第三章/願い
〜願い〜
願いごとよ、天に届け。
神さま……。
どうか、どうかお願いします。
もう一度笑いたいんです。
あの人と笑いたいんです。
だから。
生まれ変わったら、またあの人と出会わせてください。
今度はうまく――いいえ。
心から、笑うから……。
***
夢をみた。
黒髪のきれいな少女が立っていた。
どこか霞がかかったようにぼやけて見える。
はじめは三歳くらいの幼い少女だったのに、まばたきした次の瞬間には同い年くらいの女の子に変わっていた。
ゆらめいている。
「あなたは……」
声をしぼりだした。
うまくしゃべれない。
悲しい表情で、目のまえの少女は黙ったままだった。
言いたいことはたくさんあった。
藍は生唾を呑み込むと、力を振り絞って言った。
「わたしは、藍です。あなたを助けたい」
そう言ってから、それは真実ではないと気づいた。
「ちがう――保志があなたを救いたいと言う。だから、わたしは保志を助けたい」
こっちが本当のことだ。
やっと言えた。
藍は安心して、ほっと息をついた。
そして、はじめてきちんと百々を見た。
薄い影のようだった。
百乃はふっとかすかに口許を緩めた。
笑うと本当にきれいな人だ。やさしさがうかがえる。
「わたしはあなたがきらいだった」
藍は話はじめた。
「あなたが保志を苦しめていると思った。保志はお人好しで、やさしすぎるから……」
百乃は黙って聞いていた。
「でも、ちがったんだ。保志がちゃんとわかったんだよ。あの人は、だれよりもやさしくて、本当は強い人なんだ」
藍はちらと百乃のほうを見た。
すると彼女はほほえんでいた。
「どうすればいいの?わたしはなにができるの?」
じっと百乃の目を捕えようとした。
しかし、百乃は悲しくほほえむだけだった。
藍はがっかりして目を伏せた。
すると、声が響いた。
『あなたの人生はあなたのもの。だから、あなた自身しかすることはできないものがあるはず』
驚いて顔を上げた。
しかし、そこにはもう百乃の姿はなかった。
代わりに、千佳子のきらきらした瞳が見えた。
「おはよう」
驚いて声の出ない藍を気にすることなく、千佳子は笑顔であいさつした。
「なんか夢でもみたの?変な動きしてた」
「ほっといて」
藍はぷんと膨れるとベッドから起き上がった。
「藍」
千佳子が呼んだ。
「うん?」
「変わったね」
えっ?という藍の顔を見て微笑しながら、千佳子は首を横に振った。
「なんでもない……あ、そろそろ行かなきゃ」
腕時計に目をとめ、千佳子は立ち上がった。
「今からデートなんだ」
うれしそうに笑う千佳子は、どうやら嵩太と出かけるらしい。
あのね、とドアに手をかけて、彼女は言った。
「藍、がんばって」
ぱちくりとまばたきし、藍は千佳子を見つめた。
「……なんで?」
「なんとなく!なんとなくわかるんだよ!」
笑って千佳子は部屋を出ていった。
まいったなぁ、なんて思いながら、再びベッドへ横になると、千佳子が勢いよく戻ってきた。
「忘れてた――嵩太くんが言ってたんだけど」
「のろけは聞かないよ」
けらけら笑って千佳子をからかいながら、藍は布団をかぶった。
しかし、次の千佳子の言葉で身体が動かなくなった。
「久坂くん、具合悪そうなんだって」
わたしだけじゃなかった――嵩太も保志の異変に気がつきはじめていた。
それがショックで、藍はなかなか起き上がることができなかった。
今日は保志と午後から会う約束をしていた。
百乃の事故現場にいくのだ。
保志が自ら行きたいと言ったのだ。
だが、そのまえに、百乃と遊んだ公園や水族館にもいく予定だった。
事故現場にいくのは、夕方だった。
藍はのろのろと着替えると、そのまま家を出た。
約束の時間はもっとずっとあとだった。
ぶらぶら外を歩きたかった。
家のなかで黙っているなんて考えられなかった。
足が勝手に動いているようだ。
頭がまっしろだ。
感情を忘れてしまったようだ。
しばらくして、藍は唐突に百々の気配を感じた。
驚いて目をあげると、目の前に百乃が立っていた。
そして、前方を指さし、すっと消えた。
なんだろうと思い、藍は示された方向を見つめた。
そこには20代くらいの青年と、母親らしき女性が肩を並べて立っていた。
女性はため息をつくと、なにか息子に声をかけて、小走りで停めてあった車へ戻っていった。
藍はひとりで立ちすくんでいる青年に近づいた。
近づくと、彼が花束を持っているのが目に入ってきた。
どきりとして足を止めたが、すでに青年に気づかれていた。
「なにか……?」
「あ、えっと、あの、すいません!わたし築屋藍という者ですが、百乃さんの知り合いですか」
言ってしまってから、後悔した。
あせりすぎてパニック状態だった。
しかし、青年はやわらかな笑みをたたえて言った。
「兄です」
そのやわらかな笑みが、夢でほほえんだ百乃と驚くほどそっくりで、あたたかかった。
「兄の利一です。あなたは百乃の友達ですか?」
「あ、はい……」
一瞬迷ったが、藍はすぐにそう答えた。
利一は安心したように笑った。
「あの、すこし……お話をうかがってもいいでしょうか」
恐る恐る言ってみた。
話を聞いてみたいと、百乃のことを知ってみたいと思った。
彼女の家族という環境を、知りたい。
