彼の脳髄、螺鈿の箱に
彼の脳髄、螺鈿の箱に
鈴原カヲル
こうして、わたしは満天の空から降りそそぐ星の雨を浴びながら、
少し湿っている、それでいてさらさらとした冷たい土の上をひたひた歩き、
大小のクレーターの横を通り抜けてゆく、今にも、
これから起こるのであろう様々な試練を思えば気を失いそうになりながら、
ことさら月光に反応してきらめく螺鈿の箱を胸に、そして、恋人の脳髄を螺鈿の箱に。
姉の月イーエッサイと妹の月レムは愛玩動物のように丸まるとした顔をして、わたしを励ます、そして、
わたしは六分儀を腰に下げ歩いてゆく、
木綿の白き更紗をイオンの風になびかせて、彼の脳髄、螺鈿の箱に。
#1
アンティキティラ市の夜景を背にしてわたしは、彼の家族との面会を約束した場所へ足を進めている、
失われた彼の肉体の再生と、
そして、彼とわたしとの婚約を彼の家族に認めてもらうために。
彼の家族、アントラ・ヴール家は銀河中央政府を構成する星間民族のひとつであるノア・ユル・アールス人であり、わたしたち偏境のものから見ればうらやましくも目映ゆい「銀河の都会人」だ。わたしは、
宇宙の偏境に建設された、まるで地方都市のような副星系政府の星官となるべく在学していた、
ジュナ・ライの星官大学校で、
彼と出会った。
わたしが、最初、彼に心引き寄せられたのは、わたしのこの琥珀色の瞳や髪よりももっと黒い、
カラスのような、いや、それよりももっと黒くて濡れたような背まで伸びた黒髪、そして瞳であった。
彼は、サイクロン -それは運転席の外縁に備わる巨大な1輪のタイヤが回転して駆動する豪快な乗り物- の名手であり、
学内のサイクロン・レースクラブでわたしと1、2位を争う、ライバルであった。
― 俺は、俺よりも速い奴にしか興味ないよ ―
サイクロンの運転席から身を乗り出して彼がいつも云っていた口癖を思い出して、目を上げれば夜空に、
いつしか、燃え上がるようなアリアンの巨大な星座が地平の向こうから姿を現し、同時に不穏で怪しげな色彩を放つ矮星ラゴが輝きを増す。
わたしは、急に心細くなる、しかし、自らを奮い立たせ、螺鈿の箱に問いかけ、あるいは、語り、あの真冬のツンドラを覆う雲天のような不安を紛らそうとしている。ただ、
彼の答は螺鈿の箱に装着された「イエス」または「ノー」の2つの灯火(発光灯)によってのみでしか聞くことができない。
「アリアンが好き」
イエスの灯火。
「ラゴが怖いわ」
イエスの灯火。
彼の2つの灯火を愛しみながら、わたしは、ひんやりとした土の感触を確かめながら、ゆったりとした丘を登る。やがて、その頂きに立つとき遺跡を思わせる石質のモニュメンタルがわたしの眼下に展開する、それは、
星空に到達するかのごとく思える巨人のようなゴシック様式の凱旋門だ。
吹き上げるイオンの風に白い更紗をなびかせながら、わたしが、
凱旋門の向こう側の黒い夜空を抱く冷え冷えとしたクレーターばかりの風景を望めば、いつのまにか、
矮星ラゴがまるで小さな太陽のように煌々として凱旋門を照らしている。そして、
いつか来たことがあったであろうかと思わせる既視感と共に、わたしは門に向かって、土を踏み出す。ぱさぱさの土みちは硬質な石畳となり、わたしは巨人のごとき凱旋門に見おろされて、やがて、
約束の場所に立つ。すると、かの凱旋門の下に女性がひとり立っている。
「あの女性がお母さん?」、
と、わたしは半分自問のように、箱に問えば、
イエスの灯火が点灯する、
人魂のように。
#2
もう少しすると、その女性は古風な四角い菜切り包丁を右手に、
また、真白い大きな大根を左手にしていること、が視認できた。
わたしの母よりも少し若いであろうか、
