獅子と女神-2
西方守護地、即ち地が国の北の果てで獣は生まれた。
姿は闇、性は凶、乱を好み、血を欲する。
獣は言った、愚かなる人の子等よ、我等が命の胞衣となり、我等が命の糧となれ。
我が牙にかかれ、我が顎に息絶えよ――
*
地に生まれた獅子は王と成り、不朽の冠を頭上に戴く。
無冠の獅子は女神を娶り、子は国を滅ぼす獣となる。
最初の獣は王を喰らい、禍は女神の胎から生まれるだろう。
「…食事を取らないそうですね」
将軍が王の寝所を訪れて、最初に口にしたのはそれだった。
キーファは感情のない視線を送り、やはり何も感情を載せないまま、その視線を外した。
「力づくは無駄だぞ、お前には癪だろうがな」
そう言った声は、暗い嗤いがにじんでいた。
「無理やり食わされても体が受けつけない。吐けば余計に体力を消耗する。お前の愚かな部下どもはそれに気づくまでにだいぶ時間をかけてくれたからな。おかげで寿命がかなり削られたよ」
礼を言うべきかな、そう言ってキーファは将軍に背を向けた。
「お前は俺を生かしておきたいんだろう? この国の象徴だからな、〈獅子王〉は?」
戦上手で無敗の武王、その輝かしい名前は、本人の意思とは無関係に一人歩きを始めている。
〈獅子王〉がどんな「人間」かなんて、もう誰にも関係ない。
彼は、感情や意志を持つ人間ですらない。
彼を王と仰ぐ者たちの、妄想の産物。この世には実在しない架空の存在。
それでもいいと思っていた。リヒテに再会するまでは。
彼女に会って、――自分の無力さを思い知らされるまでは。
今はもう、実態のない名前を自分のものだとは思えなくなっていた。
最初から自分のものだったことなんてない。
〈獅子王〉は、最初から〈将軍〉の人形だった。
少し考えてみれば簡単に分かることだったのに、キーファは考えることすら放棄していた。
だから、これは罰なのだ。
現実を見ようとしなかった、子供じみた夢に逃げ込んでいた罰。
そのつけを、払わされている。
あまりにも大きい代償を取られて、それでもなお、購いきれないほどの。
それでも考えずにはいられない。それほどの罪だったのだろうか、と。
それほど大きな対価を支払わなければならないほどの罪――だったのだろうか。
――そうは思えなかった。
自分可愛さの独りよがりだったとしても、そうとは思えなかった。
だって、リヒテを喪うなんて。
それは、キーファにとって世界に等しい対価。
否、世界よりも、もっと価値ある存在。
それを引き換えにするほどの罪、だったとは思えなかった。
知らない――知ろうとしない、という罪が。
かつて、無知は罪だと将軍は言った。
まるで、この日が来ることを見越していたかのようなセリフに、キーファの口許に皮肉な笑みが浮かぶ。
あいつなら知っていたとしてもおかしくはない。
そんなことはあり得ないのに、そう思わせるだけの空気を、将軍、という人物は持っていた。
先を読み、自分の思い通りに人を動かず手は、彼と行動するようになって厭になるほど見せつけられてきた。
それが、今度は自分の番になったというだけのことだ。
まるで盤上の駒のように、指し手の思うままに生きて、死ぬだけの人生。
それだけで終わらせるものか、そう思った。
けれど自分はもう永くは生きられない。それが、不思議と怖くなかった。
食事を体が受け付けなくなったのは、リヒテを亡くした一時的なもので、そのうち癒えてしまうのだろうと、自分でさえ思っていた。
生きようとする生物の足掻きは意外なほど強い。
それを自分は知っていて、浅ましいと思いつつ、それでも心のどこかでは諦めてもいた。
結局自分もそうなるのだろう、と。
いつか、リヒテのことも過去の記憶になるのだろう、と。
けれど、体は正直だ。
リヒテはキーファにとって世界以上の存在。
自分が思っていたよりも、自分はずっとずっとリヒテのことが大好きだったらしい。
そんなことに今更気づかされて、キーファの口元に苦笑が浮かぶ。
その存在を失ったら生きていけないと、心よりも体が証明して見せるなんて。
こんな可笑しなことがあるだろうか?
