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冷たい雨
作:みはる



第五章 その5(後)


 それから萩原は部屋に上がり、今までの経緯を告白した。今夜のことだけでなく、榊原に
対する美雪の今の態度や誕生会のこと、そして萩原が榊原に会って話したことのすべてを、
まるで朗読でも聞かせているかのように打ち明けた。鍋島は萩原が話し終わるまでは時折
簡単に質問をする程度で、あとは黙ったまま何の意見も言わなかった。それはあたかも、
彼がいつも西天満署の取調室でやっているのと同じような光景だった。
芹沢はというと、ダイニングのテーブルで一人頬杖を突きながら、一歩退いた感じで
リビングの二人の様子を眺めていた。

「──自分でも、ひどいことをしたと思うよ」
 ロー・テーブルの前に座って俯きながら、萩原は今にも消え入りそうな声で言った。
「はっきり言うて、そのひとことに尽きるな。おまえがそこまで自制心のないやつやとは
思わへんかった」
 萩原の向かいに座った鍋島は不愉快さを露わにして言った。
「そう言われても仕方ないんや」
「これっきりにしようと決めたからと言うて、俺はそれで済んだとは思わへんけど」鍋島は
萩原を見た。「あっちの旦那にはもちろん内緒なんやろな」
「もちろんや」と萩原は顔を上げた。「智子が良くても、俺は──」
「そらそうやろ、見事に裏切ったんやからな。美雪ちゃんのことでおまえにいろいろ気ィ
遣ってくれた人やていうのに」
「……その通りや」
「おまえと智子の間に、どういう気持ちの行き来があったかは知らんけどな。智子はおまえの
方から離婚を言い出した相手やぞ。言うてみりゃ、おまえが捨てた女や」
「ああ」
「しかも、今は他人の女房なんやで」
 鍋島は畳みかけるように言うと煙草を吹かし、苛立ちを隠そうともせずにその煙草を灰皿に
押しつけた。
 そして今度は突き放すように言った。
「不倫や、不倫。おまえら今どき不倫してるんや」
「鍋島、そう食ってかかるなよ」
 ここで初めて芹沢が口を開いた。鍋島は振り返った。
「その人だってそれがよく分かってるから、ひどいことしたって言って苦しんでるんじゃ
ねえか」
「苦しむぐらいやったらそんなことせえへんかったらええんや」
「……刑事(デカ)の考え方だ な」と芹沢は鼻白んだ。
「違う。俺自身の考え方や」と鍋島はむきになった。「萩原は犯罪者やないんや」
「じゃあそう言うことにしといてやるよ。けど、今はそう言ってても、お前だってその人の
立場に立ったらどうなるかなんて、本当のところは分かったもんじゃねえぞ」
 そう言うと芹沢は萩原を見た。「俺は彼女の方にも責任はあると思うけど。離婚の時は
どうであれ、少なくとも再婚は自分の意志で決めたんだろうしさ。それを今になって
おたくへの気持ちをあれこれ言ってくるなんて、それが誘い水になるってことが分からねえ
わけじゃねえだろうに。ちょっと罪だぜ」
「智子にも、それはよう分かってるんや」
「そりゃあ俺だって気持ちは分かるよ」と芹沢は笑った。「俺だったら、相手に亭主が
いようといまいと関係ねえからな」
「おい、芹沢」と鍋島が口を挟んだ。
「分かってるよ」
 芹沢は鍋島に言うと頬杖を突いて続けた。「まあ、誰に限らず、結婚しちまうと途端に
隣の芝生が青く見え出すって言うじゃねえか。そんな場合、別の新しい相手に目が行くやつが
ほとんどだろうけど、中には昔の恋人を思い出すやつだっているだろうし」
「いや、俺と智子はそんな──」
「もっと純粋だって言いてえの?」芹沢はすかさず言った。「たった一日で恋に落ちることも
あるとは思うけど、俺はそれがまったくの純愛だなんて思えないけどね。結局のところ、
自分たちの現状があまり面白くねえってことの現実逃避から始まってるんじゃねえの?」
 萩原は黙っていた。鍋島の半ば感情的とも言える批判には、彼との長い間のつき合いで
慣れっこになっていたが、鍋島を通して数回顔を合わせただけの芹沢とは、ろくに話した
ことなどなかった。それだけに、彼の冷ややかだが的を得た話し方は、その考えの中に
いくぶん屈折した渇きのようなものを感じながらも、萩原には耳の痛いものだった。
 やがて顔を上げた萩原に、芹沢は最後にこう言った。
「今夜のことを正当化したり、綺麗な思い出にしない方がいいと思うぜ。でないと、いつまで
も抜け出せなくなるからさ」
 そして彼はゆっくりと視線を逸らし、「経験者は語る、ってやつよ」と呟いた。


