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冷たい雨
作:みはる



第五章 その2(後)


 一方、一条は辛うじて男を見失わずに追っていた。学生時代は短距離の選手で、インター
ハイの出場経験もある。おかげでパンプスでも競技用シューズを使用しているときに近い
走りができた。その割には今一歩のところで男を捉えることができずにいるのは、はいている
ミニのタイトスカートのせいだった。
 その上、彼女にはまったく土地勘がなかった。だから近道を選んで男の前に先回りをすると
いうことができず、ただひたすら男が走ったのと同じ行程をこなさなければならなかったのだ。
 突然、男が進路を左に変えた。一条があとを追うと、そこはパチンコ屋の裏の狭い通路
だった。建物の細長い窓から吹き出すクーラーの排気風がちょうど首筋に当たり、ものすごい
熱さを覚えた。狭い通路の足下にはいろいろなゴミが散乱し、思うように早く進むことが
できなかったが、それでも彼女は走り続けた。
 やがてまた表通りに出て、今度は向かいのサウナの横に伸びる通路へと男は入っていった。
「いい加減にしてよ……」
 一条は大きく息を吐きながら呟いた。周囲の通行人は彼女と男がそばを通り過ぎるときだけ
驚いたように振り返ったが、一緒に追いかけてきたり止めに入ったりするようなことは
なかった。
 彼女は誰かに代わってもらいたいと思った。芹沢はどうしたのだろう。応援を呼んでくれた
のだろうか。五階から下りて来るにはそれなりの時間が掛かったに違いない。そして今頃
自分を捜して、あちこち走り回っていることだろう……。

 突然、目の前の視界が広がり、雑草に覆われた野原が現れた。走ってきた通路の突き当たり
にトタン板に囲まれた空き地があったらしく、その板の隙間から空き地に逃げ込んだ男を
追って、一条もそこに飛び込んだのだ。
 一条はあたりを見渡した。正面の高い雑草の向こうに、男がトタン板を背に肩を揺らして
彼女を見ていた。
「ちょっと……何で俺を追いかけるんや……」
 男は言った。その声は、微かだが確かに震えていた。
「……逃げたってことは、分かってるんでしょ……」
 一条も息を弾ませて言った。「あんた、カレーハウスに西端千鶴を訪ねてきたでしょ?」
「……何のことや」
「そして彼女にペンダントをプレゼントした」
「知らん、そんなこと」
「だったら、一緒に来て申し開きをしたらどう?」
「どこへ」
「決まってるでしょ、警察よ」一条は言った。「あたしは警官よ」
「……何でそんなことせなあかんのや、俺が」
「何もやましいことがないなら、何で逃げたのよ?」
 そう言いながら一条は背中に回したバッグにゆっくりと右手を入れ、中のブローニング
二十二口径の銃身を掴んだ。
「盗んだペンダントで女の子の気を引こうなんて、せこいと思わないの?」
「くそっ……!」
 男は一条に背を向け、高くジャンプして塀にしがみつき、乗り越えようとした。
「下りなさい!」一条は拳銃を構えた。「……下りないと撃つわよ」
 男はゆっくりと振り返った。右脇でしっかりと塀を抱え、板にできた窪みに足を掛けて
掴まっている姿は一見、アンバランスに見えたが、かと言ってずり落ちてくる気配も
なかった。足元の雑草のそばに、ジャンプしたときに外れたサングラスが落ちていた。
「逃げられっこないのよ」一条はゆっくりと男に近づいた。「あんたが盗んだんじゃなかった
ら、あのペンダントはどこで手に入れたって言うの?」
「……何のことだかさっぱり」
「そう。だったらこの話はどう? あんたたちが乗ってた車に跳ねられた飯田健いいだけん。彼が
どうなったか」
 男の顔色が変わった。
「死んだわよ。知ってるんでしょ?」
「う……」
 男は短く呻いたかと思うとみるみるうちに泣き出し、塀にしがみついた肩を震わせた。
「やっぱり、あんただったのね」
 男の真下まで来た一条は溜め息とともに言い、厳しい眼差しで彼を見上げた。「さあ、
下りなさい」
 男は涙で顔をくしゃくしゃにしながら首を振った。そして素早く左足を高く上げて塀に
掛けると、身体を引き上げて乗り越えようとした。
「撃つわよ!」一条は叫んだ。「行きたいの? 飯田健や西端千鶴のところへ」
 男は振り向いた。「……何て?」
「死にたいのかって言ったのよ」
「千鶴が──どうしたって?」
「とぼけるんじゃないわよ。そっちも割れてるのよ。あんなひどい殺し方したらすぐに
ばれるわ」
「千鶴が殺された?」
「いいから下りてきなさい。話はそれからよ」
「千鶴が……」
 男は視線を宙に漂わせた。汚れた顔に黒い涙の筋ができていた。
「さあ、早く」
 そのとき、右前方の塀の隅にできた穴から小さな野良猫が顔を出し、ニャーとか細く鳴いた。
一瞬、一条はそちらに気を取られ、銃口が少しぶれた。
 その瞬間を男は見逃さなかった。右足で塀を蹴ったかと思うと、両手を大きく広げて一条に
向かって飛び掛かってきた。一条は肩を突き飛ばされ、右半身を下にして倒れた。拳銃は
右手に握られたままだったが、男に上から激しく蹴られて腕が身体の下敷きになり、動かす
ことができなかった。
「痛っ……!」
 背中を思い切り蹴り上げられ、一条は呻いた。倒れた拍子に左の足首を挫いたらしく、
そこにも激痛が走った。
 そして何より、自分の一瞬の隙を見事に突かれたことのショックが大きく、彼女は何も
抵抗できずに男のなすがままになっていた。
 一条が抵抗する力を失っているのを見て、男は蹴るのをやめた。それからゆっくりと
後ずさりをし、ぱっと背を向けて来た道を走っていった。
「ちくしょーっ! 千鶴!」
 男は遠ざかりながら叫んでいた。

