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琥珀色の風
作:徳次郎



◆第64話◆


「忍、何処に行ってたの?」
 目の前に忍が立っていた。
「ああ、悪い。ちょっとハワイまで用事でさ。急用だったんだ」
 忍は何時のも爽やかな笑顔だ。黒髪がそよ風ではためいている。
 何故か風景は真っ白に飛んで、優子自身も何処にいるのか判らない。
「急用って……期末試験は?」
「一度ぐらい出なくても平気だろ。今までずっと一番だったんだ」
「それもそうね」
 優子は何故か納得して笑った。

 ……………
 ………

 頬に冷たいモノを感じて優子は目を覚ました。
 しばらく気が散って手のつかなかった勉強も、二次関数を解き始めると不思議に集中できるようになった。
 公式さえ頭に入れれば、たいがいの問題は解ける。
 ただ、応用問題の場合、どの数値を何処に当てはめるか間違えると、全く違う答えが出てしまう。
 授業でチェックした応用問題を何度も繰り返し読み返す。
 が、しかし……何時の間にか寝てしまっていた。
 早い時間に勉強を始めると、何時もの事だが……
 「ぎゃあっ」
 慌てて顔を上げる。
 ――うわぁ、ヤバイ。教科書にヨダレが……
 優子はティッシュを取り出して、教科書の開いたページをふき取った。なんだか、ふやけてしまっている。
 ふと顔を上げると部屋の中は暗かった。
 机は専用のスタンド照明が燈してあるので、暫く気付かなかった。
 外から入る陽の光は全く無くて、窓の外は漆黒だ。
 立ち上がって部屋の照明を点けると、ガラス窓の中には部屋と自分がもうひとつ浮き上がる。
 カーテンを掴んで窓の外を見ると、どの家も台所の電気が点いている時間で、何時もより住宅街が明るく見えた。
 再び忍の事が頭を過る。
 ――変な夢見た……高森は、明日は来るのかな……明日も来なかったら、家に行ってみよう。
 優子は行動予定を明日に先延ばしする事で、今日の不安を吹っ切ろうとした。
 明日行こう……そう思う事で、今日はこのまま家にいようと思った。
 ――後でもう一回メールしとこう。
 優子はそんな予定を頭の中で組み立てると、少しだけ気持ちが楽になった。
 カーテンを閉めて机に向うと、再び数学の問題を解きだす。
 その時、ガチャリと部屋のドアが開いた。
「姉ちゃん、タカノモリ開発がM&Aだってさ」
 いきなり優子の部屋のドアを開けたのは、弟の直樹だった。
 何だか異常なほど慌てた様子で、いかにもただ事ではない。
 しかし優子は
「ちょっとあんた、ノックくらいしなさいよ。なによM&Mって」
「M&Mじゃねえよ、M&Aだよ。吸収合併だよ。M&Mはチョコだろ……」
 優子は椅子から立ち上がって、入り口に立つ直樹に歩み寄る。
「それが何? 何の吸収合併よ。あたし忙しいんだから」
 優子は高森の事で何とか平静を保っていたものの、言葉を交わせばつい不機嫌になって弟に当たってしまう。
「タカノモリ開発って、高森さんとこの親父さんの会社だぜ」
 直樹は一歩踏み出して言った。
 高森の父親は、輸送からファンドまで取り扱う大手総合商社タカノモリ開発の社長だ。
 直樹は忍の親戚である舞衣から聞いて、ある意味優子以上に彼の父親の仕事を知っている。
「そ、そうなの?」優子は思わず立ち止まる。
「姉ちゃん知らないのか?」
「し、知らないよ、高森のお父さんの事なんて」
「でも、買収だぜ」
「買収? 合併でしょ?」
「たいていは、強い方に買収されるから合併するんだよ」
 直樹は唾を飛ばす勢いで話す「株式の強制獲得だから、ヤバいぜ」
 ――なんでコイツこんな詳しいの? スポーツ馬鹿かと思ってたのに、現社が得意なのか?
「そうなんだ……でも、それが何よ」
 優子には直樹が慌てている意味が判らない。会社の吸収合併なんて、最近よく聞く話だが、だから何だというのか。
 株がどうのと言われても、彼女にはピンと来なかった。
「バカだな、吸収されたらそこの幹部はたいていクビか降格だろ」
「クビ?」
「当たり前じゃん。トップは一人なんだから」
「じゃあ、高森のお父さんは?」
「会社が乗っ取られるんだぞ。失業じゃねぇの。それこそ、元社長の居場所はないだろ」
 苛立った直樹は、優子の横をすり抜けるように部屋へ入り込んで、小さなテレビを点けた。
 少し遅れて報道が始まったチャンネルを探す。
「こら、勝手に入るな」
 優子はそう言いながらも点いたテレビに視線を奪われる。
『大手タカノモリ開発がシノテック社に買収! 既に70%の株取得!』
 そんなテロップが出ている画面の向こうで、ずらりと並んだスーツの大人たちが何かを話していた。
「なに? どういう事?」
 優子はテレビの画面に近づいた。
 ――シノテック? シノテックって……篠山のところの会社だ。どうして?
「合併とか提携とか言っても、結局は乗っ取りだよ」
 直樹がテレビ画面を見つめたまま
「シノテックは今年になって、やたらと他社を吸収して膨れ上がってるんだ」
 ――乗っ取り……
 直樹は優子を振り返ると「高森さんは、大丈夫なの?」
 優子は応える間も無く白いダウンを鷲掴みにすると、部屋を飛び出して階段を駆け下りる。
「優子、出かけるの? もう直ぐご飯よ」
 今日は母親のパートが休みだったので、夕飯の仕度を全てこなしていた。
「ちょっと出てくる」
 優子は台所に向って声をかけると同時に玄関を飛び出した。
 重圧な凍て雲が空を覆っていた。
 彼女は路地を走って忍の家に急いだ。冷たい空気の壁が頬を叩く。
 小さな公園の向こうに確かに在るはずの忍の家を見つめて優子は走る。
 胸の奥がドキドキした。
 それは、昨日の高鳴りとは全く別の種の物だった。真っ黒な不安と恐怖が全身を包み込んで背中がゾクゾクした。
 ――なんで? どうして……? いったいどういう事なの?
 優子の足が停まった忍の家の前。
 門扉の明かりは消えていた。
 優子は恐る恐る大きな扉を開けた。
 そこには一切の明かりは無く、人の気配も感じない。その先の奥行きに向って静寂と闇だけが静かに佇んでいる。
 そこには誰も住んではいない……
 家屋はただの黒い塊になっていた。
 優子の荒い息使いだけが響き渡る闇に冷たい雫が零れ落ちてきて、あっと言う間に彼女と地面を濡らしていった。



※春企画参加のため、更新ペースが多少落ちます事をご了承下さい。
最低でも週1〜2回は更新予定です。
琥珀色の風は後半へ入ります。






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