俺、迂回する
街道の外に広がる湿原地帯が、ようやく違った景色になり始めた。
今の俺の目には代わりに茫漠な平野部が映っている。
色鮮やかな緑が散りばめられた大草原だ。
吹きつけてくる風からも濡れた土と苔の臭いが消え失せ、その乾いた感触が、もうここがリステリア地方ではないことをありありと告げていた。
ここに至るまでに二晩の野営を要した。
狭いテントの中で過ごすのはいつまで経っても好きになれない。
ベッドを使えないからどうしても寝つきは悪くなる。俺も、そして隣をうとうとして歩くミミも寝不足だ。もっともミミの場合はいつも眠そうに瞼をとろんとさせているので、本当に寝不足なのかどうかは表情からだと読み取れないのだが。
一方でナツメは元気なものだ。今朝からずっと鼻歌を絶やしていない。
昨夜からして俺が眠りに就く頃にはヘソ丸出しで幸せそうにイビキをかいていたし、その環境適応力の高さが羨ましい。
だが、それすら凌駕して活気づいているのは……ヒメリである。
深緋の鎧と銀の剣の重量をものともせず、軽やかな足取りで俺の前を行っている。
「さあ! あともう少しですよシュウトさん! 新天地が私たちを呼んでいます!」
なぜか、気持ち悪いくらい張り切った様子で。
話は二日前にさかのぼる。
「おはようございます、シュウトさん。それとお三方も。早速ですが次に行くことのできる町について説明させていただきますよ」
リステリアを発つ前にヒメリが提示してきた目的地候補は、三つもあった。
「まず一つ目は、ここから南にある『ハーミーン』」
世界地図を開いて『ハーミーン』なる町名を探してみる。
ヒメリは、南、と簡単に述べていたが、地図上で見つけたそこは現在地リステリアからはかなりの距離が隔てられている。
というかこの大陸の一番端っこだ。最南端に位置する町か。
「ハーミーンは私たちの出身地、フィーと双璧をなす港町です。ですが港としての機能よりも観光地としてのほうが有名でしょうか。温暖な気候と新鮮な魚介類、そしてドルバドル随一の美しい砂浜を持ちますからね。そこから望む海は絶景と聞きます」
「海か。泳げるじゃん。海水浴しようぜ海水浴」
「更に港からは『ジーベン諸島』と呼ばれる自然豊かなリゾート地に渡れます。七つある島々はそれぞれ趣が異なるそうですが……どこも貴族などの富裕層に人気ですよ」
「最高だな。そこにしよう」
のんきに答える俺。が、ヒメリは待ったをかけた。
「申し上げましたがハーミーンは港町。つまり、ここから反対側の大陸に移動できるんですからね。私たちが取る道順を鑑みるとこの町は後回しにすべきです」
どうやらスケジュールってもんがヒメリの中では組み上がっているらしい。
「じゃあ最初から言うなよ」
「い、一応お話しておくべきかと思いまして」
まあ俺としては、こいつがツアーコンダクターみたいな役割をやってくれるんならそれはそれで楽でいい。
自信ありげなヒメリ添乗員のプランを聞かせてもらうか。
「まあいいや。他の二つは?」
「第二候補は『ユペリオ』という町です。地域的特徴を簡素に説明しますと、南西部にある火山地帯ですね」
「火山て。行きたくねぇなあ……」
「ですがユペリオも巷で評判の行楽地ですよ。なにせ温泉が湧いていますから」
「なっ……温泉だと?」
水着チャンスが却下されたと思ったらそれ以上が来た。
俺の大和魂とスケベ心が同時に騒ぐ。
「ええ。なんでも、町全体が観光用に改造された温泉街になっているんだとか。それに火山内部は高ランクを志す冒険者にとって憧れの修練の地で……」
「いやそっちはどうでもいい。温泉ってだけで魅力満点だ。早く行こう」
暫定的にリステリアに下した『八十点』という良評価を更新する可能性が極めて高い。
「いえ、こちらもルート的には後半に回したほうが合理的です。まだ大陸の東側には多くの町が残っていますので。どうせ最終的にはハーミーンに向かうんですから、一旦この方角にまで戻る予定ですしね」
またかよ。
「分かった分かった。要するにお前は残る最後の候補地に行きたいんだな?」
「うっ。ま、まあ、そういうことなのですが」
「いいよ。たまにはお前の決めた町に行こうぜ。どの道全部の町を見て回るんだからな、順番がちょっと入れ替わるだけだ」
勝手についてきているだけとはいえ、こいつもまた旅の連れの一人。
この程度のささやかなワガママくらいは聞いてやるか。
俺の了承に、ぱあっと分かりやすく表情を晴らして「ありがとうございます!」と心の底から嬉しそうに礼を口にしたヒメリは、すぐさま橙色の瞳にメラメラと炎を灯して。
「感謝しきりです。どうしても、今の時期でないといけませんから……!」
今の時期じゃないといけない、というヒメリの言葉の意味は分からずじまいだったが。
しかし町の特色を聞くとヒメリが行きたがる理由は汲めた。
上昇志向が服を着て歩いているようなこいつの性格を考えれば、その土地に強い憧憬を抱くのはごくごく自然な流れだろう。
「服着て歩くなよ。どうせなら上昇志向剥き出しで歩いてくれ」
「一体なにを言ってるんですか」
町から町へ移動する時は大体こんなふうにアホみたいな会話をしているが、昨日今日はセクハラ気味の発言をしてもあまり怒られなかった。
ヒメリの機嫌が最高潮だからだろう。
今なら抱きついても「も~」みたいな感じで許されそうな気がする。しないけど。
「そんなことよりです」
徐々に目的地が迫ってきているという事実を噛み締めて、欣喜雀躍の感情を隠し切れないでいるヒメリの人差し指が――ぴっ、と前を示す。
俺は思わず足を止めた。俺だけじゃなく、荷馬車を引くホクトでさえ。
「いよいよ見えてきましたよ。あちらが此度の町です!」
この距離からでも視認できる巨大なドーム状の建造物が、広大な面積の中にいくつも点在するそこは、ヒメリがこれまでになく熱意を込めて解説していた場所。
剣士ヒメリの眼差しはそこに集約して動かない。
まんじりと見つめる目の燦然たる輝きは、夜空を彩る星や気品に満ちた宝石細工さえも及ばないのではと錯覚させられる。
あれが闘技場の町、『ネシェス』。
大陸最大級の町だ。