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シミが、そこに、ある。

作者:菜宮 雪
 明日に法事を予定している杉谷家。その家の長男である義之は、母の泉が仏間の畳をせっせとふいているのを見ていた。
 外は木枯らしが吹き荒れている。暖房していない部屋の畳は、靴下を履いていても冷たい。
 泉はそんな寒さの中、障子も窓ガラスも全開にして雑巾で畳をからぶきしていたが、満足できないらしく、いつまでも畳をこすっていた。
「母さん、出かける時間だよ」
 母に声をかけた義之の背後の廊下から、祖母の知寿子の声がした。
「泉さんは駄目だねえ。普段からきれいにしないから、お客さんが来るときに大慌てで掃除しないといけなくなる」
 泉は黙々と掃除を続けている。
「前日にならないと掃除できない嫁なんて、なさけない」
 いじわるな知寿子の声は廊下の奥に遠ざかって行った。
「母さん」
 ようやく泉は顔を上げ、そこに息子がいることを確認した。
「見て、義之。こんな目立つ場所にシミがいっぱい。何をこぼしたか憶えがないんだけど知らない? 法事は明日だから、今更畳屋さんに電話して畳替えを頼んでも間に合いそうにない」
 六畳の間が二部屋続きになっているこの和室、明日には親戚が何人も来て座ることになる。
「母さん、それはシミじゃないよ、椿の木の影がシミに見えているだけだ。誰もそんなところ見やしないよ」
 冬の日差しが斜めに室内まで入り、庭にある大きな椿の木の影が畳に模様を作っていた。大小さまざまな大きさの木漏れ日による芸術は、見ようによってはシミに見えなくもない。
「汚いと、またお義母さんに叱られるわ。一生懸命やっても嫌味を言われるし。この場所は目立つから、今からここを隠せるような絨毯を買いに行こうかしら」
「そんな暇ないって。今日は人間ドックに行く日だって言っただろう」
 泉は軽い悲鳴を上げてあわてて立ち上がった。
「すっかり忘れてた! ごめん。送ってくれる約束だったわね」
「まだ時間はあるからそんなに急がなくてもいいけど、今すぐ出かける準備をして」
「ああ、どうしよう。まだ掃除が終わっていないのに。こんな日に人間ドックの予約なんか入れるんじゃなかった。病院をキャンセルしようかしら」
「何をいまさら。俺の会社の斡旋だから、会社から指定された日に行くしかないんだよ。掃除なら俺が手伝ってやるから」


 ◇

 泉を病院まで送った帰り道、義之は車の中で大きなため息をついた。
「駄目だな……」
 ――おふくろは普通っぽいけど、普通じゃない。
 彼女は、明日の法事が誰の何回忌か理解できているのだろうか。法事をすることはわかっているようだが。

 家へ戻った義之は、泉が先ほどまで掃除していた畳を見た。畳はこすられすぎて一部がささくれ立っている。
「まったく……シミなんかどこにもないのに、こんなになるまでこすって」
 畳を見ていた義之は眉を寄せた。
 この場所。どうしてこの場所なのか。母の目にはどんな汚れに見えているのだろう。 
 ふっ、と感じる冷たい気配に振り返る。
 冬の隙間風は冷たい。誰かが肩に触れた、と思ったのは気のせいだ。
 今、この部屋には他にだれもいない。
 ……はず。
 ちょっとした音に敏感になっているのも、仕事で疲れているからだ。
 肩がこっている。
 義之は肩と首を軽く回し、気分を変えようとした。

 突然、外で、ギャー、とカラスが鳴き、びくりと首をすくめる。縁側から窓越しに外を覗けば、庭先の電柱に数羽のカラスが止まっていて、互いを威嚇するように羽をばたつかせていた。放っておけばいい。ただのカラスだ。

 ささくれだった畳に視線を戻す。
 本当にシミができているように見える。これは冬の陽射しのいたずら。庭木を通した光と影が畳に反映されているだけ。シミなど本当に存在しないのだ。絶対に。
 それにしても。

