表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

「あんたなんか、死んじゃえ」

作者: 鈴白 凪

 下駄箱を開けると、少し黒ずんだ上履きの中に大きな蜘蛛の死骸が入っていた。私の拳くらいはあるだろうか。ある程度の覚悟はしていたので表情には出さなかったが、さすがにこれには驚く。どうやってこの死骸を上履きに入れたのだろうか。自分で蜘蛛を見つけて殺したのだろうか。それとも、どこかで見つけた死骸をわざわざ運んだのだろうか。いずれにしても、私の理解の範疇を超えている。

 今脱いだばかりのローファーをもう一度履き直し、極力中身を見ないように死骸の入った上履きを外に運ぶ。そのまま、中身だけを校庭の花壇に捨てた。哀れなこの蜘蛛も、きっと綺麗な花たちの養分になるだろう、と適当なことを思いながら、下駄箱へと戻る。死骸が入っていた上履きをそのまま履くのはさすがに気持ちが悪いので、掃除用の雑巾で軽く拭うことにした。気休め程度だが、何もしないよりマシだろう。死骸が潰れて体液まみれ、なんて悲惨なことになっていなかったのは、せめてもの情けだろうか。あるいは、さすがにそこまでは気持ちが悪くてできなかったか。

 上履きを拭い終わると、きーんこーんかーんこーん、と間延びしたチャイムが校舎に鳴り響いた。どうやら今日も遅刻になってしまいそうだ。最近遅刻してばかりで、通信簿の成績が若干心配になる。かといって今更焦ることもせず、私はゆっくりと上履きに履き替え、人気のない廊下を歩いて教室に向かった。

 私の通っている境野中学は、山の上にぽつんと立っている。そのためか学校の敷地は広く、教室や職員室のある本校舎と、理科室や音楽室のある特別校舎、部活動のための部室棟といった形で、三つの建物で成り立っている。本校舎の一階には一年生の教室が、二階には二年生、三階には三年生の教室がある。年功序列に従うのならば、年長者こそ下駄箱からの移動距離が短い下の階になるべきではないのか、と思ったりもするが、そんなことを言っても長年定まってしまっている風習は変わりようがない。二年生である私は、階段を一つ上がって二階の端にある自分の教室に向かった。

 ガラリ、と教室の扉を開ける音が教室に響くと、三十の視線が一斉に私の方を見た。既にチャイムが鳴っているので全員席についていて、本を手に持っている。HR前の朝読書の時間だ。しかし、本の後ろに漫画を隠していたり、机の上においたスマホを本で隠していたりする人の方が圧倒的に多い。本を読んでいる人はおそらく半分以下だろう。

 担任の黒川先生は、教室にいなかった。いつもだったらこの時間には、チャイムが鳴るまでに生徒が着席しているかどうかチェックしているはずだが。これなら今日は遅刻扱いにはならなくてすみそうだ、と私は心の中で先生のサボリ癖に感謝する。

 クラスメイトたちの視線の合間をくぐり抜けて、自分の席につく。鞄を膝の上に置き、今日読む本を取り出そうとして、ふと思い出す。そういえば昨日は本を持って帰らずに、机の中に置いて帰ったんだった。鞄を机の横にかけ、机の中から読みかけの本を取り出す。

 私はせっかく学校が用意してくれた読書のための時間を無下にするつもりは全くない。誰にも邪魔されず、静かに本が読めるこの時間が、私は何よりも大好きだった。

 本を開きながら、小説の内容を思い出す。昨日栞を挟んだところは、もう物語のクライマックスに差し掛かっていたはずだ。主人公の部屋に突然現れた、死んだはずの兄。彼は果たして幽霊なのか、何のために現れたのか。そして、主人公の過去に一体何があったのか。その真相が語られる、一歩手前だ。

 物語の結末に思いを馳せながら、栞を外して本を開く。


 しかし、そこには期待していた物語の結末は記されていなかった。


 活字の上に、クレヨンのようなものがびっしりと力任せに塗りたくられている。真っ赤な色に侵略されて、元々本の中に住んでいたはずの文字たちは、ほぼ完全にその姿を消してしまっていた。

 私は静かに本を閉じる。そして、周囲に聞こえないように、小さくため息をついた。

 …これ、図書館の本なんだけどな。

 私物以外には手を出さないと思っていたけれど、どうやら認識が甘かったようだ。これからは図書館で借りた本も、おそらく教科書も、全部家に持って帰らなければならないらしい。なかなか面倒だった。