わたしのこの琥珀色の瞳や髪よりももっと黒い、
カラスのような、いや、それよりももっと黒くて濡れたような黒髪、そして瞳、
そんな美しい女性が立っている。
わたしは秋のシャーナ湖の薄い氷を踏むような気持ちで、足を進めると、彼女は、
気取らないワンピースにやや茶けた前掛けをして仁王立ちしている、たくましさと優しさ、そしてそこはかとない色気を放ちながら。そして、わたしは、彼女の表情が伺えるところで足を止め、彼女と対峙する。彼女の、力強く、美しい眼差しに、
わたしは、ただただ圧倒されており、暫くわたしは彼女と見合ったまま、沈黙にまかせている、が、やがて、
「何をしているの、早く席につきなさい。もうすぐご飯よ。」と、彼女が口を開いてきびすを返すと、
わたしはいい匂いのする湯気にふわりとくるまれて、目の前に、
木製の椅子とテーブル、そして、その卓上に黒いソイソースやら塩などの小瓶が並んでいる。わたしが、
促されるまま席に着くと、独特の発酵したダイズのソイスープのよい匂いがして、気づけば
ちんまりとしたキッチンに小さな家族のための食卓があった。
わたしは、彼女に促されるようにその小さな食卓につき、螺鈿の箱をかたわらに置く。
壁には、夜空の下クレーターの横をすりぬけて歩いてゆく少女の姿の絵がかけられている。
テーブルには、ほどよくボイルされたライス、大根を煮付けたソイスープ、イワシの焼き魚、そしてナスの塩ピクルスが、二人分並ぶ。
そして、目の前に、彼女が前掛けで手を拭きながら座ると、わたしは、
ついにこの時が来たのだと、思った。
彼女は組んだ両手にあごを乗せたまま、いたずらっ子のような目でわたしを見ている。
わたしは、まんじりともせず、時々その女性を見やっては、言葉を失しているつかの間、
「何をしているの? 冷めちゃうじゃない。」、との言葉にあわてて、
塩っぽいソイスープを口にし、焼き魚をつつく、あら、何だ、美味しいじゃないと、
思いながらも、わたしは、また、
本題たる彼とのことを思い出し、どう切り出そうか考えあぐねていると、
彼女がおもむろに口を開いた。
「あの子のどこがいいの?」
わたしはソイスープの器から離したくちを「え」の形にしたまま顔を上げ、
火酒を煽ったときのように自らが火照ってくることを覚え、くるりと眼を泳がせながら、
「ええ」と生返事で返す裏で、言葉を探す。
そうだ、瞳だ、わたしのこの琥珀色の瞳や髪よりももっと黒い、
カラスのような、いや、それよりももっと黒くて濡れたような黒髪、そして瞳、
まず、そのような考えを思い浮かべながらも、それらのことは口には出さず、
彼の性格や、たぐいまれなるノア・ユル・アールス人ならではの才能や、
ジュナ・ライの星官大学のサークルにおける出会いのきっかけ、などなど、
もっと理解しやすい、あたりさわりのない様々な彼の表書きなどを、わたしは並べ立てる、しかし、
いつしか、
わたしの記憶のなかでジュナ・ライにおける彼とのたわいもない日常の切片が、サイクロン操縦席のサブモニターに投射されたかのように、わたしのなかで展開する。
#3
学内において、あのジュナ・ライの乾いた大地に無理やり製造した草地の上でわたしは寝転ぶ。
そして、ふいに熟した果実が落下する唐突さで、彼はわたしのそばに腰を下ろす。
微動だにしないわたしの横で、彼は、かたわらの草を遊んでいたが、やがてその手を止め、
眼を伏せたまま、わたしに尋ねる。
「どうだった?指導官の面接は?」
「そうだね、だめだね。」
「まさか、ミーシャが?」
わたしは疲れたように寝返りをうって、伸びをする。
「わたしは第1級行政執行官を希望したのだけれど…。」
「それで?」
