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最終話

 地平線の彼方まで並々と世界は水に覆われていた。一面の蒼。見渡す限りのそれに思わず息をのんだ。澄んだ水は陽光に煌めき、たなびく雲の隙間から何本もの光の梯子が水面に降り注いでいる。
髪が海風に踊り、潮の香りが鼻を衝く。
海------そこは今まで本の中でしか知らない世界。
「ソウ」
たった一人佇む女はため息のように浅く、大切な人の名を呼んだ。


 村の珠翠の間の大きく開いた窓から静かに夜風が流れ込み、机に灯されたろうそくの光が煽られてゆらりと揺らめいた。祭りの前の喧騒が表から聞こえてくる。
キリル村の二長(にのおさ)、ルノーはゆったりと座に着いたまま薄く笑いを浮かべる。そして抑えた声で静かに隣の老人に云った。
「風が変わった。さて、ヘンメルは何と応えたろうな」
「あやつでは止められんよ」
あっさりと返ってきた答えが予想どうりでルノーは困ったように笑う。ちらりと横を見ればそこには老いてもなお村の最高責任者として辣腕(らつわん)を振るう老人の冷静な横顔があった。
三長(リリア)を止められる者はもう誰もおらん。あの()が長の位を()ける時に云った言葉を忘れた訳ではあるまい」
一長、ティノは香炉から上る紫煙を見つめながら問い返す。問われたルノーは深く頷きながらキリルが新しい長を迎えた当時のことを思い出した。

 春風が草原を渡り、花で大地が一杯になる季節。四年前のことだった。
彼女はまだ若くて普通の娘なら恋だとか結婚だとかそんな話に夢中になる年頃のはずだった。
「叶えたい夢があります。私に力と機会(チャンス)をください。さすれば、けして立ち止ることなく働いて見せます」
リリアは二人の長を前に静かに云った。
「無理だなんて仰らないでください。私は途方もない理想に命を懸けることが無駄だとも無理だとも思いません。懸けられるものは全てかけるべきだと思っています」
誰も何も言わなかった。
「理想を語り、挑み、実現できなかったとしてもそれが愚かなことだとは思いません。本当に愚かなのは現実を眼にして理想の一つも吐けなくなることではありませんか?」
「幼い」と一刀両断することは簡単だったがルノーもティノも何も言わなかった。目の前の女将軍は未だ発展途上だった。これから彼女が手繰り寄せようとする未来を見てみたいと思わされてしまった。そう思わせるだけの力が彼女の言葉にはあった。
 こうして二人の老獪(ろうかい)な長たちは三人目の長を村に迎え入れることを承知したのだ。

「私たちがあの娘に茨の道を()くことを許してしまったのですな」
ルノーは思い切ったように一言呟く。
「我々の判断は正しかった。リリアは確かに新しい未来を切り開こうとしつつあるのですから。しかし、後悔がないと言えば嘘だ」
「……」ルノーの言葉にティノは何も答えないままに静かに瞑目する。そして、少し黙った後、目を閉じたまま囁くように云った。
「リリアは確かにもう進むことを止めはしないだろうよ。あの娘には叶えたい夢があるのだから。だが、我々があの日リリアにされたように、人は人を動かすことができる。リリアの幸せを祈ってやれる人間がまだあの娘の傍に居る」
奥宮の渡り廊下を大急ぎで誰かが駆けてくる足音が聞こえる。おそらく(くだん)三長(さんのおおさ)に違いない。そうとう急いでいるらしい。窓の外から祭囃子の練習の音も再び聞こえ始めた。
「結局な、ルノー。わしは若いもんを信じておるのよ。この老いぼれではなく、あの子達がこれからのこの国を引っ張っていく。信じてやらんでどうする」
微かに表情に笑みさえ浮かべながら、一長は宴の席に向かうべく席を立った。



