俺、一善する
ネコスケ(仮)を連れて地下室の外へ。
地上に戻るための装置は魔術書の原本などではなく、これまた石版だったのは意外だったが、まあ関係ない。せっかくなのでネコスケに読んでもらう。
「にゃにゃにゃ、なんだかプレッシャーを感じますにゃ……」
小柄なネコスケに三人ひっついているから異様なことになっている。
ネコスケは特に、頭二つ分は身長が離れているホクトに対して緊張感を覚えているような素振りを見せていた。が。
「にゃひひひはは!」
警戒を解こうと語りかけたホクトの生真面目すぎる喋り方を耳にした途端、プッと噴き出して、そのまま腹を抱えて笑った。
ツボに入ったらしい。
「にゃ、にゃ、こんなふうに喋る人は初めて見たにゃっ。凄い個性だにゃ……負けたにゃ」
「なっ……そちらの口調こそ風変わりではありませぬか!」
「にゃにゃ!? ミャーはそんなに変じゃないにゃ!」
「あ、主殿。自分のほうが異質なのでありましょうか?」
「うーん」
互角だな。
さておきネコスケも大分緊張がほぐれたようで、密着する俺たちに気を取られることなく詠唱をスタートする。
黒い瞳孔がきゅっと引き締まり。
「テレポート、行き先は『森の石版前』だにゃ!」
甲高い声でネコスケがそう口にしてから、一秒と経たないうちに、俺たちは日が陰り始めた森へと投げ出されていた。
ふむ、マジで石版文字を理解できているらしいな。奇怪な話もあるもんだ。
「はー、やっぱ隠し部屋とは空気のうまさが全然違うな」
腕を伸ばしながら深呼吸をする。
酸素の濃さが段違いだ。
「夜になると森は、それはもう不気味なムードになりますにゃ。早く抜けてしまいましょうにゃ」
「おう。……そういえば」
「なんですかにゃ?」
「いや、どうやってお前がここで活動できてんだろうなって」
ネコスケの装備はどこにでも売ってそうな服と靴に、護身用のナイフが一本。
この軽装にもほどがある格好で、曲がりなりにも魔物の生息地である森の中を行き来できるとは思えないんだが。
「大丈夫。ミャーには素早い身のこなしと、足音を消す特技がありますにゃ。魔物とばったり出会う前にスタコラサッサですにゃ」
「へえ」
ロアとほぼ同じか。
どうやらそれが猫の遺伝子を持つ獣人の特性のようだな。かなり汎用性が高そうに思えるが、俺の発想力だと軽犯罪ばかりが使い道として浮かんでくる。我ながらロクなもんじゃねぇな。
「それにいざとなったらこのナイフで戦えますにゃ!」
鞘から外したナイフを手の中でクルクルと回すネコスケ。
刃がモロに露出しているのに危なっかしさはなく、手つきが慣れている。
「身を守るくらいはできるってことか」
駆け出し冒険者向けのポイントだしな。そこまで手こずらないか。
「そういうことですにゃ」
ナイフをホルダーに納めたネコスケは目を閉じて頷きながら、顎に親指と差し指を当てて分かりやすく気取ったポーズを取る。
「ふっ、ミャーはさすらいのナイフ格闘の使い手でもありますのにゃ……」
「そっかー。んじゃさっさとジイさんのとこに行くぞ」
「うにゃにゃ、もっと構ってほしいですにゃ……」
森を抜け、ビザール邸のある閑静なウィクライフ郊外へ直行。
ここまで来れば依頼は九割がた達成したようなもの。
目当てにしていたミミ用の貴重な魔術書はほぼ手中に収めたと言っていい。
ただ途中で通過した広場にそびえ立つ時計台を見ると、時刻は午後六時を回ったところだった。
図書館の閉館時間にはもう間に合いそうにないな。
まあ魔術書選びなんてのはいつでもできる。とりあえず報告だけでも済ませるとするか。
ビザールの屋敷の戸を叩く。
「おや、確かお前さんは……シュウトという冒険者だったか」
「おう。忘れられてなくてほっとしたぜ」
「馬のお嬢さんを連れていたからよーく覚えておるぞ。おお、しかも! この前とは違う獣人が!」
すぐ隣に立っているミミの真っ白な山羊耳を見て異様にテンションを上げるスケベジジイを、俺は呆れた目で見やっていた。
ってかどんな覚え方をしてんだよ。
俺の特徴とは一体……。
それにしても相変わらず精神面だけは健康なジイさんだな。本当に病気にかかってんのか。
「セクハラまがいのことやってる場合じゃないっての。あんたが会いたいのはそっちの獣人じゃないだろ」
「うん? ……ああ、もしや!」
「俺がまた来たってことは、そういうことだ。連れてきてやったぞ」
背中の後ろにいたネコスケを前に出す。
困った顔をする一方のミミからふっと外された老人の視線は、そこに急速に集約した。
痩せて陥没してしまったビザールの双眸に、ネコスケはほんの一瞬だけハッとした表情を見せる。
「お久しぶりですにゃ」
右手だけを胸の前に残した、芝居がかった挨拶をするネコスケ。
「お話をうかがって会いに来ましたにゃ。あれから大変でしたようで」
「お、お、おお……アイシャ……」