 読むものがなくなってしまったので、仕方なく窓の外を見やる。と、ちょうどこちらを見ていたらしいクラスメイトとばったり視線が合った。慌てて視線を逸らす彼女の様子を見て、流石に気づいているんだろうな、と実感する。まあ、これだけ長いこと続けていれば、同じクラスの人なら気づくだろう。特に女の子は、こういった狭い空間での人間関係には敏感だ。

 さて、どうやって時間を潰そうかな。真っ赤になってしまった本の表紙を撫でながら、私はもう一度、小さくため息をついた。





 私への攻撃が始まってから、もう一ヶ月近く経つ。小さな嫌がらせのようなものから始まったそれは、日増しに悪質なものになってきていた。最初は、机の上に落書きがされていたり、消しゴムやシャープペンがなくなったり、そんな程度だった。それが段々、筆箱がなくなり、ひいてはカバンごとなくなるといったようにエスカレートしていった。それは、一つ一つの攻撃に対して一向に態度を変えようとしない私への、焦りにも見えた。

 私がそれらの攻撃を淡々と受け流すのは、別に私が強いからじゃない。一つ一つの攻撃が、全然平気な訳でもない。心の奥深くを守るために、平気なフリをしているだけだ。さながら、貝殻を閉じて捕食者をやり過ごすように。

 今は泣いても叫んでも、きっと何も変わらない。それが私にはわかっていた。だから、じっと耐え忍ぶことに決めたのだ。目の前の何かが、通り過ぎるまで。

 膨れ上がった悪意が破裂した時、一体何が起こるのか。それは、私にも分からなかった。






 昼休みに図書館に行った。借りていた本を汚してしまったので弁償します、と司書さんに頭を下げて謝る。

 この司書さんは、図書館の常連である私とは顔見知りだ。物腰が柔らかく穏やかで、本に対する理解も深い、とても良い人だ。時々、返した本についての感想を語り合うこともあった。

 私の報告を受けて、彼女は怒るでもなく穏やかに言った。

「あらら、そうなの。でも汚れ具合を見てこちらで新しい本を購入するかどうか決めるから、無理しなくても良いのよ。」

 しかし、変わり果ててしまったあの本を見せるわけにもいかない。私は頭を下げながら、

「いえ、弁償します。すみません。」

 と繰り返しておいた。

「…そう。じゃあ、次は気をつけてね。」

 司書さんの言葉に、私は黙って頷く。次は、気をつける。気をつけよう。大切な本を汚してしまうのは、とても心苦しい。心が引き裂かれるほどに。

 深く下げた頭を上げると、司書さんがこちらを覗き込んできていた。何かを見透かすようなその瞳に、私は少したじろいでしまう。思わず目を逸らす私に、ちょっと待ってね、と断ると、彼女は奥に引っ込んでしまった。

 戻ってきた彼女の手には、真新しい文庫本が握られていた。

「昨日、新刊が届いたところなの。あなた、この作家さん好きだったでしょう。」

 そう言って、私に本を差し出してくる。実はもう勝手に貸出の手続きもしちゃったの、と悪戯っぽく笑いながら。その心遣いになんだか涙が出そうになって、私は司書さんの顔をまっすぐ見ることができなくなってしまった。代わりに、私は深く頭を下げる。ありがとうございます、と言う声は、少し震えていたかもしれない。司書さんは何も言わず、私に本を手渡してくれた。本を大事に胸に抱えて、俯いたまま私は図書館を出た。

 外に出ると、カンカン照りの日差しが俯いている私の頭に降り注いできた。思わず空を見上げると、雲一つない真っ青な空に太陽が爛々と輝いている。

 見上げたまま、私は太陽に熱された空気を思いっきり吸い込み、吐き出す。これを2,3回繰り返して、それから頬を思いっきり叩いた。

 …よし。貝殻は、閉じた。

 胸に抱えた本を、もう一度しっかりと持ち直し、私は青空の元を歩き出した。




 この中学では、図書室ではなく図書館がある。その名のとおり、校舎とは別に一つの建物として敷地内に存在しているのだ。しかし、不便なことに本校者との間には屋根続きの通路が存在しない。つまり図書館に行くためにはらいちいち昇降口で靴に履き替えて、外の日差しを浴びて向かわなければならないのだ。図書館を頻繁に利用するようなインドア派の人にとって、これはなかなか苦痛なのではないだろうか。偏見かもしれないが。

