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私と彼女の話

作者:鈴村 ましろ
 下駄箱を開けると、少し黒ずんだ上履きの中に大きな蜘蛛の死骸が入っていた。私の拳くらいはあるだろうか。ある程度の覚悟はしていたので表情には出さなかったが、さすがにこれには驚く。どうやってこの死骸を上履きに入れたのだろうか。自分で蜘蛛を見つけて殺したのだろうか。それとも、見つけた死骸をわざわざ運んだのだろうか。いずれにしても、私の理解の範疇を超えている。
 今脱いだばかりのスニーカーをもう一度履き直し、極力中身を見ないように死骸の入った上履きを外に運ぶ。そのまま、中身だけを校庭の花壇に捨てた。哀れなこの蜘蛛も、きっと綺麗な花たちの養分になるだろう、と適当なことを思いながら、下駄箱へと戻る。死骸が入っていた上履きをそのまま履くのはさすがに気持ちが悪いので、掃除用の雑巾で軽く拭うことにした。気休め程度だが、何もしないよりマシだろう。死骸が潰れて体液まみれ、なんて悲惨なことになっていなかったのは、せめてもの情けだろうか。あるいは、さすがにそこまでは気持ちが悪くてできなかったか。
 上履きを拭い終わると、きーんこーんかーんこーん、と間延びしたチャイムが校舎に鳴り響いた。どうやら今日も遅刻になってしまいそうだ。最近遅刻してばかりで、通信簿の成績が若干心配になる。かといって今更焦ることもせず、私はゆっくりと上履きに履き替え、人気のない廊下を歩いて教室に向かった。
 私の通っている境野中学は、山の上にぽつんと立っている。そのためか学校の敷地は広く、教室や職員室のある本校舎と、理科室や音楽室のある特別校舎、部活動のための部室棟といった形で、三つの建物で成り立っている。本校舎の一階には一年生の教室が、二階には二年生、三階には三年生の教室がある。年功序列に従うのならば、年長者こそ下駄箱からの移動距離が短い下の階になるべきではないのか、と思ったりもするが、そんなことを言っても長年定まってしまっている風習は変わりようがない。二年生である私は、階段を一つ上がって二階の端にある自分の教室に向かった。
 ガラリ、と教室の扉を開ける音が教室に響くと、三十の視線が一斉に私の方を見た。既にチャイムが鳴っているので全員席についていて、本を手に持っている。HR前の朝読書の時間だ。しかし、本の後ろに漫画を隠していたり、机の上においたスマホを本で隠していたりする人の方が多い。読んでいる人は半分以下だろう。
 担任の黒川先生は、教室にいなかった。いつもだったらこの時間には、チャイムが鳴るまでに生徒が着席しているかどうかチェックしているはずだが。これなら今日は遅刻扱いにはならなくてすみそうだ、と私は心の中で先生のサボリ癖に感謝する。
 クラスメイトたちの退屈そうな視線の合間をくぐり抜けて、自分の席につく。鞄を膝の上に置き、今日読む本を取り出そうとして、そういえば昨日は本を持って帰らずに、机の中に置いて帰ったんだった、と気づいた。私はせっかく学校が用意してくれた読書のための時間を無下にするつもりは全くない。誰にも邪魔されず、静かに本が読めるこの時間が、私は大好きだった。
 机の中から読みかけの小説を取り出す。昨日栞を挟んだところは、確かもう物語のクライマックスに差し掛かっていたはずだ。主人公の隣に突然現れた、死んだはずの兄。彼は果たして幽霊なのか、どうしてそこにいるのか。そして、主人公の過去に一体何があったのか、その真相が語られる手前で時間が来てしまった気がする。
 物語の結末に思いを馳せながら、栞を外して本を開く。すると、その中は赤い色で埋め尽くされていた。活字の上にクレヨンのようなものがびっしりと、力任せに塗りたくられている。赤い色に侵略されて、元々本の中に住んでいた文字たちはその姿を消してしまっていた。
