表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

眼球とキスをした。(短編)

作者: 白井花姿

十五時半にもなると、西の空は赤く染まり。右頬に痛いくらいの太陽を突きつけてくる。十六時にもなれば、すぐに薄暗くなるだろう。

そんなことを考えながら、布団の感触を確かめるかのように、伸ばした両足を、開いたり閉じたりした。

自分の両足から、目線を前に向けると、机に向かって、小さく体育座りをしている一人の男が、鉛筆の音を大きく立てながら、ノートに向かって体を近付けていた。眉間には大きなシワが、一つ浮かび上がっている。

その男の身体は骨張っていて、ヒョロヒョロとしていた。寝癖があちこちについた栗色の髪の毛は、驚くほどの透き通った白い肌と、涙袋がプクリとなった、茶色みがかった瞳に良く合っている。

「空が赤いよ、太郎」

今度は目線を、窓の外の夕日に向け、忙しいそうに机に向かうその男のことなど御構い無しに、外を見れば分かるような、しょうもない情報を口に出す。

すると、男は丸めていた背中を、大きく後ろに反らし、大きな欠伸を一つした。


私は小梅という、自分の名前が嫌いだ。何よりも古風だし、あの有名な飴玉を連想してしまう。

男は高校二年生、私は一年生だった。男とは、高校の環境委員会で知り合った。委員会のメンバーの中でも、男は特に際立っていて、その不思議な雰囲気と、それに見合った容姿に、惹かれる人も少なくなかったと思う。

元々中学の時にも、環境委員会に所属していたり、ボランティアにも積極的に参加していた私は、活動意欲がそれなりにあり、三年生の先輩達と、共に行動する事が多かったし、先輩にも可愛がられていた。だからその時、私の中に男は居なかったし、恐らく男の中にも、私は居なかったはずだ。

しかし、そんな男と私が、接触する日が訪れる。

それは来週行われる、地域ふれあい祭りのボランティア内容について、打ち合わせをしている時のこと。前の方で三年生が最終案をまとめているのを、何となくダラダラと待っている時だった。

「小梅」

不意に誰かが、ボソリと私のことを呼んだのである。私は筆箱に伸ばした手を止め、聞き耳を立てた。

「小梅」

今度は隣の席からハッキリと、その声は聞こえた。そう、その正体は何を言おうと、その男だったのだ。

私が恐る恐る隣に目をやると、男は参加名簿に書かれている名前を指差し、私に向かってもう一度。「小梅」と呟いた。

「古風だね」

「あー。はい。良く言われます」

「でも雰囲気に合ってるね」

「どうも」

何なんだろう、と不審に感じながらも、私はコクコク頷き、男の発言に答えた。

「僕、太郎」

「僕太郎?」

「違う違う。た、ろ、う」

「あー。すいません」

私は少しニヤつきながら、スカートの裾を整えた。

「よく間違えるんだ。ほら、市役所とかに貼ってある見本で、東京太郎。とかあるでしよ?あれをね、あのまま書いちゃうことがよくある」

太郎は少し身を乗り出して、内緒話のように話してくる。

「よく?よくあるんですか?」

私は笑いを堪えきれずに、ますますニヤニヤした。

「小梅ちゃんはそういうのある?」

「ないですよ。そもそも見本に小梅なんて使わないです」

「そうなの!?」

「え、そうでしょう?」

太郎は、そっかー。そうなんだー。と言いながら、膝を手のひらで摩り、ユラユラと縦に横に揺れた。この時から、私は太郎の心の中が、明確に分からなかった。



私を知るある人は、「可哀想」と目尻を下げ、ある人は、目頭を熱くさせた。

しかし私は、人と違う世界を見つめる、太郎の瞳が羨ましかった。

私は変なのだろうか。


薄暗くなった空を横目に、私は布団に包まった。太郎の香りが、私の鼻の穴に入り込む。太郎は頭を掻きながら、ノートを閉じると、「もうこんな時間か」と呟きながら、紙の束を机にトントンと打ち付けた。その音を聞きつけて、私も布団から体を起こし、乱れた髪を手ぐしで整える。


時折、太郎を暗闇の中に置くと、まるで夢に魘されるような顔をして、大きく眉毛をへの字にさせる。そして、細い体を小さく震わせ、両手を前に突き出し、恐る恐る私を探す。


私はその姿を愛している。太郎がその瞬間、確実に私を必要としていることが、はっきりと分かるからである。私はその時、少し離れた所から胡座をかいて、気配で気づかれないように息遣いを小さくして、じっとそんな太郎を見る。

そして太郎の精神が極限になった時、ようやく私は腰を上げ、天井からぶら下がる、電気のスイッチを引っ張るのだ。すると太郎は両手をゆっくりと落とし、肩の力を抜く、両目を擦り、瞬きを数回する。そして、何を言うわけでもなく、私の側に近付き、今度は私の肩の辺りに顔を埋め、両目を私の肩に擦り付ける。

その時、私は何もしない。ただダラリと両手を落としたまま、顔のすぐ横にある太郎の髪の毛に、鼻を吸い寄せるだけだ。でもそれだけでいい。それだけで満足だ。

私は変なのだろうか。


太郎は立ち上がると、首を数回回し、手の平を組んで、上に大きく伸びた。そして溢れる息と共に、静かに両手を下ろした太郎は、その一連の流れに、黙って目をやっていた私に目を向け、「晩御飯、今日は作りたくないんだ」と、呟く。私は布団から立ち上がり、太郎の側まで行った。そして、太郎の目に手を開け、涙袋を下にグッと下げ覗き込む。

「ちょっと」

目を細めかけた太郎に声を掛け。再び私は、太郎の目を見る。

「見えてんの、見えてないの」

「見えてるよ」

「私どんな顔してる」

「いつもの顔」

私は太郎の目から手を離し、近くに放り投げられていたパーカーに腕を通した。そんな私を、太郎は目を細めたまま、私の触れた涙袋の辺りに手を当ててながら、黙って見ていた。


このアパートの家賃を払うのにも精一杯な私たちは、当然車は持っていない。その代わり、太郎が中古で買ってきた自転車が二台、駐輪所に停めてある。私の自転車は、中古の割には綺麗だが、太郎の自転車は一年前に、一度自転車を盗まれていて、発見時に川に半分浸かったままで見つかった。今では自転車のボディーの殆どは、錆びで覆われている。それ以来、太郎はこの自転車を「奇跡の帰還者」と、命名している。

ならば、錆び取りでも何でも使って、錆びを落としてあげればいいのに、と提案したが、太郎は「そうしたら帰還者感が半減する」と、呑気な事を言い、錆びを落とさない代わりに、「太郎」と書かれた名前シールと、蓄光シールを沢山貼った。太郎は「もう盗まれないかなぁ」と言いつつも、自慢げに見せてきたが、こんなダサい自転車を誰も盗むまいと、私は心の中で笑った。

駐輪所に向かうと、かつては「奇跡の帰還者」と呼ばれていた自転車も、今では何とも滑稽な姿で佇んでいた。何だかこの自転車が、とても気の毒に思えてくる。

本日、太郎がこの自転車を運転することは、随分難しいように私は感じた。これは私の勝手な「感」に過ぎないのだが、大抵は当たることが多く、私の提案に太郎は、二つ返事で同意した。

私は自転車の後ろに、太郎が乗るよう促すと、財布を自転車のカゴに放り込み、漕ぎ出した。自転車は軋んだ音を出すこともなく、まるで太郎を乗せていないみたいに、軽やかに進んだ。太郎の吐息が耳にかかる度に「あ、居たのね」と、思い出すほどに、それはそれは軽やかに。


ある日、私は病室に横たわる太郎を見て、へらへらと笑って見せた。「本人が一番辛い」という言葉を、何かの本で見た覚えがあったからだ。

しかし、その本は間違っていたのか。太郎は私のその顔を見ると、さぞ嫌そうに目を細め、布団を頭から被った。 その姿を見て私は直ぐに、いつかのあの日に読んだ、本の一ページを恨んだ。本当は私だって、心配だったと声を張り上げながら、太郎に飛び込みたかったのだ。