 じわりと滲む汗に耐え切れず、本校舎と図書館の間を覆うようにして立っている特別校舎が作る影の中に、私は身を滑らせる。おかげで日差しの暑さは大分マシになった。

 爛々と辺りを照らす太陽を恨めしげに睨む。少しくらい曇ってくれてもいいのに、と不満を漏らしそうになるが、それはそれで雨の心配をするのが厄介だ。

 屋根のないこの道のりは、今日のような晴れている日も大変だが、雨の日はもっとひどい。

 傘を差しながらだと本が持ちづらいし、どうやったって濡らしてしまう危険性がある。何より、傘を持たずに図書館で雨が降ってきてしまったら、本を守りながら本校舎まで走るしかなくなってしまうのだ。

 本の最適な保管のためにも、この立地は間違っているのではないかと私は常々思っている。もしも私が生徒会役員になったら、図書館と本校舎を繋ぐ屋根付きの通路を作ることを公約に掲げようと思う。今のところ出馬の予定はないが。


 その時だった。


 バシャッ、という大きな音。同時に私の上に落ちてくる、水の塊。

 ポタポタと髪から滴る水に、私は呆然とする。六月とはいえ今日は雨の予報ではなかったし、そもそも空は真っ青に澄んだまま雲一つない。まさか私の上だけに局所的な豪雨が降る、なんてことはないだろう。

 思わず上を見上げると、宙を舞う青いバケツが視界に映った。緩やかな放物線を描いたそれは、ガコン、と変な音をさせながら私の横に落ちてくる。

 バケツが降ってきたのは、おそらく私の真横、特別校舎二階の理科室からだ。目を凝らすと、窓のカーテンの隙間から、長い黒髪が翻って去っていくところがちらりと見えた。

 その黒髪に、私はとても見覚えがあった。

 ずぶ濡れになったまま呆然と立ち尽くしていると、校庭にまばらにいた生徒たちの何事かという視線が、痛いほどに突き刺さってきた。いたたまれなくなった私は、逃げるように特別校舎の入り口に走っていく。そのままずぶ濡れのローファーを脱いで、下駄箱から一番近くにある女子トイレに身を滑り込ませた。未だにぽたぽたと滴る滴を呆然と眺めながら、一人トイレに座り込む。

 自分が濡れたのは、まだいい。この天気なら、きっと帰るまでには何とかなるだろう。

 それよりも…。

 手の中の文庫本に目を落とす。先ほどまで真新しかったその本は、今や水でふやけてひどいことになってしまっていた。もう読めなくなっているかもしれない。

 ごめんね、と小さく本に謝る。謝っても、許してくれないかもしれないけど。

 何より、また汚してしまったことを、司書さんに言うのがつらかった。次は気をつける、って言ったばかりなのに。せっかく、私のために取っておいてくれたのに。

 今の私の心の支えは、本だった。本を読んでいる間だけは、辛いことは忘れられる。考えないでいられる。私は物語の中に入り込んで、その世界を傍観していられる。複雑な登場人物たちのすれ違い、スリルのある脱出劇、殺人事件の犯人探し、謎だらけの超常現象。その全てを、他人事として、ただただ楽しむことができる。

 その間が、今の私にとっては唯一の安息だった。

 それなのに。それなのに。

 強く唇を噛み締める。ぽたぽたと流れる滴は、なかなか止まらない。流れているものは、バケツにかけられた水だけではないようだった。



 どれくらいそうしていただろうか。髪から滴る雫はようやく止まり、ただ頬を伝うだけになっていた。

 その頬を、もう一度強く叩く。

 いつまでもこうしてはいられない。休み時間の間に、このずぶ濡れの状態をどうするか考えないといけないのだ。私は髪や制服の裾をぎゅっと絞って、雫が落ちないように振り払った。

 とりあえず、部室棟に行ってジャージに着替えよう。ここからならほとんど人に会わずにロッカーまで行けるはずだ。

 あとは、この濡れた制服をどうするか。出来れば日当たりの良いところに干して、帰るまでには乾かしたい。ジャージで家に帰ったら、親に何事かと思われるし、きっと下校中も悪目立ちしてしまうだろう。

