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一文字の愛情
作:宮森琥珀


 羨ましい。
 電車の向かいの席で、携帯電話で無心にメールを打つ若者の姿を見て、恵美子はそう思った。
 優先席の真向かいで携帯をいじる無神経さを非難して、というわけではない。
 恵美子は素直に羨ましいと感じたのだ。
 その軽やかに動く指先が、そこから生まれる意味を成す言葉が……。
 目的の駅への到着を告げるアナウンスに、彼女はゆっくりと立ち上がった。
 乗降の激しくない駅なので、誰も老女を押しのけたりはしない。
 都会の喧騒やうねる人波が苦手な恵美子としては、「何もない駅」と称されるここが好ましかった。
 しかし、嫌な部分もある。長い長い階段だ。
 辺鄙な場所はなかなか意識されず、エレベーターなどが備わる予定は今のところ無いようだった。
 一段、一段、休みながら降りていく。帰りにはまた苦しい思いをして上っていかねばならない段を、一歩一歩降りてゆく。
 年老いた肉体が悲鳴を上げても、彼女は昨日も今日も明日もその先も、降り続けて上り続ける。
 それが恵美子の意地であり、愛情であった。



 通いなれた道を通り、恵美子が病院に着く頃には彼女の息は相当荒くなっていた。しかし彼女は病人ではない。
 面会受付をすませ、今度はエレベーターで三階に昇る。三〇五号室の表札に山岡龍太郎の名を確認し、しずしずと病室に踏み入った。
「あなた、来ましたよ。恵美子です」
 龍太郎の目は相変わらず呆然と宙のどこかを見つめていたが、その視線が微かに右に……恵美子の方へ傾いたように感じる。
 そう思って、妻は小さく苦笑した。きっと、自分の錯覚なのだ。都合の良い幻想なのだ。
 しかし、幻想でもいいとも思う。例えただの願望の産物であったとしても、夫が自分を認識してくれるだけで足腰の痛みは癒される。
「あらあら、眩しいですね。カーテン、閉めましょうか」
 夫の顔に直射日光が当たっているのを見て、荷物を床に下ろすなり恵美子は窓辺に歩み寄った。
 部屋が暗くならず、龍太郎が眩しくないようにカーテンを数センチ閉める。
 彼女は龍太郎が少しでも快適に暮らせるように、毎日ここへ通い詰めていた。
 病院のスタッフでは気付きにくい細やかな気遣いをしてあげるためだけに。
 脳梗塞で倒れてしまった龍太郎。もう以前の状態に回復することはないと言われ、近いうちに一生を終えるだろうとも医師に宣告されていた。
 友人も親族も息子も、夫の元へ通い続けることは無駄だと恵美子に言う。
 その度に、彼女は微笑んで首を振るのだった。
「私は側にいたいのよ。龍太郎さんの側にいたいの。……それだけでいいのよ」
 きっと、龍太郎の瞳に恵美子は映っていない。
 それでも妻は何のためらいもなく、穏やかな笑みで夫に話しかけるのだった。




 龍太郎は活動的で、新しいことに挑戦することが好きだった。
 どれだけ歳を重ねても、少年のような無邪気さは変わらず、どれだけ顔に皺を刻んでも、人懐こい笑顔が失われることは無く。
 そして、恵美子のことを本当に愛してくれる人だった。
「後悔させないとも、絶対に幸せにするなんて無責任なことも俺は言えない。けどな、恵美子。俺はお前にひとつだけ約束出来ることがある。俺はずっと、お前を大切に想うよ。だから、側にいてくれないか。ずっと、ずっと……」
 あの時の言葉、夕焼けに包まれた龍太郎の横顔を、恵美子は鮮明に覚えている。
 一昨日の夕食を思い出せなくとも、あの場面はすぐに思い出せる。
 龍太郎は約束を違えなかった。仕事に追われながらも、決して家族をないがしろにはしなかった。
 その一方で、自分の趣味に情熱を傾けることも欠かさない人物でもあった。
 ここ数年、彼が特に興味をもっていたのはパソコンだった。
 インターネットやらブログやらに夢中になり、何時間もパソコンの前に座り込むこともしばしばあったのだ。
 恵美子にはさっぱり理解が出来なかったが、彼女はそんな夫を温かく見守りながら、眩しくも思っていた。
 若い者に負けるものかと粋がるのではなく、純粋にパソコンを楽しんでいるところが何とも龍太郎らしい。そう感じていた。




 あんなに好きだったパソコンも、今では一日に一度、リハビリとしてしか触れられない。
 指先の神経が他の部分に比べ反応が良いため、そこから刺激を与えて脳の機能停止を防ぐというリハビリ。
 どうせ指先を使うのならば、パソコンを触らせてやって欲しいと恵美子は申し出た。
 丁度、息子が新しいものを購入したため不要になったノートパソコンを病室に設置し、一日に一度だけそれを使用したリハビリを行うことになったのだ。
 そのリハビリ内容とは、メールの送信であった。
「出来たら、奥様のアドレス宛にメールを送りましょうか。その方がきっと、ご主人も頑張れますよ」
 看護師の言葉に、恵美子は慌てて息子に連絡を取り、自宅の龍太郎のパソコンでフリーメールアドレスというものを取得してもらった。
 その際に、インターネットへの接続方法やウェブメールの見方なども教えてくれたのだが、彼女は全く理解できなかった。
 母さんは本当に機械に弱い。そう言って息子はケラケラと笑ったものだ。
「メールが読みたくなったら、俺に言ってくれよ」
 息子はそう言っていたが、恵美子は全くメールを読みたいとは感じなかった。
 なぜなら、彼女は知っていたから。
 龍太郎が日々送信しているメールは、たったの一文字。
 何の意味も成さない、一文字。




