第三章 その4(前)
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前日までの長雨の名残が大きな水溜まりとなってあちこちに見られるアスファルトの路地を、
鍋島と芹沢は男を追って疾走していた。
前を走る男は、その無意味なくらいでかい図体からは考えられないほどの俊足で、路地の
両側に置かれたポリバケツや空のビールケースを弾き飛ばして走っていく。当初、男が
アパートの自室の窓から飛び出したときは、鍋島も芹沢も男がこんなに逃げ足の早いやつ
だとは思っていなかった。ところが、すぐに捕まえられるとばかりに油断して全力で
追わなかったせいか、男はみるみるうちに二人を置き去りにした。二人は慌てた。
この男が女の太股に異常な執着を持つ暴行傷害という前科を持っていたため、陰湿で
気の小さい異常者とばかり思い込んでいたのだ。その男がこんな能力の持ち主だったとは。
鍋島はこめかみから流れる汗を拭おうともせず、ただひたすらに男の背中を目指して走り続けた。
「──おい、俺は反対から回り込む!」
十字路の手前まで来たとき、前を行く芹沢が鍋島に振り返って叫びながら左へ折れた。
「分かった、遅れるなよ……!」
そうは言ったものの、鍋島自身の足にも相当疲れがきていた。去年の始めまでは警察署内の
草野球チームで一、二塁間を守り、やがてはショートにコンバートされようかというところ
まで行った時点で仕事に追われて辞めてしまったという経験があっただけに、足には多少
自信があった。しかし、堅いアスファルトの上で水溜まりを避けてジグザグに走ることは、
土のグラウンドで動き回ることよりもはるかに足に負担がかかる。鍋島はこれ以上長く
今の速度を保つ自信がなかった。けれども、逃げる男のスピードは相変わらずだ。
鍋島はブルゾンの懐から拳銃を抜いた。今日は空砲ではない。あたりに人は見当たらず、
万が一威嚇のために発砲しても危険はないと判断した。
「止まれ! 止まらんと撃つぞ!」
鍋島の叫び声に、十五メートル以上先の男の背中が止まった。
ゆっくりと振り返り、鍋島の右手に握られた拳銃を見て大きく目を開いた。
「……ちょっと話を聞きたいだけやないか……」
荒い息に大きく肩を上下させながら言い、走るのをやめた鍋島は引きずるような足取りで
男に向かって歩いた。
「な、何もしてへん」男は言った。
「……何かしたって言うたか?」
鍋島は息を切らせ、拳銃を納めた。「それとも、刑事を見て逃げなあかんことでもあるんか?」
鍋島はゆっくりと男に近づいた。男の方も下を向いて肩を揺らし、唾を飲み込んで大きな
息を吐いた。
しかし、二人の間に広がった水溜まりに姿が映るくらいに鍋島が近づくのを確認した瞬間、
男は鍋島に激しく体当たりしてきた。
鍋島はまったく身構えができていなかったとあって、レスラーのような男に思い切り
ぶち当たられては吹っ飛ぶのみだった。そばに積み上げてあった段ボールの箱の真ん中に
背中から倒れ、脇を流れる細い溝に肘を突っ込んで落ちた。
「……くっそぉ……」
鍋島はふらりと身体を起こし、逃げようとしている男の左足に飛びついて引っ張った。
その弾みで男は前のめりに倒れ込んだ。しかしすぐに身体を翻すと、自由の利く足の方で
鍋島の顎を思い切り蹴り上げた。
身長一六五センチの鍋島は、バラバラに散らばった段ボールの中に鉄砲玉のように
突っ込んでいった。
男は鍋島が起き上がってこられないのを確かめると、立ち上がってまたすぐに路地を進んだ。
しかし今度はその前方に芹沢の姿が現れたのを見つけ、思わず立ち止まった。
「……そのへんにしといてやれ」
芹沢は肩で息をしながら、ゆっくりと男に向かって歩いてきた。その甘い顔立ちとは
不釣り合いな鋭く冷めた目つきで、男を正面から睨みつけている。男はその意外なまでの
凄みに思わず怯み、二、三歩後ずさりした。
しかし背後で鍋島がようやく起き上がってきたのを感じ取ると、もう芹沢に向かって
行くしかなかった。
「ちくしょうっ!」と男は叫び、芹沢に飛び掛かった。
滅茶苦茶に振り回した男の岩のような拳が芹沢のこめかみあたりに命中した。
芹沢は天を仰ぎ、大きく反り返って後退した。かろうじて倒れずにすんだが、頭がぼうっと
して、一瞬だけ意識が遠くなるのが分かった。
「野郎……」
今度は芹沢が向かってくる男の顎をめがけて見事なカウンターの正拳突きを見舞った。
空手三段の腕前なのだ。
男の顔がボールのように弾み、鼻から血が飛び散った。そこへ鍋島が首の後ろを殴り、
男はビルが爆破されたときのようにゆっくりと膝から崩れた。
二人は大きく息を吐いて男を見下ろした。二人とも、かなりひどい顔だった。
「──芹沢、こいつ、現逮やな」
「ああ。立派なもんだぜ、これだけ暴れると」
鍋島が顔を背けて唾を吐いた。しかしそれは唾と言うより、口の中に溜まった血のかたまりだった。
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