此岸の隣人
どうしてこんなところにいるのか見当もつかなかった。
いつの間に世界はこんなことになったのだろうか。あるいは、現実とは似て非なる世界に迷い込んだのかもしれない。
いずれにしても、幸先のいい雰囲気じゃなかった。
◆
雑踏の中に立っていた。
繁華街の中心、スクランブル交差点――
しかめ面で携帯電話を耳に当てたスーツの男、腕を組んで笑いあう若いカップル、子供の手を引く厚化粧の女、ギターケースを担いだ長髪の男、その他正体不明の人々。
ごった返す人込みの中にあって、まったくの無音だった。
僕の視界で動くものは何ひとつなかった。人も、車も、雲も。
文字どおり時間が止まったとしか考えられない。
僕は辺りを見回しながら、ふらふらと歩き出した。わずかに宙に浮いたまま静止している人間がいる。体勢からすると、駆け足で横断歩道を渡っていたらしい。駅ビルの壁に埋め込まれた巨大なデジタル時計は午後五時四十八分を示していた。空は夕方にしてはまだ明るく、積雲の切れ間にプロペラを止めたヘリコプターがぽつりと浮かんでいた。
「あの……」恐る恐る僕は声を発した。「すいませーん」
予想どおり何の反応もなく、誰ひとり振り返らない。目の前にいる、カラオケ店の呼び込みらしい男の肩に手を置こうとしてぎょっとした。僕の手は男の肩にめり込んでしまった。ホログラフィックのように何の感触もなく、僕の手は男の身体をとおり抜けた。確かな存在感がそこにあるだけに気味が悪い。そばにいる水商売風の女の背中に手を当ててみると、同じように身体をすり抜けた。
しばらく周辺を歩き回ってみたが、僕以外の人間はすべて静止していて、その身体に触れることもできなかった。耳をすませても自分の足音以外は何も聞こえない。ストップモーションされた映像の中に放り込まれた気分だ。
あらためて駅ビルの時計を見上げてみると、表示はさっきと変わらず午後五時四十八分のままだった。
途方に暮れた僕はひとまず家に帰ることにした。
ここから三駅はなれた地区に両親と住む実家がある。歩いて帰るには面倒な距離だったが、電車もバスも動いていない以上は仕方がない。僕はとぼとぼと家路についた。
異様な状況にもかかわらず、僕の頭はそれほど混乱はしていなかった。晩飯は何にしようかと呑気なことを考えながら歩いていたが、空腹感がまったくないことに気がついた。
けっこうな距離を歩いてるはずなのに、喉の渇きも足の疲れもない。汗ひとつかいていないのも不自然だ。
誰か歩いている人間はいないだろうかと、周囲に注意を払ってはいたが無駄だった。
世界は静寂に支配されていた。
やがて見慣れた自宅の前に到着する。一時間近くは歩いたはずだったが、空はまだ明るかった。
門扉を通り、玄関のドアを開ける。「ただいまー」
返事は期待してなかった。案の定、家の中はしんと静まり返っている。
リビング、キッチン、両親の寝室、二階の自室、物置部屋と、家中を隅なく見回ったが誰もいなかった。壁掛け時計に目をやると、やはり午後五時四十八分で止まっている。
おかしいな。夕方のこの時間なら二人とも家にいるはずなのに、どこに出かけたんだろう?
リビングのソファーに腰を下ろし、テレビをつけてみたが何も映らなかった。サンドノイズすら表れず、画面は真っ暗なままだ。テレビのリモコンを放り投げ、ソファーに横になり、ここで初めて僕は深い溜息をついた。
考えれば考えるほど奇妙だった。繁華街でこの不可思議な現象に直面するまで、自分が何をしていたのかさっぱり思い出せない。今日が何日の何曜日なのかもわからなかった。
一体いつを境に世界はこうなってしまったんだろう?