 失礼します、と凛とした声と共に若い看護師が入ってきた。
「こんにちは、奥様。ご主人のリハビリの時間なのですが、よろしいですか?」
「ええ、ええ。宜しくお願いします」
 深々と頭を下げる恵美子に笑顔を返し、看護師は手際よくパソコンをサイドテーブルに設置して、後ろから抱き支えるようにして龍太郎の体を起こす。
「さぁ、山岡さん。今日も奥さんにメールを送りましょうね」
 両手をそっとキーボードに乗せられると、龍太郎が微かに嬉しそうな雰囲気を出すことに恵美子は気付いていた。
 たった数分で、それがリハビリの一貫であっても、彼はパソコンに触れることが嬉しいのだろう。
 ただ一文字のメールでも、龍太郎が喜ぶのなら価値があるのだ。
「どうぞ、山岡さん。好きなキーを押してくださいね」
 看護師の言葉が分かっているのかいないのか、龍太郎の指はガタガタとキーボードを彷徨い、何かのキーを押す。
 その様子に、看護師は感心したように息をついた。
「すごいですね、山岡さん。最近、二つキーを押して」
「あら、そうなんですか。じゃあ、メールは二文字?」
「いいえ、ローマ字入力なので二つ押してやっと一文字の平仮名になるんです。今までは一つだけでしたから、届いているメールは英語一文字だけのはずです。でも、二週間ほど前から、ご主人は二つキーを押すようになったんですよ。しかも、正確に平仮名になる組み合わせで!」
「まぁ……」
「リハビリ担当の他の看護師も驚いていました。もしかしたら、このまま脳機能が順調に回復していくんじゃないかって先生も言っていましたし」
 話しながら龍太郎の手を動かしてメールを送信させ、看護師はパソコンを片付けた。
「夫は、回復出来るんでしょうか」
「完全には無理かと思いますが、良い傾向になってきたとは思いますね」
「そう……良かったわ」
 病室を後にする看護師を丁寧に見送り、恵美子は横たわる龍太郎の顔を覗きこんだ。
「まぁ、あなた……満足そうなお顔ですこと」







 その晩、龍太郎は死んだ。







 無事に納骨も済み、恵美子は息子を伴って帰宅した。
 一人で平気だから自分のアパートに戻るよう言ったのだが、息子は母さんを一人に出来ないとついてきたのだった。
「しっかし、医者も適当だよな。回復の見込みがあるって言ったその日に親父が死ぬなんて」
「お医者様のせいではないわ。……元々、もたないって言われていたんですもの。覚悟は出来てたわ」
「母さん……」
「父さんが少しでも幸せだったなら、いいのだけれどね」
 しんみりと言葉を紡ぐ恵美子を気遣ってか、息子は明るい声で龍太郎のパソコンの前に座った。
「せっかくだしさ、親父のメール見てみようぜ」
「……ええ、そうね」
 恵美子も息子の横に正座し、画面を覗き込んだ。
 起動音と共に、なんともシンプルなデスクトップが出現する。
 息子は慣れた手つきでインターネットに接続し、ウェブメールを表示した。
「あーあ、未読件数が凄いことになってる」
 小さく笑みを零しながら、息子が次々とメールを開く。
 あ、p、;、f、x、1、h……
 意味の無い文字の羅列でも、恵美子はそこに確かに龍太郎を感じた。
 夫が指を震わせながら打ち込んだ一文字。
 何の意味も無いなんてことはない。
 今となっては、その一文字に多くの重みを感じる。
 f、j、え、d、@、7、え、み、こ……
 息子がマウスを操作する手を止めた。上擦った声で呟く。
「母さん……コレ……これって」
「真太郎」
「母さん、もしかして、これ……」
「真太郎、早く」
 息子の上着を握り締め、恵美子は首を振りながら必死に叫んだ。
「早く!真太郎、早く続きを見せてッ」
 ゴクリと唾を飲み込み、真太郎は次のメールを開封した。
「あ。……り、が、と、う」
「ああ……あなた……!」
「あ、い、……し、て、る……」


 恵美子、ありがとう。愛してる。


 龍太郎の名を絶え間なく呼び、妻は泣き崩れた。
 体を支える息子の肩を何度も叩き、涙声で夫を呼ぶ。
「龍太郎さん、龍太郎さん……!」
 夫は恵美子を忘れていなかった。妻を認識していたのだ。
 最期まで想い続けたのだ。あの約束通りに。
 その真実が、恵美子の胸に様々な感情の波を呼ぶ。
 悲しい。嬉しい。切ない。もどかしい。苦しい。……そして、愛しい。
 しばらくむせび泣いた後、恵美子は小さく呟いた。
「返事を、出さなければ……」
 潤んだ瞳で呆然としている息子に、恵美子ははんなり微笑んだ。
「ねぇ、真太郎。あの人にお返事しなければ。きっと待っているわ」
 スーツの袖口で乱暴に涙を拭い、息子はニッと笑って見せた。
 真太郎の指示どおり、ひとつひとつ丁寧にキーを押す。人差し指で、ひとつづつ。




 あなた、ありがとう。私が行くまで待っててください。
 愛しぬいて生き抜くのを、どうぞ見守って。














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