いのる
無駄のない動きで両手に持つ細見の剣を相手の首に押し当てていた。相手の細い喉が恐怖にごくりと鳴る。が、目が油断なく己を捕え、隙を伺っているのは明白であった。ぴりぴりと肌に痛いほどの緊張が走る。息を吐いて、吸い込む。それだけのことで肺が痛い。
「お前は誰ですか」
「あんたこそ、人にものを尋ねるなら、ちゃんと名乗るべきじゃないのか?」
「……」
沈黙に相手の女が片眉を持ち上げた。黄土色の髪がさらりと揺れた。
「あたしはトッパ・ハイニ。運び屋だ」
「はこびや」
不思議そうに呟いた。トッパは両手を顔の横にあげたまま、軽く首を傾げた。自分の両手に持つ細見の剣が今にも薄皮を切ってしまいそうだ。
「で、あたしはいつまで命を危険に晒されなくちゃいけないんだ」
「……」
「あんた、大丈夫?」
「わから、ないのです」
「わからない?」
「なにか、ひどく痛い思いをして、それで……それで、ここにいて」
「痛い思いっていうのは、それのせいか?」
トッパが指差したのは、自分の足元に転がる小さな木の箱だ。トッパくらいならば無理すれば入れなくもなさそうな大きさで、しっかりと箱は閉まっており、開けるのはなかなかに難しそうだ。
「これは」
「あんたのもの?」
しばらく考えるように箱を見たままでいたが、つとトッパに向けていた剣を下ろして首を横に振った。
「わかり、ません」
「……なんだかいろいろと忘れてるみたいだな」
「みたい、ですね」
「自分のことを他人事のようにいうんだな、ふぅん」
トッパはため息をついて太い樹の幹に腰を下ろした。
「あたしも、実は相棒とはぐれてこまってたのさ」
「相棒?」
「風より早い」
皮肉ぽく唇が吊り上り、微笑む姿に目を細めたあと箱に目を向けた。
「なにが、はいってるのでしょうか」
「下手に開けないほうがいいんじゃないのか? それがあんたのとはわからないだろう? そもそも、記憶がないんだし」
「あなたのではないのですか?」
「生憎、あたしは運び屋だが、そんなものは運んでない。あんたと違って記憶はしっかりしてる」
二人は無言で睨むように見つめ合った。
つと、自分のほうが視線をさげた。
「ここがどこかわかりますか」
「わからない」
つい眉を寄せてトッパを睨んだ。
「記憶があるのでしょう」
「気がついたら相棒とはぐれてここだったんだ。そうだ。白い霧のなかを通った気がする」
トッパの言葉を吟味するように下唇を噛みしめて、まわりをきょろきょろと見回った。冷たい土と目に優しい緑の木々、それ以外はなにもない。しんみりとした空気に時折聞こえる鳥たちの歌声。
わからないことに不安と恐怖に似たものを覚えた萌は足元に転がる箱を軽くつま先で蹴った。このままでいてもきっと埒はあかないのはトッパもわかっているのか、ふんと鼻を鳴らした。
「どうする」
「ここを離れます。このまま夜になっては危ない」
「一応、知識はあるんだな」
小馬鹿にしたような言い方だった。
記憶はなくしたようだが、知識――この場をどうすればいいのかという判断力を持っていた。
「それ、どうする」
トッパが指差したのは厄介な箱だ。これが記憶の鍵となるかはわからないが、返事はすぐに出た。迷わなかった。
「持って行きます」
結局、二人で箱は交互に運んだ。慣れない山道は二人の足を鈍らせ、進みは微々たるものだった。なんといっても、どこへと進めばいいのかわらかないのだから。トッパは記憶のない自分に行く先を頼むと口にした。たとえ記憶がなくても、判断力があるなら任せたいと。
迷ったが、考えに考えて南へとの道を選んだ。そこにどうしてか惹きつけられたからだ。もしかしたらなくした記憶のなにかがひっかかっているのかもしれない。
夜の帳が降りた木々のなか、二人は薪を拾い、火を焚いた。
赤々と燃える炎を囲み、対峙する。心を許せずにいるのが体の距離としてはっきりとわかる。
トッパはしきりに気にするように視線を上へと向けた。たいする自分は両足を抱き、じっと炎を見つめていた。
「なにをしているのです」
「大切なものがあたしを探しているのか気になるのさ。あんたは、どうなんだ」
「……わかりません」
あと少し、喉にひっかかる小骨をとろうと必死になる。けれど出てきてくれない、もう少しなのに。
迷い迷って、小骨を吐き出す。それは歌となって静寂を破った。トッパは少しだけ驚いた顔をして唄を聞きながら、今までの緊張が嘘のように表情を和らげた。
「子守唄だな」
「こもり、うた?」
「こどもに聞かせるためのものだろう、それは」
当然のようにトッパが告げるのに驚いたように目を見開く。思わず身を乗り出して、そして
「りん」
「……それはお前の名前か?」
咄嗟に出てきた名に激しい愛しさを覚えながら首を横に振る。違う、これは自分の名ではない。けれどとても大切なものだ。
「忘れるとは、悲しいな。それがとても大切なものであればあるほどに必死になる、まるで世界が崩壊してしまったみたいに」
「お前にも、あるのですか」
「……失ったら得る。得たら失う。それだけだ。風ってもんは気まぐれで、いろんなものを与えるがすぐに去っていく。それと同じだ」
不意に口を開こうとしたとき、がざりと茂みの揺れに二人は同時に体を浮かした。
