冷たい雨(36/52)縦書き表示RDF


冷たい雨
作:みはる



第五章 その4(後)



 一時間後、二人は加納美咲がピアノを弾く例のバーのテーブル席に座っていた。
 萩原がこのバーを選んだのは、五日前に自分が一夜を共にした女性の目の前で智子と
会えば、彼女に対する未練がましい気持ちが冷めるだろうと考えたからだった。
 美咲と顔を合わせるのもあのとき以来初めてだったし、自分はきっと彼女のことも
気になるに違いないと彼は思ったのだ。ただ一つ心配だったのは、美咲が何らかの手段を
使って智子に自分との関係を喋ってしまうかも知れないと言うことだった。そうなったら
智子は俺のことをどう思うだろう。そう言う関係のある女性の前に自分を連れてきた俺を
軽蔑するかも知れない。でも待てよ。そうなったらそれでもええやないか。そうしたら、
智子も二度と俺に会いたいなんて言い出すことはないやろう──。
 しかし、加納美咲はまったく意に介してないようだった。と言うよりむしろ、萩原が
自分の前に女性を連れてきたことを歓迎しているようだった。時折ピアノ越しに彼と目が
合うと、その視線を自分に背を向けて座っている智子に移してにっこりと微笑んだ。
きっと彼が、あのとき彼女の言っていた「本当の愛」というものを見つけて、その相手を
自分に披露しに来たとでも思っているのだろう。それが証拠に、彼と智子が店に入ってきて
以来、美咲は恋人たちを祝福する内容のラヴ・ソングばかりを弾いていた。

「──素敵なお店ね」智子は囁くように言った。「あなたの好きそうなお店」
 彼女は自分の前に琥珀色のカクテルを置き、背筋を伸ばして静かに座っていた。V字型に
広く襟の開いた真っ白のワンピースを着て、耳からはゴールドのイヤリングを下げている。
短くカットされた栗色の髪がかえって女らしく、白い肌によく似合っていた。
「智子」
 萩原はぼんやりと智子を眺めながら言った。彼女は顔を上げ、優しい微笑みを浮かべて
彼を見た。
「俺は変わったかな」
「変わったって?」
「そんな気がする」
「誰かにそう言われたの?」
「そうやないけど」萩原は顔を上げ、言葉を探しているような表情をした。 「何か……
とてつもなく小さい人間になってしもたみたいな、そんな気がして」
「そうは思いたくないけど」と彼女はグラスに視線を落とした。
「自分でもときどきそう思うんや。こんな人当たりが良かったかなとか、いつの間に
こんなに気配りが行き届くようになったんやろとか。それはそれでええことなんやろうけど、
何か──個性がなくなってしもたというか……」
 萩原はグラスの氷を鳴らした。
「確かに、前の萩原くんはもっと研ぎ澄まされて、それでいて荒削りなところがあったように
思うわ」智子は言った。「いい意味で、どこかとても危険やった。不用心で無神経な人間が
触るとたちまち傷つけられてしまう、よく研がれた鋭い刃物みたいで」
「大人になったんかな」と萩原は笑った。
「だとしたら、成長なんてつまらへんもんやね」
 そう言って智子も微笑んだ。
 萩原はじっと智子を見つめていた。そして、今から自分が言おうとしている言葉を彼女が
どういう意味に取ろうと構わないという決心がつくまで、何も言わずにいた。彼女は彼の
気持ちを何とか読み取ろうとしているらしく、大きな瞳を一杯に開いて少し身を乗り出し、
彼の顔を覗き込んだ。
 やがて彼は言った。
「戻りたいと思うよ、二年前に」
 智子は俯いた。細い指をカクテル・グラスの脚に絡ませ、褐色の液の底に静かに沈む
チェリーの実をじっと見つめている。そして小さく息を漏らすと、ゆっくりと顔を上げて
萩原を見た。
「あたしもよ」
 萩原は小さく頷いた。テーブルの端に置かれた細長いグラスに丸めて入っていた伝票を
取ると、もう一度智子を見つめ、言った。
「行こう」
 二人は立ち上がり、店のドアへと向かった。キャッシュカウンターでチェックを済ませた
萩原がちらりとグランドピアノに振り返ると、美咲がこちらを見て静かに笑っていた。
 彼は何も言わずに向き直り、智子の背中にそっと手を添えて出て行った。