かつて大剣を軽々と振り回していた腕は、もう見る影もなくやせ細っていて、それを見下したキーファはかすかに笑った。
あなたがいなければ生きていけない、そんな言葉を吐く人間が大嫌いだった。
自分の命を他人に肩代わりさせて、それを何とも思わず、誰かにすがって見せて、弱さをひけらかすことで武器にして。そんなのは最低のクズだと思っていた。
でも、今は自分がそうなっている。
リヒテがいなければ生きていけない。その言葉通り、自分は緩慢な死に向かっている。
自分はクズだ。
――でも、それでいいと思った。
クズで上等、俺はリヒテがいなければ生きていけない。
でも死ぬ前に、やるべきことが残っていた。
きっと自分の死はこの男に良いように利用されるだろう。
そんなことは考えるまでもなく分かっていた。
死ねば〈獅子王〉の輝かしい生涯が完成する。
田舎の一部族出身の少年が、見出されて王となり、やがて他国と対等に渡り合う国力を持つ国の頂点に登りつめる。
そのきらびやかな人生の、最後の仕上げ。
「完璧だよな」
キーファは笑って将軍を振り返る。
「俺が死ねば〈獅子王〉の英雄譚は不動のものだ。きっと嘘みたいに素晴らしいお話が幾つも作られて語られるんだろう」
にっこりと笑って、こちらを見つめる視線を正面から見返した。
「でも、それは俺じゃない。俺自身は、そこにはいない」
将軍は、キーファが見慣れたいつもの無表情だった。
「〈獅子王〉なんてものは俺じゃない。俺はお前に自分の名前と存在を奪われたけど、死ねばようやくただの〈キーファ〉に戻れる」
それでも、キーファは知っていた。
この将軍が、決して心根の腐った悪人ではない、ということを。
だから。
「呪ってやるよ、お前が生きている限り」
その優しげな声に、将軍の、厚くはない肩が揺れた。
いつもの無表情が、わずかに歪む。
その歪んだ顔はキーファにとって見慣れた表情のひとつだった。
悲哀とか、後悔とか、そんな後ろ向きの感情がないまぜになったような顔。
将軍の顔の上にそれを見とめて仄暗い満足を覚えながら、言葉とは裏腹な穏やかで優しい笑みを浮かべ、キーファは続けた。
「呪ってやる、お前も、この国も」
善人ゆえに、この先彼は苦しみ続けるだろう。
冷酷な計算で人を動かせば、与えた痛みと同じだけの痛みを自分も負う。
そうした痛みが彼の中には降り積もっていた。そのことを、キーファは知っていた。
だから――気を許してしまったのだ。痛みを知る人間に、悪者はいない。
けれど、悪人でなくとも悪意はなくとも、害は成せるし、人を――傷つけることもできるのだ。
「せいぜい苦しめ。それがお前の犯した罪だ」
許されるなんて甘い考えが通じると思うな、キーファは穏やかに笑って将軍を見据える。
その眼は、衰えた体には不釣り合いなほど強い光を放っていた。
「俺とリヒテと、部族の血が楔となるだろう」
静かな笑みなのに、それはまるで獅子が牙をむくような印象を与えた。
「お前とこの国の魂に安寧はない。死して尚、汚泥の中を這いずり回れ。己の胎から生まれる獣に食い殺されろ。永劫の責め苦を負って、血の海に沈むがいい」
呪われろ。
そう言って〈獅子王〉は微笑んだ。
「お前が作り上げたこの国が、瓦解して砂礫の一片になりつくすまで、俺が見届けてやる」
お前の大好きな契約だよ、将軍。
言葉もなく彼を見つめる将軍に、キーファはやわらかく笑いかける。
「楔は天地に打ち込まれ、俺の願いを叶えるだろう」
キーファは楽しそうに顎を上げ、上を振り仰いだ。
そこにあるのは王の寝所に相応しい華やかな絵が描かれた天井だけだったけれど、キーファの視線はそこよりももっと遥か高みを捉えていた。
「お前たちが守護と崇める獅子は、お前たちの命を喰らうものとなる。お前たちは彼らの糧、そして胞衣だ。その身と命をもって〈獅子王〉の恩恵を購うがいい」
「…なん…」
「何てことを?」
蒼白になった将軍がかすかに漏らした言葉を聞きつけて、キーファが笑った。
「何をそんなに驚くことがある? お前の言葉がなければ何も出来ない木偶だと思っていたか? それとも、そんな〈楔〉を打つ力があるとは思わなかった?」
血の気を引かせたまま言葉もなく自分を凝視する将軍に、キーファは呆れ混じりの視線を向ける。
「お前がリヒテを手に掛けた時から、お前とお前に属するものすべてが俺にとって唾棄すべきものになったんだよ」
いっそ憐れむかのように、ことさら優しげな色を乗せて。
「お前たちが生きて息をしているというだけで、俺にとっては許しがたいんだ」
いずれこの国は暗雲に覆われて滅びるだろう、その過程がひどく楽しみだ。
憎しみも怒りも、侮蔑も嫌悪も、何ひとつ感じられない眼差しで、キーファは言った。
その透徹な視線は、告げている言葉とかけ離れて、将軍の身を慈しみ、心から案じているかのように見えた。