 祭りの始まりを今か今かと待っていた群衆は大広間の奥から現れた長達にわっと湧き上がった。一長と二長は妻の手を取りながら、そして三長は第一頭に手を取られての入室だ。とりわけ、リリアの登場のときは人々の歓声が大きくなる。彼女の化けように驚く者も、村の英雄を讃える者もいた。
 リリアは右の上座に着くとそっとヘンメルの手を離した。上座から見下ろせば、両脇に村の若頭会の面々や重役の内官たちがズラリと並んでいる。
そして、その下座のほうに旧い幼馴染の顔を見つけて彼女の心は微かに痛んだ。
求婚だって厭で拒否した訳ではない。むしろ親愛の情は他の誰よりも強い。だからこそ、ソウはリリアの何としても避けねばならない存在だった。
 一長が長い挨拶の(ことば)をいつの間にか述べ始めていたらしい。リリアは慌てて注意をそちらに向ける。一長の詞が長いのはいつものことなので村人達は苦笑しながら静かに乾杯の音頭を待った。大広間に入りきれない多くの人々が広間の周りの桟や外の前庭からこちらを覗きこんでいる。
「では、わしの長い話にも飽きたところじゃろうて、ここいらで宴を始めるかのう」
長の声に人々がすでに酒やら何やらで満たされた杯を振り上げて大歓声で応える。村人たちの表情が待ちきれないとばかりに輝いているのにリリアは苦笑しながら自らも酒杯を上げた。中身は少し強い琥珀色の液体で満たされている。揺らせば微かな芳香が鼻腔をくすぐった。
「キリルの土地に。我らが先祖に。キリルの民に。今この時に感謝して、乾杯!」
「「「乾杯!」」」
長の声に大勢の声が重なり、杯が派手にぶつかり合う音や笑い声が響いた。