 その声をちょうど塀の外側で聞いたのは芹沢だった。咄嗟に振り返り、塀に沿って走った。
そして細い通路を見つけると中に進み、ブルゾンの懐から拳銃を抜いた。
 いきなり現れた空き地に飛び込むと同時に、彼は拳銃を突き出した。あたりを見渡し、
正面の突き当たりに茂っている雑草の脇に、放心状態で座り込んでいる一条を見つけた。
 芹沢は拳銃を直しながら駆け寄った。「大丈夫か?……」
 一条は何も答えず、ゆっくりと首を縦に振った。
「やつは?」
「……逃げられたわ」
「そうか」
「絶体絶命のところまで追い込んだのに」
「よくあることさ」
 芹沢はあっさりと言った。そして一条の足下に落ちていたサングラスを見つけると、
ブルゾンの袖口を指先まで引っ張ってそれを拾い上げ、一条を見た。
「収穫はあったじゃねえか」
「もう少しだったのよ……!」と一条は俯き、拳で地面を叩いた。
「そうくよくよすんなよ。銃を抜く暇もなかったんだろ?」
「抜いたわ」
 一条は雑草の陰に落ちている自分の拳銃を顎で示した。
「蹴り飛ばされたのか」
「いいえ、ずっと手に持ってたわ」
 芹沢はゆっくりと一条に振り返った。「……何で撃たなかった?」
「……分からない」
「やられてるときは無理でも、やつが逃げるときには撃てただろ。殺すわけじゃねえんだぜ。
威嚇発砲で十分なんだ。それに、やつがあんたにした仕打ち次第じゃ、立派な正当防衛に
なる」
「それは分かってたわ、でも──」
「でも? でも何だよ?」芹沢はすかさず言った。「相手は強盗と殺人の有力容疑者
なんだぜ。ここで逃がすとどうなるか──あんただってこの六日間、いやもっと長く、
必死で奴らを追ってたんじゃねえのか?」
 一条は何も言わなかった。
「空砲だったのか?」
「入ってるわ」
「まさか、撃ち方が分からねえってんじゃねえよな?」
 芹沢は苦笑しながら言った。一条は首を振った。
「そうか、分かった」芹沢は今度は得心したように頷いた。「発砲したことをブン屋に
叩かれるのが嫌だったんだろ。よその土地で、しかもエリートの女刑事が拳銃を抜いたと
なると、連中は大喜びしてあれこれ書きたてるからな。そうなりゃ出世に響くって、そんな
計算でも働いたか?」
「違う!」
「じゃあ何で引鉄ひきがねを引かなかった!」
 芹沢に怒鳴られ、一条は怯えたように顔を強張らせて彼を見た。
「……怖かったのよ」
「怖かった? 撃つのがか?」
「それもあるけど──相手が」
「相手が怖かったって?」
 芹沢は信じられないとでも言うような眼差しで一条を眺め、大きく溜め息をついてその場に
座り込んだ。
「なぜだか分からないけど……とにかく怖かったの」
「……だったら一人で動くなよ」
「聞き込みに出ようと思っただけなのよ」
「俺たちゃ小綺麗なオフィスで働くビジネスマンとはわけが違うんだぜ。相手にする連中の
