120.男湯
待望の風呂が湧いたようだ。
俺は、期待に高鳴る鼓動を気取られぬようにさり気なく勧める。
「瀬木入ってきたらどうだ?」
「うん、お風呂か。恥ずかしい話なんだけど、しばらく入れなかったから助かるよ」
そういって、服をくんくんと嗅ぐそぶりをする瀬木。
大丈夫だ。臭くない。芳しい香りしかしないぞ。
ゲームのときの黄泉にも人が住める空間はあったと思うから、風呂もあるだろうとは思うんだが。
女の子になってしまった瀬木は、男湯にも女湯にも入れず困ったんだろうな。
そんなことを考えながら、「じゃあ」と風呂に行く瀬木の背中を見送る。
ズズッとゆっくりとお茶を啜る。
焦るな。
和葉やウッサーに気取られてはマズい。
二人は瀬木を男扱いしているのだから、風呂に邪魔は入らない。
あとは、タイミングを見計らって行くのだ。
俺はゆっくりと茶を啜り終えると、そっとログハウスを抜けだして風呂場へと向かった。
あくまでもさり気ない素振りである。
「どこに行くの?」
後ろから袖を引かれて、俺はギョッとした。
「なんだ、リスか」
ちょっと考えて、素直に風呂に行くんだよと伝える。
こいつには言っても大丈夫だろう。
「じゃあ、私も行く……行きます」
「構わんぞ。あと、敬語はいらないって言ってるだろ」
邪魔になるかとも思ったが、むしろガキを風呂に入れてやるぐらいの言い訳があったほうが自然じゃないかと思い直したのだ。
うん、リスは意外と役に立つかもしれないぞ。
俺はリスの手を引いて、風呂に行く。
なんか握るときビクッとしたんだが、怖がられてるか。まあ、俺は子供に好かれるタイプじゃないからな。
「リス。お前が来てくれて良かった」
「えっ?」
実は、俺一人で行く勇気がちょっと出なかったというのもあるんだ。
俺は、リスを風呂に入れようと思って行くわけだ。
うんいいぞこれ。
ごく自然な流れだ。これなら理由としては完璧。
俺はリスを連れて脱衣所に入り、服を脱いで浴室へと忍び込んだ。
床は石畳で、檜風呂である。
改装に改装を重ねて湖に向かって半開放型になった浴室は大浴場の様相であった。
その大きな風呂に、一人佇む影。
俺は、ゴクリと喉を鳴らす。
お風呂の湯気が晴れた先には、瀬木碧がいた。
風呂に入っているのだ。
一糸纏わぬ姿、まず目を引かれたのは長く伸びた絹のような黒髪であった。
光に照らされると微かに薄く青みを帯びた艶のある髪。
本当に不思議な髪色だ。お湯に湿ったそれは、黝いなんて呼び方もされる美しい色合い。
瀬木はどこを見ても美しい。顔立ちは端正で、作り物めいている。
細いなで肩、ほのかに膨らんだ柔らかい曲線を描く胸。
ほっそりとした腰に、意外と豊かなお尻。
完璧だ完璧である。
そして、そして……。
「おぉ」
俺は、感嘆のため息を吐いていた。
ここまで期待させられていて、実は瀬木がすでに男に戻っていたなんて、そんなつまらない落ちが待っているのではないかと、どこかで心配していた。
だが、女。
瀬木はちゃんと女になっていた。しかとこの目で、確認できた。
「神よ……」
俺は天を仰ぎ、創世神に感謝の祈りを捧げる。
創世神に心の底から感謝する。
ありがとう。そして、ありがとう。
これまで裏切られ続けてきた俺の人生が、初めて報われた瞬間だった。
俺が想起するのは、ゲーテの『ファウスト』のラストシーンだ。
あまりの幸福に、このまま時が止まればいいのにと思う人生最高の瞬間を迎えたファウストは、思わず口にしてしまう。
「止まれ、お前はとても美しい!」
この言葉を発したが最期、ファウストの魂は悪魔メフィスト・フェレスの手に落ちるという契約であった。
しかし、ファウストの魂は地獄に落ちず、天使の導きで天国にたどり着く。
ファウストの最愛の女性マルガレーテが聖母に捧げた祈りによって、悪魔の手は遮られてファウストの魂は救われたのだ。
永遠にして女性的なるもの、我らを引きて登らしむ。
「ちょっと、真城くん!」
「ああ……」
あまりの興奮で、声が出てしまったようだ。
瀬木は慌てて、身体をタオルで隠した。
「みっ……見てないよね?」
「んっ、なんのことだ。俺達は、風呂に入りに来たんだが、なあリス」
俺の横で、リスがコクンと頷く。こいつが居てくれてよかった。
瀬木は、どこか疑わしげに言う。
「そう、ならいいんだけど……」
セーフ。まだ、バレてない。
この分なら、まだ楽しめそうだ。
「リス、ほら……まず先に身体から綺麗にしようぜ」
「ありがとうございます。ご主人様」
「子供がいちいち敬語なんか使わなくていいって言ってるだろ。お礼もいらん」
「でも、ご主人様に最上級の敬意を払いなさいって……」
誰が言ったとは聞かない。