 しかし、当然だが教室に干すわけにもいかない。校庭のような人の往来が激しい場所も論外だろう。トイレや部室棟の隅にある物置は、人気こそ少ないが日当たりも良くないので、下校までに乾くとも思えない。


 そこでふと思いついたのが、屋上だった。






 私たちの中学では、基本的に屋上には入れないことになっている。屋上に続く階段はあるが、屋上に出るための扉の鍵は閉められ、学生は借りることができないのだ。文化祭のようなイベントの時だけ開放されることもあるが、年に一度あるかないか、といった程度。だから屋上階段の先にある小さな空間は、文化祭の時だけ出番のある生徒会の旗や、壊れた机や椅子たちが、埃まみれになって置かれているただの物置と化していた。


「うわあ、なにここ。汚いね。」

 椅子や机に積もった埃を見た私がそう言うと、

「探検しようって言ったのは遙でしょ。」

 隣で机の埃を払いながら、呆れたように彼女が返した。


 放課後。人がまばらになった校舎の中で、私たちは探検をしていた。特に理由があるわけではないけれど、この無駄に広い学校のどこかには、誰も行かないような秘密の場所があるのではないかと思ったのだ。だから私は彼女に、校舎を探検してみよう、と持ち掛けてみた。最初はめんどくさいと取り合ってくれなかった彼女だが、二人だけの秘密の場所という言葉につられて、付き合ってくれた。

 特別棟の隅にある謎の空き教室、人通りの少ない部室棟の非常階段、何故か教室も何もない途切れた廊下。探してみると本当に色々な場所があって、さすが無駄に広いだけはある、と感心した。しかしその中でも特に目を引いたのが、屋上階段の上の物置だった。


「なんだかここ、秘密基地みたい。」

 そう私が言うと、彼女が返す。

「埃まみれで汚いけどね。」

「うーん、まあ汚いのは誰も来てない証ってことで。」

「確かに。それじゃ、綺麗にして私たちが来てる証にしちゃおっか。」

 そう言って、私たちはくすくす笑った。


 それ以来、私たちはここの机を使ったり、埃を掃除してきれいにしたりして、放課後や休み時間に定期的にくるようになった。

 特に何をするわけでもなく、ただ教室と同じように他愛もない話をするだけ。でも、それが二人だけの秘密の場所、というだけで、なんだかとてもわくわくするのだった。


 この秘密基地の更なる秘密に気付いたのは、一か月くらい通い詰めてからだった。

「ねえ、暑くない?」

「うん、暑いね。」

 暖かい季節になってくると、日差しがよく差し込むこの秘密基地はとても暑くなる。しかも風が全く通らないので、熱気が立ち込めるサウナ状態となってしまうのだ。

「もうすぐ夏だし、しばらくこの場所に来るのやめとく?私、もう限界。」

「うーん、確かに……あっ、窓開けよう、窓。そしたらちょっとはマシになるはず。」

 そう言って彼女は窓に手をかけた。窓は教室のものと同じなので、内側からならば鍵をひねれば普通に開けることができるはずだった。しかし、鍵を開けても窓は何かに引っかかったように動かない。

「あれー?おっかしいな。何で開かないんだろ。」

「どしたの?」

 私が駆け寄ると、彼女は困ったように答えた。

「鍵は開けたはずなのに、窓が開かないんだよね。」

「あれ、ほんとだ。」

 二人して首をかしげる。しばらくして、彼女が何か気づいて声をあげた。

「あ、ねえ遙、なんかある。」

「え、どこ?」

「そこそこ。そのサッシの端っこ。」

 よく見てみると、サッシの部分に小さな穴があけられ、ネジが埋め込まれていた。これが取っ掛かりとなって、窓が開かないようになっていたのだ。

「これが引っかかってたのかー。」

 私は刺さっていたネジを指で回してみた。ネジは緩く刺さっているだけで、指で回すだけで簡単に外すことができた。

「これで開くかな。」

 わくわくしながら私が尋ねると、彼女も心なしか楽しげな声音で答える。

「じゃあ、せーの、で開けよっか。」

 せーの、と掛け声をして、二人で一緒に窓を引くと、ギギギ…と鈍い音がして、永らく閉まり続けていただろう窓が、開いた。すうっ、と熱気の立ち込める空間に涼しい空気が吹き込んでくるのと同時に、私たちは窓を開けた先には屋上の足場が広がっていることに気が付いたのだった。