太郎は黙ってしまった私に気付き、直ぐに布団から顔を出した。そして、「見えないの、もっとこっちに来て」と、青痣が残る手の甲を、布団の隙間から覗かせた。私の手の中にあった、大きなユリの花が、ガサガサと音を立てながら、歩むごとにゆらゆらと、右左に揺れる。

太郎の前まで来た私は、ベッドの前の椅子に腰を下ろし、ベッドの上にお見舞いの花束をゆっくりと乗せた。

「これ、太郎の好きな色だと思って」と、ユリの花の先を、指で突きながら、太郎の機嫌を確かめるように、私は笑って見せる。しかし、太郎はいつまでも、それに答えようとはしなかった。虚ろな目をして、確かめるように、ただじっと花を見据えていた。


「分からないんだ」


太郎は花から目を離さずに、一体誰に話しかけてるのかも分からない程に、小さな声で。まるで口から、太郎の声という塊が、ポロポロと落ちていくようにさえ感じた。


「何も分からない」


今度は私の目を見て、太郎は声を出した。最初は何だか分からなかった。小さな、ほんの小さな事が、太郎には理解できないだけなんじゃないかと思った。しかし、太郎の顔は違った。何かが、全て何処かに吹き飛んでしまった後の様な顔で、その二つの目は、私を映していた。


「何が。何が分からないの」


私は、太郎の膝辺りに掛かる布団を強く握り、太郎の体を揺さぶるように、それを小刻みに揺らした。しかし、私の力で、太郎の体が動くわけもなく、それはただ、布団に大きなシワを作っただけだった。

太郎は依然、そこから先を、話してくれようとはしなかった。ただ黙って、それはまるで。私が諦めて、病室を出る事を、待っているかのようにも思えた。


太郎は頭を打ち付けた衝撃で、色んなことを忘れた。事故に合う一時間前くらいの事。事故に合った後の数時間の事。数人の友人の顔と名前。実家で飼っていた、ミニチュアダックスフンドの名前。大好物だった食べ物の事。それは、太郎と会話すればする程に、沢山現れた。そしてその度に、太郎は悲しそうに私の伝える内容を、ノートにメモするのであった。ノートに書かれた字は、ミミズの様に細く、震えていた。


人はいずれ慣れる。


買い物カートに体を預けながら、太郎は漕ぐ様に買い物カートを前に押した。そのカートは、真っ直ぐと惣菜売り場へと走っていく。私は、持参した買い物袋を肩にかけ直して、太郎の後を少し大股に着いて行く。

太郎は惣菜を一つ手に取り、商品の名前を読んだ。そして、「コロッケ食べる?」と私に確認し、「うん」と私が頷くと、太郎は嬉しそうにそれをカゴに入れた。その手順は、どの商品を手に取る時も、同じ様に行われた。そして時折、疲れた様に目を擦り、「あとは小梅が考えていいよ」と、ますます買い物カートに体を預け、その瞳は正気失った様に、一点だけを見つめ続けるのであった。


私は、太郎の描く絵が好きだ。太郎の絵は、美術専門の人が使う様な、名前の知らない紙や、筆を使っているわけではなく、太郎自身も、独学で描いているものだった。しかしそれは、同じく素人の私の目から見ても、惹かれるものがあった。

真っ白なスケッチブックに描かれた、鉛筆の線。その囲みの中を走る、色取り取りの色鉛筆。それは風景画であったり、人物画であったり。様々だったが、私は何よりも見たままの色に囚われない、太郎の自由な色彩が好きだった。しかし、それが全てなくなった時、私は鉛筆の線だけで描かれた太郎の絵を見て、怒りを覚えた。太郎の絵はそこで終わり、そこに他の何かが加えられる事はない。


「色鉛筆には、ご丁寧に色の名前が書いてあるのよ」


私はゴミ箱に葬られた、色鉛筆のケースを拾い上げ、太郎の前で開けて見せた。しかし、太郎はそれを直視しようとはしなかった。顔を明らさまに伏せ、色から目を逸らす。


「大っ嫌い」


私は表情を変えずに、色鉛筆をその場に落とした。赤青緑黄色、色んな色が床に広がり、カラカラと音を立てながら、四方八方に自由に転がりだす。一つ一つ、個性の引き立つ色達。


「太郎の絵なんて、二度と見ない」


一番遠くに転がった黒色を睨みながら、大きな声で私は誓う。太郎はそれにさえ反応しなかった。虚ろな目のままで、ただじっと、その場に目を落とすだけだ。


あれ以来、太郎の絵に色が灯される事はない。これから先の事なんて、私に読める訳じゃないし、はっきり言える事ではないけど。これから先もないんじゃないかと、私はいつも思う。



出来合いのお菜を、酒と共に食べ終え。太郎は今宵もまた、窓辺に座り、見えるはずもない月の絵を描いた。私はその姿を、定位置となった布団の上に座り、水割りの梅酒を啜りながら観察する。背中越しにちらりと見えるスケッチブックの表面は、やはり今日も黒かった。太郎の瞳に映る僅かな光の影は、鉛筆を斜めにして薄く塗られ、表されている。


これが、太郎の見える世界なら。


私は知っていた。自分でもとうに気づいている。これは嫉妬なのだ。私の中に芽生えていた、太郎への小さな羨ましさは、太郎の絵を見た時から、いつの間にか醜い嫉妬へと変わっていた。なぜならあまりにも綺麗だったのだ。太郎の見たままを描いた、スケッチブックの中の世界が、とてつもなく羨ましかったのだ。もしも太郎が、それをいらないと狂ったように、叫んだとしたら。私は喜んでその身代わりになる準備は出来ている。


手元の梅酒は、溶けた氷と混ざり合い、殆ど味が残っていない。太郎は、ますますスケッチブックに顔を近付け、月と手元を交互に見つめている。もう布団の位置からは、スケッチブックの姿は見えない。

不思議な気持ちだ。真っ暗な部屋に、月明かりだけが入り込む。太郎には真っ暗な世界の中に、月だけが浮かんでいるように見えるのだろうか。振り返ったら、暗闇の中に小さく座り込む私の姿が、見えたりするのだろうか。太郎は、私があの誓いを大胆にも破り、後ろから覗き込んでいる事を知っているのだろうか。

全ては見えない。私も、太郎も。その中で行われる、暗闇の中の騙し合い、駆け引き。それが行われている事を、太郎は知っているのか、知らないのか。

私は知っているよ、太郎。







家の近くで、道路の舗装工事が行われていた。昼間はそこを通る度に、警備員らしきおじさんが、深々とお辞儀をしてくるのでなんだか恥ずかしい。私はただの通行人なのに、あなたの方が車や歩行者の事を考えて、旗を右左に振り回してるのに。偉いのはあなたの方でしょう?と思いつつも、そのお辞儀に軽く会釈するのも気が引けた。だから何となく、私は携帯の画面を見たふりをして、横目にお辞儀を感じ取る。


昨夜。突然太郎が、散歩に行きたいと言った。太郎は散歩が嫌いだ。太郎なんて、犬みたいな名前なのに。太郎は、夜道を怖がった。それは、お化けが出るからとか、そう言うものではなくて。ただ、暗いから。

退院した日に、自宅までの道程を、二人で歩いた事がある。

入院してる間に使った、着替えや生活用品の入った大きな鞄は、私が肩から下げて。太郎は、私の腕に体を預けるように、絡まりながら。覚束無い足取りで、一歩一歩進んでいた。まだ慣れない視界に、太郎は戸惑っていただけだとは分かっていた。しかし、その姿に私は強い憤りを感じた。あまりにも、私の知っていた太郎とは、変わってしまったのだと、初めて実感したからだ。