入念に記憶を探ってみたが、判然としなかった。
もしかすると僕はもう死んでいるのかもしれないな――そんな風にも考えた。
◆
世界の時が止まってから、三ヶ月は経っただろうか。
日没も夜明けもなく、時計さえも動かないので、日を数えるのは簡単ではなかった。体内時計を頼りに大体の感覚で日付を記していたので、不正確もいいところだ。
この頃になると、僕は相当に気が滅入っていた。
一体いつまでこんな状態が続くのか。物音ひとつしない静止画のようなこの世界で、僕は永遠に一人ぼっちなのだろうか。そう考えると気が気ではなかった。時折、叫びだしたい衝動に駆られ、体が震えるほど恐ろしくなった。
これまで散々歩き回り、車で遠出もしてみたが、動くもののない薄気味の悪い景色がどこまでも続いていた。
両親がどこにいるのかが気掛かりで、いくつか心当たりを探してみたが、どこにもいなかった。今ではそんなことを考える余裕もなく、耐え難い不安感を抱きながら、空虚で無為な日々を送っていた。
もう何かをする気にはなれなかった。
最初のうちはこの状況をわりと楽しむことができた。人目を気にせず、自由に時間を満喫できると思ったからだ。デパートやブランドショップで目ぼしいものを拝借(というよりも窃盗だが)したり、目についた高級スポーツカーを運転してみたり、水族館でぴくりとも動かない魚を眺めてみたり、TV局の中を徘徊してみたり。現実にはおよそ叶わないことを手当たりしだい試してみた。
しかし一人では限界があった。不気味に静まり返った一人きりの世界で、充実した日常を送るなんて到底無理な話だ。最近になってこの世界から脱出する方法はないものかと模索するようになったが、当然のことながら見当もつかなかった。
やはりここは死後の世界なのかもしれない。
◆
さらに一月ほど経ったある日、僕は歩道橋の上に座っていた。
世界の時が止まったことを最初に認識した場所――繁華街のスクランブル交差点から少し離れたところにある歩道橋の上で、虚ろな街並みをぼんやりと眺めていた。
静止したままの人々は、無計画に栽植された奇怪な植物のように見える。僕が肩に手を置こうとしたカラオケ店の呼び込みの男も変わらず同じポーズでそこに立っていた。
駅ビルのデジタル時計は午後五時四十八分のまま点灯し続けている。
ふと、間近にそびえる高層ビルを見上げてみた。あそこから飛び降りたらどうなるんだろう? もしかすると元の世界に戻れるんじゃないだろうか? そんな考えが頭をよぎったが、もちろん僕には試す度胸なんてなかった。
その時。
この四ヶ月ほどの間、体験したことのない強烈な違和感が僕を襲った。
視界の隅で動くものがある。
僕は目を見開いてその方向を見た。
女の子がこちらに向かって車道を歩いている。
僕は驚愕した。だらしなく口を開けてしばらく唖然としていた。目に映った光景を理解するのに少し時間がかかった。
「……お、おーいっ!」僕は声を張り上げ、女の子に向かって両手を大きく振った。
女の子は軽く手を振り返してくれた。
僕は弾かれたように腰を上げ、猛然と駆け出し、歩道橋の階段を滑り降りた。
その間、彼女から一時も目を離さなかった。目を離すと消えてしまいそうな気がした。
足がもつれそうになりながら走り寄り、彼女の正面に立つ。生身の人間を目の前にして、思わず抱擁しそうになったが何とか思いとどまった。
彼女は僕よりも年下に見えた。クリーム色のワンピースに薄緑のカーディガンを羽織っている。足元は飾り気のない白のスニーカーだ。短めの髪を耳にかけ、口元に控えめな微笑を浮かべている。穏やかではあるが、どこか疲弊した表情に見えた。
「こんにちは」平淡な声色で彼女が言った。
僕はと言えば、いまだ興奮を抑えられず、大して走ってもいないのに息を切らしている有様だ。
