だったのです。
しかしながら、長さ調整のためにざっくりと二章分が切られる形で整理されました。