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冷たい雨
作:みはる



第七章 その2


      2


 いやな気分やな、と鍋島は思った。
 丸山和子が娘の言うとおり、夫を頼って生きて行くだけしか能のない女だったというの
なら、最後に彼女がやったことにはどんな意味があったのだろう。夫に愛人ができたと
知ってもじっと我慢した。その夫が犯罪を犯し、そのせいで自分と娘が何者かに命を
狙われていると知らされても耐えて仕事を続け、生活を守ろうとした。その結果が、
娘の逮捕だった。そして夫からの遅すぎるラヴ・コール。彼女はそのとき何を考えたの
だろう。娘を人殺しに走らせた憎い連中への報復だったのか。自分だけが何も知らされて
いなかったことに逆上し、夫に初めての抵抗をしたのか。それとも、やっぱり自分独りでは
生きていけないことに悲観し、思い余って死を選んだのか。
 鍋島にはまるで分からなかった。彼にしてみると、女性にべったり頼ってこられることは
一番の苦手だった。挙げ句に心中なんか思いつかれたのではたまったものではない。
「──巡査部長」
 声を掛けられて彼は顔を上げた。いつの間にか刑事部屋には彼一人で、他の連中は見当たら
なかった。芹沢の姿も見えない。廊下に振り返ると、婦人警官が一人の女性を連れてこちらを
見ていた。
「お客様ですよ」
「ああ……」
 鍋島は立ち上がり、客というその女性に言った。「久しぶりやな」
 その言葉にチャーミングな笑顔を見せた女性は、野々村真澄だった。


 署を出て、中之島の堂島川沿いの遊歩道を歩きながら、鍋島は真澄に振り返った。
「この前会うたん、いつやった?」
「五月よ」と真澄は即答した。「ゴールデンウィーク明けの日。麗子の家で」
 彼女はいつでもこうだった。鍋島と会ったときのことは、何でもよく覚えている。
「せやったな」
 逆に鍋島はこれまた相変わらずで、刑事のくせに、過ぎたことは一つ一つ細かく覚えて
いない。
「ぱっと見たとき、どこの美人が俺を訪ねてきたんかと思たで」
「また、からかって」と真澄は嬉しそうに微笑んだ。「中年オヤジみたいよ」
「そうか?」と鍋島も笑った。「けど、ほんまやで」
 真澄ははにかんで俯いた。そして再び顔を上げたときには真顔になっており、鍋島をじっと
見つめて言った。
「この前、中大路が来たんやってね」
「あ、ああ……そう言えば、来られたっけ」
 鍋島はわざとらしいとぼけ方をした。真澄はそんな彼の様子に顔をほころばせた。
 鍋島は言った。「ええ人やな」
「普通の人よ」
「それって、大事やぞ」
鍋島は大真面目だった。「それに──真澄のことをほんまに大切に思ってはるよ」
「あの人、勝ちゃんにつまらないこと言うたみたいね」
「せやったかな? 何を話したのかよう覚えてへん」
「しらばっくれちゃって。あの人に聞いたから」
「そうか」
 鍋島は頷いた。誰にでも、何でも隠さずに喋る男やなと思った。
「勝ちゃん、否定してくれたんやてね」
「当たり前やろ」
「言えへんわよね、本当のことなんか」
「だいいち、今となってはそんな話は遠い記憶の彼方やろ」
「さあ、どうかな」真澄は悪戯っぽく言って鍋島を見た。「今でも勝ちゃんの方が好きかも」
「アホなことを」
「でも、何で分かったのかな、あの人」
「それだけおまえに惚れてるって証拠や」
「そう言えば、あたしかて勝ちゃんが麗子のことを好きやって分かってたもんね。勝ちゃん
自身が気づくよりも先に」
「俺のことはもうええから」
「ごめんごめん」真澄は笑って言うと、やがてその笑みを消した。「勝ちゃん」
「うん?」
「あたし、あの人と結婚するわ」
「そうか」と鍋島は頷いた。「良かったな。おめでとう」
「あたし、気がついたの。あたしは勝ちゃんのことが忘れられへんからあの人との結婚に
踏み切れへんかったっていうだけやなくて、自分がいい奥さんになれる自信もなかったん
やって。もちろん、あたし今でも勝ちゃんのことは大好きよ。けどそれだけじゃなくて、
いつまでも気楽に、楽しくワイワイやってたかったっていうのもあったのよ」
「誰かて、結婚してすぐにええ嫁さんやええダンナになるわけやないのと違うか」
「そうなのよね。でも、あたしは世間知らずのくせに何にでも完璧を求めようとするでしょ。
せやからどうしても二の足が出えへんかったの」
「相変わらず、完璧主義なんやな」
「それに、あたしがいつまでも迷ってると、それだけで麗子や勝ちゃんに気を遣わせるもんね」
「結婚は他人の顔色を見て決めるもんやない。自分の気持ちだけで決めることや。だいいち、
俺も麗子もそんなこと気にしてないよ」
「そんなことないわよ。麗子、やっぱりあたしに遠慮してるもの。ほんまは早く勝ちゃんと
結婚したいって思ってるに違いないわ」
「真澄……」
「勝ちゃんはそのつもりなんでしょ?」
「ああ……うん」鍋島は俯いた。
 真澄はそんな彼を見てちょっと困ったように笑った。
「ほらまたあ。自分のことになると急に自信がなくなっちゃうんやから」
「そんなことないよ。あいつしかいてへんと思ってる」
「それを聞いて安心したわ。麗子もきっと喜ぶわ」
「あ、でも──」
「分かってる。あたしは何も言わへんから。勝ちゃん、いつか麗子に言うてあげてね、
今の言葉」
「うん」
 真澄は飛びきりの笑顔を見せると、そのまま光が溢れる堂島川に振り返った。その拍子に、
淡いピンク色のワンピースの裾が、心地よさそうに踊った。
「大阪に来るのも久しぶり」と真澄は言った。「去年までは、ほんまに良く来てたのに」
 その横顔を眺めて、本当に綺麗になったなと鍋島は思った。

 












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