だから、昨夜。その話を太郎がした時、正直言って私は頷きたくはなかった。その代わりに、「また今度で良いんじゃないの」と、自分で自分の首を絞めるような事を、口にする。つまり、次回は断れないって事だ。


「それじゃだめだよ」

「どうしてよ」

「今日じゃなきゃ、だめなの」

「・・・。今日も明日も一緒だよ」

「違うよ、今日は今日しかないから」


居間のテーブル越しに、私と太郎の声は、交互に弧を描いて飛び交った。

今日は今日しかないから。

確かに、今日は今日しかない。それくらい私も知っている。明日は今日みたいな天気じゃない。今日みたいな空じゃない。今日ときっかり同じ時間、同じ場所に、同じ服を着た同じ寝癖の人は、今日と同じ気分で明日は立っていない。今日と明日の私は違う。明日は今日よりも、擦り傷が治ってる。顔に出来た吹き出物は、少し悪化していたりする。そんなの私も知っている。

でも太郎はいつだって、私よりは知らない。空の色も。昨日着ていた私の服の色も。昨日と何が違って、何が変わったのか、きっと私よりは知らない。だから明日でも良い、明後日でも良い、でも今日はやめたい。それで良い。

そう思った。

でも太郎は言う事を聞いてくれなかった。立ち上がり、テーブルの足に小指をぶつけて、でもそのまま玄関に歩いて行った。そして玄関の前で立ち止まると、確かめるように私の方を振り返る。


「私は行かないよ」


私は威嚇するように、冷めた視線を太郎に送った。


「じゃあ、僕が死んだら、小梅のせいにする。見えなくて電柱にぶつかって、脳震盪起こして、後ろにふらついた瞬間、丁度良く通り過ぎたトラックに、僕の後頭部が直撃するんだ。そして今回は前みたいに運良く、目と引き換えに命が助かったりしない。僕は死ぬんだよ。そしたら小梅のせいにしますって手紙に書いてポケットに入れてから、僕は散歩に行くよ。うん、そうする」


そこまで言うと、えげつない事を言ったにも関わらず、誇らしげな顔で私の顔を見る。


「そう。じゃあ私は、太郎が言った事をそのまま手紙に書いておく。そうだなぁ、動画にしようかな。しっかり太郎も写してね。そうすれば太郎が生きている時に、私がこの動画撮った事が証明されるね」


下唇噛みながら、私を見据える太郎に、今度は私が誇らしげな顔を見せた



私は結局、散歩に付き合った。でも多分、私が居なくても、太郎は電柱にぶつかって、脳震盪を起こして、後ろにふらついて、トラックにはねられて、後頭部に直撃して、死ぬなんてシナリオには、ならなかったと思う。だって一年前に、同じようなシナリオで、太郎は今の太郎になったんだから。同じシナリオで、ましてや死ぬ確率なんて、低いんじゃないかと私は思う。

太郎は私の腕に、自分の腕を絡めてこなかった。その代わり、私のTシャツの裾を時折、私が後ろにふらつきそうになるくらいに、強く引っ張った。私がトラックにはねられちゃうよ、太郎。

歩いたルートは、家の前の道を歩いて、線路沿いを歩いて、線路の下を通り過ぎて、一周して家の前まで来て、そこで終わった。思い返してみても、何が今日でなければいけなかったのか、分からなかった。ただその夜はいつもより、太郎は私のおっぱいを沢山揉んでいた。そこは、今日と明日の、違うところだったのかな、と私は感じる。




高校時代、委員会活動の時にしか、太郎と顔を合わせることはなかったが、太郎はいつもスケッチブックを持っていた事を、覚えている。


「美術部ですか」


四回目の委員会活動日が終わった頃、撤収する生徒たちの間を掻き分けて、私は太郎に声を掛けた。


「いや」


太郎はスケッチブックを小脇に抱えたまま、私を見下ろす。


「こんなに上手いのに?」

「本当にそう思う?」

「はい」

「でも色使いが不思議だねって、美術の島岡先生は笑ってたよ」

「私が先生なら、笑いません」

「小梅ちゃんは、先生なの?」

「太郎先輩が、美術部に入るなら」

「小梅美術部は、今部員何名?」

「ゼロです」


こうして、私は太郎と付き合いだした。しかし、困ったことに、その時私には、付き合っている相手が居た。

私は当然、相手を怒らせた。当たり前だ。これは立派な、浮気、なのだから。それをこちらから、簡単な口調で告げたのだから、尚更、相手の怒りに触れただろう。私は最も簡単に殴られた。人に殴られたのも、男性に殴られたのも、これが初めてだった。いや、これが、最初で最後であってほしい。

重い岩が顔に覆い被さるような感覚は、もう味わいたくは無い。人はこんなに簡単に、人を殴れるものだと、感心すらした。そして同時に、殴られた時の重みくらい、太郎を好きになろうと思った。何だか若さが、文字の奥から滲み出るような言葉だが、その時は本当に若かったし、心からそう思ったのだ。


「痛い?」

「当たり前」

「僕達、本当に付き合ってていいのかな」

「どうしてそんなこと言うの」

「だって、僕。人を殴る勇気なんて無いよ」

「殴らなくていいよ」

「小梅に危機が迫ったとしても?」

「そしたら逃げよう、一緒に」

「僕は足も遅いよ」

「じゃあ私が引っ張るよ」

「小梅も足が遅いじゃない」

「じゃあ一緒に危機に立ち向かおう」

「怖気付くかも」

「そしたら殴ろう、お互いにお互いを」

「僕、小梅の事殴れるかなぁ」


私は痣になった頬に手を当てた。もしも太郎が、いつか私の事を殴る日が来たら、この痣の上目掛けて殴ってもらおう。そしたら、上書きされるから。元彼に殴られた場所は、太郎に殴られた場所に変わるから。



あれからもう五年が経って、私は二十一歳に、太郎は二十二歳になった。頬の痣もすっかり消えた。大人に見えていた大人に、実際自分がなると、それは大人ではなくて、ただの自分だった。

私たちは、駅の線路沿いにある古いアパートで、二人で家賃を払いながら暮らしている。私の仕事は、時給八百八十円の喫茶店。太郎は売れない画家。前は路上で絵を販売したり、インターネットでTシャツにデザインしたものなどを売っていた。定期的ではなかったが、そこそこの収入もあった。しかし一年前から、その日常はそうではなくなった。色の無いものは、そもそも人の目に止まらなかった。元々高い知名度を持っていない太郎の絵は、尚更人の目には止まらなかった。知らぬ間に、家賃の殆どは私持ち。太郎は仕方なくバイトを探したが、面接をしても、目の事を話した瞬間、相手は渋い顔をして、どのバイト先からも折り返しの電話は鳴らない。「しょうがないよ。もしも僕が店長だとしたら、選ばないもん、僕を」と太郎は笑ったけど、収入が多く入ることに越したことはないし、私の心は、不安と怒りが渦巻いていた。


午後十八時二十分、手元の時計ではそうだった。バイトを終え帰宅すると、玄関から見えた太郎の姿は、いつに無く変に見えた。右手で片目を抑えながら、頻りに部屋の隅と隅を、行ったり来たりしている。

私は小銭入れのポーチを忍ばせた、グレー色のパーカーをテーブルの傍に投げると、そのまま太郎の正面へと足を運んだ。そして、太郎の右手首に手を掛け、挙動不審な動きと、荒い呼吸をした太郎の目をじっと見た。


「どうしたの」


私が声出すと、太郎はまるで、突然目が覚めたかのように体を怯ませ、一瞬動きを止めた。そして目を凝らし、私の方に視線を向ける。


「見えないんだ」

「そんなの前からじゃない」

「違う、右目がおかしいんだ。色んな色が」

「太郎」

「何」

「・・・左も同じよ、太郎。私が見える?このセーターの色が分かる?これは深緑色。分かる?」

「分からない」

「じゃあ左だって同じじゃない」


そこで太郎はようやく、右目に被せていた手の平を外した。よっぽど強く押さえていたのだろう。右目の周りは、赤くなっている。

太郎は、そこで初めて自分の過ちに気付き。今度は右手で、頭を掻き毟りながら、その場に膝を付いた。そして、「前からこうだった?」と、私を見上げる。


私は胸の奥がうずうずした。腹の奥も二転三転、くるりと回転したような感覚になり、目眩さえも覚える。太郎の知らない事を、今私は知っている。私が伝えなければ、太郎は自分のした事に、完全に気付かない。その状況が、私の心を余計興奮させた。


