第三部/宇宙を心 第一章/まばたき
宇宙を心
――――――――――――
とてもそこしれない、予測不能
君も宇宙も
ブラックホール
宇宙を心
******
〜まばたき〜
まばたきすれば。
え……?
保志?
保志の悲しい笑顔が頭のなかをめぐってゆく。
そんな顔を見たかったわけじゃないのに。
微笑を浮かべて、「そっかあ」なんて言ってほしくなかった。
他の応えを期待していたわけじゃない。
(だけど……だけど、それではあまりに悲しすぎる)
藍はベンチに座り込み、立ち上がる力もなく、脱力しきっていた。
必死で働くことを忘れた頭を動かし、考えようとする。
しかし、藍の思考回路はのろく、なかなか言うことをきかなかった。
(どうすればいいの?どうしたらいいの?保志は記憶を取り戻したんだ。だからきっと・・・・・・)
意識してしまうだろう。
そして、理解してしまった。
保志は、気がついてしまったのだ。
もしも、そのことを彼が負い目に感じてしまうのならば、今すぐにでも彼のもとに行かなくてはならない。
(負い目に感じる必要はない。だって、保志はなにも悪くないもの・・・・・・)
彼から目を離してはならない。
彼が生きていることを負い目に感じたならば、きっと少女に呑まれてしまうだろう。
彼の背後にいつもいる、小さな幼い、女の子に。
***
彼女の名前は百乃。
黒髪のきれいな、かわいらしい女の子だった。
悲劇がくるまでは。
百乃は保志と仲が良かった。
いつも一緒だった。
なのに。
交通事故で、百乃は命をおとした。
それも、保志の目の前で。
どちらが死んでもおかしくない状況だった。
ただ、百乃のほうが車に近かった。
それだけだ。
衝撃で、保志は後ろへ飛ばされ、命は助かった。
少しの差だ。
大きな差だ。
雨の日の悲劇。
だから。
保志はショックでそのときの記憶をなくし、雨が妙に好きになれなかったのだ。
記憶はなくても、感じるからだ。
『念』を。
切ない、悲しい、『念』を。
百乃の『念』は保志についた。
どうして保志だけが生きているの?
どうして?
生きるって?
なぜ?
あたしとあなたはちがうの?
なぜ?
憎い?
憎い!
悔しい。
あたしだって笑いたいの。
幸せになりたい。
***
保志は夕焼けをにらんだ。
きれいな夕焼けが憎らしかった。
悲しみに心を許してしまいそうになるから。
泣くことはできなかった。
そういう悲しみではないから。
なぜ、自分は生きているんだろう。
それが不思議でならなかった。
わからなかった。
生きているのに。
なのに、歓びがない。
生きていることを申し訳なく感じてしまうのだ。
大切なものを失えば、生きていても、なにもないように思われてくる。
藍によって引きずり出された記憶の糸が、長く長く伸びて、保志の喉をしめつける。
(なにをすればいいんだ・・・・・・これから、どうすればいいんだろう)
ふと、藍の言葉がよみがえってきた。
「縛られている」
ちがう、な、と保志は思った。
(縛られているんじゃない。おれが引き寄せているんだ)
保志は沈み損ねた夕日のかけらに背を向けた。
もう一度、藍に会って話がしたかった。
聞きたいことがあった。
もし、百乃が苦しんでいるならば・・・・・・。
やらなくてはならないと思った。
なにか、しなくてはならないと。
開放してやりたいと思った。
自分自身に、できることがあるならば。
今、ここにいる自分に。
存在している自分に。
生きている、自分に。
なにができるだろう?
それを、藍に聞きたかった。
しかし、ベンチにはもう、藍の姿はなかった。
肩で息をしながら、保志はきょろきょろとあたりを見回した。
(まだ、近くにいるはずだ)
あてがあるわけではなかった。
確信があるわけでもなかった。
ただ、走った。
それしかできなかった。
聞きたいことがたくさんあった。
言わなければならないと思った。
だから、走った。
ほかにはなにもないから。
ただ、藍の姿を捜す。
「藍!!!」
見つけた……!
ついに見つけた。
保志は、自分の数メートル先にいる、風になびく髪を無造作にかく少女を見つけた。
小柄で、しゃれっけのない後ろ姿だ。
その自然な姿が、ほかの人間とはちがう『特別』をかもしだしているようだった。
保志の目には、彼女以外うつらなかった。
目が離れなかった。
(なぁ、藍――)
保志は知らず知らずに心のなかで呼び掛けていた。
(おれ、なにができるかな……あいつのために……百乃のために――)
もうすこしだ。
藍に手がとどく。
そのときだった。
――ビビーッッ!!!
目の前がまっしろになった。
赤信号が目の端にうつる。
藍の姿が薄くなる。
「あ……い――」
あれ?