 梅田の摩天楼を間近に見るホテルの部屋で、二人は黙って自分の足下を見つめていた。
 部屋の照明は暗く落とされ、その分窓ガラスを通して部屋一杯に広がった夜景を美しく
浮かび上がらせていた。いつの間にかまた雨が降り、ビルのシルエットが揺れながら空を
昇っていくようだった。
 萩原は窓際に設置されたエアコンに腰掛け、ジーンズの上からふくらはぎに当たる、
穏やかだが冷たい風を感じていた。一方の智子は壁に取り付けられた品の良いドレッサーの
前に座り、まだ膝の上に置いたままのバッグの紐を両手で握っていた。二人とも、病院の
廊下で身内の容態を気遣う家族のように神妙な顔をしていた。
「──今なら、まだ間に合う」
 エアコンの上に灰皿を置き、左手に持った煙草から一筋の煙をくゆらせながら萩原は
ぽつりと言った。
「ええ、そうね」
 智子は鏡に映った萩原の姿を見て、頼りなく頷いた。
「一緒に酒を飲んだだけやから」
「同級生やもの、それくらいのことはあるもんね」
「そこでやめとくべきなんやろうな」
「それは分かりきってるわ」と智子は振り返った。そしてすがるような眼差しで 彼を見ると、
小さく首を振って消え入りそうな声で言った。「でも、今はどうしても気持ちを抑えることが
できひんの」
「俺もや」
 萩原は煙草を消し、彼女を見つめた。「ええんやな?」
 智子は肯定も否定もせず、ただ黙って彼の顔を見ていた。
 彼は立ち上がって彼女のそばへ行った。そして椅子に腰掛けて自分を見上げている彼女の
手を取ると、その腕にもう一方の手を添えて彼女を立ち上がらせた。
 感極まった彼女の瞳は柔らかく輝き、黒目が涙の中で泳いでいた。
 彼はゆっくりと彼女を抱き寄せた。胸の中に彼女を包み込むと、その小さな肩に両腕を
回し、それから背中へと下ろしていった。彼女も彼の背中に手を伸ばし、しっかりと
抱え込んだ。
「──何で、今になって……」彼は辛そうに言った。「……なあ、何でや?」
「分からへんわ」と彼女は呟いた。「たぶん、こういう思いはずっとあったのよ。ただ、
別れてすぐはあなたへの恨みや憎しみの方がずっと強くて、こんな気持ちは自分にも分から
へんどこかに隠してたんやと思う」
 萩原が智子を自分の胸から離すと、二人は一瞬見つめ合い、その想いのすべてを溢れさせる
ように唇を重ねた。
 越えまいと思って必死でこらえていた一線を、二人はとうとう越えてしまったのだ。
そこからはもう、一気に駆け下りて行くしかなかった。
「……自分でも、こんなに罪深いと思ったことはないよ」
 智子から顔を離した萩原は、諦めたように言った。
「結局、いつもあなたをこうして追い込んでるのはあたしなんやわ」
 二人はもう一度キスをした。やがて萩原は智子の背中に手を回してファスナーを下ろし、
そこからゆっくりと指を滑り込ませた。彼女の白い肌が露わになると、ワンピースは衣擦れの
音を立てて足下に落ちた。二人はそのままベッドに倒れ込んだ。

 お互い、知り尽くした相手だった。それなのに二人は初めてこうなったときのことを
思い出していた。つき合いはじめて三ヶ月が過ぎた一回生の十二月、二人は別の友達四人と
信州へスキーに行った。雪焼けの顔が少し恥ずかしくなり始めた三日目の夜、二人は初めて
同じベッドで寝たのだった。
 それから離婚までのあいだ、二人は何度となく肌を合わせた。しかし今夜ほど、初めての
あのときと同じくらいの気持ちの高まりを覚えたことはなかった。それほど今夜の二人は、
相手への溢れんばかりの想いと、禁じられた行為へのずっしりと重い不安が、極限のところ
まで達していたのだった。
「豊……」
 いつの間にか、智子は彼を昔の呼び方で呼んでいた。



 ホテルを出ると、萩原は智子をタクシーに乗せて神戸へと向かった。
 途中、二人は何も話さなかった。何か言うと今夜のことがすべて淫らで薄汚れたものに
なってしまいそうで、二人にはそれが恐ろしく嫌だったからだ。人に言わせれば悪質で
不道徳極まりない不倫ではあっても、せめて二人の間ではそう思わずにいたいと思った。
 勝手な言い方だが、純粋で自然な成り行きだと思いたかったのだ。
 ただしそう考えるには、こんなことは今夜限りにしなければならないと言うことも、
二人には十分すぎるほど分かっていた。

 タクシーが智子の新しい家庭のあるマンションの近くまで来た。萩原は運転手にしばらく
待つように頼み、智子と一緒に車を降りた。
 萩原は戸惑いがちに言った。
「じゃあ──」
「ありがとう」智子は静かに言った。
「ご主人から連絡が入ってるようなことは……?」
「ないと思うわ。あの人、花の買い付けに行くと、そっちに気を取られて電話どころやなくなるの」
「花の買い付け?」萩原の心臓が大きく脈打った。「──それで、どこへ……?」
「富山よ。昔、長野で仕事をしてた時から懇意にしてもらってる取引先があるの」
 後ろから思い切り頭を殴られたようなショックだった。よりによって榊原が、前の家族を
亡くしたときと同じ富山へ行っていたとは。しかも、同じ用件で。
「……これっきりにしような」彼にはそう言うのがやっとだった。
 ゆっくりと歩き出した智子は、すぐに萩原に振り返って言った。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
 ぼんやりと前を見たまま、萩原はうわの空で答えた。
 両手で顔を拭うと、彼はそのまま項垂れた。
 やっぱり、悪質で不道徳な不倫をしたのだった。
「……なんてヤツや」
 彼は吐き捨てた。













ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう