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冷たい雨
作:みはる



第七章 その3


    3


 翌日萩原が部長室に呼び出されたのは、営業が始まってすぐの九時五分だった。
「──萩原くん、今回のことは実にきみらしくなかったね」
 部長室の大きなデスクの席に着き、本田本店営業部長はしかめ面をした。
「申し訳ありませんでした」
 前に立った萩原は深々と頭を下げた。「処分は覚悟しています」
「それなんだがねえ、萩原くん……米倉くんが頑ととしてきみの降格を求めて引き下がろうと
しないんだ。いくらきみの方が役職が上とは言え、五年も先輩の自分を殴るとは許せないとね。
そんな人物は係長に相応しくないと、そう言い張るんだよ」
「米倉主任のおっしゃるとおりだと思います」
「いや、だからと言うてそう決めたわけやないんや」
 同席していた貸付二課の斉藤課長が言った。「あのときは私もフロアにいたが、米倉くんも
きみにいろいろと言うてたみたいやし」
「はあ」
「それで、これまでのきみと米倉くんとの様子を他の行員たちにも聞いてみたんだ。山本くん
とかね。そうしたら、きみも今までいろいろと我慢させられていたと言うことが分かってね」
 部長は言った。
「でも、だからと言うて暴力はいけなかったと思います」
 萩原はあえて謙虚な姿勢に出た。別に降格させられても構わないと思った。今までが
ちょっと早すぎたのだ。
「そこでだ、萩原くん。せっかく人よりも早く係長になったんだから、ここできみを内輪の
もめ事で降格させてしまったのでは、将来のあるきみにとっては大きなマイナスだろう。
きみの能力に大いに期待している私としても残念だ」
「……ありがとうございます」
 嘘をつけ。在任中に降格者を出したんでは、自分の出世に響くからや。萩原には部長の腹が
読めていた。
「福岡へ行ってくれるか」部長は唐突に言った。
「あ、はい」萩原も咄嗟に返事をした。
「博多支店や。最近、向こうの貸付係長が交通事故に遭うてな。どうやら長引きそうなんで、
早急に人員を補充してくれと人事に言うてきたらしい。何しろ福岡では最大店舗やから、
めっぽう忙しいんや」課長が説明した。
「分かりました」と萩原は頷いた。「それで、いつからですか?」
「向こうは一日も早くって言ってきてるらしいんだが、こっちにも引き継ぎがあるからね」
 部長は考え込んだ。「まあ、来週一杯でこっちの仕事を片付けてもらって、その次の月曜
からと返事しておくよ。辞令は明日にでも出るだろうがね」
「分かりました。ご面倒をお掛けして申し訳ありません」
「早くて半年──遅くとも一年で呼び戻すから」
「なに、きみやったら向こうでもすぐに馴れるよ」課長は言った。「きみは人当たりがええ
からな」
 そう思ってると今度はあんたが殴られるでと、萩原は心の中で舌を出した。

 部長室を出た萩原を待っていたのは山本だった。
「どうやった? やっぱり降格か?」
 萩原は首を振った。「博多支店やて」
「そうか……」
「おまえ、部長らに俺のフォローしてくれたんやて?」
「殴ったのはおまえやけど、悪いのはあのおっさんやからな」
 山本は腹立たしげに言った。「青山も言うてくれてたぞ」
「いろいろ悪いな」
「気にすんなよ。で、いつからや?」
「再来週の月曜からや。来週一杯は大忙しやな。おまえにも引き継ぐことがあるやろうし」
「萩原……」山本はじっと萩原を見つめた。「おまえ、ほんまにええんか?」
「サラリーマンがいちいち転勤を嫌がっててどうする?」
「けど、向こうには何のおとがめもなしやぞ。喧嘩両成敗って言うやないか」
「向こうのことなんてどうでもええんや」萩原は言った。「この街から出られるんなら、
俺はそれでええ」