ビザールの目尻と目頭の両方に涙が溜まり始めたのを俺は見逃さなかった。
苦しい時期を救ってくれた恩人との、感動の再会である。
俺はてっきりジイさんは握手をするか、なんなら性格からいって役得で抱きつくくらいのことはするかと思ったが、そうではなかった。
ただただ感極まっていた。
伝えたかったであろう言葉さえ失ってその場に崩れ落ちるほどに。
ガクンと膝をつき、深い皺の刻まれた顔をより一層クシャクシャにして人目もはばからず号泣するビザールのあられもない姿を、俺もミミもホクトも、ただ黙って見守ることしかできない。
「本当に、本当にもう一度会えるとは……!」
かろうじてそれだけが喉からこぼれている。
衰弱したビザールの枯れ枝のように細い足では、こみ上げてくる感情を支えられはしなかった。
とにかく今回の依頼は苦労した。
町中駆け回るわ、森と図書館を往復するわで、かけた時間も労力も過去最大クラスだろう。明日は臨時休暇確定だな。暖かいベッドが俺を呼んでいる。
……結果的に、存外でかい人助けになったみたいだが、
「まさか、あそこまで大泣きするとはな」
落ち着きを取り戻したビザールは俺たちをリビングへと招き入れた。
そこの椅子に腰かけた俺は対面の席に座っているビザールと、その膝の上に乗ったネコスケとの会話を小耳に挟みつつ、そんなことをつぶやいていた。
こうして見ると祖父と孫みたいだが、ビザールが絶えず猫の耳をこの上なく愉快そうに撫でているから飼い主とペットのようでもある。
「悪いけど、そんなガラをしてるとは思わなかったぜ」
「失敬な。ワシはガラス細工のように繊細な心の持ち主じゃぞ」
「ならそのギリギリアウトな手つきやめろよ。もうキャラ戻ってんぞ」
「これはワシの生き甲斐だから、やめろと咎められてもやめられんわい」
かすれた声でそうワガママっぽく言って、老人はそっぽを向いた。
ネコスケの耳の先っぽをつまんだまま。
「お前もそれでいいのかよ」
「ふっ、他言はご無用ですにゃ。ミャーはお爺さんの好きなようにさせてあげたいですにゃ」
「うむ、そのとおり。もうじき死ぬジジイはなにをしても許されるんじゃぞ」
「ええい、最強の権力を笠に着やがって」
ちょっとでももらい泣きしそうになったのがアホくさくなってくる。
「うっうっ、人と人の繋がりとは誠にいいものでありますな、主殿!」
というかホクトなんかまだ玄関先での感傷的な空気に流されて泣いてるし。
まあしかし、ジイさんもそれだけ嬉しかったってことか。
再会した瞬間こそ感情が爆発して泣き崩れていたが、それ以降はずっと楽しげにニコニコニヤニヤを繰り返しているところからも、ネコスケと会えた喜びの大きさがよく分かる。
一方でネコスケは、依然として自身のキャラクターに忠実に明るくふるまっているが、若干表情に影が差している感じは否めない。
「お爺さん、少し聞いてもいいですかにゃ」
かつての雇い主と対面したネコスケは意を決して、不安げながらに「お体のほうはいかがですかにゃ?」と病状について尋ねる。
ネコスケは痩せ細ったビザールを見て、極力表には出さないよう努めていたものの、少なからずショックを受けていた。
つまり務めていた当時よりもずっと弱ってしまっているということだろう。
「快方に向かっている、とは冗談でも言えんのう……だがもう思い残すこともあるまい」
「またそうやってくだらねぇ話を……」
俺は「ハイハイ」と聞き流そうとしたのだが、ビザールの表情からは今までのようなどこか憎めない茶目っ気は消えていた。
おいおい、本気で笑えないぞ。
「まだまだ司書も譲らないって言ってたじゃんか」
「うむ。確かにそうじゃの。ワシが未だに司書の座に就いているからこそ、やれる報酬もあるのだから……」
ビザールはそう言うと、ネコスケを膝から下ろして机に向かう。
卓上に乱雑に置かれていた紙切れのうちの一枚に一筆したため、それを俺に渡した。
仰々しく礼を述べながら。
「シュウトよ、お前さんには感謝してもし尽くせぬほどの恩ができた。半ば諦めておったのに、冒険者とは実に見事なものじゃ。胸が一杯じゃよ。本当にありがとう」
「お、おう。そうか」
戸惑った俺は返答にやや窮した。
「約束の書状じゃ。これを持って王立図書館を訪ねるがよい。受付の者に手引きしてもらえばお前さんが望む書物は滞りなく譲渡されよう」
「急に改まらないでくれよ。そわそわしちまうだろ」
「なら気兼ねなくお節介を言わせてもらうぞ。書物を持ち出す際は、難儀かも知れんがちゃんと正式な手続きを踏むんじゃぞ。これがワシの最後の仕事になるかも分からぬのに、適当な処理をしたせいで申請が通らなかったら、死んでも死に切れんからの」
ビザールから受け取ったサインは紙の薄さもさることながら、文字の線がひどく頼りなかった。
こんなに寂然とした依頼達成報酬は初めてだ。