 屋上に出入りできるのは扉だけではない。窓が曇りガラスで外が見えない構造になっていたせいで、そんな 当たり前のことに二人とも気づかなかったのだ。私はたまらなくなって、彼女を見た。彼女も、私を見て同じ表情をしていた。

 楽しくてたまらない、といった表情を。

「せーのっ」

 確認するまでもなく私たちの声は揃って、二人で窓から同時に屋上に飛び出した。二人の足が屋上の地面を同時につかんだ時、私たちはまた顔を見合わせて、笑った。

 人が立ち入ることを想定していないからか、屋上には柵はなく、その広々とした開放感と少し危険な香りに、私たちは魅入られたのだった。

「あ、私ここがいいな。落ち着く。」

 貯水タンクの横に腰かけて私が言うと、

「ほんっと遙って物影とかすみっことか、狭いとこが好きだよね。私はこれくらい開放的な方が落ち着くなあ。」

 と言いながら彼女は屋上のへりに腰かけた。そこはそのまま二人の定位置になり、グランドで部活動をしている人の姿を見て、あれは一組の誰だ先輩の誰だと話したり、日が沈むのをぼんやり眺めたり、空に浮かぶ雲の形が何に見えるか言い合ったりした。

 あの屋上は、他の誰も知らない、私と彼女だけの特別な場所なのだ。





 あの屋上なら、きっと誰にも見咎められることなく制服を干すことができるはずだ。ジャージに着替えた私は、本校舎の最上階へと急ぐ。そろそろ、昼休みも終わってしまう時間だ。昼休みの間に干すことができれば、きっと帰りまでには乾くだろう。

 息を切らせて屋上階段を登っていく。そして踊り場に出たところで、気がついた。


 窓が、開いている。


 慌てて窓から外を覗き込むと、そこにはあの頃と同じように屋上のへりに座る彼女の姿があった。

 彼女は長い黒髪を風になびかせながら、遠くを眺めていた。その張り詰めた横顔を見た途端、とてつもなく嫌な予感がした。

「美奈!」

 たまらず私は声をかける。この名前を口にするのは、もう随分と久しぶりのことだった。

 私の声に、美奈はびくりと肩を震わせた。私が彼女がここにいることに驚いたように、彼女もまた私がここに来たことに驚いたのだろう。私も彼女も、ここにはもうほとんど来ていなかったはずだった。

 そして、彼女はこちらをゆっくりと振り返る。先ほどの張り詰めた表情はもうそこにはなく、じとりとした、ひどく苛立ったような視線が私を突き刺した。眉根は強く寄せられて、眉間に深い皺が寄っている。

 そのあからさまな拒絶の視線に、私は怯まない。ずっと一緒にいた私だから、分かる。美奈は無理をしている。おそらく彼女は何かに耐えるために、無理やりこんな態度を作っている。

 元々、美奈はこんな顔をする子じゃなかった。自分の思うように、自由に生きている子だった。たとえ苛立っていたとしても、わざわざ表情で不快さをアピールすることはしない。気に入らないものには直接はっきりと文句を言うか、完全に無視を決め込むのが彼女のポリシーだ。もしも私のことが本当に気に入らないのなら、わざわざこんなことはしないはずだ。私は、そう信じていた。

 しばらく私のことを睨んだ後、何も言わずに私の横をすり抜けていこうとする美奈に、私は一方的に声をかける。

「私は、美奈のこと待ってるから。いつまでも。」

 美奈が足を止めた。俯いたまま、ぼそりと呟く。

「─ん、で…」

 聞き取れなかったので美奈の方に向き直ろうとすると、美奈は突然勢いよく顔を上げた。

 久しぶりに、本当に久しぶりに正面から見た美奈の表情は、強く睨んでいるはずなのにどこか泣きそうな、不安定で凄みのあるものだった。その剣幕に驚いている私の肩を思い切り押すと、美奈は踵を返して屋上を去っていく。