「しかし、リリアが戻ってくればこれほど心強いことはないな」
「ほんとに、キリル大橋では肝が冷えた。言っちゃ悪いが俺はフェンが死んじまうって思ったよ」
「勝手に殺すな」
酒も入った宴会は大変盛り上がっていた。内府の周りや中に人が溢れかえり、歌ったり話に花を咲かせたりで喧騒が絶えることはない。表では若い娘たちや青年たちが音楽に合わせて手を取り合って踊っている。
 リリアはそんな故郷の様子を複雑な思いで見つめた。
本当は村での最後の思い出にと祭りを楽しむつもりだった。お酒を飲んで、人と話して、踊って騒いで。だが、-------できなかった。
 何が原因なのか判らない。まともに酒を口にできず、酔う惑うことさえできない。
この村を守ることを放棄し自分の役目を担う。ヘンメルに全てを託す。
村と距離を置くことは全てに納得して自分で決めたことだ。その決意を揺らがせるつもりなど毛頭ない。だというのにどうしても普段の自分では居られないようだった。話かけられては他愛もない受け答えをすることしかできずにいる。
様子のおかしいリリアに気づいたヘンメルはそっと席を立つと三長に囁くように「平気か?」と聞いた。
リリアは頷きながら「(いささ)か酔ったみたいだ。心配いらん」と(うそぶ)く。
ヘンメルは何か言いたそうな顔をしたが、黙って再び浮かせた腰を下ろした。二人の会話と様子を不審に思う人間は居ない。
 周りを見渡してみれば、祭りの雰囲気に酔えていないのは自分だけだと気づく。酔おう、そう唐突に思った。
いつかするかもしれない後悔や、夢に立ちはだかるかもしれない壁。不安も苦しみも、残していく人々のことも忘れてしまおう。村の責務を放棄することは、村との別離。これが祭り最後の機会なのだから。
リリアはまだ底に酒の溜まった杯に酒を溢れんばかりに注ぎ足す。
酔え、忘れろ。頭の中の声に従うようにリリアはゆっくりと杯を傾けた。
「また逃げるのですか?」
急に声がして、杯を持った手を引かれる。中身が反動で零れ落ち、リリアの手を濡らした。注意が散漫だったのか自分の前に誰かが座ったことにも全く気付かなかった。
「ソウ」囁くような掠れた声で相手の名を呼ぶ。
深いこげ茶の髪に黒い瞳。背の高さの割に薄っぺらくて華奢な体躯。抑えた藍の礼装を着た青年がリリアの瞳を覗き込んでいた。
「散々私から逃げたくせに今度は何から逃げるおつもりか?」
目の前の幼馴染は今までリリアが見た中で一番冷淡な表情をしていた。ソウは滅多に激昂する男ではない。むしろ静かさの中にこそ彼の感情の高ぶりがあるのをリリアはもちろん知っていた。
「逃げる? 何故そんなことを言う?」
「少なくとも今のあなたは普段のあなたとは違うでしょう? 酒を味わう気もなく飲み下そうとするような女じゃないはずです」
言いながらソウはリリアの手から杯を取り上げるとそれを盆の上へと戻す。そして懐から布を取り出すとそっと彼女の酒に濡れた手を拭った。
 他の話で盛り上がっていた他の人々がいきなり始まった二人のやり取りを怪訝そうに見詰め始める。
「また村を去るおつもりなのですね。それも、今回よりももっとずっと長い期間」
落ち着いてはいるがいささか冷ややかすぎる声が物事の核心を衝いた。まさに青天の霹靂であり、一瞬リリアが動揺で身を強張らせる。そして、周りで話を聞いていた何人かが息を呑んだ。
「図星、ですね」
目の前の青年は張りつめた空気を全身に纏い、軍師の顔をしている。
ソウの追及を「そう思う根拠は?」とリリアは切り返す。
「村に留まるつもりならば、あんな後腐れの悪い断り方をせずに正々堂々と私を袖にしたはずです。逃げ切ってしまえばそれで済むからこそ、あんな言い方をした。違いますか?」
リリアの何も答えられない。ソウの語った全てが事実だった。
黙ったままのリリアを意に介する事無く、彼は言葉を続ける。
「リリのなすべきことは確かに沢山あるでしょう。貴方の役割なのかもしれません。でも、だからと言ってそれが故郷を棄てて良い理由になりますか? 世界は確かに広いかもしれない、守るべきものは広大すぎて、ちっぽけな村のことなんて気にかけていられないのかもしれない。でも、ここにはここにしかない風が、草原が、山が、在るのではありませんか?」
ソウの冷静だった声に力が入る。
「ずっとずっとこの四年間駆け続けて、貴方は遠くへと行ってしまったのですか? 貴方の居る所からはもう私のことも見えないのですか? もう二度と振り向かないのですか?」
いつの間にか広間中の衆目が二人に集まっていた。若頭の面々が、書記官たちが、フェンが、ヘンメルが、二長が、リリアの返答を待った。
三長は必死で答えを絞り出そうとする。
「わ、私のこの四年間が平らかな日々だったことはほんの一刻(とき)もない。苦しくて止めたい時もあったさ。それでも、止めなかったのは(ひとえ)に守りたかったからだ。自分の夢を、出会った人を、愛する村を。皆がどう思おうと私はこの村が好きだよ。だから、この村のためにもなすべきことをなしたいし、戦いたい」
リリアは喋りながら喉の奥から込み上げる率直な言葉を吐き出した。
「いま、ここに戻ってきて、自分の中でどれだけここが大切な場所かを自覚してしまって、此処に留まりたいと思ってしまった。でもそれじゃ駄目なんだ。だって、私は守りたいんだから」
長は下がっていた目線をグイっと上げた。広間中を見渡し、そして最後に目の前の幼馴染を見た。まっすぐに彼の瞳を見つめる。互いの(まなこ)に己の姿が映っていた。
「だから、私は、村を出る」
長の静かな決心に満ちた言葉が静まり返った広間に響いた。外で宴会を催していた人間たちも今や広間の周りを取り囲み、ことの推移を見守っていた。一瞬、長の言葉にざわめきが広がるが、間もなくそれも静かになった。
誰も何も言わない静かな時間が流れる。
「好きですよ。そういう揺らがない貴方が」
囁くように言葉を発したのは目の前の青年だった。先ほどまでの冷たく静かな雰囲気とは違い柔らかい笑みを浮かべている。だが、その表情はすぐ真剣な顔に戻る。
「貴方は強い。けして揺らぐことなく立ち向かう。でも、たまには心を休めても良いのではないですか? 張りつめた糸はいつか切れる。研ぎ澄まされた刃もいつかは(こぼ)れる。私は不安です。駆けて、駆けて、駆けて、私の知らないその先で貴方が消えてしまうんじゃないかと」
リリアの頭の中で鮮やかなオレンジの火花が散った。ソウの言葉がリリアに先日のトウ老師との会話を思い出させた。
鈍った刀は誰の守り刀にもなれはしない。歪み、毀れ、どこかでその光を失う。
「だから、私は貴方に戻ってきて欲しいんです。私の傍に」
ソウの温かい手がリリアの手を取った。
「リリア、貴方が好きです。愛しています。私の妻になってください」
「!」