利一と夢のなかの百乃の、やさしいほほえみを信じたかった。
やはり、あまりに突然すぎたかなぁ、と藍は恐々しながら利一を見上げた。
しかし、利一はやさしく「よろこんで」と応じてくれた。
「ぼくたちは、あんまりふたりで外に行って遊んだことがなかった」
利一はゆっくりと話はじめた。
「なんて言うか、ぼくたちは引っ越してきたばかりで、友達がいなかったんだ……」
たぶん百乃は人なつっこいから、すぐに友達くらいできたんだろう。
だけど、ぼくはできなかったんだ。
ひどく引っ込みじあんでね。
だから、妹はぼくに付き合わされたんだ。
だけど、しばらくたってから、あいついつも外で遊ぶようになった。
親が今日は雨だからやめなさいと注意しても、こっそり遊びにいった。
約束してるんだって、うれしそうに言ってた。
ぼくはうらやましかった。
だけどあるとき、ついに事故が起こって――。
はじめて妹が遊んでいた相手を見たのはそのときだ。
放心状態でまともに話せなかったけれど、やさしい子みたいだった。
ぼくたち残された家族は、数ヵ月後、この町を出た。
あまりにつらい思い出が多すぎたんだ。
両親はショックが強すぎて具合いを悪くしたり。
ぼくたちはしばらくは暗い毎日を過ごした。
やっぱり、今でもつらい。
生きていたら……なんて思ってしまう。
だけど、悲しみだけで百乃ができているわけじゃないって気づいたんだ。
あいつ、きっと幸せだった。
大好きな友達と遊べたんだから……。
「今日はたまたま近くを通ってね。さっき母と花束を買ってきたんだ」
利一は遠くを見つめるように目を細めた。
「それじゃあ、あそこが事故現場――?」
横断歩道の横の電柱には、花束がおかれていた。
利一は静かに頷いた。
しばらく沈黙したあとで、つぶやくように彼は言った。
「久坂保志っていうんだ。その、百乃の大好きな友達のなまえ」
藍は頷いた。
「もし、彼と出会うようなことがあれば、伝えてくれないか――ありがとう、と」
藍は目を見開いた。
それから利一の真剣な表情を見つめ、頷いた。
藍は立ち上がると、一礼した。
「きっと、必ず伝えます!」
保志に利一の話をしてやった。
彼は黙ってほほえんだ。
木の葉が色づきはじめていた。
紅葉に銀杏、朱、橙、黄色――絵の具で塗り潰したように染まってゆくのだ。
水族館を一通り見て回ったあとだった。
藍は保志の体調ばかりが気になっていた。
彼の顔色はいっそうひどく、そればかりが気掛かりで仕方がなかった。
しかし、そればかりを気にしてもいられなくなってきた。
百乃の気配を感じたのだ。
百乃がそばにいる気がした。
保志は無口になりがちだった。
百乃とのやさしい記憶を刻みつけているようだった。
公園に着いた。
ブランコがかすかにゆれていた。
保志はなつかしいなぁなんて言いながら触れていた。
公園を出るころには、すでに夕焼け空だった。
やがて事故現場が近づいてきた。
保志は歩をゆるめはしなかった。
「――楽しかった」
唐突に保志は口を開いた。
「百乃と遊べてうれしかった。また遊ぼうって言ったけど、それも無理になってしまったんだな」
藍は目を閉じた。
「百乃は憶えていてくれたんだな。おれが知らないところで、いつもそばにいてくれたんだな……」
風が頬をかすめ、髪がなびいた。
保志は顔を上げた。
「無理じゃないよな。いつかまた遊べるよ。雨の日だって、なんだってできる。おれが憶えてる・・・・・・百乃を憶えている。それが大事なことだったんだ。苦しいから忘れて、なかったことになんてできないよな」
涙が頬をつたった。
保志は唇を噛みしめた。
「悲しいけど、愛しいんだ。百乃との思い出は、辛いものじゃない」
空から雨が降ってきた。
サアサアと降る、やさしい雨だった。
「思い出したよ。もう、忘れない……引き止めていて、ごめんな?でも、もう大丈夫。百乃と出逢えてよかった――」
藍は目を開けた。
「ありがとう、ももちゃん」
手を、ぎゅっと握られた気がした。
『ありがとう』
どこかで、ささやくように声がした。
空耳だったのかもしれない。
だけど、たしかに心から満たされた気分だった。
***
夕焼けが涙でかすんだ。
もしかすれば、雨のせいかもしれないが。
事故の日と同じような空だった。
夕日に、雨、そして横断歩道……。
しかし、もう大丈夫だ。
前を向いて進める。
保志は藍を見た。
藍は目に雨をためていた。
もしかすれば涙かもしれない。
保志は自分も同じようなものだと思い出した。
あわてて涙をぬぐい、鼻をすすった。
声がどこかつまっていた。
「藍……」
呼ばれて、藍は小さく笑った。
保志も笑い返した。
藍の目にいっぱいためた涙を、保志は指でぬぐってやった。
それからどちらともなく手を差し出し、つないだ。
ぬくもりがゆっくりと伝わってきた。
雨がベールのようにふたりを包み込む。
不可能なことなんてないように思える。
たとえ、そんなことがあったとしても、今だけは無敵でいられた。
やさしい雨のなかを、ふたりはゆっくりと歩いていった。
だれかの幸せを密かに願いながら……。
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