第三章 その4(後)
署に戻った二人は男を一旦地下の留置所に放り込むと、刑事課に上がった。
「──それで、その男の逮捕容疑は?」
芹沢をデスクの前に立たせて、植田課長は言った。
「公務執行妨害です」
芹沢は答えた。男に殴られた目尻には絆創膏が貼ってあった。
「頷けるな、そのありさまを見たら」と課長は笑った。「犯人と見てよさそうか?」
「まだ分かりません。あそこまで必死で逃げたところを見ると、捕まりたくない事情でも
あるんだろうし」
「鍋島は?」
「口の中を切ったみたいで、今、救護室で手当してます」
「相変わらずおまえらはやることが派手やな。気ィつけんとそのうちまた大怪我するぞ」
「自分たちではやりたくもないんですけど」
「鍋島の手当てが済んだら、その男の調べにかかってくれ」
「分かりました」
芹沢は自分のデスクに戻ってきた。向かいの島崎の席には一条が座っていた。上目遣いで
芹沢を見ると、顔をしかめて首を振った。
芹沢は絆創膏を剥がした。見れば血が滲んでおり、彼は頭を振って傷口を指でそっと触った。
「痛っ……」思わず顔をしかめた。
「──触らない方がいいわよ」
芹沢が顔を上げると、一条が眉をひそめて彼を見ていた。
「もっと大きなのを貼った方がいいんじゃない?」
「……平気だよ」と芹沢は俯いた。
「でも、何だか腫れちゃってるみたいよ」
「大丈夫だって。放っといてくれよ」
「あ、そう」一条はつんとして言い、手許に視線を戻した。
芹沢はそんな一条を見て小さく笑った。そしてデスクの引き出しから絆創膏の箱を取り出し、
新しく傷口に貼った。
そこへ鍋島が戻って来た。彼の方も口許に大きな絆創膏を貼り、左手で顎を押さえている。
右手には血の付いた タオルを持っていた。
「どうだ、治まったか」
こちらに向かって歩いてくる鍋島に芹沢が言った。
「あかん。止血剤を飲んだんやけどな。効いてくるのはもっとあとやろ」
鍋島は顔を歪めて席に着いた。
「何も食えねえんじゃねえか」
「どうせ何食うても血の味や。舌噛まへんかっただけマシってやつやな」
「あれほど手荒なやつだとは思わなかったぜ。正直、油断したな」
「靴の踵で思い切り蹴り上げよった」
鍋島は言うとタオルを顎に当てた。 「……まだガクガクしてる」
「どうする? 無理なら、俺一人で野郎を締め上げてもいいぜ」
「大丈夫や。その前にもう一回、口の中洗うわ」
鍋島は立ち上がり、窓際に備え付けられた小さな洗面台の前まで行った。蛇口を捻り、
両手で水をすくって口に含む。吐き出した水はピンク色に染まっていた。
「──ねえ、ほんとに大丈夫なの?」
再び一条が芹沢に声を掛けてきた。
「何が」
「何がって──彼よ。あんなに血が出て……」
一条は鍋島の様子を眺めながら言い、芹沢に振り返った。「ちゃんとお医者さまに診て
もらった方がいいんじゃない?」
「平気だよ。あいつはそんなヤワなやつじゃねえから」
と芹沢は顔の前で手を振った。「今はちょっと出血がひでえだけで、すぐに何でも大食い
するようになるさ」
「そうかしら」
一条はちらりと芹沢を見ると、また鍋島に視線を移した。
芹沢はにやりと笑った。「意外に心配性なんだな」
「……別に」と一条は俯いた。
「あんたも気をつけなよ。自分の事件だから自由にやりたいってのも分かるけど、相手に
よっちゃ俺たち二人でもこのザマなんだぜ」
芹沢は真顔でじっと一条を見つめた。「──まあ、あんたは俺たちと違って優秀な刑事
なんだろうけど」
「いやな言い方ね」と一条は口を真一文字に結んだ。
「嫌味じゃねえよ。もしものことがあったらそれで終わりだ。エリートコースもそこで
ストップ。それにだいいち、お嫁さんの口がなくなっちまうだろ、マジでさ」
芹沢は笑っていなかった。
「ご心配なく。あたしが刑事になったことを喜んでくれてるボーイフレンドがちゃんといるから」
「あ、そう」と芹沢は片眉を上げた。「そりゃ余計なお世話だったな。どうも失礼しました」
「よろしくてよ」
一条はわざと高飛車に言うと、見下したような眼差しで芹沢に笑いかけた。
「ちっ、いやな女」
「──お愉しみのところ申し訳ないけど、俺はもうええぞ」
鍋島が戻ってきて、芹沢の肩越しに囁いた。
「なに言ってんだよ」
と芹沢は眉をひそめて鍋島を睨んだ。それから一条に振り返り、意地悪く笑って言った。
「おまえのことを心配してくださってるんだよ、一条警部が」
鍋島はちらりと一条を見た。「そらどーも」
「……最初で最後よ、これが」と一条は吐き捨てた。
「さ、早いとこ片づけよ」
鍋島は受話器を取り、内線のボタンを押した。「あ、刑事課の鍋島です。さっきの男、
上へ上げてもらえますか──そう、あのバカでかい男です。──お願いします。荒っぽいから
気をつけて」
男が連行されてくるのを待っているあいだ、二人は黙って席に着いていた。芹沢はデスクに
向かって手の中に隠れてしまうくらい小さな鏡を覗き込み、赤く腫れた目の上をじっと
見つめている。鍋島は相変わらず手を顎に当てながら苦虫を噛み潰したような顔をして椅子に
もたれかかり、両足を手前に出した引き出しの上に乗せていた。まだ昼前だったが、二人は
すでに一日分の仕事をしたような疲労を感じていた。
廊下をさっきの大男が現れた。両手に手錠を掛け、腰に巻かれた紐を制服警官にしっかりと
引っ張られて、ふてくされながら歩いてくる。捕まるときに芹沢に殴られた跡が、顎から
左の頬に掛けて青アザとなって残っており、左の鼻の穴には止血のための綿が詰められていた。
鍋島と芹沢は、男が三つある取調室の一つに入っていくのを見ると黙って立ち上がり、
まるでこれから自分たちが取り調べを受けるかのような重い足取りで刑事部屋を出ていった。
二人のそんな様子を見ながら、一条は警官という職業が決してテレビや映画に出てくる
ときのように格好の良いものではないなと思った。
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