求婚されたほうも、周りの人々もあまりの展開に言葉を失う。リリアはともかく、ほかの何も知らない村の住人達はあたふたするばかりだった。
「ふ、ふざけるな! 今、村を出ると」言ったばかりだろうが!」
頬を染めて手を引っ込めながらリリアは大声で叫んだが、ソウは彼女の手を離さなかった。勢い余って盆の上の酒杯が倒れたが、それを気にする様子もない。
「命令だ、離せ」
「離したら逃げると知っているのに離す馬鹿はいませんよ。本気で欲しい人を簡単に手放せるほど無欲ではありませんので」
「悪ふざけは程々にしろ」
「悪ふざけでこんなことは言いません。四年前も今も本気です。リリは私が嫌いですか?」
問われてリリアの心には怒りにも似た気持ちが込み上げる。そんな判り切ったことを今更聞かないで欲しい。嫌いなわけがない。むしろ、好きだ。だから、幸せになって欲しいのだ。
 初めて会った日を今でも覚えている。彼は内府の書庫、窓の近くの日だまりで本を読み耽っていた。近づくとおっかなびっくりといった様子でぎこちなく笑った。仲良くなるまでに時間はそれほどかからなかったはずだ。よくふたりで肩を寄せ合って本を読んだ。いろんな地図を広げ、共に空想の旅もした。木の葉にまみれて昼寝をした。声を合わせて勉強のために朗読もした。二人で村を抜け出したこともある。門限を過ぎたので大人たちに叱られた。ソウが転んだのを手当てしてやったこともある。
 あらゆる思い出がリリアの頭を廻る。そして、改めて気づく。やっぱり自分はソウが好きなのだと。
「リリ、覚えていますか? 四年前あなたが私に言った言葉。あなたは私にあなたの軍師になれと言いましたね。あの時、私は貴方に引け目を感じていました。貴方は将軍で、私は自分のことさえ満足にはできない人間でしたから。
でも、貴方に言われた道を歩んで私はようやく守られる方でなく、守る側に来ることができました。軍師として、騎士の後ろを守る役目です。
そして、此処まで来て漸く気付いたんです-------私も守りたかったのだと。この村を、貴方リリアを、守りたかったのだと」
 ソウの言葉に誰もが静かに耳を傾けていた。
「フェンさんが教えてくれました。軍師とは騎士の後ろを物理的に、精神的に支えるための人間だと。ならば、私は貴方の背中を守ります。貴方の大切な故郷を、友人を、家族を、そして家庭いえを-----リリの帰ってくるべき場所を守ります。だから、私は行くなだなんて言いません。私は戦う貴方が好きです。最前線で思う存分戦えば良い。そして疲れたら、どうしようもなくなったら帰ってきてください、私の隣に」
ソウの手がそっとリリアへと伸び優しく彼女の頬を撫でた。

開け放たれた広間に涼しい風がふわりと流れ込む。かすかに前髪が揺れた。リリアは幼馴染の瞳を静かに見つめる。
黒い澄んだ瞳はいつか見た夜の海を思わせる。広い、広い海。深い慈愛と果てのない未来。まるで彼は海のようだな、と思う。
幸せになって欲しい人。大切な人。私の好きな人。
心が、震えた。