「そうだよ、思い出した?」


私は緩む頬を隠す変わりに、耳にかけていた髪の毛を解き、太郎を見下げる。

太郎は私を見上げたまま、何度か身震いをした。Tシャツから見える、ゴツゴツとした鎖骨が、それに合わせて浮き出す。

太郎がこの事を忘れるのは、何も今が初めてではない。数週間前の休日、私がシャワーを浴び終え、居間に戻った時も同じだった。その時は、左目を頻りに引っ掻いていた。ミミズ腫れになって、赤く爛れるほどだった。でもその時も、私が太郎の手首を握り、小さく囁くだけで、また思い出して、動きを止めるのだった。


私は、テレビボードの下から、ノートを取り出し、そこに「十月二十八日」と、今日の日付をボールペンで記す。


「ごめんなさい」

「何が?」

「僕がすぐ忘れるから」

「謝らないでよ」

「でも小梅に、迷惑かけてばっかりだ」

私は言いかけようとして、すぐに口を噤んだ。「そうだね」と、真顔で言いそうになったのだ。

「そんなことないよ」


太郎の母は、都内に一人で住んでいる。太郎の母は、体が弱い。だからこんな太郎とでも、私と暮らすことを許してくれたのは、「私よりもあなたの方が、どんなの時も助けられる」と、思ったからだろう。私は太郎の母に、月に一度、短いながらも報告のハガキを出す。七夕の時期は、織姫と彦星のあしらわれたハガキに綴り、クリスマスの時期は、サンタのあしらわれたハガキに綴った。

十月は、パンプキンのあしらわれた、ハロウィン仕様のハガキに綴る。


『お母様へ、元気ですか。小梅です。先月、太郎が忘れた日を記した紙を、今月も同封しています。つい、三日前も、太郎は忘れました。以前と変わらず、すぐに正気を取り戻しましたが、やはり、事故の後遺症が今でも残ってるのではないかと、私は思います。病院に行くことを逐一進めますが、太郎は一向に頷きません。お母様の体調は大丈夫ですか。何かありましたら、すぐにご連絡ください。では。』


太郎の母親が、いつか安い携帯でも買ってくれることを祈りながら。今月の初めも、私はポストにハガキを投函する。私と、太郎の母親のやり取りを、太郎には、表面的に気付かれてはいないものの、やはり文章が丸見えのハガキを送り合うのだから、多少知ってはいるんだろうなぁと、私は考える。しかし、太郎が何も言って来ないから、教える必要もないんだろうなぁとも、私は考える。


私は太郎が好きだ。人とは少し違った話し方をする所とか。顔が綺麗な所とか。時間を計る時に、決まって砂時計を使う所とか。柑橘系の香りが好きな所とか。寝付きが良い事と、早起きが得意な所とか。朝は大抵、機嫌が良い所とか。

しかし、「それは愛ですか」と、誰かに問われたら、私は迷う事なく「違います」と、答えるだろう。私の好きは、多分「愛」ではなく、「恋」に近いもので。高校時代の恋愛ごっこを、今も尚、延長させて過ごす毎日のように思える。そして、その延長料金を払っているのは、紛れもなく太郎で、太郎の目で。それが無ければ、党に私たちの恋愛ごっこなど、期限切れなのだ。


『お母様へ、元気ですか。小梅です。先月、太郎は何度も忘れかけました。その度に目の周りに何かが残ります。その度に私は、その傷が消えなければ、鏡を見るたびに思い出せるのに、と苛立ちます。しかし皮肉にも、傷は数日で癒えます。もっと強い傷を付ければ良いのにと、思わず自らを引っ掻きたくなります。お母様、あなたは太郎の瞳になりたいと思ったことはありますか?私はあります。しかし、知人にそれを打ち明けると、百パーセントの確率で、馬鹿なことはお良しと叱られます。私の感情は、おかしいのでしょうか。私は時々、太郎の瞳に強い嫉妬を覚えます。私だったら、もっと喜ぶのに、どうしてどうしてあなたなの、と。お母様はいいですね。病弱を理由に、厄介な息子を、排除出来るのですから。私は太郎が好きです。しかし、傍に居るだけで己の醜さと、汚さがより際立ち、そして、より己を嫌いになります。今の私の生き甲斐は、太郎が苦しむ姿を見ることです。それでは、あなたの大きな嘘が、いつか暴かれることを祈っております』

と書かれた文章は、今日も頭の中で素早く綴られ、すぐに消え去った。果たして私の中にあるものは、「恋」とも呼べるほど、美しいものなのだろうか。と、幾度も自分で自分を疑う。







ある日、私がバイトから帰宅すると、太郎は笑顔で「バイトに受かった」と言った。


「どこの?」

「ほら、駅前の古本屋さん。前から貼り紙で募集してたんだ」

「へぇ、良かったじゃない」

「本当。やっと嫌な顔しないで聞いてくれたよ。店主の奥さんも、同じような症状があるみたいで、心境がよく分かるって。それに、古本屋は表紙の色で売ってない、中身で売ってるって」

「同じような症状?」

「うん、奥さんは片目が失明してるんだって」

「ふーん」


片目の失明。私はそれが、太郎と同じような症状には思えなかった。少なくとも、太郎は両目でしっかりと、物を捉えられるのだから。一方、太郎はバイトに受かったのが相当嬉しかったようで、鼻歌交じりに、スケッチブックへ鉛筆を走らせていた。

翌日、太郎は楽しそうにバイトへ向かった。アパートの窓から見える、その後ろ姿を、私は寝間着のままで呆然と見つめる。

あぁ、太郎の後ろ姿が輝いている。時給八百八十円のバイトに向かう、私とは大違いの輝きだ。秋の冷たい風が、洗顔したての顔にピリピリと当たり、肌が乾燥していくのが分かった。今日、私は休日。


久々に、太郎のいない部屋で、私は一人過ごした。とは言っても、特別何かをしたと言うわけではなく、ダラダラとテレビを見たり、雑誌に目を通したりして、ただ時間は過ぎて行った。一つしたことと言えば、高校時代に、一度はまって買ってしまったアコースティックギターを、タンスの奥から引っ張り出し。簡単なコードで、短い歌を作ったくらいだ。その歌の歌詞もメロディーも、今はもう忘れた。


そう言えば。付き合いだして一年たった、私が高校二年生の秋。進路に悩んでいた太郎の横で。私は覚えたてのGのコードを、ひたすら掻き鳴らしていたのを覚えている。


「それ、もう少し静かに出来たりする?」

「無理」

「お願い、少しだけ。せめて優しく弾いてよ」

「私。太郎にお話ししてる時に、太郎が絵を描いてても何も言わないよ」

「僕のは音が鳴らないよ」

「でも私、話してた」

「ごめん。でも今はちょっと・・・」

「何分?」

「へ?」

「なんぷん?」

「え?んー、十五分くらい?」


私はアコースティックギターと共に、腰掛けていた机から降り立ち、進路希望調査表に鉛筆を立てる太郎の横に座った。そして机に、頬杖を付く。


「こんなの適当でいいのよ」

「適当?じゃあ小梅なら何て書くの?」

「大統領」

「嘘でしょ・・・」

「本当!」

「じゃあ僕は」

「・・・」

「絵描きさん。にしようかなぁ」

「は!そんなの無理」

「小梅の大統領の方が無理だよ」


その一年後。私は進路希望調査票に、大きな字で大統領と記し。翌日、母親付きで職員室に呼ばれた。



夕方。お味噌汁が出来上がった頃、太郎が帰宅した。

「おかえり」

おたまを片手に玄関に目をやると、そこには、明らかに朝とは違う顔付きの太郎が、靴も脱がずに立っていた。

「初出勤なんてそんなものよ」

太郎が何かを言う前に、私は助言する。

「誰でも、初めから上手くできない人なんていないの。太郎だって知ってるでしょ。だから時間が解決してくれるの。ほら、靴脱いで。晩ご飯出来たよ」

しかし、太郎は玄関から動こうとはしなかった。その代わり、太郎は「今日」と言い掛けて、すぐに口を噤む。私も、再び言い掛けそうになった言葉を飲み込み「今日?」と口にした。


「今日、何気なく空き時間に、広告チラシの裏に絵を描いてたんだ」

「うん」

「そしたら、店主の横山さんがたまたまそれを見てくれて」

「うん」

「僕の絵を凄く褒めてくれて」

「うん」

「それで、前に路上で売ってたこととか、ネットで販売してたこととか話したら、うちの店に置いてみないかって言ってくれて」

「・・・」

「だから、明日から店に置かれるんだ。僕嬉しくて。それで、ごめん。何から言おうかって思ったら頭が回らなくて、それで靴も脱ぐの忘れてて」


そう興奮気味で、ポケットから出した広告チラシの裏には、相変わらず色の無い絵が、大きく描かれていた。私は目線の高さをそのままに、味噌汁の入った鍋に再び向き合った。



「本当は何になりたいの?」


高校卒業後。趣味だった絵を、お金稼ぎと変えた太郎は、駅前の路上に自分で描いた絵を並べ、その前に胡座をかいていた。


「ミュージシャン」


制服姿に、重たいアコースティックギターを背中に抱えた私は、この横に小さく座り、そう答える。


「じゃあなればいいじゃない」

「そう簡単になれないから困ってるの!」

「僕はなったよ。まだ卵だけど」

「太郎は私と違う。太郎は才能があるから」

「ギターの調子はどう?」

「G。あとCとF、あとは色々」

「進路は?」

「決まってない」

「どうするの」

「知らない」

「でも小梅のお母さんは、進学して欲しいと思ってるんじゃない?」

「うん。でも私はしたくないもん。だって太郎もしてないじゃん」

「そりゃあ僕は無理だよ。お母さんだって通院してるし、お金だってないし」

「だから!才能もないしやる気もないのに、進学するなんて、太郎に悪いよ」

「あははは、小梅は優しいなぁ」

「・・・売れてんの?」

「まぁ、ぼちぼち」

「隣で歌ってあげようか?」

「え、いいの?」


そう言って私が歌い出したのは、覚えたてのコードで作り上げた、何度も辺鄙な自作曲だった。当然、誰も私の歌に立ち止まらなかったが、太郎だけは私から目を離さず、ずっと聴いていた。ただずっと、聴いていた。




毎日描いていた絵や、過去にネットで売っていた物の売れ残りを、あらかし鞄に詰めた太郎は、二十二時過ぎになると、早々と眠ってしまった。一人残された私は、小さな音でテレビを掛けながら、テーブルの上に残されていた広告チラシの裏に目をやる。そして再び、高校時代のあのやり取りを思い出した。

私は太郎の絵には才能があると、昔も今も思っている。太郎の絵は凄い。太郎の細胞一つ一つまでもが、その絵から浮き出てくるように美しい。

しかし、これはどうだろう。

私は頭上の電気に広告チラシを当て、太郎の絵を見る。秋の大感謝祭と書かれた文字が、電気に当たり、はっきりと透けた。尚更だ。

これは、広告の文字のように黒く、私の心を揺さぶるような、才能に溢れた、あの時の絵なんかじゃない。

そう心で断言すると、古本屋に太郎の絵が置かれるという事実が、余計現実的なものに、そして腹立たしいものへと変わっていった。

本当にあの店主は、太郎の絵を置くのだろうか。






そんなつもりは別になかった。そんなに気になったわけでもない。しかし、心とは裏腹に、私の足は太郎のバイト先、「秋刀魚」へと進んでいた。

古本屋「秋刀魚」は、駅前の居酒屋で賑わう裏路地の中に、まるで居酒屋のような看板を引っ提げて、建っていた。入り口脇に置いてあるボードには、『今日のアラカルト』とあり、その下には本の題名と、著者の名前が、ずらりと書かれている。


「居酒屋みたいでしょ」


じっくりとボードに目をやっていると、店主の横山さんと思われる男性が、ドアから顔を覗かせ、私に話しかけてきた。思ったよりも若い男性だ。三十代前半くらいだろうか。


「古本屋ですよね」

「もちろん」

「でも見た目が・・・」

「確かに、居酒屋だね」


と、横山さんは依然、半分開けたドアから顔を覗かせたまま頷く。


「これはね、僕の作戦で」

「作戦?」

「ほろ酔いのお客さんが、二軒目にと思って立ち寄るのを狙ってる。そこで酔った所を突っつくわけさ」

「はぁ」

「すると、あら不思議。お客さんは訳の分からぬまま、古本を三冊買いました」


そう言うと、横山さんは、ようやくドアを全開にし、その全貌を露わにした。恐らく横山さんだと思われるその男性は、黒いシャツと、黒いズボンに、緑色のエプロンを付け、肩くらいまでありそうな、黒色の髪の毛は、オールバックにして全て後ろで束ねていた。


「ようこそ。古本屋、秋刀魚へ」



店内はジャズ調の音楽が流れ、思ったよりも狭い作りになっていた。本は、置けれる場所には全て置いている、と言っていいほど、四方八方に積み重なっており、室内の真ん中には二つ、大きな本棚が縦に並んでいた。横山さんに手招きされるまま、店内の一番奥に進むと、丁度太郎がカウンター横のパイプ椅子に座り、弁当にありついている所だった。


「小梅!?」


案の定、驚いた太郎が、口に運ばれていた箸を止め、目を丸くする。


「やっぱり君が小梅ちゃんなんだね」


と、横山さんは太郎の横に立ち、ニコリと笑う。


「僕は横山、横山泰です。太郎くんから、少し聞いてるかな?」

「あ、はい」

「僕がこんなにイケメンな男だって事も?」

「いや、それは。聞いてなかったです」

「えー、太郎くんそれ言ってないの?一番重要なのに。あれでしょ、僕の事、もっとお年寄りだと思ってたんじゃない?」

「・・・正直。はい」

「ほーら、やっぱりね!太郎くん!年齢は言わなきゃあ」


横山さんはガハガハ笑いながら、太郎の背中をバシバシと叩いた。それに合わせて、口に海老フライを含んでいた太郎が咽せる。


「そうだ。小梅ちゃん。見に来たんでしょ?」


横山さんは、今も尚咽せ、ペットボトルの水をがぶ飲みしている太郎に反応も見せず、カウンターから向かって左にある、木で出来た丸テーブルを指差した。

そこには昨夜、太郎が用意していた絵やTシャツ、缶バッチ、携帯ケースなどが、透明な袋に入って、当然ながら商品のように並べられていた。その隣には、『当店アルバイターオリジナル商品』と、札が貼ってある。


「一応値段は、路上販売とか、ネット販売してた時と同じ価格にしてる!」


と、漸く海老フライを胃に流し入れた太郎が、声を上げる。横山さんは溜息と共に腕組みをすると、「いいよね。太郎くんの絵」と、惚れ惚れとした表情で、その商品たちを見つめた。



午後十七時半を回った頃、学校帰りの学生、仕事帰りのサラリーマンが、ポツポツと店内に現れた。その度に、横山さんは「おう、〇〇!来たか!」や「あ、〇〇さん。久しぶりですね」と、声上げる。それだけでも、この店は知る人ぞ知る隠れ家的店なのだと、私実感する。