 義之はふいにこみあげてきた怒りにまかせ、畳の影の部分をドスドスと踏みつけた。
「くそっ、消えろよ」
 この薄い影たちは庭木の影であって、血の跡じゃない。本当に血のシミだったらこんな色ではない。薄いグレーではなく、もっとどす黒くドロドロしている。
 血ではない。そんなことはわかっている。だが、見れば見るほどシミにしか見えなくなってくる。
 木漏れ日が畳を踏みつけている自分の足にも落ち、不規則なまだら模様を作る。

 あの時、室内に充満した鉄のような臭い。今、同じ臭いが漂っている気がしてきた。  
 倒れていた人体。動かない人間は物と化し、赤い血だまりの中につかっている。
 周りにも散りばめられた細かい赤。

「このっ、うっとうしいんだよ」
 ――俺は何をやっている。今は冬なのに、こんなに汗水流して。シミなんてどこにもないのに。
「何をしているんだい?」
 聞き覚えのある声に、ヒッ、と振り向けば、いつの間に現れたのか、祖母の知寿子が廊下の奥から義之を見ていた。
「おばあちゃんには関係ないだろ」
「そんな言い方をするなんて、やっぱりおまえは泉さんの子だよ。育ちが悪い血が入ってるからねえ」
 義之は祖母を無視した。一方的に文句ばかり言う祖母に対し、その都度反論するのも疲れるだけだ。


   ◇

 翌日の杉谷家の法事は滞りなく終わり、親戚たちと会食を済ませた義之は、家の片づけを終え普段着に着替えて車で家を出た。

 病院の看板が出ている角を曲がる。
 ほどなく、小高い丘の上にある島北精神病院の大きな建物が見えてきた。
「俺も診察してもらった方がいいかもしれないな。俺もかなりやばいよ、父さん。そこにいないのか?」
 義之は、ハンドルを握りながら誰も乗っていない車内に話しかける。
「母さんはおとなしくしていてくれたと思う? 人間ドックと思い込んでくれていて、家から連れ出すのは簡単だったけど」
 六十五歳を超えた泉は、猫背のため年齢よりも老けて見えるが、精神年齢は若く、自分が四十代ぐらいのつもりでいる。すでに四十代に入った義之も、泉の頭の中では二十前の若者。
 ハンドルを握っている義之は、よみがえる苦い思いに耐えた。

 十三年前、度重なる嫁いびりに耐えかねた泉が包丁を持ち出し、仏間で姑の知寿子に襲いかかった。
 知寿子のただならぬ悲鳴に義之が現場に来た時には、自分を守るようにかざした知寿子の両手はすでに赤く染められていた。
『嫁のくせに、このわたしを殺そうってのかい』
『あんたなんかお義母さんでもなんでもない。鬼よ。鬼なんかこの家にはいらない』
 泉は包丁を知寿子に向って突きつけ、距離を徐々に狭めていく。
 知寿子は少しずつ下がったが、仏壇の前で追い詰められていた。
『さっさと死になさいよ、この鬼』
『母さん! 何やってるんだ。父さん、大変だ、母さんが』
 何事かと居間から走ってきた正弘は、血濡れの包丁を振りかざす妻の姿に顔をひきつらせた。
『正気か? 義之はすぐ救急車を呼べ』
『あなた、よく見て。これは鬼よ、あの目、人じゃない』
 知寿子は両腕から血をしたたらせて荒い息を吐きながら、嫁をにらみつけている。
『まだしぶとく生きているのね。死ね!』
『包丁を捨てろ! 泉』
 正弘の大声に、泉は一瞬だけ夫を振り返ったが、すぐに視線を姑に向けた。
『あなたは何もわかってくれないじゃない。私がどんな思いで耐えてきたか。もうお終いよ』
 へたりこんでいる知寿子めがけて再び振り上げられる包丁。正弘は包丁を取り上げようと泉に飛びついた。
『離して』
 包丁の先が正弘の手首をこすり、そこから血がつぅとしたたる。
『泉、落ち着け。話し合おう』
 うめいている知寿子。正弘と泉は包丁を奪い合い、もつれながら襖や柱にぶつかる。
 正弘は、足がすくんで動けなくなっている息子を振り返り怒鳴りつけた。
『義之、まだそこにいたのか。早く救急車を呼ぶんだ。くっ、泉、やめろ』
『いやよ、もうがまんできない』
『っ……馬鹿な嫁だね。これで勝ったつもりかい』
『この鬼、そんな状態でもまだ私を侮辱する気ね。許さない』
『泉、やめないか!』
『やめろ、みんな、やめろぉぉぉ! おばあちゃんが母さんをいじめるから悪いんじゃないか。父さんだって母さんをかばってやらないからこんなことになったんだよ』
 異様な叫び声が室内に響き――


