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琥珀色の風
作:徳次郎



◆第88話◆


 忍が居るはずのアパートで優子は暫く待ったが、彼は何時まで経っても戻ってくる様子がなかった。
 明日の試験勉強を全くしないわけにもいかない。
 優子は篠山にも促されて渋々自宅に帰ってきた。
 しかし、当然勉強なんて手につかない。
 開いたノートに視線を落としても、文字を読む気になれなかった。
 息抜きが必要……篠山の言葉が頭を過る。
 ――今の高森にとって、あたしは息抜きで会える相手にはならないんだ……
 カーテンの僅かな隙間から月の光が微かに注いで、カーペットに細い閃光を映している。
 エアコンの室外機がカタカタ鳴っている音だけが、静まる夜気に響いていた。




 試験の中休みに土日が入るのは、意図的なものだろう。
 土曜日の午後、優子は再び新宿へ出ようと思っていた。
 明日があると思うと、今日は勉強なんてする気にもならない。
 少し前に気晴らしで買った、ハードウォッシュのローライズデニムを履く。
 ――ん? なんかキツイ……いやいや、こんな感じだよね。
 試着の時には気にならなかったが、以外にタイトなデザインで下半身の線がでる。
 優子は姿見用の鏡の角度を変えながら、何度も自分の後姿をチェックした。
 SLYスライのニットパーカーの下は、ユニクロで買ったチェニックだが、彼女にしては上から下まで久しぶりに気を配ってみた。
 革……で出来たような合皮のショルダーバッグを肩に掛けると、ショートブーツを履いて玄関を出た。
 母親はパートに出た後だし、直樹は相変わらず部活に励んでいる。
 佐助だけが何かモノ言いたげに、優子を見つめていた。
「なに? 文句在る?」
 優子は佐助にそんな言葉を投げかけると、門を開けて通りへ出る。
 陽射しが降り注ぐ部屋は暖かかったが、通りへ出ると少し風が冷たく感じた。


 駅の横断歩道を渡ると、背中から車のクラクションが短く二度鳴った。
 嫌なシチュエーションだと思い、優子は素知らぬ不利で足を速める。
 再びクラクションが鳴った。
 何だか知らないが、ごく平凡なフ抜けたクラクションの音色だったので、優子は周囲を見渡す振りなどをしながら、振り返る。
「やっぱり!」男の声がした。
 オンボロの白いバンが止まっている。
 助手席の窓から顔をつき出していたのは、忍が入院していた病院で何度か会った大学生、杉原一真だった。
「あっ、こ、こんにちは」
 優子は咄嗟にペコリと頭を下げる。
「あ、俺、ここで降りるわ」
 杉原はそう言って車のドアを開けると、仲間に手を上げてそのまま降りてきた。
 ――はあ? 何で降りるの? あたし、別に何も言ってないよね。丁度降りるところだったのか?
「いや、また会いたいと思ってたんだ。今、暇?」
 ――そんなに暇に見えるか?
「いや、あの……」
 優子は迷っていた。
 実は彼女も、杉原ともっと話してみたいと思っていたのだ。
 しかし、これから行く所がある……が、別に待ち合わせでもないし、約束があるわけでもない。
「す、少しなら……」
 優子は思わず苦笑する。
「そう。よかった。車降りちゃったし、どうしようかと思った」
 ――ていうか、そういう事だったら、降りる前に訊けよ。
 優子はちょっぴり大人の香りがする杉原を見上げて笑った。


 二人は何となく歩き出して、線路沿いの国道を当てもないのに進んでいた。
「何処か、出かけるところだったんじゃないの?」
「えっ、ええ。ちょっと……でも、別に約束とかはないから」
 年上の男といったら、父親か学校の先生くらいしか並んで歩いた事なんてなかった。
 そう言えば、この前連れまわされた中村輝も年上だが、アレは既に問題外だ。
 しかし、優子は思いのほか自分が落ち着いている事に気付く。
 以前から感じていた事だ。
 彼の存在は、何故だか優子の心を落ち着かせる。奇妙な緊張がないのだ。
 それとも、彼女なりに男慣れしてきた証拠なのだろうか。
「あの彼、どうした?」
「あ、ああ。ええ……」
 優子は思わず俯いて言葉を濁す。もちろん、高森忍の事だ。
「訊いちゃマズかったかな?」
 杉原はそれほど長くない前髪をかき上げた。
「あっ、いいえ。何処かへ行っちゃったみたいで……」
「何処か?」
「脱走したみたい……」
 優子は、杉原を見上げて、わざと笑ってみせる。
 杉原は少しだけ沈黙してそらを見上げた。
 優子の言った事に、特に大きな驚はないようだった。
 彼女もつられて、顎を上げる。
 薄雲が視界の隅に僅かに漂うだけの、碧空そうくうが広がっていた。
「たぶん……」
 杉原が呟く。
 上を向いてるせいか、優子にはよく聞こえなかった。
「え?」思わず聞き返す。
「たぶん、少し疲れたんじゃないかな。少し、休みたいんだよ」
「休みたい?」
 ――入院してるんだから、充分休んでるんじゃないの? でも、そう言えば篠山も同じような事言ってた。
 杉原は優子を見下ろした。
 何時でも包んでくれそうな、包容力が全身に漲るような笑顔だ。
 優子は思わず頬が熱くなるのを感じた。
「入院ってさ、外の人から見るとダラダラ楽そうに見えるけど、患者にしてみたら働いているくらいしんどいものなんだ」
「しんどい?」
「ああ。毎日決まった時間に検温して、その日によって検査、検査、また検温。辛い治療だってある。その合間に、これまた毎日決まった時間に食事。個人の意思は問題じゃない」
 杉原は大学のサークルでボランティアをしている。
 いろいろな病院を廻って、小児ガンに苦しむ子供や高齢者の重病患者に幾度となく接している。
 彼らに共通して欠落しているのは、毎日の検査や治療、決まった食事以外の娯楽や安らぎなのだ。
 普通に生活していれば、仲間や友人たちとの関わりの中で、楽しさを経験する。もちろん、嫌な思いだってするけれど、心から笑うような出来事も少なくない。
 しかし、病院の中にはなかなかそう言った出来事はないのだ。
 重病患者の仲間は、同じく命にかかわる病に侵された者が多い。現実の苦悩から逃れられないのだ。
 杉原は、簡単にそれを優子に話して聞かせた。
「だから、紙芝居や人形劇をやるの?」
「ああ。逃げ出したい気持ちが、少しでも安らぐようにね」
 杉原の笑顔に、優子も笑みを返す。
「なんか、凄いね」
 優子は杉原の言葉で、初めて忍の抱える苦悩に少しだけ共感できた気がした。
 そして、そんな事を考えられる杉原一真を、改めて大人だと思った。
 もちろん自分に比べたら大人なのは当たり前なのだが、あと二年で自分もこんないかにも大人な考えが出来るようになるのだろうか……
 他人の事を、そこまで考えられるようになるのだろうかと思った。
 しかし……つい歩き過ぎてもう直ぐ隣の駅に着いてしまう事を、優子は言えずにいた。




次回も杉原一真とのエピソードです。
お楽しみに!







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