 一度目を瞑り、周囲に聞こえないように、小さくため息をつく。
 これ、図書館の本なんだけどな。公用物には手を出さないと思っていたけれど、甘かったようだ。これからは借りた本も、おそらく教科書も、全部家に持って帰らなければならないらしい。なかなか面倒だった。
読むものがなくなってしまったので、仕方なく窓の外を見やる。と、ちょうどこちらを見ていたらしいクラスメイトとばったり視線が合った。慌てて視線を逸らす彼女の様子を見て、流石に気づき始めているのかもしれないな、と実感する。まあ、これだけ長いこと続けていれば、別のクラスならともかく、同じクラスの人なら気づくだろう。特に女の子は、こういった狭い空間での人間関係には敏感だ。
 さて、あとどれくらいかな。真っ赤になってしまった本をゆっくりと閉じ、私はもう一度、小さくため息をついた。



 私への小さな攻撃が始まってから、もう一か月近く経つ。その行為は、日増しに悪質なものになってきていた。最初は、机の上に落書きがされていたり、消しゴムやシャープペンがなくなったり、そんな程度だった。それが段々、筆箱がなくなり、ひいてはカバンごとなくなるといったようにエスカレートしていった。それは、一つ一つの攻撃に対して一向に態度を変えようとしない私への、焦りにも見えた。
 でも、私だって全然平気なわけではない。貝殻を閉じているだけだ。今は泣いても叫んでも、何も変わらない。それがわかっているから、じっと耐え忍ぶことに決めたのだ。目の前の捕食者が、通り過ぎるまで。



 昼休みに図書館に行った。受付で司書さんに頭を下げ、借りていた本を汚してしまったので弁償します、と謝った。この司書さんは、図書館の常連である私とは顔見知りだ。よく私の好きな作家の本が入荷すると、こっそりと取っておいて、私が来たら真っ先に貸してくれる。とても良い人だ。今回借りた本も、そうやって司書さんが特別に取っておいてくれたものだった。
 私の報告を受けて、司書さんは怒るでもなく穏やかに言った。
「あらら。でも汚れ具合を見て新しい本を購入するかどうか決めるから、無理しなくても良いのよ。」
 しかし、真っ赤になってしまった本を見せるわけにもいかない。私は頭を下げながら、
「いえ、弁償します。すみません。」
 と繰り返しておいた。
「そう。じゃあ、次は気をつけてね。」
 司書さんの言葉に、私は黙って頷く。次は、気をつける。気をつけよう。大切な本を汚してしまうのは、とても心苦しい。
 唇噛んで黙ってしまった私を見て、何かを察したのか、司書さんはちょっと待ってね、と断って席を外した。なんだろうと思ったら、
「新刊が出たのよ。あなたこの作家さん好きだったでしょ。」
 と、まだ真新しい小説を手渡してくれた。もう貸出の手続きもしちゃった、と悪戯っぽく笑いながら。その心遣いに何故だか涙が出そうになって、司書さんの顔をまっすぐ見ることができず、ありがとうございます、と頭を深く下げて、俯いたままの姿勢で図書館を出た。
 外に出ると、カンカン照りの日差しが俯いている私の頭に降り注いできた。思わず空を見上げると、雲一つない真っ青な空に太陽が爛々と輝いている。これでもまだ六月だ。これからさらに暑くなるのかと思うと、憂鬱になる。ため息をついてから私は本校舎に向かって歩き出した。
 この中学では、図書室ではなく図書館がある。その名のとおり、校舎とは別に一つの建物として敷地内に存在しているのだ。しかし、不便なことに屋根続きの通路が存在しない。つまり図書館にいくためには、いちいち昇降口で靴に履き替えて、外の日差しを浴びて向かわなければならない。図書館を頻繁に利用するような、インドア派の人にとっては、なかなか苦痛なのではないだろうか。少し矛盾しているようにも思う。 偏見かもしれないが、少なくとも私はそう思っている。