立ち話を続けるのに疲れたのだろう、キーファは寝台の端に崩れるように腰を下ろした。
長い間立ち続けていることさえできない。
彼の体はそこまで衰えていた。それでも将軍へ向けられた言葉は流暢なもので息切れひとつ起こしていない。
そのことに気付いて、彼はひやりとした違和感を覚えた。
何かがおかしい。
――何かが、狂っている。
「――王」
将軍の呼びかけに、キーファはぴくり、と体を揺らし、ひっそりと口元を歪めた。
「――それは俺のことか」
「あなた以外に誰がいると言うのです」
じわじわと空気に滲み出てくる不穏な気配に気を取られながら、将軍が一歩、キーファへと足を踏み出した時だった。
ざわり、とキーファの輪郭が揺らめいた。
それは、空気に色が滲む様にも似ていた。
言葉では表現できない、何か、何か自分たちとは違うものがいる、その気配。
驚き、瞠目した将軍を見、キーファは自分に何が起こったのか正確に悟ったようだった。
「――ああ、もう時間切れだな」
そうしてぼんやりと将軍を見、少し寂しそうに笑った。
「最期の慈悲をたれてやる。お前たちを喰う獣は『これ』だ」
自分の胸に手を置いて。
その黄金色の瞳が眠るように閉ざされ、キーファの体が力なく寝台の上に落ちた時、その姿は既にそこにはなかった。
「…これ、は…」
それは神異の出来事だった。
寝台の上に落ちたキーファの体は、黒い被毛を持つ大きな獣に姿を変えていた。
首回りの飾り毛、猫科の大型獣という点は、確かに獅子によく似ていた。
しかし、長く艶やかな漆黒の被毛、細く尖った長い耳、馬に似た尾の形は、決して獅子のものでは有り得ない。
「これは何だ…!」
――それは、長い年月ののち、人々に〈凶獣〉と恐れられる獣が、初めて人の目に触れた瞬間だった。
*
「〈黒い女神〉、〈獅子王〉…、」
寝台の上の物言わぬ骸からゆっくりとぬくもりが消え落ちていく、それを見つめながら、それでも未だ主の気配が濃厚に残る部屋で、将軍はひっそりと呟いた。
「これが、あなたたちの子供というわけですか…」
〈女神〉と〈王〉の間に生まれる国を滅ぼす子供。
――黒い獣。
この国を救うつもりで二人を引き裂いたのに、それが結局滅びへの道筋となった。
常に人を手駒のように動かし、自分が思うとおりの未来図を実現させてきた。
周囲の人間は、すべて自分の思い通りになると、いつの間にか自分でも思い込んでしまっていたのだろうか。
「何か」を動かしているつもりだった自分が、その「何か」に動かされていた、と知った今、心を占めるのは敗北感、だった。
――自分だけは違うとでも思っていたか?
そんな、キーファの声が聞こえてくるようだった。
「そんなことを、思っていたわけじゃない…」
――嘘だ。
嘘、なのだろうか。
でも、いつの間にか思っていたのだ、結局。
だから、自分を惨めだと感じている。
負けた、と思っている。
――誰に。
そう、誰に負けたというのか。
きっと、この絵を描いたのは人ならぬ身のものだというのに、それにすら自分は勝とうとしていたというのか。
「…とんでもない傲慢だ…」
そして、自分ひとりの償いに、この国すべての民が贖いを課せられた。
〈楔〉は打ち込まれてしまったのだ。
手を伸ばして、そっと触れた漆黒の毛並みは、柔らかく、さらりと指の間を通り抜ける。
その手触りは、遠いあの日に触れた髪の毛を否応なく思い起こさせた。
――へええ、あんたがしょーぐんなんだ?
黄金色の目を輝かせて彼を見上げたまだ幼さの残る、あどけない少年。
顔かたちではなく、彼のまとう空気が亡くしてしまったものに似ていた。
だから、つい手が伸びてしまったのだ。その、頭を撫でるように。
触れた髪は柔らかく、ふわりと掌をくすぐった。
――子供扱いすんな!
そう、怒鳴って自分の手を払いのけた少年はもういない。
自分が遠ざけ、そして。
「――殺した」
くっ、と喉の奥で嗤いが漏れた。
ああ、そうだ、自分が殺した。
傷つけ、追いつめ、どうしようもないところまで追い込んで、殺したのだ。
だから、自分が悲しむ権利はないと思った。
誰が彼らの死を悼んでも、自分にだけはその資格がない。
だって、自分が手を下したのだ。
幼い頃亡くした弟に似た空気をまとう、あの存在を否定したのは、まぎれもなく、――自分だった。
*
〈獅子王〉と呼ばれた希代の英雄王が死んだあと、その右腕だった将軍は国をよく治めた。
しかし、かの人もまた、国内に跋扈する〈凶獣〉によって命を落とす。
その人はその身を国に捧げたが、王位に上ることはなく、生涯にわたって将軍位のまま、〈獅子王〉以外の王を戴くことがなかったといわれている。
〈獅子王〉の呪いである〈凶獣〉はその後、海を渡った〈時王〉の地で〈野獣〉と呼ばれる存在の基になります。
これは、そんな話。