 義之は車内から見えるどんよりとした冬空に、また長いため息をついた。
 自分の心の色のようにグレーな空。冬の早い日暮れが近づき、黒っぽく、楽しさのかけらもなく。今の自分は四十代に入ってしまった独身男。この先の人生も何の希望も抱けず、ずっと母の介護だけをしながら生きて行くのだろうか。いったい誰が悪いのか。
 生涯忘れることができないあの日。血だらけになった仏間。
 泉は心神喪失状態で責任能力なしと診断され、無罪の判決を受けた。それ以後、泉の心は過去に逆行して留め置かれ、ずっと同じ時の中で生きている。


 泉を病院の人から受け取り、車に乗せる。普段通りの落ち着いた様子に、義之は安堵した。
「人間ドックはどうだった?」
 それとなく聞いてみる。病院がどういう対応をしたのかが興味があった。
「込んでいたらしくって、血圧を測ってからはずっと待たされていたの。すごく眠い薬を飲まされてねえ。おかげで寝ているうちに検査が済んだみたい」
「そうか、痛い思いをしなくてよかったじゃないか」
 おそらく薬で一晩眠らされていたのだろう。人間ドックではなく、法事を滞りなく済ませるために、行きつけの精神病院に預けただけだ。


 家に着くと、泉は夕食の準備を始めた。こうして泉をみていると、どこもおかしいところはない。あれほど気にしていた法事のことは、一晩経ってすっかり忘れてしまったようで、義之はほっとした。言うことがおかしい時はあっても自分の身の回りのことができる状態なら、彼女を専門施設へ入れる必要などないと思う。
「おかしいのは俺の方か……」
 義之は台所を後にし、外出用のジャンバーを置きに自分の部屋へ行こうとした。
 途中、シミがあるように見える仏間を抜けて行かないと、自分の部屋がある二階への階段へたどり着けない。
 仏間を通ろうとすると。
「義之、お帰り。掃除をやっておくれ、泉さんがやらないんだから」
 祖母の知寿子がまた後ろから文句を言う。
 ――声が聞こえた気がしただけだ。
 振り返っても誰もいない。
 知寿子の血でぬめった包丁の感触を思い出し、義之は身震いした。
 部屋が寒い。すぐに自分の部屋で暖まろう。
「終わったことだ。全部」
『義之……』
 まだ聞こえる気がする祖母の声を無視し、仏間の畳に目をやれば。
「くそっ!」
 まただ。
 また、出現している畳のシミ。もう日暮れで外は暗い。
 それは木漏れ日の模様ではなくシミ。
 ……いや、シミであってシミでない。
 背筋に寒気が走り、唇を引き結ぶ。
 影のようなシミのそれぞれに顔がついている。
 顔の形、目、鼻、口、耳、髪型が判別できる。
 深く落ち込んだギョロ目がグリグリ動き、縦皺の入ったいくつもの口が同じ言葉を紡ぐ。
『義之』
 いくつもあるシミの一つ一つが全部祖母の顔になり、万華鏡のように大小そろって義之をじっと見ていた。
『酷いじゃないか。かわいがってやったのにねえ……』
「いつまで出てくるんだ。おばあちゃんはずっと前に死んでいるんだよ。いいかげんにしてくれ」
 仏壇に並ぶ二枚の位牌は、十三年前にここで倒れ死んだ正弘と知寿子のもの。
「おばあちゃんなんか大嫌いだ。母さんをいじめてばかりいたから殺されて当然なんだよ。死んでもまだ母さんの悪口を言うなんて。母さんは、おばあちゃんのせいでおかしくなってしまった。もう気が済んだだろ?」
 顔の形をしたたくさんのシミたちは、一斉に同じ形の口でケタケタと笑い声をあげた。
『開き直るなんて、さすがは泉さんの血が入った子だよ』
「うるさい、消えろおおぉー!」
 義之は大声で怒鳴りつけた。
「義之? どうしたの?」
 息子の大声に、台所にいた泉が飛んできた。
「虫がいたんだ……」
「何の虫?」
「よく知らない虫だったけど、外へ追い出した」
「そう、よかった」
 泉はすぐに台所に戻っていった。
 義之はシミを無視して、自分の部屋に行こうとして、
「っ!」
 息を引いた。