 じわりと滲む汗に耐え切れず、本校舎と図書館の間を覆うようにして立っている特別校舎が作る影の中に、私は身を滑らせる。おかげで日差しの暑さは大分マシになった。掌に滲んだ汗で貸してもらった小説が汚れてしまわないように、本を抱きかかえるように持ち直すと、ふと雨の日に、こうやって本を抱きかかえるようにして守りながら、本校舎まで走っていたことを思い出した。急に雨が降ったりして傘を持っていないと、濡れながら図書館に行かなければならないし、帰りはせっかく借りた本が雨で濡れてしまうのだ。本の最適な保管のためにも、この立地は間違っているのではないかと私は常々思っている。少なくとも、屋根つきの通路を作るべきだろう。
 そんなことを考えていたら、突然私の上に水の塊が落ちてきた。
 六月とはいえ今日は雨の予報ではなかったし、そもそも空は真っ青に澄んだまま雲一つない。まさか私の上だけにとおり雨が降るなんてことはないだろう。
 混乱しながら水が落ちてきたであろう場所を見上げると、青いバケツがガコン、と変な音をさせながら私の横に落ちてきた。バケツが落ちてきたのは、ちょうど私の真横にある特別校舎二階の理科室からだ。目を凝らすと、窓のカーテンの隙間から、長い黒髪が翻って去っていくところがちらりと見えた。その黒髪に、私はとても見覚えがあった。
 呆然としたまま立ち尽くしていると、校庭にまばらにいた生徒たちの、何事かという視線が、痛いほどに突き刺さってきた。いたたまれなくなった私は、
「・・・ちょっと遙!ひどいじゃん!」
 となるべく冗談っぽく聞こえるように笑いながら、特別校舎の入り口に走っていった。
 そのままずぶぬれになってしまったスニーカーを脱いで、下駄箱から一番近くにある女子トイレに身を滑り込ませた。ぽたぽたと滴る滴を呆然と眺めながら、トイレに座り込む。抱えるようにして持っていた小説は、それでも水でふやけてひどいことになってしまっていた。もう読めなくなっているかもしれない。何より、また汚してしまったことを、司書さんに言うのがつらかった。次は気をつける、って言ったばかりなのに。せっかく私のために取っておいてくれたのに。
 彼女が私の隣からいなくなってからというもの、私の心の支えは本だった。本を読んでいれば、嫌なことは忘れられる。考えないでいられる。私は物語の中に入り込んで、その世界を傍観していられる。その間が私にとって唯一の安息だった。
 それを狙っているのか、いないのか。何にしても、私自身を狙う今までの攻撃より、とても有効であることは否定できないだろう。
 ぽたぽたと流れる滴は、なかなか止まらない。流れているものは、バケツにかけられた水だけではないようだった。
 しかし、いつまでもこうしてはいられない。髪や制服の裾をぎゅっと絞って、雫が落ちないように振り払う。とりあえず、このずぶぬれになってしまった制服を脱いで、ジャージに着替えよう。もう一度、しっかりと貝殻を閉じるのだ。
 ジャージは部室棟に取りに行くとして、この濡れた制服をどうするか。出来れば日当たりの良いところに干して、帰るまでには乾かしたい。ジャージで家に帰ったら、親に何事かと思われるし、きっと下校中も悪目立ちしてしまうだろう。
 しかし、当然だが教室に干すわけにもいかない。校庭のような人の往来が激しい場所も論外だろう。トイレや部室棟の隅にある物置は、人気こそ少ないが日当たりも良くないので、乾くとも思えない。
 そこでふと思いついたのが、屋上だった。