一方私は、お勧めの古本を教えてもらったり、横山さんの身の上話を聞いているうちに、こんな時間まで長居する形となってしまった。



横山さんは三十三歳。奥さんと五歳になる息子の三人で、西千葉駅近くのアパートに暮らしている。前に、太郎から聞いた通り、奥さんは五年前に、事故で片目の視力を失ったのたらしく。しかし、物の距離感に偶に戸惑う程度で、私生活では然程大きな問題はないようだ。

このお店は四年前から始め、その前は不動産会社に勤めていた。奥さんの事故を機に、なるべく奥さんの元へすぐに行けるようにと配慮し、この仕事に転職したそうだ。それもそのはず、カウンターにあるレジの横と、その後ろの壁には、溢れんばかりの家族写真が、自慢の如く貼られていた。「どうせなら、妻や息子の側に自由に行きたいからね」と、横山さんは言う。


午後二十一時。今度は、酒の臭いが漂うサラリーマン達が、フラついた足取りで横山さんに連れられ、店内に入ってきた。そして横山さんが言った通り、「この本は通勤時間に読むべき」だの、「この本を奥さんのお土産にどうですか?」だの、言葉巧みに操られ、サラリーマン五人組は、一人一冊ずつ古本を購入し、満足顔で店内を後にする。


「本当に買っていくんですね」


サラリーマンが居なくなった後、太郎はそう呟きながら、カウンターの引き出しから携帯やら財布やらを取り出し始めた。どうやら、もう上がりの時間のようだ。


午後二十一時半。横山さんは店のドアに鍵をかけた。そして店前のボードに、殴り書きで『close』と書き、「まぁ一日は、ざっとこんな感じかな」と、伸びをする。


「開店時間はいつも正午から。終わりはその日によってまちまちだけど、大体この時間には閉店だよ。っと・・」


横山さんはそこまで言うと、私の袖をさり気無く掴む、焦点がなかなか定まらない太郎を見て、声を詰まらせた。そして「この時間までとなると、毎回迎えが必要になるか」と、苦笑いをする。


横山さんの気遣いにより、太郎はオープンからその日の日の入りの三十分前まで、秋刀魚で働く事となった。勿論、太郎の作品も置かれるようだ。太郎はその帰り道、店の事を楽しそうに私に伝えるものの、片手は常に、私の服の裾を強く握っていた。


「腕」

「いいよ」

「掴んでもいいのに」

「やめとく」

「こんなに長いんだね。あのお店」

「ね。でも素敵な人でしょ、横山さん」

「うん」

「今日なんで来てくれたの?」

「・・・出来心」

「出来心!?」

「ねぇ太郎」

「何?」

「今私が、一人で歩いて帰って、ってお願いしたら」

「・・・」

「太郎は一人で歩ける?」

「どうかな。無理かもね」


あぁ。私は何て悪い癖を持った、酷い女なのだろうか。


私は、袖を掴んだ太郎の手を、優しく解き。私の身体から離した。そして、二歩後ろに下がる。その瞬間、太郎は忽ち不安そうな顔をし、しかし大人しく、両腕を体の脇に降ろす。


「あなたはもう歩いてるのよ、歩けないのは私なの。いつも私の先を歩いてるのは、太郎。あなたなのよ」


そう言いながら、私は一歩一歩、後ろへ後ずさる。


「小梅。小梅待って。どこ、何処にいるの」


太郎は両腕を伸ばし、足を地面に擦りながら、前へと進む。 富んだ腹いせだ。その姿を見ながら、わたしは一人思った。


「小梅待って。本当に。お願い!置いて行かないで」

「太郎」

「何」

「先に行ってるね」


私は前を向いて、アパートへと向かって歩き出した。後ろから泣きそう声で、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。


幸せ。幸せでたまらないのです。

今太郎は、全身で、全てで、私を求めているでしょう。店に置かれた絵の事など忘れて、事故にあったあの日を忘れて、読みかけの本のページ数を忘れて。ただただ、私を求めているでしょう。

私はそれが幸せなのです。太郎が全てを忘れ、しかし私だけを求めるの事が、何よりも、幸せなのです。




日が昇り始めてきた、六時二十七分。太郎は帰って来た。手には錠剤の殻が、握った手から溢れるほどに、握られていた。太郎がポケットに入れている財布を取り、中を覗くと、いつも常備している精神安定剤を、全て飲んでいる。


「帰ってこれたじゃない」


太郎は返答しなかった。大量に摂取したせいなのか、秋の寒さに体を冷やしたのか。太郎の体は震え。目はいつもの半分以上も開いていなかった。


私は溢れてくる快感と、喜びを抑えきれず、鳥肌を立てた。そして口に手を当て、にやける頬を隠す。


「僕。見えてるよ」


虚ろな目のまま、太郎はその場にずり落ち、玄関に腰を落とす。


「見えてる。ちゃんと見えてる。色も分かるんだ」

「嘘よ」

「本当だよ。小梅が来てる服の色だって、今日は分かるんだ。赤だろう」


私は自分の服に目を落とした。紺色だ。


「いいえ」

「・・・」

「太郎。もう寝よう」


私は、体の冷えきった太郎の両脇を掴み、上に持ち上げた。しかし、当然太郎の体は、簡単に上がらない。少し上に上がっただけで、私は重さに耐えられず、すぐに太郎を落としてしまう。それは何度繰り返そうと、同じ結果だった。私が持ち上げた力に任せて、そのまま自分で、立ち上がってくれる事を期待したが、もうその力は、太郎に無いようだった。


「太郎。これじゃあ玄関が開かないよ」


私は太郎と同じ目線にしゃがみ込み、顔を覗いた。髪の毛が顔にかかり、その間から、太郎の青白い肌が、顔を覗かせている。

太郎は唸るような声を出しながら、モゾモゾと体を動かした。そして、立てた膝の上に顎を乗せる。


「小梅」

「何」

「僕が好き?」

「好きよ」

「他の誰よりも?」

「好きよ」

「こんな目でも?」

「そんな目が好き」


「小梅」

「はい」

「小梅」

「はい」


「どうして僕を、置いていったの?」


そう言って私を見上げた、太郎の顔は。

本当に本当に美しく。私の五感を、震わせるものがあって。思わず私は目尻を熱くし、下唇を噛む。


「小梅が、時々他の誰かに見える。僕の知らない、人に見える。それって、僕の目が変だから?」

「そうかもね」

「今、小梅美術部は何人いるの?」

「二人。太郎と私だけ」

「そうか」


太郎は満足そうに微笑み、またうな垂れた。そして膝に顔を埋めたまま、また「そうか」と、呟いた。





『お母様へ、元気ですか。小梅です。今月も同じように同封していますが、ピンポイントで一つ、触れなければいけないことがあります。それは太郎が、精神安定剤を全て一日で服用したことです。これは私も、予想外に突然なことで大変驚きました。何の為に服用したのか聞いても、太郎は言葉を濁します。しかし、精神安定剤をまた処方して貰うためにも、病院に行く口実が何とかできました。そこは不幸中の幸いだったなと、思っています。これからどんどん寒くなりますので、どうか体に気を付けて。では。』


薄手の物一枚では、肌寒くなった十二月。あれから太郎は順調に、週四日のアルバイトをこなしている。お昼前に出勤し、日が沈む前には帰宅した。販売していたオリジナル商品はと言うと、特に若者に売れ行きが好調らしく、それと同時に古本の売り上げも、伸びているらしい。横山さん曰く、「僕の予想を遥かに超えている」だそうだ。


太郎はとっくに出勤した午後十四時七分。私は下着姿のまま、鏡の前に姿を現し、上から下まで、舐めるように自分の体を見た。理由は大したことではない。

ただ何となく、自分の容姿について、自己評価してみたくなったのだ。





「本当、ブサイクだよ」


いつもの如く、あまり弾けもしないアコースティックギターを提げて、太郎の家に上がり込んだ私は、部屋に入るなり鏡の前に立ち、今の私のように、上から下まで、自分の体を見た。


