第二章 その5
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三上麗子はそのドアの前で、もう一時間近くも待っていた。
彼女は美しい女性だった。しかも、並みの美貌ではなかった。彼女のことを話すとき、
誰もが「すごい美人」とか「飛びきりの上玉」などと言った。大きなウェーヴの
セミロング・ヘアーは自然な栗色で、その中に均整のとれた楕円形の顔と切れ長の
二重の瞳に長い睫毛、筋の通った綺麗な線を描く鼻。妖艶さを放っている唇はリップで
綺麗にかたどられていた。裏が透けて見えそうな小さな耳には、大きな金の輪のピアスが
揺れている。抜群のプロポーションは残念ながら今はネイビー・ブルーの麻のパンツ
スーツに隠れていた。年齢は二十八歳、昔から少し大人びて見られていたため、
今が一番年相応の顔をしていると言って良かった。
その上、彼女は頭脳も明晰だった。数学者の父親の都合で十八歳までアメリカで育った
彼女にとって、英語は母国語に等しかった。そして自分は法律を学ぶために大学院まで
進み、ドイツにも留学した。今は大阪市内にある大学で教鞭を執り、当然のことながら
学生たちの人気を一身に集める名物講師だった。
今夜もゼミの前期の打ち上げコンパに出席して、自分と五つ六つしか歳の違わない
学生たちとひと騒ぎしてきた帰りだった。
彼女は顔を上げ、アパートの通路の天井を仰いで大きく息を吐いた。そして数歩前に
出て、コンクリートの手すりから少し身を乗り出して前の道を見下ろした。すぐ下の
街灯の周囲だけがぼんやりと浮かび上がっているだけで、あたりは猫の子一匹
見当たらなかった。
彼女は再び後ろへ下がった。足元が頼りなく、少しふらついてさえいた。スーツの
上着のポケットに手を突っ込み、外した腕時計を取り出して時間を見る。午前一時
十分だった。
ドアに背をつけると、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。
しばらくすると、踊り場の下から引きずるような足音がゆっくりと上がってきた。
麗子は顔を上げ、さっと立ち 上がった。その顔は期待の色で輝き、はやる気持ちが
読みとれた。
やがて階段から足音の主が現れた。黒い上着を肩に掛け、Tシャツの裾をだらしなく
ジーンズの上に出した鍋島だった。右手には部屋の鍵のついたキーホルダーを
持っている。踊り場まで来ると、目の前に立っている麗子の靴に驚いてびくっとし、
顔を上げた。
「麗子……」
「勝也」
麗子は嬉しそうに言った。ハスキーな声だった。
「おまえ──」
鍋島はまだ状況が把握できていないと言った感じでぼんやりと麗子を眺めていたかと
思うと、小さく溜め息をついて言った。「いつからここで?」
「そうね──一時間くらい前かしら」
「何でや。事件が起こって、遅うなるって知ってるやろ」
鍋島はドアの前に立ち、鍵を差し込みながら言った。
「ゼミのコンパの帰りなのよ。来週から前期試験だし」
「飲んでるんか?」
「少しね」と麗子は微笑んだ。
「とにかく入れ」逆に鍋島は憮然として言い、ドアを開けた。
部屋に入った鍋島は、照明を点けっ放しにしておいた廊下を奥へと進んだ。麗子も
そのあとに続く。相変わらず足取りは危なっかしかった。
ダイニングの明かりを点けてキッチンのカウンターに鍵を放り投げ、そばの椅子に
上着を置いた鍋島は、麗子に振り返って腕を組んだ。怖い顔をしていた。
「説明しろ。何であんなとこで一時間も待ってた?」
「……何言ってるのよ、勝也」
麗子は呆れたように言うと吹き出した。「男に会いに来るのに、いちいち理由なんて
必要なの?」
「何時やと思てるんや」
「確かに遅いけど、あんたはどうせ夜中まで仕事だと思ってたし」
鍋島はやれやれと首を振って溜め息をついた。
「何よ、迷惑だったわけ? 急に来られると都合の悪いことでもあるんだ?」
「……話にならん。何も分かってないんや」
「何がよ。ちゃんと説明してよ」
「おまえ、ほんまに分からんのか? とぼけてるの違うんか?」
「回りくどいわよ。早く説明しなさいよ」
麗子はカウンター前の椅子に腰掛け、大きなカバンからシガレット・ケースを取り出した。
「大ボケやな」
と鍋島もダイニングの席に着き、やや押さえた口調で話し出した。
「──ええか。おまえは長いこと芦屋のあの家でたった一人で暮らしてるからもう
慣れっこになってるのかも知れんけどな。こんな夜中に二十八の女が一人で一時間も
外に立ってるやなんて、まともやないで」
「そんなに物騒なの? このあたりって」
「物騒かどうかなんて二の次や。俺が言うてんのは、おまえのその感覚や」
鍋島は足を組んだ。「飲み会には何時まで出てたんや?」
「十一時半頃まで。それからタクシー乗り場の列に並んで、ここへ来たから」
「しゃあないか。仕事のつき合いやしな」
「勝也、心配してんだ、あたしのこと」
「今頃気がついたんか」と鍋島は顔をしかめた。「おまえが俺の妹やったら、とっくに
親父に半殺しの目に遭うてるぞ」
「はいはい、分かったわよ。知らなかったわ、あんたがそんなにカタブツだったなんて」
麗子は言って、煙草の火を消した。
「カツブツか? これが」
鍋島は立ち上がった。「……アホらし。俺は風呂入って寝るしな」
「ちょっと。あたしは放ったらかし?」
「おまえが勝手に来たんやろ」
鍋島は平然と言うと隣の部屋に向かった。麗子は大きく溜め息をつき、カウンターに
頬杖を突いた。
「──ねえ。あたしたちってまだ友達っ気が抜けてないのね。九年も親友やってたら
無理ないのかしら」
「今の状態に不満でも?」鍋島は戻ってきて言った。
「不満じゃないわ」と麗子は俯いた。
鍋島は穏やかな表情になった。「そういや、何で急に来たんや?」
「それを一番に訊いてほしかったわ」
「悪かった」
と鍋島は下を向いた。「おまえがこんな時間に一時間も待ってたって言うから、
つい──」
「いいのよ、心配してくれてたんでしょ」
「昨日入った捜査本部の事件──深夜の路上で、十八の女の子が背中と胸と足を刺されて
死んでたって、あの事件や。テレビでやってたやろ」
「……そうなの」
鍋島は麗子の前に立った。「それで? 何か話があるんか?」
「もういいのよ、本当に。たいしたことじゃないから」
「たいしたことやなくても、言うてみろよ。気になるやろ」
「ほんと、つまらないことなのよ。そう、ただああして、あんたのこと待っていたかった
だけ。それだけよ、本当に」
「麗子」鍋島は麗子の顔を覗き込んだ。
「なに?」と麗子は顔を上げた。
「……嘘つくなよ、俺には」
「分かってるわ」
麗子はほっとしたように言うと頷いた。
二人が軽いキスをして、鍋島は浴室へと向かった。麗子はカウンターの前でその姿を
見送った。
そして彼女はまた頬杖を突き、周りを見渡した。決して片づいているとは言えない
その部屋は、どこをとっても彼らしかった。眺めているうち、瞳には涙が溢れてきた。
零れないうちに涙を拭うと、麗子は鼻をすすって立ち上がった。
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