 私たちの中学では、基本的に屋上には入れないことになっている。屋上に続く階段はあるが、屋上に出るための扉の鍵は閉められ、学生は借りることができないのだ。文化祭のようなイベントの時だけ開放されることもあるが、年に一度あるかないか、といった程度。だから屋上階段の先にある小さな空間は、文化祭の時だけ出番のある生徒会の旗や、壊れた机や椅子たちが、埃まみれになって置かれているただの物置と化していた。
「うわあ、なにここ。汚いね。」
 椅子や机に積もった埃を見て私がそう言うと、
「探検しようって言ったのは遙でしょ。」
 隣で机の埃を払いながら、彼女が言った。
 放課後。誰もいなくなった校舎の中で、私たちは探検をしていた。特に理由があるわけではないけれど、この無駄に広い学校のどこかには、誰も行かないような秘密の場所があるのではないかと思ったのだ。だから私は彼女に、校舎を探検してみよう、と持ち掛けてみた。最初はめんどくさいと取り合ってくれなかった彼女だが、二人だけの秘密の場所という言葉につられて、付き合ってくれた。
 特別棟のすみにある謎の空き教室、人通りの少ない部室棟の非常階段、何故か教室も何もない途切れた廊下。探してみると本当に色々な場所があって、さすが無駄に広いだけはある、と感心した。しかしその中でも特に目を引いたのが、屋上階段の上の物置だった。
「物がいっぱいで、なんだか秘密基地みたい。」
 そう私が言うと、彼女が返す。
「埃まみれで汚いけどね。」
「汚いのは、誰も来てない証ってことで。」
「確かに。それじゃ、綺麗にして私たちが来てる証にしちゃおっか。」
 そう言って、私たちはくすくす笑った。
 それ以来、私たちはここの机を使ったり、埃を掃除してきれいにしたりして、放課後や休み時間に定期的にくるようになった。
 特に何をするわけでもなく、ただ教室と同じように他愛もない話をするだけ。でも、それが二人だけの秘密の場所、というだけで、なんだかとてもわくわくするのだった。
この秘密基地がそれだけではないことに気付いたのは、一か月くらい通い詰めてからだった。最初に、彼女が窓の秘密に気づいたのだ。
「ねえ、暑くない?」
「うん、暑いね。」
 暖かい季節になってくると、日差しがよく差し込むこの秘密基地はとても暑くなる。しかも風が全く通らないので、熱気が立ち込めるサウナ状態となってしまうのだ。
「秋冬限定にする?この場所に来るの。私もう限界。」
「あ、窓開けよう、窓。そしたらちょっとはマシになるはず。」
 そう言って彼女は窓に手をかけた。窓は教室のものと同じなので、内側からならば鍵をひねれば普通にあけることができるはずだった。しかし、鍵を開けても窓は何かに引っかかったように動かない。
「あれー?おっかしいな。何で開かないんだろ。」
「どしたの?」
 私が駆け寄ると、彼女は困ったように言った。
「鍵は開けたはずなのに、窓が開かないんだよね。」
「あれ、ほんとだ。」
 二人して首をかしげる。しばらくして彼女が何か気づいて声をあげた。
「あ、ねえ遙、なんかある。」
「え、どこ?」
「そこそこ。そのサッシのとこ。」
 よく見てみると、サッシの部分に小さな穴があけられ、ネジが埋め込まれていた。これが取っ掛かりとなって、窓が開かないようになっていたのだ。
「これが引っかかってたのかー。」
 私は刺さっていたネジを指で回してみた。ネジは緩く刺さっているだけで、指で回すだけで簡単に外すことができた。
「これで開くかな。」
「じゃあ、せーの、で開けよっか。」
 せーの、と掛け声をして、二人で一緒に窓を引くと、ギギ、と鈍い音がして、何年もの間閉まり続けていただろう窓が、開いた。すうっ、と熱気の立ち込める空間に涼しい空気が吹き込んでくるのと同時に、私たちは窓を開けた先に屋上の足場が広がっていることに気が付いたのだった。
屋上に出入りできるのは扉だけではない。窓が曇りガラスで外が見えない構造になっていたせいで、そんな 当たり前のことに二人とも気づかなかったのだ。私はたまらなくなって、彼女を見た。彼女も、私を見て同じ表情をしていた。