「------私なんかを、妻にしたら苦労しかしないぞ。家に居ないし、妻らしいことなど何もしてやれないかもしれん。ただでさえ不自由なことも多いだろうに、きちんとお前を支えてくれる娘を嫁に貰うべきだろうが。私は、お前に幸せになって欲しいんだ」
小さな声で俯きながら言えば、いいえ、と彼は首を振った。
そして、そっとリリアの肩に手をかけ顔を上げさせると静かに、しかし力強く云った。
「私は別に妻が欲しいんじゃありませんよ。私が好きなのは、私が欲しいのはリリア、貴方です」

 ソウの言葉に自分の体温が上がるのを感じながらリリアは彼から目を逸らすこともできずに呆然としていた。
良いのだろうか。自分などがこの男の妻になってしまって。ソウが与えてくれる以上のものを自分はきっと彼に返してやれない。それでも、幸せになりたいと願っていいのだろうか?
 尊敬する彼に欲されることを喜び、彼を不幸にすることを恐れる。
今、自分はとても困った顔をしているのだろうな、とリリアは思った。
「迷うぐらいなら、この手を取っていただけませんか?」
やはり感情は顔に出ていたらしい。
「迷うのなら私も一緒に悩みましょう、きっといい方法が見つかります。苦しみは二人で分け合えば半分になります。喜びはきっと倍になるでしょう」
リリアはソウからゆっくりと目線を背けると深く深呼吸をした。
全てが変わってしまうかもしれない。自分が大きな岐路に立たされているのだとリリアは感じた。

「良いのか?」
一言聞けば、やわらかな声が溜息のように降ってくる。
「はい」
「後悔するなよ」
「はい」
リリアはソウの瞳を見詰めた。真っ直ぐに。
「判った。妻に、なってやる」
承諾の言葉と共にワッと周りから歓声が上がり、同時にリリアは手を引かれ、ソウに抱き寄せられた。それ程大きくない体躯はリリアと同じくらいの大きさだったけれど、とても温かで懐かしい匂いがする。
「愛しています」
耳元で囁かれた彼の声に、胸が一杯になる。
そして一言、囁き返す、
「私も愛している」と。


 結局、そのあとの宴はふたりを祝う会に移行し、ただでさえ外れていたハメは大いに崩壊した。
何も勘付いていなかったフェンは大いに驚いてヘンメルに馬鹿にされてしょぼくれ、ヘンメルやヒース、多くの人々は次々と酒樽を消費するので料理処(だいどころ)からストップがかかるほどだった。
 二人の長老たちは熱烈に二人に祝意を表した。ルノー(二長)はリリアの手を握りしめたまま何度も「よかった、よかった」と繰り返したし、ティノ(一長)は「納まるべき所に納まったな」と笑い、「まあ、チャンスをものにしたことは褒めてやる」とソウの肩を強く叩いた。
 こうして、キリル村の三長(さんのおさ)リリアと十頭ソウは皆の前で婚約を宣言し、次にリリアが村に戻った際に正式に婚礼を上げることを決めた。





 その日から五日ばかり経ち、祭りの後始末もすっかり片づいたある深更。
ソウはその日の仕事を終えて床に就いた。宴の後始末が思ったより大変で、オーバーした予算を捻出するのに苦労していつもより遅い就寝だ。
欠け始めた月の明るい光が窓から床に降り注ぎ、白い模様を描き出している。秋の冷たい空気を遮るように薄布の天幕を下ろすと小さく呟く、
「ずいぶん、寒くなったな」
そして布団を被ると彼はそのまま眠りにおちた。