「あの……いつ……どうなってるのかなこれ?」
訊きたいことは山ほどあったが、系統立てて話せる状態ではなかった。
「うん、不思議だよね。とりあえず落ちついて話そっか」
にっこりと微笑んで彼女はそう言った。
僕たちは歩道の端にあるベンチに腰を下ろした。
「動いてる人間に会うのは私が初めて?」
「初めてだよ。だからいま死ぬほどびっくりしてる。僕らの他にもいるの?」
「うん、いるよ。三、四十人くらいは会ったかな。もっともっと沢山いるはず」
同じ境遇に置かれている人間がいると知って、僕は心底ほっとした。
「よかった……今までずっと一人で……いいかげん頭がおかしくなりそうになってたから」
「私も最初はそうだったよ。わけがわからなくて何日も一人で泣いてた」
「本当によかった……君に会えて本当によかった……」
日常で口にするのはちょっと恥ずかしい芝居がかった台詞がすんなりと出てくる。感極まった僕は、なかば強引に彼女の手を取り、感謝の意を表した。誰かに触れるという行為、その確かな感触にさらなる感動を覚えた。彼女の手はとても小さくて、ひんやりとしていた。
「大丈夫、一人ぼっちじゃないよ。私たちみたいな人間は他にも沢山いるから。それこそ世界中に」
彼女の優しい微笑みを見ていると今にも涙が零れ落ちそうになったが、何とかこらえる。
「実を言うと、最近ずっと家に閉じこもってたんだよ」
「そうなの?」
「今日なんとなくこの街に来て、なんとなくあの歩道橋の上に座ってなかったら、君とは会えなかったかもしれない」
「……」
「すごい偶然だよ、ほんとに」
「……」
「それにしても、どうしてこんなことになったのかな? どうして世界の時間が止まっちゃったんだろう?」
「……」
彼女はじっと僕の顔を覗き込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「本当のこと知りたい?」
意味深な彼女の口調から、否応なく身構えてしまったが、僕はすぐに頷いた。
「もちろん」
本当のこととはなんだろう? この世界の謎でも解き明かしたのだろうか。
両手でぽんと膝を叩き、彼女はベンチから腰を上げた。
「じゃあついて来て、――くん」
あまりにも自然な言い方だったので聞き流しそうになったが、彼女はいま確かに僕の名前を口にした。
「どうして僕の名前を知ってるの?」
「あなたの隣人なの、私は」
隣人? 僕の家の隣りは、定年を過ぎた老人が一人で暮らしていたはずだ。反対側は公民館だから、人が住んでいるはずもない。
「ついて来ればわかるよ」
僕の疑問を見透かしたような顔で彼女はそう言った。
僕たちは繁華街から遠ざかるように歩き出した。
「あのさ……僕たち初対面だよね?」
三秒ほどの間があり、彼女が答える。
「ほんとに忘れちゃったんだね。私のこと」
「え……」
「きっとガールフレンドが多すぎて、覚えてらんないんだ。私のことなんか」
「いや……」
自慢じゃないが、友達と呼べる女の子は数えるほどもいない。特に交友が広いわけでもなく、知り合った人間を忘れたことなど今までなかったはずだ。僕はあらためて彼女の顔を注視した。
「あはは、冗談だよ。会うのはこれが初めてだよ。ちょっと焦ったでしょ?」
そう言って彼女はいたずらっぽく無邪気に笑った。久しぶりの、健全な若者らしいコミュニケーションが新鮮だった。
「どのくらい経った?」と彼女。
「え?」
「今日、私に会うまで何日くらい経ったかってこと」
「四ヶ月くらいだと思う、たぶん」
「そっか。その間一人で何してたの?」
「街中をぶらぶらして適当な店に入ったり、ドライブしたり……あちこち探索したよ」
「ふーん。一人じゃつまんなかったでしょ?」
「まあね」