 楽しくてたまらない、といった表情を。
「せーのっ」
 確認するまでもなく私たちの声は揃って、同時に屋上に飛び出した。二人の足が屋上の地面を同時につかんだ時、私たちはまた顔を見合わせて、笑った。
人が立ち入ることを想定していないからか、屋上には柵はなく、その広々とした開放感と少し危険な香りに、私たちは魅入られたのだった。
「あ、私ここがいいな。落ち着く。」
 貯水タンクの横に腰かけて私が言うと、
「ほんと遙って物影とかすみっことか好きだよね。私はこれくらい開放的な方が好きだなあ。」
 と言いながら彼女は屋上のへりに腰かけた。そこはそのまま二人の定位置になり、グランドで部活動をしている人の姿を見て、あれは一組の誰だ先輩の誰だと話したり、日が沈むのをぼんやり眺めたり、空に浮かぶ雲の形が何に見えるか言い合ったりした。
 あの屋上は、他の誰も知らない、私と彼女だけの特別な場所なのだ。



 あの屋上ならば、きっと誰にも見咎められることなく制服を干すことができるはずだ。そう思って、本校舎の最上階へと急ぐ。そろそろ、昼休みも終わってしまう時間だ。昼休みの間に干すことができれば、きっと帰りまでには乾くだろう。
 屋上階段を登り切ると、いつもは閉まっている窓の鍵が開いていて、ネジも外されていることに気がついた。慌てて窓を開けると、あの頃と同じように屋上のへりに座る彼女の姿を見えた。
彼女は長い黒髪を風になびかせながら、遠くを眺めていた。その張り詰めた横顔を見た途端、嫌な予感がした。
「美奈!」
 たまらず私は声をかけて、遠い空を眺める美奈の傍に駆け寄る。この名前を口にするのは、もうずいぶんと久しぶりだった。
 美奈は私の声に驚いたようにびくりと肩を震わせ、一拍置いてからこちらを振り返り、睨んできた。じとりとした、ひどく苛立ったような視線。眉根は強く寄せられて、眉間にしわが寄っている。
その視線に、私は怯まない。ずっと一緒にいた私だから、分かる。美奈は無理をしている。何かに耐えるために、無理やり自分の顔を偽っている。元々、美奈はこんな顔をする子じゃなかった。自分の思うように、自由に生きている子だった。たとえ苛立っていたとしても、わざわざ表情で不快さをアピールすることはしない。気に入らないものはとことん無視するか、直接はっきり文句を言うのが、彼女のポリシーだ。もしも私のことが本当に気に入らないのなら、わざわざこんなことをせずに、無視を決め込むはずだ。私は、そう信じていた。
 しばらく私のことを睨んだ後、何も言わずに私の横をすり抜けていこうとする美奈に、私は一方的に声をかける。
「私は、美奈のこと待ってるから。いつまでも。」
 その言葉に、私の横をすり抜けようとしていた美奈が足を止めた。俯いたまま、ぼそりと呟く。
「─ん、で・・・」
 聞き取れなかったので美奈の方に向き直ろうとすると、美奈は突然勢いよく顔を上げた。
久しぶりに正面から見た美奈の表情は、睨んでいるはずなのにどこか泣きそうな、不安定で凄みのあるものだった。その剣幕に驚いている私の肩を思い切り突くと、美奈は勢いよく踵を返して屋上を去っていく。
思いのほか強い力で押された私はバランスを崩し、そのまま尻餅をついた。
 美奈が去り際に見せた表情。あれは、彼女の本心な気がする。でも、美奈が何を考えているのか、私にはさっぱり分からなかった。その悔しさに歯噛みする。
「どうして、分からないんだろう。どうして、話してくれないんだろう。あんなに一緒にいたのに・・・。」