「司政官になれって。」
彼はひゅうと口笛をひとつ吹く、彼の漆黒の長髪がジュナ・ライの強い日差しを弾かせながら風になびく。
「すごいじゃあないか、ミーシャ。十期に一度の大抜擢じゃないか。」
わたしは、辟易した気持ちのまま云ってやる。
「わたしはねえ、執行官になりたいのよ。それで、『ああ、先生、わたしはユリシーズが主席ではないですか』、と云ってやったの。」
「それで?」
「指導官は、『まさか、君。彼と競うつもりなのかね…』、だと。」
彼は、すると、やはり疲れたように眼を落とし、しばらくして返す。
「それで、どう思うんだ、ミーシャ、たとえば、ロールシャッハテストなら俺に勝てる、とでも?」
「指導官は正しいよ。」
「そう。でも、俺の基準は違う。」
「どんなのよ?」
「そうだな、やっぱり、あれだ…。」
「『俺より早いやつにしか、興味がない』、と?」
「それだ。」
わたしは、寝返りを打って、彼の膝に頭を乗っけて、彼を仰ぎ見た。
「指導官のいうところの有望なる星官候補生が、サイクロンレーサーになれと?」
「いや、だから、そういうことではなくて…。」
「なんになれと?」
「それは…、その、なんて云うか。」
彼は、黒い瞳をくるくると回して、やがて、かすかに赤らめた頬を指で掻く。
わたしは、長々とした工程を経ることに嫌気がさしていたところであったので、とうとう最後に彼の言葉を補完する。
「そうよね、あなたに勝てばいいのよね。」
彼はようやくそこで初めて瞳をわたしに向ける。
「え?」
「レッドライン(危険速度)を軽く超える命知らずに、わたしは、勝ってみせれば、よいということね。」、そうなのだ。
わたしは、天界の王子たる彼の、その、あどけなく見開かれた眼に挑戦状という名目のなにかをたたきつける、今や、
忘れ去られたいにしえの民における馬鹿馬鹿しいとも思えるほどの命懸けの遊戯が成人となりうるための儀式となるように、
まんまと彼の挑発に乗ってみせるのだ、と。
そのようなことを思い出した。
#4
そうして、こじんまりとしたテーブルの向こうにすわる彼の母親の眼を見上げてわたしは、
うまくいえない、ただ、わたしにとって、今、彼のことが一番重要なのであり、
失われた彼の肉体の再生と、
彼とわたしとの婚約の許しを得たいのだと、洞窟の中の命綱となる細いひもを手繰るように、
接続のあまり芳しくない言葉のつぎはぎによって、わたしの目的を告げる。そして、
わたしの胸中には、彼のサイクロンをくるむ真白い火炎の画像が現れるので、
わたしはそれをかき消すように、かぶりを振る。
そうやって、しばらくわたしは、彼女に、ジュナ・ライにおける生活についてのとりとめもない話をしていたのだが、
ふいに沈黙が訪れる。そして、彼女は口を開く。
「あの子はねえ、自由ではないもの。飛べない鳥でしょう?空に」
「そうなのですか」
「そうよ。だって、なんだって辺境のジュナ星域なんだろうか、って。」
そういうと、彼女は自らの失言にあわてたように、口を押さえる。
「ああ、そういう意味ではないの。ごめんなさい。」
「いいえ。いいえ、でも、あのひとの希望ではなかったのですか?」
「何が?」
「その、もっと、世界を。辺境を含めた、広く、様々な星を。」
「星?」
「そう。銀河のはてまでも。過去へ学び、銀河中央にいてははかり知り得ない、
多様な者たちと交わり、言葉と、経験とを。そんな旅して。」
飛べないなんてとんでもない、それこそ、
自在なる鳥なのでは、と云って、わたしは思わず手を広げる、ザハリンヅースクのかもめのように。
そして、わたしの鳥の影は長く伸びて、
後方の壁に影絵となる。彼女は淋しげにうつむくと、