「何処が」


その横で胡座をかき、色鉛筆を手にしていた太郎は、いきなり部屋に現れた私に驚きもせず、その姿を見ながら、悠長に口を開く。


「全部」

「そうかな」

「女の子はいつだって、それ以上の美を求めてるのよ」

「女の子って、欲張りなんだね」


私はまた鏡に向き直り、今度はウエストに両手を当て、右半身を写したり、左半身を写したりした。


「右も左も同じだよ」


見かねた太郎が、また口を挟む。

私はと言うと、今度は鏡に向かって正面に立ち、ウエストをじっと見た。


「正面も同じ」と、また太郎は言う。


「だめ、これじゃだめ」

「何処が?何処がだめなの?」

「なれないのよ。なれない!」

「あぁ。ミュージシャン?」

「うん」

「小梅は見た目を気にすることないよ。気にするのは」


そう言いかけ、太郎は自室の壁に立てかけられている、ギターケースに目をやった。





そんなのは私だって知っていたのだ。ただ私は、僅かな可能性を知りたかった。それを探ってみたかっただけなのに、太郎は最も簡単に、現実を私に突きつけてきた。そしてその時私は思ったのだ。

私はどうかしていた、と。


あの時の、生き生きとした瞳はもう無いものの、体型はあの頃よりも随分とスレンダーになった気がする。いや、窶れただけなのだろうか。

私は依然下着姿のまま、あの頃のようにウエストに手を当てることもなく、ただ仁王立ちし、鏡の自分と目を交わす。明らかに現実離れした、希望というものを忘れかけた瞳が、向こう側から私をじっと見据えた。


その時だった。鏡越しに見えていた、テーブルの携帯が。バイブ音と共に、初期設定のままのコール音を響かせ、私を呼んだ。

下着姿のまま、私は携帯を掴み、相手の声を待つ。一体誰が、何の為に私に電話を掛けてきたのか。そんなのは携帯のなった瞬間から、党に予想はついていた。


「もしもし!?」


受話器越しとは思えないほど、大きな声を発したのは、電話の主、横山さんからだった。どうやら、太郎の携帯から電話を掛けてきたようで、その声から、横山さんは相当動揺していると分かった。


「どうしました?」


そんな横山さんに対し、私は冷静に声を出した。



「どうしたも何も!・・・兎に角変なんだ!見えないとか何だかとか、ずっと言ってて」

「あぁ。そうですか」

「・・・どうすればいいの」

「手を握ってあげててください。多分、今頻りに歩き回ってると思うんですけど」

「あ、うん。ずっと歩いてる」

「手を握れば、とりあえずは落ち着くはずです」

「わかった!」

「今から向かうので」


電話は切れた後、下着のままテーブル越しに突っ立っていた私は、その場にしゃがみ込み、両手で口を押さえた。


何がおかしい。笑ってはいけないだろう。


そう自分に言い聞かせるが、私の頬は勝手に上に持ち上がり、口角を上げさせた。



古本屋「秋刀魚」に到着したのは、横山さんと電話をしてから十分程経った頃だった。

入り口のボードには、相変わらず『今日のアラカルト』と、その下には太郎のグッズについての事が書かれていた。『大人気、クリエイター太郎』

太郎はいつからクリエイターになったのだろうか。と考えながら、私は店のドアを開ける。


店内に入ると、カウンターの向こうで、明らかに焦った表情の横山さんが、青ざめた顔で太郎の背中を摩っていた。


「小梅ちゃん!!!」


私に気付いた横山さんは、安堵の顔を滲ませながら立ち上がった。


「落ち着いたみたいですね」

「・・・まだブツブツ何か言ってるけど」

「貸してください」


横山さんは、「うんうん」と頷きながら、一、二歩後ろに下がると、そこから太郎の姿をじっと見た。私は、今まで横山さんがいた場所にしゃがむと、太郎と向き合い、太郎の手を強く握る。

その瞬間、俯いて何やら呟いていた太郎が、また目覚めたような表情をして、私を見つめた。


「太郎」

「・・・」

「どうしたの」

「・・・見えないんだ」

「どうして?」

「全部が混ざったような色で」

「そう」

「僕の目がおかしくなった」

「そう」

「どうすればいいの?」

「太郎」

「な、何」

「太郎は前からそうだよ」

「え」

「事故にあったあの日から、ずっとそうでしょう?」


太郎は驚いた顔のまま、再び俯いた。そして、今私が言った言葉を理解しようとしているのか、眼を固く瞑り、しばらくした後、顔をゆっくりと上げた。


「・・・小梅、ごめん」

「だから、いいってば」


私が笑いかけると、今度は、私の後ろで一部始終を見ていた横山さんに顔を向け、「横山さん、すいません」と、太郎はしゃがんだまま頭を下げた。




太郎は、そのまま私と帰宅することとなった。横山さんは、まだ興奮が収まらないようだったが、「落ち着いたら電話してほしい」と笑い、飴玉を太郎に手渡した。帰り際、ドアを押さえていてくれた横山さんの手は、小刻みに震えていた。


私と太郎は、一言も会話する事なく、落ちてきた日を顔いっぱいに浴びながら、家路へと向かった。

帰宅すると、太郎はすぐに座椅子に腰を下ろし、目を瞑る。まるで瞳の中に入ってくる、無数の光を拒むように、何も自分を、邪魔しないように。

私はティーポットに、太郎の好きなジャスミンティーのパックを入れ、お湯を注いだ。そして、太郎の向かえに腰を下ろし、ティーポットに茶葉が染み込むよう、ティーパックを縦横に揺らす。


「僕は」


目を瞑ったまま、不意に太郎が口を開き、私は揺らしていた手を止めた。


「僕は知ってるつもりなんだ」

「・・・」

「知ってるのに、分かってるのに、忘れるんだ。僕の脳ミソか僕と繋がってないみたいに、一人で勝手に宙に浮き出して、その瞬間目の前の景色を許せなくなって、あぁ。忘れるんだって自分で気付いて、必死に目の前の景色を目に焼き付けようとする」

「・・・」

「でもそう思った瞬間には、もう忘れてて。どんどん怖くなって、視界の淵の方から黒煙みたいなのが、モヤモヤしてくるような気がして。脳ミソはどんどん上に上がってって、でも」

「・・・」

「小梅の声を聞くと、すぅーっと全部戻ってくる。黒煙が風で吹き飛んだみたいに消えて、全部が戻ってくる」

「・・・」

「時々思うんだ。今閉じてるこの目を開けたら、全部が元通りになってればいいのにって。事故に遭う前の、僕の目に戻ってればいいのにって」


私はティーポットの蓋を開け、中を覗き込んだ。お湯にティーパックが染み込みすぎて、ティーポットの中は真っ黒になっていた。太郎が見る、暗闇みたいに。


太郎は漸くそこで目を開けた。そして「やっぱりダメか」と、力無く笑った。








次の日も、その次の日も、太郎はベッドに支配されたかのように、そこに横たわったまま動かず、ただ目を瞑っていた。

「何してるの」と、聞くと。太郎は「待ってる」と、口にした。


私が仕事から帰宅しても、私がご飯を食べてても、太郎はいつも同じ姿勢のまま、ただ目を瞑っていて。そのうち、太郎は寝てるのか、起きてるのかも分からなくなった。もしかしたら死んでいるのかも、と疑い、太郎の口の上に、手を翳してみたりもした。