 依然として激しい後悔の念に押し潰されそうになりながらも、萩原は引き留める二人を
押し留めて、逃げるように帰っていった。
 玄関先まで出て彼を見送った鍋島と芹沢はやがてダイニングに戻ってくると、共に大きな
ため息を漏らして腰を下ろした。
「あんなにひどく後悔するあたり、ほんとにデリケートなんだな」
 芹沢は言うと缶ビールの残りを飲んだ。鍋島はテーブルの煙草を取って一本抜き取り、
火を点けた。そして勢い良く煙を吐き出すと、そのついでに言葉も吐き出すような言い方で
呟いた。
「──あいつがどう言い繕っても、結局は亭主の留守中にその女房を寝盗ったってことやろ」
「そう言うなよ。誰だって昔の女にしなだれかかってこられちゃ、手を出さねえ方がおかしい
ってもんだろ」
「そう考えるおまえが特別なんや」
「どうだかな。そんなの紙一重じゃねえのか? おまえでもよ」
「俺をおまえらと一緒にするな」
 鍋島は心外だとでも言うようにふんと鼻を鳴らした。
「へえ。てめえだけずいぶんお高いところへ持ち上げてるんだな」
 芹沢は振り返り、彼もまた嘲笑うように鼻白んで言った。「何かよ。美人の秀才とつき合う
ことがそんなに偉いのかよ」
 鍋島は顔を上げた。「おい、どういう意味──」
「確かに」と芹沢は鍋島の言葉を遮った。「確かに、俺はもうとっくの昔に女なんて誰でも
よくなっちまってるよ。おまえの友達ダチだって、前の女房と未練たらしいことを
やってるかも知れねえ。けど本当は誰だってそんなことにはなりたかねえんだ。みんな、
おまえとおまえの彼女みたいにやれればいいと思ってるのさ。けどそれができねえから
悩むんだろ。他人の女房に手を出したって言うけど、知らなかったわけじゃねえ。ちゃんと
分かってて、それでもやっちまうんだから、後でああやって落ち込むんじゃねえか」
 鍋島は憮然として腕を組んだ。芹沢は続けた。
「それをおまえみたいに教科書通りの理屈で押し通して、ガンガン頭ごなしに非難されたら
たまったもんじゃねえよ。女を好きになったり抱いたりするのは、そんな太古の使い古しの
公式みたいに、決まり切った法則で説明のつくもんじゃねえだろ?」
「それやったら何をしてもええって言うんか」
「どうせ分からねえんだよ。何でも真正面から向かっていくことしか知らねえおまえにはよ」
 芹沢は言うと立ち上がり、椅子の背に掛けていたブルゾンを掴んで鍋島を見下ろした。
「どうするよ。帰れって言うんなら帰るぜ。ここまで言われちゃおまえだって気分悪りぃ
だろう」
 鍋島は煙に目を細めながら芹沢を見上げた。じっと視線を逸らさずに睨みつけると、
やがてふんと笑って目を閉じ、言った。
「ここで帰れなんて言うたら、やっぱり了見の狭いやつやて言われるに決まってるしな。
俺はそんな器の小さい人間やないつもりや。いてくれて結構」
「前半の台詞がなきゃ、もっとでけえ人間だって言われただろうぜ」
 芹沢は顔を背けた。



 大阪港周辺は一部に水族館やマーケットプレイスが建設され、大阪のウォーターフロントの
リゾートタウンの先駆けとして、今や休日ともなると多くの若者や家族連れで賑わっていた。
しかしそれ以外の一帯はどこにでもある工業地帯で、夕陽に照らされると不気味に輝く石油
タンクが群立する中をコンテナ船やフェリーの行き来する、決して美しいとは言えない光景が
広がっていた。
 今度の死体は、そんな殺風景な夜の海に浮かんでいた。
 死んでいるのはやはり女性だった。静かに揺れる海面から半分だけ姿を現し、波に揺られて
時折コンクリートの岸壁に打ちつけられていた。港の街灯に照らされて鈍く輝く海水に洗われ、
一見無傷のようにも見えた。けれども着ている洋服の背中が切られており、彼女が溺れて
死んだのではないことが分かった。長い髪を束ねていた白いリボンがいつの間にか解け、
今は首に絡みついている。うつ伏せで顔は見えなかったが、洋服の色が決して年配向きとは
言えない鮮やかなオレンジ色で、ここで殺されなければ彼女はまだ先の長い人生を送ることの
できる年齢なのだと推測された。
 今は真夜中の二時で、この死体に気づく者は誰一人として通る気配はなかった。この汚い
水の中から引き上げてもらうには、気の毒だが彼女はもうあと三、四時間は我慢しなければ
ならないだろう。
 その上、この死体のおかげで、大阪港とは十キロも離れた西天満署の二人の刑事が、
一週間ぶりにもらったわずか半日の休みを返上させられる羽目になるのである。

 ──いったい、誰がこんなことを繰り返しているのだろうか。













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