 座り込んだまま立ち上がれずにいると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ってしまった。私は慌てて制服と本を屋上の日当たりの良い場所に干し、教室まで走る。教室についたのは授業の開始より五分くらい遅れてしまったが、先生はまだ来ていなかった。確か次の授業は、黒川先生の日本史だ。相変わらず時間にルーズな先生に感謝しつつ、汗をぬぐいながら席につく。
 先生を待っている間、ちらちらと周囲が私に視線を向けていることに気づいた。三十一人が同じ制服を纏っている空間の中で、一人だけジャージを着ているのはひどく目立つ。統一された空間に、一つだけ紛れ込んだ異物、といったところか。もしかしたら、もう昼休みの校庭で起こった事件を聞きつけた人もいるかもしれない。
 ちょうど日本史の教科書とノートを机の上に用意し終わったあたりで、ようやく黒川先生が教室に姿を現した。慌てたような口ぶりで遅れたことを謝罪しているが、額には汗一つかいていないので、走ってきたわけではなさそうだ。しばらく先生の言い訳を聞いてから、いつも通りの授業が始まる。しかし、その内容は私の頭には全く頭に入ってこない。私の意識は、まだあの屋上に残っていた。



 美奈の様子がおかしくなったのは、一か月前のことだった。
 いつものように屋上で過ごしていると、突然美奈は言った。
「ねえどうしよう遙。私、気づいちゃった。」
「んー、何に?」
 貯水タンクの横に腰かけた私の気のない返事に、美奈が答える。
「私が生きていることを私自身が認められないのなら、それって生きている意味がないってことにならない?」
 唐突な問いに、私は虚を突かれた。美奈は時折そういった突拍子もない話をすることがある。私は戸惑いつつも、ぼんやりと考えながら返した。
「ううん・・・そうかもしれない。でも、私は美奈がいないと嫌だよ。それだけで、生きてる意味にはなるんじゃない?私にとっての、かもしれないけど。」
 その言葉に美奈はしばらく沈黙した。何気ない言葉のつもりだったのに、そんな真剣に考えられると困ってしまう。しばらくして、美奈は口を開いた。
「例えば、さ。私がここから飛び降りるって言ったら、遙は止める?」
「そりゃあ、止めるよ。美奈が死んじゃうのなんてやだもん。」
「そっか、そうだよね。」
 その時、夕焼けの空にあかとんぼのメロディがゆっくりと鳴り響いた。私たちにとっては馴染みの深い、十七時を知らせる町の放送だ。
「もうこんな時間。そろそろ帰ろっか。」
 私はどうして美奈が突然そんなことを聞いたのか、まだ引っかかるものがあったが、わざわざ話を蒸し返すことはしなかった。
 また明日、時間のある時にでもゆっくり聞けばいいかな、と思って。
 その明日は、来なかったのだけれど。



 気がつくと、もう授業が終わっていた。話を聞くどころか、ノートも何もとっていない。慌てて黒板に残された板書を書き写そうとしていると、そんな私に気づいたのか、黒川先生が声をかけてきた。
「今野、お前最近どうした。大丈夫か。」
 おそらく、今日の授業の様子と、遅刻の多さと、今の服装、すべてについてだろう。遅刻の多さに関して先生に言われたくはないが、基本的に黒川先生は生徒思いの良い先生だ。ちょっと適当で、教師なのにサボリ癖があったりするけれど、そんな少し隙のあるところが完璧な人よりもずっと好感が持てる。気さくで面倒見が良くて、背もすらっと高く、顔もそこそこ。人気の出る男性教師の典型だ。しかし、私が彼を良い先生だと評するのは、そこが理由ではない。
 黒川先生は、生徒同士の問題には無闇に首を突っ込んできたりはしない。大人の力が必要だと思ったときに、初めて声をかけてくれる。適切な距離感と、子供の世界にとって自分たち大人がどういう存在であるかを理解している、そんなところが私は好きだった。