「あなたは、どうなの?」と聞く。
わたしは虚をつかれて顔をあげると、彼女はさらに問う。
「あなた。銀河中央に来ることができるの?」
「わたしは、」
彼女の生き生きとした瞳は幼女のようなあどけなさでわたしを見据えると、
わたしは、わたしのなかの本当の自分の気持ちを確かめようと、試みる。
「行ってみたいと思います、彼とならば。」
わたしは、いっそう淋しさを増す彼女の瞳のなかに、自分が映りこむのを見ると、
「そして、わたしは、わたしを試したい。そう思っています、ずっと。」と、正直に云う。
彼女は無言で立つと、彼女の背後にあったドアを開ける。
「誰もが試されている、いつでも。」
わたしは、自分の椅子を引き、立ち上がり、
そっと螺鈿の箱に手を置く、そして、「行ってくるね」と言い残して、ドアに向かう。
試練なのだと、自分に向かって告げる。
#5
そしてドアを抜けると、わたしは、白い陽光と、空気を震わす歓声に包まれた。
わたしはわたしのモータースーツの正面のジッパーを上げ、開いたままの胸元を閉じる。そして、
わたしの後からも続々とサイクロンのライダーたちが入場し、われんばかりの声援に応えて手を振っている。
そうだ、わたしは、この、ジュナ・ライで年に1度開催されるサイクロンレース総督杯選手権大会で、
決勝戦に勝ち進み、そして、前年の優勝者である彼との決着を着けることになったのだ。
わたしは所定の位置にあるわたしの愛機に身を収めて、手際よく、装置のセッティングをして、
愛機の心臓に火を入れる。正面のディスプレイには、スピードメーターやらわたしの心拍数などのインジケータがいっせいに表示される。
スタート地点であるこの会場ではすでに満席となっており、そのアリーナの眼前で、
各選手の20台のサイクロンは空を裂くような唸り声を立てている。
ジュナ・ライの惑星は全体が荒涼とした砂漠地帯であるが、一部の平原はちょうどアスファルトで舗装されたように平坦な岩場が広がり、サボテンなどの植物の他は、地形にほとんど凹凸がないのが特徴で、天然のレース場にはふさわしく、このようなサイクロンの大会にうってつけである。その荒原の500キロメートルほどのコースを1周して、このスタート地点であるアリーナに戻ってくるレースである。
他機のサイクロンが次々と起動する騒音は、ヘッドカヴァーをしたわたしの耳にはフィルター越しのためか心地よい程度、だが、
空気を震わす振動をわたしは全身で聞き、他のライダーたちの生命の波動のようなもので頭の中がざわつく。しかし、
走りだせばそれらも消え、やがて静寂が訪れるのだ。
わたしは隣に位置する彼のサイクロンを見やると、彼もそれにすぐに気づいて、ふいと、手を挙げる。
― 俺は、俺よりも速い奴にしか興味ないよ ―と、云っている、そして、わたしは、
沸騰し始める鍋の中の熱湯のように激しい闘争心がわたしの内側からあふれて出てくることを感じる。
ゆっくりと、ゆっくりと眼を閉じて、わたしはかつてツンドラで飛ばしていたスノージェッターを思い出す。樹々を避けながらオオカモシカを追う父とその後ろでライディングするわたしが、
白い風景のなか、地形を肌で感じながら風と同化する。そして、思い出のなかのわたしが父のスノージェッターに追いついて父が振り返ると同時に、レーススタートのけたたましい合図が鳴った。わたしは、
火の玉となって、発進する。わたしは、
その荒原を嵐のように突き抜けてゆく。そして、
愛機のディスプレイに目まぐるしく流れる風景の、その正面の1点から溢れてくる、
荒涼とした世界をわたしは見つめ、まるで中毒者のように狂おしいほどのスピードを欲し、
