俺、精読する
地図の裏になにかの記号めいた暗号文を模写して超特急で町へとUターンした時、まだ正午も迎えていなかった。
まっすぐ図書館に向かう。
澄まし顔の全面から知性を滲ませた受付嬢は、これだけ何度もこの施設に来てるというのに、顔パスを許すこともなくマニュアルどおりに身分証明書の提示を要求してくる。
連日この手続きを踏んでるんだからいい加減俺の顔くらい覚えているに決まっているのだが、規則ってやつは絶対らしい。
「審査が済みました。それでは、よき読書を」
サインを確認した知的な女性は顔色ひとつ変えずにそう言って、入室許可を出した。
ぶっちゃけ「知的な女性」なんてのは「美人」とほぼイコールの意味なわけで、仮に風貌がメスオークだったらそんな形容はしていない。
だからこそ長々としたやりとりを強制されても悪い気がしてこないのだが。
それはともかくとして。
無駄に緊張した面持ちのホクトを従えて蔵書室に入る。
異様な高さを誇る書棚の数々が多大な威圧感を与えてくる広い館内は、当然ながら、相変わらずぞっとするほど静まり返っていた。
ごく小さな息を吸う音を立てることさえためらわれる。
書店の店員なんて洒落たバイトはやってこなかったので、どうにもこの水槽の中じみた沈静な空気には馴染めない。
「お、あの席か」
紐付きの会員証を首から提げたミミの姿はすぐに発見できた。感心なことにメモに魔術書の要点をまとめながら学習している。ファストフード店で働いていた頃に五時間水とポテトだけで粘ってこれをやっている客がいた時はイラついて仕方なかったが、ここは知的好奇心を満たすために開放された図書館。素直に学徒の鑑といえる。
ミミはいつもよりかなり早い俺の登場に少し驚いていたが、小声でカクカクシカジカと耳打ちするとすぐに事情を理解してくれた。
人目につくテーブルを離れ、三人で部屋の隅に集まって会議する。
暗号の写しを眺めるミミの表情は、いつものぽやっとしたものとはまるで異なっていた。他方、ホクトは普段どおりの凛々しさを保っている。つまり特に何も思い浮かんでいない。
「ではまず、ひとつずつ資料を持ち寄りましょう。ミミは暗号を解く鍵になりそうな本を探してみますね。おそらくですけど、古文書や歴史書の中にヒントがあるように思います」
一番厄介そうな役回りを快く引き受けるミミ。最高にありがたい。俺とホクトにやらせてもどうせ無理だろう、と考えたのかも知れないけど。
「じゃあ俺は森の細かいデータを調べてみるか。ホクトは『中級移送のグリモワール』ってのを探しておいてくれ。これはすぐ見つかるだろ」
「了解したであります。手が空き次第、至急ミミ殿を補佐するつもりであります!」
一時解散。
別々に行動し、必要な書籍を探し出す。
が、すぐに行き詰まった。
せーので始めてみたはいいものの、地理や土壌について記した本がどこにあるかとか全然分からんな。
こんな時はあいつを頼るしかない。
「地理書ですか? それならあちらへ」
蔵書の整理を行っていた司書代理ことパウロに声をかけ、案内してもらう。
「範囲の広いものがお望みでしたら、ウィクライフが置かれた大陸全土、あるいはドルバドル全域を編纂した書物も何冊かありますが」
「そこまで大規模じゃなくていい。この辺のだけで十分だ」
「近隣ですと……このあたりが詳しいですかね」
慣れた様子でハシゴを昇降するパウロが見繕った本は、合計で六冊。
その中には『白の森』に関するものも含まれている。『白樺樹林の地形と産出物』というタイトルからしてそのものズバリだ。
「これだよ、これこれ。助かったよ。ありがとな」
「いえ、当然のことをしたまでです。これが王立図書館の管理を託された私の職務ですので」
嫌な顔ひとつせず手伝ってくれたパウロに感謝を述べた俺はそれを手に集合場所にまで戻ったのだが、やはりというべきかミミのほうは難航しているようで、まだ鍵となる本を捜索中らしい。
ホクトはそのサポートに回っているといったところか。長い手足を伸ばしながら精力的に書棚と書棚の間を歩き回っている姿が見える。
とりあえず、自分の担当である本に目を通してみるか。
まず一ページ目。
目次か。一応確認はしておこう。
『森林全体図と主要なポイント』
『西部縮尺図・三』
『南部縮尺図・五』
『地質構造の調査報告』
『筆者一同による森林東部ルート検証』
『白樺の商業利用及び価値の不動性』
『局所的歴史考察 ~原住民の生活と民俗~』
『オブジェクト概説』
『持続的な伐採にまつわる諸理論』
『方角を見失わないために覚えておくべき六か条』
『森林内の生態系と、欄外に属する魔物の傾向』
……。
俺はギブアップした。
やばい。欠片たりともページをめくる気がしないぞ、これ。
もうここで詰んだんだが。
そもそも頭が痛くなる内容の本をじっくり読むなんてことは生涯……いや一回女神の凡ミスで死んでるから生前か。ともあれそんな殊勝な真似はやったことがない。
誠に残念ながら、俺は「よし、精読するか」と気合を入れただけでサクッとできてしまうような頭の出来はしていない。想定が甘かったか。不覚。
だが投げ出すには早い。まだ他力本願という必殺の手口が残っている。