いくつか通りを曲がり、緩やかな坂道を上る。すでに人込みは少なくなり、住宅もちらほらと見受けられた。
やがて、この辺りでは一際目立つ大きな建物の前で彼女は足を止めた。入り口に立つ案内板を見て、そこが病院であることがわかった。
「さて。心の準備はいいかな?」
僕の方を振り返り、後ろ手に組んだポーズで彼女はそう言った。
少し嫌な予感がしたが、僕は首肯した。
◆
病棟の中に入ってからは二人ともまったく口を開いていない。僕はすっかり落ちつかない気分になっていた。
エレベーターが動かないので、階段を上る。僕は黙って彼女の後に従った。
途中、パジャマを着た入院患者らしい者や、バインダーを小脇に挟んだ看護師とすれ違った。もちろん、ぴくりとも動かない。
『C‐3F』と壁に書かれたフロアに入る。
両側に病室の並ぶ長い廊下の突き当たりまで、人影はひとつもなかった。無人の白い廊下で、リノリウムを擦る二人の足音がやたらと大きく響く。
「到着」
そう言って彼女は立ち止まり、病室の扉を指差した。
なるほどね。
予想はしていた。
どうやら嫌な予感は的中したらしい。
病室の扉に嵌め込まれたプレートには僕の名前が記されていた。
「真実はこの扉の先にあります。開けますか? 開けませんか?」
ほんの少し首を傾げ、表情のない顔で彼女は言った。
当然、この扉の先には僕がいるのだろう。
じゃあ今のこの僕は何なんだ? 実体化された魂のようなものだろうか?
僕は無言で扉を開け、部屋の中に入った。
小ぢんまりとした殺風景な部屋だった。正面に窓があり、その向こう側に桜の木が覗いている。窓の手前にベッドがひとつ置かれていて、その脇に僕の両親が背中を向けて立っていた。そうか、ここにいたのか。
ベッドに横たわっている人物の脚が見えた。僕はゆっくりとベッドの方に歩み寄る。
そこに寝ているのは紛れもなく僕だった。
頭には包帯が巻かれ、左腕に点滴の針が刺さっている。壁際に設置された大げさな医療機器からチューブが伸びていて、鼻孔に差し込まれていた。傍らにいる両親が陰鬱な顔で僕を見下ろしている。
「……生きてるんだよね?」
「うん。生きてるよ」部屋の入り口に立ったままの彼女が答える。
「交通事故にでもあったのかな? 僕は」
「さあ……それは私にもわかんない」
見るほどに痛ましい自分自身の姿をまじまじと見つめた。頬はこけ、身体もひと回り小さく感じられた。とてもじゃないが軽症には見えない。ベッドの上に投げ出された血の気のない腕に、僕は恐る恐る手を伸ばした。
「待って」と言って、彼女が僕の方に歩み寄る。「触れると元に戻っちゃうんだよ」
「……元に戻る?」
「そう、現実に戻っちゃうの。つまり、今のあなたが消えてなくなって、そこに寝てるあなた自身に戻るってこと」
「……」
「植物状態なの、そこに寝てるあなたは。意識が戻る見通しの立たない状態なの。このフロアはそういう人間が集められてる場所。そして、ここはそういう人間だけが入り込める世界なんだよ」
さすがにショックを受けた。
それじゃ――死んでるも同然じゃないか。
「だから、よく考えたほうがいいよ。元に戻ったからって意識が回復するわけじゃないし。……ただ、あなたがこの世界にいるかぎり、現実のあなたが意識を回復することは絶対にないけど」
内臓を締め付けられるような圧迫感に襲われた。そんな悲劇を受け入れる心の準備なんて出来てない。つきつけられた惨憺たる事実に打ちのめされて、僕は眩暈を覚えた。
現実に戻る方法は見つかった。手段としては容易い。が、しかし、現実はここよりも無常な世界だった。
「……ようするに、かぎりなく勝ち目の薄い賭けになるってこと?」
「そうだね」
僕はその場にへたり込んでしまった。
どうやら、止まっていたのは『世界の時間』ではなく、『僕の時間』だったらしい。