怪しい音に気付いて目を覚ましたのはそれから何時間か後だった。
目を開ければ、いやに室が明るくて驚く。閉まっていたはずの天窓は全開で、そこから白い月光が燦々と降り注いでいるのだ。
天蓋の薄い布を めくれば寝所に一気に冷たい風が入り込んでくる。
「ソウ」
同時に聞きなれた声が名前を呼んだ。そして天窓の桟に白い人の足と布が見えた。そして、それは音もなく飛び降り、床へと着地する。
月光に照らされた舞台に降り立つように降ってきたのは美しく着飾った婚約者だった。
「リリ」
唖然としたまま名前を呼ぶと彼女は二コリと笑みを浮かべて見せた。
「なんて格好してるんです? 大体、今何時か判ってますか? それに天窓から入って来るなんて!」
「似合うか?」
ソウの言葉など意に介すことなく笑うと彼女は其の場でくるりと一回ターンをして見せた。真っ白な婚礼衣装の裾がふわりと空中に花開くように舞った。
「姉上に借りてきたんだ。私のはまだないからな」
回転を終えるとリリアはそのままそこへと腰を下ろす。
「ちょっと出かけようと思っててな。だから、お前に会いに来た」
リリアの赤褐色の目が真っ直ぐにソウを見る。彼女の言葉の意味を測るとソウはああ、と小さな溜息をついた。
「心配するな。無事に帰って来るさ。お前の隣に」
言いながらリリアは笑って見せる。髪に挿された簪がきらきらと月光に輝いた。
「はい」とソウも答える。
「皆には言わずに行くのですか?」
「ああ、また見送りやらなんやらで手間をかけるのも申し訳ないしな」
そこで一度言葉を切ると、リリアはほんの少し頬を染め、続けて囁くように云った。
「でも、お前には会いたかった」
ソウは苦笑して「会わないで勝手に出て行ったらさすがに怒りますよ」と返す。そして手を伸ばして婚約者の手を引いた。
「いらっしゃい、リリ。そこは寒いでしょう?」
言われるがままに天幕の中に入ってきた彼女を引き寄せるとギュッと抱き寄せる。リリアの方も何を言うでもなくソウの背中に手をまわした。
「温かいな。ずっとこうして居たくなる」
「薄着するからですよ」
「そういう意味じゃない」
「判ってます」とソウは笑い声を上げる。
「私もこうして居たいですね。でも、心配しないでください。あなたが弱音を吐いたり諦めかけたら背中を蹴っ飛ばしてでも追い出しますから」
「-----手厳しいな」思わずリリアから嘆息が漏れる。
「夢を追うのでしょう?」
ソウの問いかけにリリアは答えず、静かに彼の夜着(やぎ)を握る手に力を込めた。
「リリ?」不思議に思ったソウが名を呼べば、彼女は唐突に言葉を紡ぎ始める。
「-----私の夢は、この国から虚獣(ウロ)を駆逐することだ。この国の発展を妨げている虚獣の跋扈さえなくなれば、人、モノ、金。あらゆるものがこの国を巡り、世界はきっと変わる。ずっと私が追い求めているのはまさにそれだ」
それは勿論、ソウも承知のことだった。
「でもな、私には更に〝先の夢〟があるんだ」
「?」
「そして、それは私にとっての〝夢の源〟でもある」
ますます訳が判らないと困惑するソウの耳元でリリアはその答えを静かに囁く。
「私は、お前といろんな所に行きたいと思った。お前とこの世界を見て廻ってみたい。ソウに世界を見せてやりたい。雪山がどんなに苛烈なところか、砂漠がどんなに美しい世界か、海がどんなに慈悲深いか。本の中の挿絵じゃ判らないこの世界をソウと歩いてみたい、それが私の夢の最初の一歩で終着点だ」
語りながらリリアは見てきたその風景を思い浮かべる。
雪を被纏い人の侵入を拒む強固な山。すべての音を奪い去る砂漠の沈黙。光を受けて紺碧に輝く大洋の水面。遥かに続いていく地平線と蒼穹(そうきゅう)
旅の途中で新しい世界に出会うたびにソウを想った。傍らに彼が居たならば彼はこの光景をなんと評するのだろうか、と。
「い、つ? いつからですか?」
「お前と友人になってからずっとだ。ずっと一緒にいろんな所に行ってみたいと思った。そして子供心に、それはとても素敵なことだと思った」
「だから?」
「ああ、だから私は夢を実現させるための夢を追い始めた」
「〝夢の先〟で〝夢の源〟」ソウはリリアの言葉を繰り返す。
「ああ」
「知りませんでした」
「言わなかったからな」
穏やかに云うとリリアはソウの唇にささやかな接吻を贈る。触れるだけの、いたずらのような口付け。
そのまま離れようとするリリアを追いかけるようにしてソウは彼女の唇をふさぐ。どちらからともなく深い口付けになった。