種類を考えてみろよ」
「悪かったわ。でも、まさかこんなことに──」
「予測のつく仕事がしたけりゃ、転職するこったな」と芹沢は吐き捨てた。
 一条は俯き、唇を噛みしめた。「女だからって、いつも男との同行なんて嫌だったのよ。
それに──」
「自分は警部なのに、組む相手にはナメられる。しかもそいつの方が階級はずっと下だって
のにな。何よりそれが嫌だった」芹沢は言った。「違うか?」
 一条は答えなかった。
「確かに俺もあんたよりずっと下っ端さ。そんな俺に偉そうにされるのが我慢ならなかった
んだろ。あと一年もすりゃ警視になって、どこかの署長か本部の役席に就こうかって自分が、
俺みてえなノンキャリアの巡査部長ごときにいちいち許可を取って動かなきゃならねえなんて
理不尽だって、そう思ってたんじゃねえのか?」
「……そうかも知れないわ」
「下の階級にナメられるのが嫌なら、現場なんかに出ねえで管理職の道を歩むんだな。
そうすりゃたとえ上っ面だけでも敬意を表してもらえるさ。上司の推薦は昇格には不可欠
だからな、俺たち下っ端が出世するには」
「それじゃ嫌なのよ」
「あんたの好き嫌いなんか聞いてねえよ」
 芹沢は強く言うと一条を見た。「遊びでシュミレーションゲームやってるんじゃねえんだぜ」
「分かってるわ」一条は目を閉じて溜め息をついた。
 芹沢はゆっくりと腰を上げ、膝を突いて一条に肩を出した。「ほら、つかまれよ。足
挫いてるんだろ」
「……ありがとう」
 一条は拳銃を拾ってバッグに入れ、両手で芹沢の肩を持つと重心を移して立て膝になった。
芹沢はその腕を抱え、静かに立ち上がると彼女の腰に手を回して身体を支えた。
「戻ったら、ホテルに帰って荷物まとめて横浜に帰りな。殺人との関連が明らかになった
以上、事件はうちで引き継ぐこともできるだろうし、そうするように手配してもらうよ。
あんたエリートなんだから、無理に手柄なんか立てなくたって出世は約束されてるんだぜ。
そのために採用されたんだからよ」
「…………」
「聞いてんのかよ、お嬢さん?」
 芹沢は苛立たしげに言った。とうとう、鍋島ほど真面目でないはずの彼までもが怒って
しまったのだった。
 一条は何も言わなかった。堅く口を結び、まっすぐに前を見つめていた。
 芹沢は諦めたようなため息を漏らし、そして最後にこう言った。
「いっぱしの警官になりてえんだったら、筆記試験の結果から生まれた一銭の価値もねえ
プライドなんて捨てるんだな。そんなもん、人殺しやヤク中には通用しないぜ」
「……そうね」
 一条は言うと俯いた。髪で隠れて見えなかったが、その気位の高そうな瞳は、今は自己
嫌悪の涙で一杯だった。












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