声が出ない。
うまく歩けない。
藍。
おれ、生きてていいのかな。
藍が振り向いた。
それが、その顏が白に包まれていく。
消えてほしくなかった。
ずっとそばにいてほしかった。
(藍、消えないで)
しかし、振り向いた藍の表情を見て、保志は愕然とした。
藍が、泣いている――。
それも、こちらを見て。
「保志!!!」
そして、目の前がまっしろになった。
意識を手放す瞬間、保志は笑い声を聞いたように思った。
(消えるのは、おれ?)
まばたきをする。
目を閉じると見える。
まぶたの裏にいる、きみに出会える。
ほら、ね。
***
同い年くらいの、髪の長い少女が、目の前にすっと立ちはだかったような気がした。
「あなたは――」
『百乃だよ』
少女は無表情でそう言った。
『あたしが生きていれば、こんな姿だったんだ……時間が止まらなければ、保志みたいに生きていられたら……』
少女はそこで、うすら笑いを浮かべた。
『別にあたしじゃなくてもよかったんだよね?保志でもよかったんだよね……』
藍は百乃の不気味に美しい顏をにらんだ。
『あなたもそう思うでしょ?』
透き通る声。
暗く、鋭いまなざし。
長い漆黒の髪が、恐ろしいほど彼女をひきたてる。
その笑顔は、有無を言わせないものだった。
しかし、藍は震えながらも彼女をにらみつづけた。
百乃は面食らったようすで、しばし藍を見つめていたが、やがて含み笑った。
『どうでもいいか。でもね、保志がいけないんだよ。生きてることを粗末にするから』
「どういう意味?」
ふふっと百乃は笑うと、すうっと消えはじめた。
『もう手遅れだからね』
「待ちなさいよ!」
藍は叫んだが、それは虚しく空へ木霊した。
***
目が覚めると、消毒のにおいがした。
まばたきしているうちに、なぜか涙が込みあげてきた。
頭の整理より早く、感情が働いてしまったらしい。
「保志……」
力なく呼んでみた。
藍が保志と別れ、家への帰路へついたとき。
呼ばれた気がして振り返ると、耳をつんざく急ブレーキの音がした。
そして、少年が横断歩道でぐったりと倒れているのが目に入った。
「……保志!!!」
だれかなんてすぐにわかった。
思わず叫んでいた。
それから――ぐらりと足元がおぼつかなくなり、あとはわからなくなった。
保志に駆け寄ろうとした。
しかし、できなかった。
阻まれた。
――百乃に。
(あれは、夢?)
夢でもなんでも、百乃は言ったのだ。
――もう手遅れだからね。
(どういうこと?百乃がわたしになにか言いたかったの?まさか、保志は……)
保志は?
藍は勢いよく起き上がった。
ここがどこかもわかっていなかった。
なぜ自分がここにいるのかも考えなかった。
ただ、保志が心配だ。
それだけだ。
ここは――?
「病院だよ」
千佳子だった。
手に花束を抱え、ベッドのわきに立っていた。
容姿淡麗な彼女は、にっこりと笑い、花束を花瓶へ入れはじめた。
「なにがあったか覚えてる?藍、倒れたんだよ」
「……倒れた?」
こくんと頷くと、千佳子は静かな口調で言った。
「よほどショックだったんだね。そりゃあ、そうよね。びっくりしちゃうよ」
目にかかる髪を手ではらいのけ、すっかりきれいに入れられた花瓶を誇らしげに見やり、千佳子はつづけた。
「目の前で人が事故に合うなんてね……それも、知人だもんね」
藍は汗をかいた手をぎゅっと握りしめた。
「まぁ、でも命に別状はないって言うし、よかったよね」
「ぁ……」
肩の力が抜けた。
涙がぽろぽろこぼれてきた。
安堵感が津波のように押し寄せてくる。
(よかった……保志は生きているんだ)
千佳子が頭をやさしくなでた。
「久坂くん、大事なんでしょ?」
――大事なんでしょ?
(大事だよ。なによりも大事だよ。なんでだろう……?)
藍は泣きながら、何度も深く頷いた。
千佳子は微笑を浮かべた。
それから、一枚のメモを手渡した。
「――これは?」
藍はわけもわからず問うた。
メモは丁寧に四角に折られている。
千佳子は渋ったが、すぐに言った。
「久坂くんから」
「保志から?!」
「うん。嵩太くんから頼むって言われて……」
(嵩太って保志の友達の……保志からの伝言?)
藍は急いで四折りにされたメモを開いた。
メモには一行、こんな風に書かれていた。
『藍、大丈夫?』
「ごめん。中、見ちゃった。だけど、彼、藍がなんともないってこと知ってるのよ。ただショックで意識がなかったってだけだって、伝わってるはずよ」
千佳子は小首をひねった。
「なのに、どうしてわざわざメモなんかで聞くんだろう?」
藍はじっと『大丈夫』の文字を見つめた。
これはきっと、保志なりの気遣いなのかもしれない。
彼は不器用なのだ。
「……書く言葉がなかったのよ。千佳子、ありがとう」
「いえいえ」
きれいに整った顏をした少女は、そろそろおいとまするわ、と言って部屋を出ていった。
藍はしばし遠くを見つめていたが、やがてメモを握りしめたまま布団をかぶった。
|