長かった口付けが終わるとソウが「離したくないですね」と困ったような苦笑いを浮かべる。
リリアは赤くなった顔を(てのひら)で冷ましながら「蹴っ飛ばしてでも追い出すんじゃなかったか?」と笑うとゆっくりと立ち上がり、そのまま花嫁衣裳の帯を紐解いた。美しい純白の帯がシーツの上に落ちる。
「リリア?」
「花嫁衣装で出かけるわけにはいかんだろうが」
「なら、一言云ってください。云ってくれれば見ないように配慮くらいします。おもむろに脱ぎ始めないでください」
「期待したか?」
「しません! 大体、婚儀も挙げない前から手を出すほど良識のない男じゃありませんから!」ふいっと目を背けたソウににやにや笑いを向けながらリリアは着替えを進める。
しゅるしゅると内帯を抜き取ると、婚礼衣装を脱ぎ散らかし、傍らに置いた荷物の中から新しく仕立てた戦闘服を取り出す。テキパキとそれを身に着け終わると、「終わったぞ」と一声かけた。

「では、行ってくる」
「ええ、今からは私も貴方と同じ〝夢の更に先〟を追います。貴方との未来を。リリは戦場で。私はここで」
「ああ」
「貴方の背中はお任せください-----私の、そして、貴方の家は私が守ります。軍師として、夫として」
(たの)む」リリアの堂々とした物言いに、
「命を懸けて」ソウの誠実な誓いが応える。
 リリアは愛する人に全てを託して(きびす)を返す。真っ白に切り抜かれたかのように月光に照らされた板間からするすると光の階段が現れた。

「ソウ」唐突にリリアが呼んだ。
「その花嫁衣装だがな、姉上に返しておいてくれ」
「は?」
ソウは布団の上に脱ぎ散らかされた美しい晴れ着を呆然と見つめる。
「な、なんて言って返せばいいんですか? こんなもの」(おのの)いたように訊けば婚約者はいたずらめいた笑みを浮かべて「(たの)んだ」と云った。
「お前が祭りの席で私を追い詰めて求婚してきた()だ。恥ずかしくて死ぬかと思ったわ」リリアはそうとだけ告げると勢いよく階段を駆け上る。
確かに彼女を背水の陣に追い込んだ形にはなったが、だからと言って  
「ちょ、------あれは貴方が逃げ出すから悪いんでしょうが!」
必死で追いすがるソウの努力も虚しく、いつかと同じように愛しい人の衣が手からすり抜ける。リリアはひらりと天窓を潜ると月光の中に躍り出て行ってしまう。小さな簪が最後にしゃらり、と煌めいた。
一人、(へや)に残されたソウは力尽きたように天蓋を見上げる。毎度毎度、嵐のような女性だ。
「これも惚れた弱みか?」
あとに残されたのは、まだ温もりの残る彼女の婚礼衣装と、悩ましい青年のため息だけだった。

こののち、キリルの三長(さんのおさ)は更に勇名を馳せ、その夫は彼女を支える軍師としてその名を天下に知られることとなる。あらゆる方面から世界の勢力図を把握し、この国の新たな未来を描くその先見(ビジョン)はあらゆる人々を唸らせ、大いに妻を佐けた。
いかなる時も二人で進む彼らを後の世の人々は護国の騎士と軍師と慕い、いつしか人々に語り継がれる物語となる。
--------だが、それはまた別のお話。


                   
漸く完結です。短期集中連載ということでしたが、お付き合いくださった方々、本当にありがとうございました。

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