 その日の午後、萩原より一足先に大阪をあとにしたのが一条だった。
 宝石強盗事件は思わぬ結末に終わり、一条はまたしても自分の手で犯人を挙げることが
できなかった。
 それどころか、容疑者全員死亡という最悪の結果を招いたことで、帰ってからの彼女には
極めて厳しい事態が待っているに違いなかった。
「──二週間近く前にここへ来たのが、遠い昔のように思えるわ」
 新大阪駅の新幹線上りホームで、一条は懐かしそうにあたりを見渡しながら言った。
「ホームに降り立ったとき、みんなが敵に見えちゃって」
「今はどうなんだ?」と芹沢は訊いた。「みんなお友達に見えるか?」
「さあ、どうだか」一条は肩をすくめた。
「まあ、おたくはそんな単純なタイプじゃねえよな」
「鍋島くんによろしくね。彼にもいろいろ言っちゃったけど、感謝してるって」
「ああ、言っとくよ」
 列車の到着時間が近づき、ホームにいた人々は足下に書かれた乗降口を示す番号の前に列を
作り始めた。芹沢と一条はもう話すことが思い当たらず、黙ってホームの先を眺めていた。
 やがて新幹線の姿が現れた。夏の光に反射した車体が陽炎の中に揺れ、ゆっくりとこちらへ
近づいてくる。頭上のスピーカーからアナウンスが流れた。
 一条は芹沢に振り返った。「……じゃあ」
「元気でな」
「ねえ」いくぶん切迫した声で一条が言った。「あたしが、本気になったって言ったら?」
 芹沢は一条を見下ろした。無感情な顔だった。
「何のことだ」
「あれから、あなたのことが頭から離れないのよ」
「なに言ってんだよ」と芹沢は鼻で笑った。「恋人が首を長くして待ってんだろ。出張先での
遊びのことなんか、さっさと忘れちまえよ」
「遊びなんかじゃなくなったって──」
「おい、どうしたんだよ急に」芹沢はやれやれとばかりに溜め息をついた。「もたもた
してたら乗り遅れちまうぜ。そうなったら俺が課長に文句言われるんだよ」
「あなたはどうだったの?」
「いいから、乗れよ」
 芹沢は一条の背中を押して列車に乗り込ませた。中に入った彼女は乗降口に立ったまま
振り返った。
「あのとき、少しでもあたしを──」
「それを訊いてどうなる? 今さらどっちだっていいじゃねえか」
「いやよ。あたしやっぱり──」
 足下に置いたボストンバッグを取り、一条はホームに下りようとした。
「やめてくださいよ、警部」
 芹沢は彼女の肩を掴んだ。そしてゆっくりと押し戻し、口の端に少しだけ笑みをたたえて
言った。
「……下っ端をいじめないでくださいよ」
「芹沢くん……」一条は眉をひそめた。「そんな言い方しないで」
「これが正しい接し方なんです」
「だったらせめて、ちゃんと答えて」
「何をですか?」
「あの夜のことよ」
 そう言った一条の瞳は、微かに潤んでいた。
「そりゃあもちろん──」
 芹沢は顔を上げた。そして白けた眼差しで、
「傷ついてるあんたを慰めた、ただそれだけです」
 と言うとすぐにその場を離れた。

 ドアが閉まり、列車は動き出した。


 駅を出た芹沢が停めておいた車へ戻ると、そこには鍋島がいた。
「来てたのか」
「ああ、ちょっと息抜きに」
 助手席のドアにもたれかかった鍋島は言った。
「お荷物が帰ったぜ」
「嘘つけ」鍋島はにやりと笑った「名残惜しかったくせに」
「別に」芹沢は車に乗り込んだ。
 エンジンを掛け、後ろから通り過ぎていくタクシーの流れの切れ間を伺っていると、隣に
乗り込んだ鍋島がぽつりと言った。
「マジやったんやろ」
「何のことだよ」
「とぼけるな。彼女のことや」
 芹沢は窓の外を見たままだった。「……男がいるんだぜ」
「身を退いた、ってわけか。おまえらしくもないな」
「どうせあっちもすぐに忘れちまうさ」
 そう言うと芹沢はハンドルを切った。












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