 つまり、現時点で私達の問題は、既に大人の力がないと解決できないと判断されてしまったということだ。しかし、そういうわけにはいかなかった。これは私と美奈の問題だ。他の人が介入できるものじゃない。少しでも触れた途端、膨れ上がった何かが、破裂してしまうだろう。
 私は曖昧に笑って、
「大丈夫です。ちょっと、お昼休みに制服が濡れてしまって。帰るまでに乾くかなって心配してたら、ぼーっとしてしまいました。」
 と返しておいた。
 その言葉を額面通りに受け取ってはいないだろうが、こちらにまだ話す気がないのは伝わったようだ。何かあったら先生に言っても良いからな、と心配そうに言い置いて去っていった。
本当に、物わかりの良い人だと思う。
 心配をかけてしまっていることを素直に申し訳なく思いながら、そろそろ白黒つけなければならないな、と思う。しかし、その方法はどうしても思いつかなかった。私にできることは、一体何があるんだろうか。
 そのことばかりを考えていたら、午後の授業はどれも頭に入ってこなかった。授業をしている空間に座ってはいるが、私の心はずっと別の場所にあった。
そうやって一日の授業を無為に過ごしてしまった後、私は下校前の掃除をしながら、あの屋上を見上げていた。校庭の花壇の前から見上げる屋上はひどく遠く、屋上から見下ろす花壇はひどく小さかったことを思い出す。花壇の周りに散らばる小さな落ち葉を掃きながら、私はあの屋上での日々が、ひどく遠い昔のことであるように感じていた。



 美奈が屋上に来なくなって数日。私は彼女とずっと言葉を交わせずにいた。
最後に交わしたあの言葉がよみがえる。美奈は何かに悩んでいる、ということは私でもなんとなくわかっていた。でも、肝心なことは何も分からない。だから、とにかく話をしたかった。
しかし、心配になって声をかけるも、美奈は眉根を寄せたまま顔を背けるばかり。ろくに会話もしないうちに、どこかへ行ってしまう。
 何度目かの声掛けにも答えてくれず、無言で去っていくその背中に、私は一方的に声をかけた。
「つらいことがあって、今は話したくないのなら、それでもいいよ。でも、美奈がもしも誰かに話したくなったら、私に言ってね。私はいつまでも、美奈の味方だから。」
 その言葉に、美奈は足を止めた。ようやく言葉が届いたのか、と思ったのもつかの間、私の言葉を振り切るように、勢いよく走り去ってしまった。
 その翌日からだった。私への攻撃が始まったのは。



 花壇の中で、芋虫らしきものにアリがたかっていた。数十匹の小さなアリが、逃げようともがく芋虫の周りを這い回っている。びくびくと暴れる芋虫は、やがて大人しくなり、観念したように沈黙した。その出来たばかりの死骸を、アリたちがどこかへ運んでいく。その一部始終を、私はじっと見ていた。
 そういえば、朝捨てた蜘蛛の死骸はどうなったのだろう。まだ花壇にあるのだろうか。それとも、今の芋虫のようにアリに運ばれてしまったか。何にせよ、花たちの栄養にはなりそうもないな、と思っていると、上の方からからバシャッという聞き覚えのある音がして、私の上に再び水の塊が襲い掛かってきた。しかも、今度は妙な臭いがする。
 おそらく、雑巾を絞ったバケツの水がかけられたのだろう。死骸を運んでいたアリたちが、落ちてきた水の流れに蹴散らされ、芋虫の死骸はどこかへ流れていった。
もう頭上を見上げなくても、誰がやったのかは分かっていた。何のためにやったのか、それだけがどうしても分からなかった。
 もはや滴を払う気も、服を絞る気も起きない。屋上に干してある制服がそろそろ乾いているだろうと思い、勝手に掃除を中断して屋上へ向かうことにした。
下駄箱を開けると、黒ずんだ上履きの上に蜘蛛の死骸が置かれていた。蜘蛛の死骸はぐちゃぐちゃにつぶされていて、上履きは蜘蛛の体液まみれになっていた。思わず私は目を瞑る。
美奈は、蜘蛛が苦手だったはずなのに。