 思いのほか強い力で押された私はバランスを崩し、そのまま尻餅をついた。

 美奈が去り際に見せた表情。あれは、彼女の本心な気がする。でも、美奈が何を考えているのか、私にはさっぱり分からなかった。その悔しさに歯噛みする。

「どうして、分からないんだろう。どうして、話してくれないんだろう。あんなに一緒にいたのに…。」

 座り込んだまま立ち上がれずにいると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ってしまった。私は慌てて制服と本を椅子にかけて干し、教室まで走る。教室についたのは授業の開始より五分くらい遅れてしまったが、先生はまだ来ていなかった。確か次の授業は、黒川先生の日本史だ。相変わらず時間にルーズな先生に感謝しつつ、汗をぬぐいながら席につく。

 先生を待っている間、ちらちらと周囲が私に視線を向けていることに気づいた。全員が同じ制服を纏っている空間の中で、一人だけジャージを着ているのはひどく目立つ。統一された空間に、一つだけ紛れ込んだ異物、といったところか。もしかしたら、もう昼休みの校庭で起こった事件を聞きつけた人もいるのかもしれない。

 ちょうど日本史の教科書とノートを机の上に用意し終わったあたりで、ようやく黒川先生が教室に姿を現した。慌てたような口ぶりで遅刻について弁明しているが、汗一つかいていないところを見るに、急いできたわけでもなさそうだ。先生の言い訳を聞き流しながら、私は美奈のことを考える。

 今日の授業の内容は、頭に入って来そうもなかった。





 美奈の様子がおかしくなったのは、一ヶ月前のことだった。

 その日も、いつものように二人で屋上にいた。遠くに見える山々を眺めながら私がぼんやりしていると、唐突に美奈が口を開いた。

「…ねえ、どうしよう遙。私、気づいちゃった。」

「んー、何に?」

 群れをなして旋回している鳥たちを目で追いかけながら、私が気のない返事を返す。

 美奈はあのね、と前置きをして、続けた。

「私が生きていることを私自身がどうしても認めることができなかったら、それってどう足掻いても、生きている意味がないってことにならない?」

 唐突な問いに、私は虚を突かれた。美奈は時折そういった突拍子もない話をすることがある。私は鳥の群れから視線を外し、戸惑いつつも言葉を返した。

「うーん…。確かに、それはそうなのかも。でもさ、私は美奈がいないと嫌だよ。それだけで、生きてる意味にはなるんじゃない?まあ、それは私にとっての、かもしれないけど。」

 その言葉に美奈はしばらく沈黙した。何気ない言葉のつもりだったのに、そんな真剣に考えられると困ってしまう。しばらくして、美奈は口を開いた。

「例えば、さ。私がここから飛び降りるって言ったら、遙は止める?」

「そりゃあ、止めるよ。美奈が死んじゃうのなんてやだもん。」

「…そっか、そうだよね。」

 その時、夕焼けの空にあかとんぼのメロディがゆっくりと鳴り響いた。私たちにとっては馴染みの深い、十七時を知らせる町の放送だ。

「もうこんな時間。そろそろ帰ろっか。」

 私はどうして美奈が突然そんなことを聞いたのか、まだ引っかかるものがあったが、わざわざ話を蒸し返すことはしなかった。

 また明日、時間のある時にでもゆっくり聞けばいいかな、とそんな呑気なことを考えていた。

 結局その明日は、来なかったのだけれど。





 いつから黒川先生の言い訳から授業の内容に移ったのかも気づかないまま、授業の終わりを告げるチャイムが鳴っていた。話を聞くどころか、ノートすら何もとっていない。慌てて黒板に残された板書だけでも書き写そうとしていると、そんな私に気づいたのか、黒川先生が声をかけてきた。

「…今野。お前最近、大丈夫か。」

 ざっくりとした問いかけだが、おそらく今日の授業の様子だけでなく、遅刻の多さ含むここ最近の私の様子に対する言葉だろう。

 遅刻に関しては先生に言われたくないが、基本的に黒川先生は生徒思いの良い先生だ。ちょっと適当で、教師なのにサボリ癖があったりするけれど、そんな少し隙のあるところが完璧な人よりもずっと好感が持てる。気さくで面倒見が良くて、背もすらっと高く、顔もそこそこ。人気の出る男性教師の典型だ。しかし、私が彼を良い先生だと評するのは、それが理由ではない。

 黒川先生は、生徒同士の問題には無闇に首を突っ込んできたりはしない。大人の力が必要だと思ったときに、初めて声をかけてくれる。子供の世界にとって自分たち大人がどういう存在であるかを理解している。そんな分別のある、一歩引いた視点を持っているところが私は好きだった。