◆
どれくらいの間そうしていたのか。僕は長い時間、病室の床に座り込んで放心していた。粘り気を含んだ重苦しい空気が、いつまでも僕の身体に覆いかぶさっていた。
部屋の中に彼女の姿はなかった。いつの間に部屋を出たのか、まったく覚えていない。
僕はゆっくりと立ち上がり、ベッドの上に横たわる自分の姿に目をやった。まるで別人のように痩せこけた生気のない顔や、青白い手足を、もう一度よく見た。
そして、暗澹とした表情で僕を見守る両親の顔をひとしきり眺め、僕は病室を後にした。
消毒液の匂いが漂う長い廊下を歩き、階段を下りる。一階の入り口付近にある待合室まで来たが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。整然と並んだビニール張りの長椅子に、診察を待つ動かぬ人々がまばらに座っている。
受付の横にある、病棟案内の見取り図を眺め、彼女がどこに行ったのか思案するが見当もつかない。僕は空いている長椅子に腰を下ろして、壁際に置かれた観葉樹をぼんやりと眺めた。
彼女は僕を知っていて、最初からここに連れて来るつもりだった。どういう意図があって、僕に容赦ない残酷な宣告を下したのだろうか。考えてみれば、僕は彼女のことを何も知らない。
彼女は何者なんだろう? どうしてこの世界にいる?
あなたの隣人なの、私は――
僕の脳裡で彼女の言葉が再生される。
僕は長椅子から腰を上げた。そして、受付の横を通り過ぎ、再び階段を上がった。
僕が眠る病室の前に戻って来た。
両隣の部屋のネームプレートを確認してみると、一方が女性の名前になっている。僕はその扉をノックしてみた。
「どうぞ」
部屋の中から彼女の声が答える。僕はゆっくりと扉を開けた。
彼女は窓枠に寄りかかるようにして、こちらを向いて立っていた。
部屋は僕の病室と同じ造りのようだった。同じ位置にベッドがひとつ置かれていたが、天井のレールから吊るされたカーテンで仕切られ、こちらからは見えなかった。部屋のところどころに花やサボテンが飾られていて、床にはいくつかのぬいぐるみが無造作に転がっている。僕の病室とは対照的に、ある種の華やかさが感じられた。
「気分は落ちついたかな?」と彼女が言った。
「うん。なんとかね」
「私に腹を立ててる?」
「そんなことないよ。……むしろ感謝するべきなんだと思う。きちんと真実を話してくれたことに対して」
「あなたは強い人だね」柔和な笑みを浮かべて彼女が言った。
「君に訊きたいことがあるんだけど――」僕は壁際に置かれた丸椅子に腰を下ろした。「この世界にいる僕ら以外の人たちは今どうしてるのかな?」
彼女は視線を落として、何やら思案している様子だった。
「みんな帰っちゃった」
「……現実の世界に戻ったってこと?」
「うん。やっぱりこの世界に居続けるのは辛いみたい。みんないつかは正しい場所に帰りたくなるんだよ。たとえその場所が絶望的な状況にあるとしても」
「……じゃあ今は一人ぼっちなの?」
「ううん。今はあなたがいる」
真っ直ぐに僕の眼を見て彼女は言った。何かを懇願するような眼差しに見えなくもなかった。
「僕は……戻るよ。意識が回復する見込みは薄いのかもしれないけど、可能性がゼロってわけじゃないしね。現実の世界でやり残したことは山ほどあるし、僕の回復を信じて見守ってくれてる人もいるから」
彼女は表情を変えずに無言で僕を見ていた。つかの間、部屋の中を沈黙が支配する。
ややあって彼女が口を開いた。
「そっか。がんばってね」
「一緒に戻ろうよ」と僕は言った。「いつまでもいるところじゃないよ、ここは。結局のところ現実逃避でしかないわけだし……。君だってやりたいこととか、夢だとかあるだろう?」
「……」