 グロテスクな上履きを洗う気にもなれず、濡れた靴下のまま廊下を歩く。途中ですれ違った生徒がぎょっとしていたが、私は取り繕う気にもなれなかった。勝手に驚けばいい。勝手に嫌えばいい。そんなの私が気にすることじゃない。
 滴をぽたぽたと垂らしながら、周囲の異質なものを見る視線を受けながら、まっすぐ屋上へと向かう。
そこに美奈がいた。いつもと同じように、屋上のへりに腰かけていた。その隣には、グレーのバケツが置いてあった。
「美奈・・・」
 その言葉に振り向いた美奈は、昼とは打って変わって、笑顔を浮かべていた。無理をしているのはすぐに分かったが、それでも一か月ぶりに見る美奈の笑顔と呼べるものだった。ずっと見たかった顔のはずなのに、この状況においては、ひどく不気味だった。
「美奈、どうして・・・」
「ねえどうしよう遙。私、気づいちゃった。」
 私の言葉を遮るようにして、美奈が言う。
「遙の心を折る方法。」
 私には分からなかった。その言葉が、偽りなのか本当なのか。
 美奈は淡々と、干してあった私の本に手を伸ばす。
「一か月もかかっちゃったけどね。ほんと、手ごわい相手だったよ、遙は。」
「やめて!」
 つい声を荒げてしまい、はっとする。美奈は、私の反応に満足げな笑みを浮かべていた。そして
 ばりっ
 と手にとった本を大きな音をたてて、何度も破った。
「どうして、どうしてこんなことするの・・・?」
「言ったでしょ?遥の心を折るためだよ?」
 けらけらと楽しそうに笑いながら、美奈は言い放った。
 ──私の心を折る?そのために、美奈は私を攻撃していたの?
 ──何で?私なにか悪いことした?
 ──私だって、私だって我慢して我慢して、美奈のために耐えてきたのに・・・。
 ──待ってたのに。信じてたのに。
 ぴったりと閉じた貝殻に、隙間ができていく。無理やり押し込めていた貝殻の中身は、もはやとっくに腐っていた。ずっと閉じ込めていたドス黒い感情は、隙間ができた途端、そこから勢いよく溢れ出そうとする。その勢いは、自分ではもう止められなかった。
「ふざけないで!今まで美奈を信じて我慢してきたけど、私だっていつまでも平気なわけじゃない!そうやって自分を振りかざして、いつもいつも私を振り回して──
 私の貝殻は、開いてしまった。悲鳴のような、残酷な音を立てて。
 ──あんたなんか、死んじゃえ。」
 その言葉が漏れ出した瞬間、美奈の口角がおぞましいほど上がった。にい、と歪な笑みが浮かびあがる。今までの無理に作ったような笑顔とは、明らかに質が違った。しかし、歪に上がった口角とは対照的に、眉尻はひどく下がっていて泣きそうなようにも見える。その奇妙な表情を崩さないまま、美奈の唇はゆっくりと動いた。
「やっと、言ってくれたね。」
 それは、愛おしさがねっとりと張り付いた、愛の告白のような一言だった。その言葉を最後に、美奈の体は屋上のへりを越え、ゆっくりと落下していく。
 彼女の顔には奇妙な笑みが張り付けられたままだった。耐えきれない苦しみからようやく解放されたような、満足げでどこか寂しげな笑顔だった。
 その姿が見えなくなっても、下の方から何かが潰れるような音と悲鳴が聞こえても、最後に見た彼女の笑顔が、最後に放った言葉が、私の頭にこびりついて離れなかった。


 どれくらいそうしていただろう、
 彼女がついさっきまで立っていた場所に、何か白いものが落ちていることに気がついた。
 それは、私と美奈が授業中に交換していたような、小さく折りたたまれた可愛らしい手紙だった。ふらふらとそれに近づき、手紙を開く。そこには、美奈の独特な丸っこい字で、こう綴られていた。
『今までごめんね、遙。ありがとう。』

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