トッパが動くよりも早く、小柄な彼女は前に出た。それと同時に飛び出してきたものに思いっきりぶつかった。
「猪!」
足をとられて後ろに転ぶ彼女を支えようと、手に持っていた武器を捨て両腕を伸ばした。が、遅かった。焚火につっこまないように突き飛ばすとそのまま横にあった樹の幹にぶつかった。
「悪い!」
「……いたた、っ、萌は、どうしてここに」
地面に崩れて頭を抱える彼女にトッパは目を瞬かせる。
「なんだ、お前、思い出したのか」
「あなたは、誰ですか」
萌の細見の両手には剣が握られ、トッパの首に向けられる。トッパは護身用の武器を一瞬の判断とはいえ手放したことを心から後悔しながら両手をあげた。
「……おい、思い出すのはいいが忘れるな。それも同じようなことをして」
「どういうことですか?」
怪訝な顔をする萌にトッパは肩を竦めて笑った。
「まずは挨拶からだな。はじめまして。あたしはトッパ・ハイニ。運び屋だ。あんたの名前は?」
朝陽が昇るのにトッパと萌は欠伸を噛みしめた。互いに素性を知ればあとは適度な距離と信頼をとることができる。
交代で火の番をして、身を守り、霧の出はじめた森のなかをトッパのカンの良さと萌の敏感な耳で川辺に出て水を飲み、さらに下るように歩いた。
「それで、これ、なんなんだろうな。軽い気もするが」
「わかりませんが、それのせいで萌は一時とはいえ記憶をなくしました」
「いらないなら、捨ててしまうか? 川も丁度あることだし」
トッパがにやりと人の悪い顔をする。
「それは……そそられる提案ですが、いけません」
萌は微笑んだ。
「こんなにもしっかりと閉じられているということは、誰かの大切なものかもしれません。大切なものの重みから萌は大切なものを落としてしまったのかもしれません」
「ふーん、詩人だな」
萌はきょとんとする。
「萌は学がありません。詩人がどういうものかわかりませんが、そんなえらいものではありません」
くすくすとトッパは笑った。
ふと、茂みが揺れた。萌とトッパは咄嗟に身構えた。
「また猪かもしれない。突撃するのはよしなよ、萌」
「猪とは違うような、あ」
その獣は毛の長い小柄な馬に短い角を生やしていた。全身の毛は灰色と白の大雑把なまだら模様、細くて長い脚のひざの所だけがきれいな雪色をしていた。
「リオーテ!」
何か大切なものを見つけた子どものように、はたまた慈愛深い母親のように微笑みを深くした。しかし、それは一瞬のこと、すぐに晴れ晴れとした顔で萌と向き合う。
「なくしもの。あんたと一緒であたしも見つけたよ。あとね、詩人なんて学がなくても慣れるさ。それで、どうする? あたしは運び屋だ、依頼されたなら、これも運んでやらないこともない」
「けど、萌は」
トッパの人差し指が萌の淡色の唇にそっと触れる。
「干し肉の礼代にはなるんじゃないのか?」
「……でしたら、お願いします。萌は、このまま真っ直ぐに進まねばなりません。凛が、娘が待っています」
「そうか。なら、あんたの娘とあんたに加護があるように……あたしがして意味があるかわからないけど、左腕、出してみな。前にしてもらったんだ。けど、ここにはいろいろとないからね。あたし流だよ」
「?」
萌が言われた通り左腕を差し出すと、トッパは軽く撫でた。
「あんたが軽率に、欲に、憎悪につかまらないように。大切なもの、もうなくさないように」
トッパの言葉に萌は一瞬だけ困ったよう笑った。するとトッパの人差し指は祈りのように額をつついた。
「祈りは言葉だっていう、唄もまたそうらしいよ。あんたはあんたの大切なもののために祈れるんだ」
「ここからまっすぐなところに、少しばかり大きな門があります。その石門を通ると、行くべき道に進めると教えられました。少しばかり不思議な門で、行き先が通るものによって変わるそうです。トッパの行き先を決めれると思います」
「ふーん、ありがとう。じゃあね、萌」
トッパが荷物をあたしのリオーテちゃんに乗せると手をひらひらと降る。リオーテはその姿の印象とは異なり、風よりも早く進み出す。
萌はぼんやりとその姿を見届け、自分は自分の進むべき道へと戻ろうとした。そのとき、またしても茂みから音がして萌は剣に手をおく。
「わー、たいへん、たいへん! 荷物がぁ! あああ、すいません。ここに、えーと、これくらのい荷物が落ちてませんでしたかぁ? あ、自分、怪しい者ではありません。ヤマノ運輸の高木と申しまして、荷物を落としてしまってですね! 探しているんです!」
あたふたと手で大きさを示すのは人のよさそうな男だ。きっちりとした服は緑のラインがはいっていて、どこの仕事の制服のようだ。
「荷物? その大きさ……トッパ!」
「へ、知ってるんですか?」
萌は申し訳なさそうに足元を見た。
「知っています。ええ、それはトッパに預けてしまいました」
「な」
「ここを進んだ門のところへとトッパは向かったはずですが」
「ありがとうございます!」
お礼を言うと同時に走り出した高木に萌は唖然とした。
人の足でトッパとリオーテに勝負をしかけたところで勝てることはないだろうが、運が良ければどこで捕まることがあるのだろうか。
ふと冷たい風が吹いて萌の頬をくすぐる。
「風がつかまったりするのでしょうか?」