 つまり、ここで声をかけてきたということは、そろそろ潮時だということだ。これ以上大事になったら、私たちだけの問題では済まなくなってしまう。

 しかし、そういう訳にはいかなかった。もしもこの問題に他の人が介入したら、曖昧に膨れ上がった何かが破裂してしまう、そんな予感があった。

 私は曖昧に笑って、

「あー…大丈夫です。ちょっと、お昼休みに制服が濡れてしまって。帰るまでに乾くかなって心配してたら、ぼーっとしてしまいました。」

 と返しておいた。

 その言葉を額面通りに受け取ってはいないだろうが、こちらにまだ介入を許す気がないのは伝わったようだ。何かあったらいつでも言うんだぞ、と心配そうに言い置いて教室を出ていった。

 本当に、物わかりの良い人だと思う。

 心配をかけてしまっていることを素直に申し訳なく思いながら、タイムリミットについて考える。

 そもそも、私だってもう限界が近かったのだ。






 美奈が屋上に来なくなって数日。私は彼女とずっと言葉を交わせずにいた。

 あの日、最後に交わしたやり取りを思い出す。美奈が何かに悩んでいる、ということは私でも分かった。でも、肝心なことは何も分からない。だから、とにかく話をしたかった。美奈の話を聞いてあげたかった。

 しかし、廊下ですれ違った時に声をかけても、美奈は眉根を寄せたまま顔を背けるばかり。ろくに会話もしないうちに、どこかへ行ってしまう。

 何度目かの声掛けにも答えてくれず、無言で去っていくその背中に、私は一方的に声をかけた。

「美奈に何かつらいことがあって、今は話したくないのなら、それでもいいよ。距離を取るのも、ほんとはちょっと寂しいけど、我慢する。でも、美奈がもしも話したくなったら、その時はいつでも言ってね。」

 そこで言葉を区切り、力を込めて言い切る。これが、今の私に出来る唯一のことだ。

「たとえ隣にいなくても、私はいつまでも、美奈の味方だから。」

 その言葉に、美奈は足を止めた。ようやく言葉が届いたのか、と思ったのもつかの間、私の言葉を振り切るように、走り去ってしまった。

 その数日後からだった。私への攻撃が始まったのは。







 花壇の中で、芋虫らしきものにアリがたかっていた。数十匹の小さなアリが、逃げようともがく芋虫の周りを這い回っている。びくびくと暴れる芋虫は、やがて大人しくなり、観念したように沈黙した。その出来たばかりの死骸を、アリたちがどこかへ運んでいく。その一部始終を、私はじっと見ていた。

 一日の授業が全て終わり、掃除の時間に差し掛かっていた。今月の私の当番は、下駄箱前の花壇の掃除だった。

 そういえば、今朝ここに捨てた蜘蛛の死骸はどうなったのだろう。既に花壇にその姿はなく、花たちの栄養にはなりそうもない。今の芋虫のようにアリに運ばれてしまったのだろうか。

 何だか朝の出来事が、ひどく昔のことのように感じる。今日は本当に、色々なことがあった。

 屋上を見上げる。そろそろ、制服も乾いているだろうか。掃除が終わったら取りに行かなきゃな、そんなことを思っていた矢先。


 ひらひらと、白いものが宙を舞っていた。

 足元に落ちたその白い欠片は、紙片だった。そして、そこには何か文字が印刷されていた。

 その文字が印刷された紙片は、屋上から次々と降ってきているようだった。


 そこまで認識して、何が起こっているのか理解した私は屋上へと駆け出した。


 下駄箱を開けると、黒ずんだ上履きの上に蜘蛛の死骸が置かれていた。蜘蛛の死骸はぐちゃぐちゃにつぶされていて、上履きは蜘蛛の体液まみれになっていた。思わず私は目を瞑る。

 美奈は、蜘蛛が苦手だったはずなのに。

 あまりにもグロテスクな上履きを洗う気にもなれず、靴と靴下を脱いで裸足で廊下を駆け抜ける。

 すれ違う生徒は、裸足で廊下を駆け抜ける私を見てギョッとした表情をしていた。だが、そんなものに構っている暇はない。階段を一つ飛ばしで飛び越え、屋上の窓から外に飛び出す。