三日経った頃、恐る恐る太郎の口に、里芋の煮っころがしを当ててみると、目を瞑ったままで、それを食べた。だから私はそのまま、口移しで味噌汁も与えた。


まるで人形みたいに太郎は横たわっていた。太郎は、前よりも細くなった。たまに声を掛けてみた時は、いつも「待ってる」と、太郎は言った。

その間、横山さんから電話が来ることは一度もなかった。多分、太郎から掛かってくるのを待っているのだろう。


一週間経った頃、私が仕事から帰ると、ベッドの上には、いつもの太郎の姿はなかった。代わりに窓際の床に、小さく膝を立てて座っていた。


「来たの?」


私は手を洗いながら、太郎に尋ねた。


「待ってたんでしょう?」


太郎は、直ぐには答えなかった。目を擦ったり、目を開けたり閉じたりしている。何かを確かめているようだった。私はそれ以上声をかけず、太郎が答えるのを待った。


着替えも終え、居間の座椅子に腰掛けた頃、依然同じ事を繰り返す太郎の姿に、呆れた私は再び声を上げた。


「ねぇ、どうしたの」

「期待してた」


今まで口を閉じていたのにも関わらず、太郎は案外簡単に話し出した。


「僕が光を拒んだら、治るのかなって」


太郎は目を擦るのをやめ、私の方を見た。擦りすぎて、両目の瞼と、眉毛が赤くなっている。


「でも、無理だった。結局目を開けても、同じだったよ」


私はテーブルに頬杖つき、「そう」と。さぞ、どうでもいい風を装い、わざとらしくため息も付いた。


安心したのだ。もしかしたら、もしかすると、治ったのかもしれないと不安になり、自分の心の拠り所を、失う恐怖を、一瞬味わってしまったのだ。太郎の目が治ったら、今度こそ、太郎は私よりもどんどん、離れていってしまうと、怖くなったのだ。



太郎には、光が必要だ。それが、太郎の瞳に対象物を移す、大切な役目になっている。太郎は光が、虹色に見えるという、まるで雨上がりの空気に、ホースで水をまいた時に浮き出す虹のように、光が虹となって、降り注ぐという。だから、太郎は全部が虹のように見えた。どの色も何もかも、全てが虹のように、色とりどりの色彩を見せ、放射線状に光って見えた。

太郎には光が必要だ。その光の放つ虹で、全部を見ているのだから。




「月は?」


満月の光が入り込む病室で、私は太郎に聞いた事がある。


「どうだと思う?」


太郎は月に目も向けず、ベッドに横たわる、自分の足先を見ていた。


「見えないんだね」

「そんな事もないよ」

「・・・」

「ただ、ちょっと見え方が違うんだ」



太郎は、真っ暗闇の深い空の中に、ただ丸い月だけが、真っ白な色で見える、と私に話した。それはまるで白い瞳のように、自分を捉えるという。

そして、月の光だけは、虹色の光を放たなかった。ただ所々に立つ街灯だけが、僅かな光を、地面に真っ直ぐ落とすだけで、それ以外はただ真っ暗なままで、街灯の光だけが、まるで棒のように、ただ並んでいるだけだという。また、昼間と違い、煌々と光輝く、眩いほどの街のネオンの光は、放射線状の光が、彼方此方に屈折し合って、頭の中がグチャグチャになるほどに、瞳に突き刺さる、と太郎は話した。


「だから、暗いのが怖い。違う世界に居るみたいになる」

「今も?」

「今も」

「小梅、お願い」

「何?」

「絶対に、夜は」

「・・・」


「僕を、一人にしないで」





小さな実験を一週間、静かに行った太郎は、しかし何の成果も得られぬまま、今日を迎えたようだった。夜の月明かりに照らされた太郎は、窓際に座ったまま、目を細め、部屋の中を眺めていた。それはまるで、光との久々の再会を、喜ぶかのように、懐かしむかのように見えた。


「そんなにその目が嫌いなの?」

「小梅は好きなの?」

「好きよ」

「そうか」

「太郎は、嫌い?」

「どうだろう」

「私に聞かないで」

「愛おしい時もあれば、嫌になるときもあるよ」

「そんなの誰だってそうだよ」

「そうだね」


太郎は立ち上がり、窓に体を預けた。地べたに座っていた私は、その様子を見上げるような形で伺う。

太郎はポケットに手を入れ、まるでタバコの煙を吐くみたいに、ゆっくりと丁寧に息を出した。そして天井と壁の間を見つめながら、「そろそろ慣れなきゃ」と、口にする。


「慣れる?」


今まで何となく、太郎の言葉に返答していた私は、突然姿勢を伸ばし、太郎の言葉に食いついた。自分の心臓が、脈を打ちながら、前へ前へと進んでくるのが分かった。


「うん、いつまでもこうしてられないよ」

「・・・」

「それに、いつまでも小梅に迷惑ばっかりかけられないだろう?」

「・・・私は別に構わない」

「僕が構う」


私はそれ以上、言葉を返せなかった。ただ、私とは目を合わせない太郎の顔を、ぼーっと瞳に映した。暫く私たちの間には、沈黙が流れた。しかし、その間も確実に、世界は回っていて。窓の外からは、時折電車の通る大きな音が、眩い光と共に通り過ぎた。太郎には、それが光の閃光のようにでも、見えているのだろうか。


「どうして泣いてるの」


太郎の言葉で、私は初めて、自分が今していることに気付いた。まるで映画のワンシーンみたいに、自分の頬に手を触れると、その頬は濡れていて、目の奥は摘まれたみたいに痛かった。


「何で」


自分の身体に今起こっている事が、自分で理解出来ず、頬に手を当てたまま、呆然と太郎を見る。太郎は突然泣き出した私の顔を、心配そうな顔で見ていた。その顔は、暗闇に一人置かれた時の、表情に似ている。


「どうして泣いてるの小梅」


太郎は私の側までやって来て、私の頬に付いた涙を、羽織っていたカーディガンの袖で拭う。


「おいで」


太郎は、涙の止まらない私を、愛おしそうに見つめ、そして抱き締めた。こうして、太郎の肩に顔を乗せた私は、暫し目を瞑り、涙の流れた理由を考えるのだ。

しかし、考えなどせずとも、理由など明確であった。簡潔に言ってしまえば私は、「太郎がそれを受け入れることで、自分の快楽を失うことを、悲しんだ」のである。

そんな事を、夢にも思っていない太郎は、私が何故泣いたのかの理由を、すぐには見つけられなかったようで、「どうしたの」と、頻りに口にしながら、太郎の肩に乗った、私の頭を撫で続けた。まるで、いつも太郎を目覚めさせる、私の声を真似するように、とても優しい声で。


暫くして私が落ち着くと、太郎は携帯を耳に当て、誰かと話し始めた。私はその横で、太郎が出してくれた煎茶を啜る。

電話の相手はどうやら横山さんのようだ。横山さんは、太郎からの電話をずっと待っていたようで、上ずった喜びの声が、離れていても聞こえてきた。




『お母様へ。元気ですか。小梅です。先月、お伝えし忘れていましたが。太郎は、やっと理解してくれる、仕事場を見つけ、働き始めました。私もやっと安心したところです。しかしそれも束の間、先日仕事場で、あの症状が出てしまい、つい最近まで仕事を休む事となっていました。先週から復帰しまして、今は元の日常を過ごしています。仕事先の方も、大変理解のある人で、私も安心しています。それでは体に気をつけて。良いお年を。(太郎は今年もそちらに顔を出さないようです)』



それから数日後、太郎は仕事へ行った。横山さん曰く、太郎のグッズの売れ行きは、衰えることを知らず、寧ろ売り上げは伸びる一方らしい。「そろそろネット販売も再開しようかな」と、太郎は笑う。


私はいつかまた、太郎を暗闇に置き去りにするだろう。

例え、太郎がそれに慣れ、何事も無く帰宅してきても。私はまた繰り返すだろう。神様が、私の行いを叱ったとしても、私は続けるだろう。誰かが、そんな事をしてはいけないと、私の肩を掴んできても、私は続けるだろう。ずっとずっと、続けるだろう。太郎が私を拒むまで、私は続けるだろう。


私はギターを取り出し、Gコードを掻き鳴らす。私は変なのだろうかと、今日もギターに問いかけた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] この作品の魅力は主人公の偏った愛情表現でしょうか。付き合っている彼氏の才能に対する嫉妬とも劣等感とも取れる感情がどのようにして生まれ育ったのかが切々と書かれています。その様子は怖くもあり興…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