もっと、もっと、と、速度をあげてゆく。そのうち、流れ出す地平線の向こうから、彼のサイクロンが現れる。
夜に、
わたしを包む彼の体温を感じるときも、彼の本当の心が、わたしのはかり知れないずっと遠い世界に、
どこか遠い惑星にあることを思い知るとき、
その所在に届くところにたどり着きたいのだと、わたしは悟る。
それが今にも、このような陳腐なモータースポーツのレースが彼にたどり着くための具現化された儀式なのだと知るとき、わたしはついにはこのような手段で彼をわたしに振り向かせるのだと、決めたのだから。
と、ふいに、タイヤが跳ねて機体が揺れる、わたしは心の中の幻灯をかき消し、
車内のモニターを通して、岩壁に挟まれて幾度も曲折する道が継続する「竜の肋」と呼ばれる岩山の谷間を眼にする。
わたしと彼は弾丸となって谷間に飛び込む。曲がりくねった岩盤を駆け抜けてゆく、今にも、
わたしは、目の前の彼のサイクロンに手を伸ばせば届こうというところまで来ている。そのとき、
わたしに通信アクセス要求が入る。音声操作で通信を入れると、彼からのものであった。
「ミーシャ、レッドラインを越えている。危険だ。スピードを落とせ。」
こんなときに声をかけてくる彼の余裕に憤慨しながらも、わたしは、
彼の優しさに動揺を隠せないでいる。しかし、強い愛情、または抗敵する想い、その、様々に離反する感情の源泉が眼前の彼に集約して、放散する、そして、
轟くサイクロンの騒音が、わたしの血流や呼吸などの生理機能と完全に一致してわたしを速度の狂喜に誘う。
再度、わたしは、野蛮なる心のかまどに薪をたたきこむ、そう、彼をいっそ殺してしまおう、と、
わたしは、わたしに云ってみせる。
- 彼を焼き殺す。-
そんなスルトー(北欧に伝わる炎の巨神)の振るう火炎の剣のような激しさが、わたしを生かし、わたしに命をあたえ続ける,その炎で、彼を、
彼のサイクロンもろともに焼き消してやるのだと。突然の静寂と明暗が反転する視界に、
彼のサイクロンを貫通して、そのもっと先、わたしがたどり着くのであろうわたしの姿を見定める。
谷間の終点が開かれた門のようにまばゆい逆光を放っており、そこへ、唯、唯、わたしは落下してゆく。そして、
体内をめぐる快感物質はむしろわたしの意識を冴えわたらせ、わたしの五感は完全に覚醒する。
ディスプレイに幻影のように映る彼のサイクロンを、わたしは、ゆっくりと追い抜く。
その一瞬、わたしは、わたしの肉体のすべて、それに連関する機器と、わたしの感覚を含めた意識を、
完全に掌握したような感覚にとらわれる。わたしが、わたしを超える、のだと。
そのとき、わたしの愛機は閃光に包まれた。
彼のサイクロンが轟々と火柱を吹き上げるのを、わたしはバックディスプレで確認した。彼が、
燃えている、熱く。
#6
それから、どうやらわたしは白く清楚な病室に居るようである、窓から、
青葉の香りとともに爽やかな風が吹き込み、わたしの頬を撫でてゆき、
わたしをよりいっそう安らかな夢ここちにするが、顔の半面を覆った包帯が、少し邪魔くさい。
ひどく足腰が痛むのは打ち身と軽い火傷のようである。そうもしていると、
誰かが病室に入って来た。医務官だろうかとわたしは思いながらも、申し訳ないのだが、
薬のせいか少し眠たく、せっかくの来訪に悪いのだけれど、うつらうつらと寝たいままにしている。
「医務官のタグチです。よろしく。」
そのタグチ先生がわたしのベッドの横に座り、カルテらしきものを書き込むような物音を聞きながら、
わたしはようやく、返事を絞り出す。
「どうです、ご様子は。」
「はあ、少し体が痛いです。」
「軽度の打撲と火傷です。もう、大事はないので強い痛み止めも使っておりません。」