俺はパウえもんを呼んだ。
「魔法が刻印された石版、ですか?」
「そうだ。森の中で偶然見つけたんだよ」
博識なこいつのことだから石版文字についても既知のはず、と踏んでいたのだが、どうやらそうではなかったらしい。
パウロは小難しい顔で考えこんでいる。
「申し訳ありません。私にも分かりかねます。生誕から三十年近くもウィクライフに住んでいるというのに、まだ未開の知識があったとは。私自身にとっても驚きですよ」
「そうか……」
「ですが思い当たる説はあります。中級の移送魔法を書き写したものである、ということでよろしいんですよね?」
「それは間違いない」
はず。
「なら、推察ですが……それは木こりの休息所に繋がっているのではないでしょうか」
「木こり?」
「はい。『白の森』は天然資源である白樺が多く生えている地帯ですからね」
「それはギルドで聞いたな。薬や紙になるって」
「歴史書によれば、元々は木こりの手で資源利用を進めていたそうです。魔物が出没するようになってからはそういった林業は木こりではなく冒険者の仕事になりましたけれど」
俺はふと、アセルでのリクの話を思い出した。
森林と鉱山の違いはあるが、あれも似たようなケースだな。
「冒険者に転職できた木こりもいた、とは歴史に残っていますが、いかにして適応したかは長年謎のままでした。しかし、そうか、そういうことだったんですね」
細く尖った顎に手を当て、うんうん頷くパウロ。
「待った待った、一人で納得してないで俺にも説明してくれよ。どういうことなのか全然分からねぇぞ」
「ああ、すみません。どうにも考え事をすると視野狭窄を起こしてしまいがちで。ええとですね、要するに、安全な休息所を設けることで探索の難易度を下げていたわけです。隠れているということは魔物の目が届かないのと同義ですから、ゆっくり休憩できたでしょうね。何事も折り返し地点で休めるのと休めないのとでは大違いですから」
「ほう」
なんとなく分かるな。
俺も小学生の頃は二十五メートルは泳げても五十メートルになるときつくて無理だったし。
「そしてもちろん、休息所の中にも外に戻るための魔法を唱える補助となるものがあるんでしょう。おそらくは元となった魔術書でしょうが……石版はどのあたりに置かれていたのですか?」
「森の真ん中くらいかな」
「中央……なるほど、最善のポイントですね。どこから森に侵入しても同じ間隔で到達できるのですから、これより公平な位置はありませんよ。となれば休息所はその一ヶ所だけという可能性が高いですね。共有の拠点だったのでしょう」
「休息所はそこだけかも知れないけど、石版は一個とは限らなくねぇか? だって移送ってことは飛べるんだろ?」
石版さえあればどこからでも移れそうだが。
「いえ、石版の数と休息所の数は同じと見て間違いありません。中級移送魔法の『テレポート』は自分を離れた位置に転送できる魔法ですが、その距離はおよそ二十メートルが限界です」
「あー、そういうことか」
「もっとも、これは魔力に応じて拡大可能ではありますが……しかしながら木こりが石版を読むことで詠唱するのですから、それほど高度な使い方はできないはず」
「まあ、そりゃそうだな」
カンニングなしで自由自在に使えるんなら、ヒントなんて用意する意味ないし。
「原典ではなく写しでも魔法が発動するくらいなのですから、石版の素材自体に魔力が宿っていないと辻褄が合いませんが、それを考慮しても平均的な範囲を超えることはないかと」
「……ん? それはそれでおかしいぞ。そんだけの距離しか移動できないなら休息所も石版のすぐ近くにないと変じゃん」
「そこです。そこが最大の落とし穴だったのです。ああ、だから先人たちも解明できなかったのですね」
興奮しているらしいパウロは背中をくねらせた奇怪な立ち方をした。
「妙なポーズしてないで教えてくれよ」
「ああ、また自分の世界に入ってしまいました。はい、続けましょう。これはなぜ暗号形式にしてまで石版を置く必要があったか、なぜそこが安全だったか、という理由付けにもなるのですが……石版の真下、地面の中に休息所が作られているに違いありません」
「地面?」
とんでもない発想だな、おい。
だが当のパウロはキリリとした眼差しを見る限り真面目も大真面目だ。
「石版の配置場所から最高で二十メートル、となると、それはもう地下しかないでしょう。地下ということは魔物を隔離できますし、石版は地表で目印としての役割を果たします」
「ははあ、そういう理屈か」
筋が通っている。
そして身を隠せる場所、というのはまさにぴったりだ。
俺は確信を持つ。そこにジイさんが探している獣人がいることを。
いつの間にやら、ミミとホクトも達成感に溢れた表情で戻ってきている。やけに嬉しそうだな、と俺が期待混じりに聞くと。
「暗号が分かったのですから、それはもう狂喜するでありますよ! 歴史書をひたすら漁っていたらミミ殿が見つけてくれたであります!」
「とてもとても大変でした……どうやら大昔の原住民さんが使っていた言語みたいです」
眼精疲労で痛んでいるであろう目頭を抑えながら。
「意味は、ええと、『小部屋』だそうです」
ミミはそうささやいた。