 すぐそこに立ちはだかる人の形をした薄い影。
 血まみれの祖母と父が、階段の前に行く手を遮るように立っていた。
 義之は唇を噛みながら空気の影のような彼らを突き破るように通り抜ける。 
「頼むから成仏してくれ。法事はきちんとやった。俺はあの日からずっと苦しんできた。もう十三年だ。十三年も過ぎたんだよ。今日は過去と決別する節目だった。二度と出てこないでくれ」
『義之……義之……』
 すがるような祖母の声を無視し、義之は自分の部屋に駆け込み、バタンと自室の扉を閉めた。
 寒い。
 自分の両腕を抱える。全身が鳥肌になっているのが自分でもわかる。電気ストーブのスイッチを入れ、その前にしゃがみ込んで震えながら両手で耳をふさいだ。
「父さん、どうして何も言わないんだ」
 どうしても思い出す仏間の惨劇。二人の惨殺時、仏間に飛び散った血の跡は、その後の畳替えで姿を消したはずだった。
「俺は間違っていない。俺は悪くない。おばあちゃんをなんとかしてくれよ」
『おまえはとんでもない子だねえ。将来が心配だよ』
 また祖母の声が聞こえる気がする。
 空耳だ。祖母はここにはいない。
 この手で、父親の正弘ともども殺したのだから声が出るわけがない。
 どこからか常に漂うこの血なまぐさい臭いも精神的なもの。
 寒さが止まらない。外出用のジャンバーが脱げない。
「俺にどうしろと? 今からでも警察へ行って、十三年前におばあちゃんと父さんを殺したのは、母さんじゃなくて俺だって言えばいいのか。じゃあ俺が逮捕されたら、あんな状態の母さんはどうなる。誰が面倒をみてくれるんだよ。親戚なんか誰も頼れない。今日だって久しぶりに会ったのに、みんなよそよそしかったじゃないか」
 義之は無意識に止めていた息を吐いた。今日は雪が降っているわけではないのに寒すぎる。震えで歯がカチカチと音を立てた。
 二人を殺した罪。すべてを母がやったことにした罪。
 今から自首したとして……死刑にならなかったとしても、生涯刑務所から出ることができないかもしれない。それでは母が死ぬまでひとりになってしまう。
「いっそのこと母さんと死にたい。どうすればいいんだ」
 義之はストーブの前で膝を抱えた。
 そんな義之の背後から、薄い黒い影が、音もなく徐々に忍び寄ってきた。
 血濡れ姿の父親、正弘が、息子の肩にゆっくりと手を伸ばした。

「うわぁぁぁ!」

 
  ◇

 不思議なことに、その日を境に仏間のシミらしきものは、普通の影に見えるようになった。
 義之にしょっちゅう話しかけてきた知寿子の声も聞こえなくなり、泉があの畳をこすることもなくなった。
「どうやら、法事の日を境に……」
 義之は重い右肩をさする。あの時、突然、右肩にドライアイスを押し当てられたような冷たい痛みを感じた。
 それ以来、右肩の後ろが時折うずく。

 そこには、人の手の形をした大きなシミができていた。
 薄く、赤く。
 うっ血したような手形のシミ。
 風呂に入ってこすっても、何日も過ぎても薄くならない。 
 時に、警告するように食い込んでくる。
 シミは何も言わないが。


 シミは、今も、そこにある。




     【了】

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