アリアドネのやつに、そう強く教えこまれてるんだろう。
悪気はないんだろうが、あいつは頭が硬くていけない。
何度も言うはめにならないように、ここはしっかりと正しておかないとな。
「あのなあリス。近くにいるガキに遠慮されたり敬語を使われると、俺の気が休まらねえんだよ。俺への敬意であれば、お前が遠慮せず自然に接してくれればいいんだ」
「えっとじゃあ、遠慮せず……あのこれ、どうやるの?」
リスは、シャンプーとか、ボディーソープの使い方がわからないらしい。
俺は、なんかこの強烈な喜びと強い背徳感の入り交じった気持ちを抑えるために、リスの面倒をしっかりと見てやることにした。
「わかったわかった、心配すんな。わからなきゃ俺が教えてやるから。まずこのシャンプーを使って、髪を洗ってやろう。俺がやるのを見て、ちゃんと覚えるんだぞ」
俺はワシワシ、リスを青い髪をシャンプーで泡立てながら、ちらちらと瀬木のほうを見て楽しむ。
逃げるかと思ったら湯船に入ってしまう。
しばらくリスを洗っていると、湯船から瀬木の声。
「その子、女の子なんだよね」
「ああそうだが、まだガキなんだからいいだろ」
「でも、リスちゃんはもしかすると中学生に上がるぐらいなんじゃないかな。大丈夫かな」
そうかな。歳は興味ないから聞いてないが。
最初は酷い痩せっぽちだったが、食べるうちに血色が良くなってきたので思ったよりガキでもなかったのか。
「どっちにしろ毛の生えそろわねえうちは、ガキでいいだろ。それより、瀬木と風呂に入るのも久しぶりだな」
「そ、そうだね。ホント久しぶり」
声が裏返っているのがなんか面白い。
うん、どうやらまだ大丈夫みたいだ。もうちょっと気が付かない振りをさせてもらうか。
誰も女の子になったと、瀬木に突っ込まないこの環境は最高じゃないか。
これからしばらく楽しめそうだと、俺はほくそ笑んだ。
※※※
和葉が、食器にモリモリとご飯をついでくれる。
「はい、たくさん食べてね」
川の幸、山の幸が食卓の上に所狭しと並ぶ。
この小さな『庭園』だけで、肉も魚も野菜も穀物もなんでも揃ってしまう。
「美味いな」
「フフッ、ワタルくんにそう言ってもらえると作り甲斐があります」
弁当用のサンドイッチやバーガーもいいが、やはりドラゴンステーキは米と一緒にワシワシと食うのが一番美味い。
こうやって食事するのも久しぶりだ。和葉の料理は、相変わらず美味かった。
「本当に美味しいね。和葉さんの料理も美味しいけど、ろくなものを食べてなかったから野菜の美味しさが身に沁みるよ」
「黄泉は、やっぱり食生活が酷かったのか?」
瀬木は、もぎたての新鮮なトマトに小さい口で齧りつきながら。
ふうと、嘆息を漏らす。
「うん、お野菜も一応あったんだけど、全部乾いててジャリジャリと砂みたいな味がして酷かった。こんなに美味しいもの、早くみんなにも食べさせてあげたい」
本当に美味そうに食べている。
無理もない。黄泉は、地獄だからろくな食べ物もなかったのだろう。
光の届かぬ闇の底の世界。
明かりといえば、松明の炎と溶岩といった地獄ステージなのでそれは苦労したはずだ。
「そういう意味でも、早くみんなを生き返らせてやらなきゃな」
「なんか、真城くんらしくないね」
「そうかな」
「真城くんなら、そんなの関係ないって言いそうだけど」
俺だって、関係はあるさ。
瀬木をこのままにしておくために、一刻も早く黄泉を全員蘇生エンドで終わらせなきゃならんからな。
「まあ、人間は変わる。心境の変化というやつもあったのかもな」
「そうだね。真城くんが子供の世話をしてるなんて、こう言っちゃ悪いけどちょっと目を疑ったよ。いや、それがいけないって言ってるんじゃないんだけど」
そう言われて、ふと横を見ると。
ウッサーとリスは並んで、ハグハグモグモグと一心不乱に食べている。
こいつらはほんとよく食べるな。
それについては、和葉も喜んでいる。
「本当に、みんなよく食べてくれるから作り甲斐があります」
「見てないで、和葉も食べろよ」
ほっとくと、なんか給仕の世話だけして和葉が食べてないようで気になる。
「はい、私もいただいてますよ」
うんならいい。
和葉がご飯を作ってくれて、女の子になった瀬木がいて、みんなで食卓を囲む。
これまで瀬木を生き返させるためだけに必死になっていたが、それが達成できて一息ついてみると。
こんな暮らしも悪くはないなと思えた。
今後は、この生活を守るために戦っていかなきゃならないだろう。
まずは、神宮寺対策に既存戦力の強化からだな。
俺は、これからも俺のためにやることをやっていくだけだ。
今後も、忙しくなりそうだった。
次回7/3(日)、更新予定です。