 そこに美奈がいた。いつもと同じように、屋上のへりに腰かけていた。その手には、ビリビリに破かれた文庫本があった。

「…っ!美奈…!」

 私の声に振り向いた美奈は、昼とは打って変わって、楽しそうな笑顔を浮かべていた。少し前まではずっと見たかった、美奈のその表情。でも今の私にとって、それはひどく憎々しい顔にしか見えなかった。

「ねえ美奈。それ、返して」

「…ねえ、どうしよう遙。私、気づいちゃった。」

 私の言葉を遮るようにして、いつかのように美奈が言う。

「遙の心を、折る方法。」

 再び文庫本に手を伸ばす美奈に、私は思わず叫ぶ。

「やめて!!!」

 私のその反応に、美奈は満足げな笑みを浮かべた。

「こんなのが一番効果的だなんて、遥ってばよく分かんないよね。私だったら上履きに蜘蛛入れられる方が絶対嫌だけど。」

 そして、手にとったページを躊躇なく二つに割いた。

「どうして、どうしてこんなことするの…?」

「言ったでしょ?遥の心を折るためだよ?」

 けらけらと楽しそうに笑いながら、美奈は言い放った。

「だって遥、いっつも淡々としてるんだもん。大人ぶって、何でも分かったフリして、お利口さんで。私、遥のそういうとこ大嫌いだったんだよね。なんか、すごい嫌味って感じ。」


 ──私の心を、折るため?

 ──そんなことのために、ずっと私を攻撃してたの?

 ──何で?私何か、悪いことした?

 ──ずっと我慢して我慢して、美奈のためって思って、耐えてきたのに…。

 ──待ってたのに。信じてたのに。

 ──それなのに。

 ──私の大切なものを、こんな風にして。

 ──許せない。


 ぴったりと閉じていた貝殻。固い貝殻に押し込めた中身は、どんどん膨れ上がって、少しずつ隙間ができていく。ずっと閉じ込めていたドス黒い感情は、その隙間を目掛けて、勢いよく溢れ出そうとする。その勢いは、もう止められなかった。


「っっ!!ふざけないで!!今まで美奈を信じて我慢してきたけど、私だっていつまでも平気なわけじゃない!そうやって自分を振りかざして、いつもいつも私を振り回して、私の大切なものをこんな風にして──」


 ついに私の貝殻は、破裂してしまった。悲鳴のような、一番残酷な音を立てて。


 「──あんたなんか、死んじゃえ。」


 その残酷な音が、漏れ出した瞬間。

 先ほどまでの笑顔とは比べ物にならないくらい、美奈の口角がおぞましいほど上がった。歪な、狂気じみた笑みがその顔いっぱいに浮かびあがる。

 今までの笑顔とは、明らかに質が違うその表情。しかし、歪に上がった口角とは対照的に、眉尻はひどく下がっていて泣きそうなようにも見える。激烈な感情の奔流によって形作られた複雑怪奇な表情を崩さないまま、美奈の唇がゆっくりと動いた。


「──やっと、言ってくれたね。」


 それは、愛おしさがねっとりと張り付いた、愛の告白のような一言だった。その言葉を最後に、美奈の体は屋上のへりを越え、空中に投げ出される。

 彼女の顔には奇妙な笑みが張り付けられたままだった。耐えきれない苦しみからようやく解放されたような、そしてどこか申し訳なさそうな、満足げで寂しげな笑顔だった。

 その姿が見えなくなっても、遠くの方から何かが潰れるような音と悲鳴が聞こえても、最後に見た彼女の表情が、最後に放った言葉が、私の頭にこびりついて、離れなかった。








 どれくらい、そうしていただろう。彼女がついさっきまで座っていた場所に、何か白いものが落ちていることに気がついた。

 それは、私と美奈が授業中に交換していたような、小さく折りたたまれた可愛らしい手紙だった。ふらふらとそれに近づき、手紙を開く。そこには、美奈の独特な丸っこい字で、こう綴られていた。

『今までごめんね、遙。ありがとう。』

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] この作品が、あまりに素晴らしかったので、感想を一言書きたくなりました。 「誰が嫌がらせをしているのか?」 「なぜ嫌がらせが始まったのか?」 読んでいるうちに、疑問が次々と湧いてきて、ぐい…
2016/09/26 22:48 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