「君の回復を祈ってる人だっているだろうし、そういう人たちの期待に応えるために最善を尽くすのが僕らの使命みたいなもんじゃないかな?」
「……」
「君もさっき言ってたじゃん、『正しい場所』って。この世界は『正しくない場所』なんだよ」
「私は無理」と彼女は言った。
「どうして?」
「私に未来はないんだよ」
「そんなことないよ。やってみないとわからないって。今は一時的にネガティブな思考に囚われてるだけなんだと思う」
彼女はゆっくりとベッドの手前側に回り込み、仕切りのカーテンを開いた。
「見て」
ベッドの上に視線を移す。
そこに何があるのか、僕はすぐには理解できなかった。
まず、人間に見えなかった。
丸椅子から腰を上げて、ベッドの方に歩み寄る。
僕は絶句した。
両脚がなかった。露出した肌の部分はすべて生々しい火傷の跡で覆われ、顔は歪に膨れ上がっている。頭髪はあらかたなくなっていて、ところどころ毛束が見られた。
「これが私」
僕は息をするのも忘れ、茫然と立ち尽くしたままベッドを見下ろしていた。
彼女だと判別できる部分はどこにも見当たらなかった。
「私には戻る場所なんてないの。……現実逃避してるわけじゃないんだよ。ちゃんと現実を受け止めた上で、こっちの世界にいるって決めたの」
何も言い返せなかった。
僕は自責の念に駆られていた。彼女を説得しようとして、僕が並べ立てた言葉は綺麗事にすぎない。彼女の背負った無慈悲な運命に対して、あまりにも浅はかだった。
「気にしないでね、私の中ではとっくの昔に気持ちの整理はついてるから」
僕の心中を察したのか、そう言って彼女は仕切りのカーテンを閉めた。
僕は黙って彼女の後姿を見つめていた。
「……じゃあ、お見送りしてあげるから隣の部屋に行こ。善は急げだよ」屈託なく彼女は言った。
その時、ひとつの疑問が頭に浮かんだ。僕はそれを彼女に訊いてみた。
「君はこの世界に来てどれくらい経つの?」
少し間を置いて彼女は答えた。
「わかんない」
「……僕より長いことは確かだよね?」
「うん。……八年目くらいまでは数えてたけど、馬鹿らしくなってやめちゃった」
僕はまたもや絶句するしかなかった。
◆
彼女に促され、僕の病室へと入る。
立て続けにショッキングな事実をつきつけられて、僕の頭は混乱していた。何が道理なのかわからなくなっていた。
ただでさえ頭がおかしくなりそうなこの世界で、気の遠くなるような長い年月を過ごしている彼女。
僕が消えた後は、この世界への新たな訪問者を待つのだろうか?
あるいは、おそらくは世界中にいる仲間を探しに出るのだろうか?
もし僕がこの世界に残ると言えば、彼女はどういう顔をするだろうか?
彼女は最初からフェアだった。僕をこの病院に連れて来なければ、この世界の同居人として、僕を足止めすることが出来たはずだ。それなのに、彼女はそうしなかった。
あなたは強い人だね――
冗談じゃない。君に比べたら僕なんて強くもなんともないさ。
彼女に背中を押されるようにして、僕と僕の両親がいるベッドの前にたどり着く。
彼女は最初に会った時のような、穏やかな笑みを浮かべていた。
彼女にしか出来ない悲しい笑みだった。
「もし君の気が変わって、もし現実の世界に戻ったとして、もし君も僕も上手い具合に回復したら――」
「『もし』が多すぎるよ」笑いながら彼女は言った。「そこまでいくともう奇跡だよね」
確かに奇跡としか言いようがないのかもしれない。
でも、
こんな非現実的な世界が存在するのだから、奇跡の一つや二つ起こったっておかしくはないだろう。
「じゃあね」と彼女が言った。
「じゃあ、また」
ささやかな奇跡を願って。
僕は僕に触れた。
読了ありがとうございます。処女作、初投稿です。忌憚のないご意見、ご感想、アドバイス等をいただけると幸いです。