「はあ。」
「アリューシャ・シュトランビスキィーさん。いくつかお聞きしたくて今日は伺いました。」
「ミーシャとみんなに呼ばれていて、先生、ミーシャでよいですわ。」
「わかりました。ミーシャさん」との言葉のあと、先生が身を乗り出す気配がして、
「あなた、『今』、何処にいますか?」と問う。
何処にいますか、などと、
わたしは、今まで、
アンティキティラの都市を後にして、姉の月イーエッサイと妹の月レムの下、クレーターを抜け、
そして彼の母に出会って、と説明しながら、包帯で覆われていない方の目を薄く開ける。
「そうですか。つまりその、あなたの『今』居る場所は、彼の、ノア・ユル・アールス人の住む世界なのですね。」
「ええ、そのようですわ。」
ようやく焦点の合うわたしの目に白衣姿のタグチ先生の顔が浮かぶ。それは、
硬質樹脂のような顔面にするどい牙を具えた口元、機械のアンテナのような触角、そして、いかつい複眼を持った昆虫型人種そのものであり、カミキリムシの顔を思い出させた。
ある意味すごく、カッコイイ。
「精神体のみの存在である彼らの、ノア・ユル・アールス人の世界、そして銀河中央に、今、あなたはいるのですね、ミーシャさん。」
「はい、先生。何処か遠い惑星に。うふふ。」、と、わたしは、笑いをもらす。
「? 何かおかしいですか?」
「いえ、先生。先生のお顔、わたしたちから見ると表情がまるで分かりませんのですけれど…。」
「はい、よく云われます、『お前はなんて無表情なんだ!』と。表情がないとか、そういうものではないのですが。」
「それが、先生。さっきからずっと、お声だけ聞いていたら、すごく、困ったお顔が思い浮かべるのですもの。」
「はい、実は、わたし大変困っています。」
タグチ先生はもう一枚のカルテをめくり、
「彼は。そう、彼は無事なんですね。」
「はい。」
「あなたの中に、生きている?」
「はい、一時、彼はわたしの中にいました。もう遊離して、箱に。」
「箱?」
「はい。『こちら側』で、仮りそめの媒体に、螺鈿の箱に入っております。」
「そうですか。彼が一時的にあなたの身体に入ったとき、精神汚染の感覚は?」
「いえ、多分、ないと思います。」
「はい、検査でもあなたの脳波に精神融合の兆候が診られませんでしたよ。」先生はポケットからペンライトを取り出すと、わたしの眼をのぞき込む。
「そう、彼、『こちら側』のユリシーズの体ですが、もう本当に肉片だけでね。それで、彼の症状をどう書いてよいものやら。培養液に入っています。このくらい、梅酒のビンぐらい。」、と云って、
先生は大きさを手で示す。わたしは、思わず、ぷーっと吹き出してしまう。
「なんですか、失礼な。わたし梅酒好きなんです。悪いですか?梅酒。梅酒は体に良いんです!」
「いえ、すいません。思わず。」
「まあ、無事なら何よりなんですけどもね。まあ、今日伺いたかったことは、事故直後のことでね。」
「はい。」
「あなたはレースの最中にユリシーズのサイクロンがトラブルを起こすのを確認し、そして、レースを中断して引き返したんですね。」
「はい、わたしは備え付けの小型消化器を持って降りて…、そうすると、彼のマシンは既に燃え上がっていて、炎に包まれていて、」
「その後どうしました?」
「炎を消して、彼を助け出そうと、すると、燃えている彼のサイクロンの数メートル先まで来たとき、突然爆発して、わたしは、こう、のけぞるように倒れて。それからは、事故のことそのものはどうやら覚えていません。」
「爆発とはどんなものでした?」
「彼のサイクロンに近づいたとき、何か真っ白い強い光がして、わたしは、吹き飛ばされ。そのあと、爆風と爆発音がして。」
「ふーむ」と、タグチ先生は何度か頷きながら、何かを考え込んでいたが、やがて、答る。
「その強い光はユリシーズだった、ということですね。」
「はい。」
「彼の事故は偶発的な事故であったと思います。彼は咄嗟にあなたの中に飛び込み、あなたと合一して、あなたを自身のサイクロンに近づけないようにすることによって、爆風からあなたをも助けたのでしょう。」
「はあ。」
「銀河中央政府を構成する多くの種族は精神体のみの存在だと聞いています。彼もその種族の一人でした。
彼にとって肉体とはただの乗り物なのでしょう。しかし、彼はレース中に身体を失ってしまった。」
「そうです、先生、わたしが燃えさかる炎を前に彼を助けようとして、
その時、燃えさかる炎の中から、まるで中性子線のようにわたしの心に飛び込んでくる、真白い光、真白い光のようなものを」、そして、この真白い光は、彼なのだと。
わたしは、既に自意識の位相がシフトしていることを感じながら、彼をゆっくり抱きとめて、
そして、つながった、
のだと、彼の住む世界と。まるで、
光の粒のように見える彼の精神体に導かれて、わたしは、ベイビーユニバース - それは、わたしたちからすればナノ単為よりもはるかに細い小さい径のチューブ、そんな多次元時空間がおりたたまれて内包された宇宙が素粒子間を突き抜けて現世宇宙のどこまでも繋がったもの - に吸い込まれ、
銀河中央のノア・ユル・アールスまで飛んでゆくのを目の当たりにしている。彼の強い位相隔壁によって隔てられている心の壁は、精神体こそこの世の確実なる存在であることをわたしに教え、
今まで、物質と思っていたものは、逆に、素粒子の霞でできあがった、もやもやとした幻影のようなものと知る、このとき、
わたしは彼との意識の接続によって、彼らの世界の一部を瞬時に理解する。気づけば、
銀河中央にあるノア・ユル・アールスの星にたどり着き、
いつのまにやら白い更紗を着て、アンティキティラの町外れのアルファルファの丘のうえに佇んでいる、今にも、
これから起こるであろう、数々のできごとや試練に、気を失いそうになりながら。
そしてどうやら、わたしは、その後、こちら側でも覚醒して、同時に、ベイビーユニバースを通じてノア・ユル・アールスにも、今、いるようなのです、「先生」、と、
わたしは、言葉を綴じる。タグチ先生は疲れたように、ふうーと、ため息ひとつつくと、
「あなたは、お嫁にいった、ということですかね。」、とだけ答えた。
#7
そうして、わたしは気持ちのよい風に目を覚ませば、暮れてゆく空の水色に二つの月の白がわたしの眼に映える、それは、姉の月イーエッサイと妹の月レム。
アンティキティラの街中に在るこの小高い丘にはアルファルファの若葉が敷きつめられ、わたしは、
いつしかうたた寝をしていたらしい、傍らに、
夕飯のための野菜をいれた買い物カゴと、螺鈿の箱、そして、彼の脳髄はまだ螺鈿の箱に。
遠く空向こうに、機械に覆われた空中都市のような姿をした巨大な輸送船、アルキ・ノ・ギガンティアが、
ゆっくり飛び上がってゆくのが見える。もちろん、ベイビーユニバースを通じて、わたしたちは、
銀河のどこにでも行けるので、それは、交易用輸送船としての利用に過ぎない。いつしか、
わたしは、彼の生家の一室に再生された彼の肉体を思い出している。
わたしは、螺鈿の箱を胸に抱き、木で作られた家の黒い廊下を、彼の母の後に歩いてゆく。彼女は、
その廊下のつきあたりの部屋に彼の再生された身体があるのだと云う。
ただその時わたしは、つややかな板敷きを踏みしめ、彼の母の背中を眺めながら、今ひとつ理解しかねている事項を何とかわたしの血肉に取り込もうとしている、それは、
アントラ・ヴール家も含め彼らノア・ユル・アールス人が常にこのような生命を弄ぶかのような遊戯を重要な決定事項に挟み込むという生活習慣について、である。
それが、銀河中央に生きるということの苛酷さの現れであるのか、いにしえの民の成人式ように、
これは死を賭した試練であるのか。あるいは、
殿上人は、ただ、手中におさまる小さな舞台の上において、死の遊戯に辺境のものたちがのたうつ姿を愛でるに過ぎないだけであるのか、よく、分からないでいる。それを、
尋ねてみたいと思うところで彼女は振り返り、ここに再生された彼の肉体があるのだと云って、
表面に紙が張り付けてある木戸を開けた。すると、まず、
ひとふさの春風のみがわたしたちを出迎え、そこには、
イグサを編んで作られた涼しげな床面の布団に白い木綿の寝間着を着て寝ている彼の肉体が、まるで、魂がすでに入っているかのように、すやすやと寝息をたてている。部屋には、
庭に面した大きな引き戸が開けられており、そこから柿の木や椿などの庭木が植えられた庭が覗き、
優しい風が吹き込こんで、彼の肉体を通り抜けてわたしに向かって流れこむ。
こうしてみると、まるで聖人のような彼の肉体の前で、
わたしは暫く、床面に正座し、その安らいだ寝顔を眺めている、
が、おもむろに彼に聞いてみる、
「あなたの体できたみたいよ。戻りたい?戻ろうか?」
ノーの灯火。
「え?体できたんだよ。戻りたくないの?」
イエスの灯火。
「『もう少しこのままでいたい』だって?何で?」
イエスの灯火。
「『理由はうまく云えない』って、何だよ。せっかく、肉体があるのに。」
彼らノア・ユル・アールスは精神体だけの存在であっても、それを維持させるためには、生物として存在する肉体が必要なのだと、
わたしはこちらの世界に来て知った。そして、彼の母は、こうも云った。
肉体が変化すれば、精神体も変化してしまう、だから、精神体として存在する彼にも彼だけの形態を持った肉体が必要なのだと。戻ってくれないと困るのに、と、云って、彼の母は、
穀類の粕を使用した野菜の塩ピクルスをわたしと共に作りながら、
悪い癖になるといけないので、暫くしたら、箱からたたき出しましょうと、笑った。
男たちはときどきこういった箱に閉じこもりたがるのよ、と。
そうして、わたしは、星官大学からひと月ほどの療養期間を得て、そして、半年後に彼との婚姻をひかえて、今、こうしてアルファルファの丘に寝転んでいる。気づけば、
何人かの様々な星の女たちが丘のうえでくつろいでいる、あの、暮れてゆく深い水色の空ですでに成層圏あたりまで到達したかにみえる、アルキ・ノ・ギカンティアを眺めながら。
見れば、幾人かの女たちは、螺鈿の箱をかたわらに置いているのが伺える、空に、
姉の月イーエッサイと妹の月レムを浮かばせるまま、腰に四角い菜切り包丁を下げ、気持ちのいい風に木綿の白い更紗をなびかせながら。しかし、
わたしは、ふいに彼の母が口にした言葉を反芻して、この深遠なる銀河中央にたどり着いた自分が、
玲瓏なる高き山頂に辿りついたすえに、さらにその真上に天界があることを悟るように、若しくは、
わたしがノア・ユル・アールス人へと帰化したことの証しであろうかとも訝しみ、そして、
じわじわとして、怒りによく似たものが込み上げてくることを感じ始めている。彼女の、
彼を指して云う。
飛べない鳥、飛べない鳥。
その言葉に、わたしは、
ぽつり、あぶくのような呟きを漏らす。
「アショール…(阿呆か)」
(おしまい)
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