掌編――月兎
「わたし、ね。あなたにあいたかったの」
彼女はそう言った。
窓際に座った彼女はとても綺麗だった。
満月の光を浴びて、腰まで伸びた黒髪に綺麗なラインが走る。
シャツを羽織っただけの彼女のボディラインが月の光に影を作る。
彼女の名は沙織。俺の、知らない、女。
「なあ」
俺はなんだか気まずくなって声をかけた。
平然と彼女のまっすぐな視線を受け止められるほど、すれてはいなかったようだ。
「その……悪かった」
ベッドに腰掛けたまま、俺は素直に頭を下げた。
「その、酔ってたとはいえ、見も知らぬあんたに、その」
しどろもどろに言い訳をしながら、視線を泳がせる。
彼女を直視する勇気はなかった。
次第に血が上ってくるのが分かる。
「……すまない」
彼女の沈黙が重くのしかかって、俺は再び頭を下げた。
「いいんです」
涼やかな彼女の声。顔を上げると彼女はにっこりとわらった。
「あなたにあいにきたのだもの」
「いや、その、いいわけがないよ、な。やっぱり」
罪悪感が増大する。
いっそ罵ってくれれば気が楽なのに。
「わたし、かえりますね」
「え」
彼女は立ち上がった。
闇の中のはずなのに、彼女は輝いて見えた。
「つきお、あなたにあえてほんとによかった」
そういうと、俺の頭を両手で挟み込んだ。
「沙織?」
斜め上から近づいてくる彼女の顔。思わず俺は目を閉じた。
額に柔らかなものが当たる感覚。
こみ上げる感情に耐えられず、彼女の体を掻き抱いた。
……つもりだった。
両腕は空を掻いた。窓が開く音がした。
「沙織?」
目を開けると同時に、開いた窓から風が吹き込んできた。
「沙織!」
まさか。
そんなばかな。
窓に駆け寄ると、月に照らされた窓の外に目を凝らした。
ここはおんぼろとはいえ三階建てのアパートだ。
あわてて裏の空き地を見に行った。
アパートのすぐ裏は空き地で野原になってるとはいえ、ここから飛び降りて無事なはずがない。
あんな華奢な彼女が。
だが、彼女の姿は忽然と消えた。月の光の中で。
「で、どうなったんだ?」
悪友の下館はにやにやしながら聞いてくる。
カラン、と氷がグラスにぶつかる音がした。
ウィスキーの綺麗な琥珀色があの日の月の光を思い起こさせる。
下館はどうやら俺らしからぬ冗談だとでも思っているのだろうようだった。
まあ、酒の席だから、なおさらか。
「何がだよ」
一応すっとぼけてみる。聞きたいことは分かってる。
「何が、じゃねえよ。しらばっくれんなよ。鼻の下のばしやがって。その美人とはどうなったんだよっ。まさかそれで終わりじゃないだろ?」
酒臭い息で絡んでくる。
「下館、お前酒飲みすぎだって」
「俺のこたぁどーでもいいんだよ。じらさねえで早く吐けっ」
「分かったよ」
まったく、酔っ払いは質が悪いや。
「ああ。……まあ、な」
それ以上は語らない。
「まあ、な、じゃ分かんねえだろうがっ」
「うるせーっ。これ以上恥ずかしいこと言わすなっ」
いいながら、顔に血がのぼってくるのが分かる。きっと真っ赤になってるのは酒のせいだけじゃない。
と、携帯にぶら下げてたアクアマリンのイヤリングが光った。
「おっと、そろそろ時間だ。俺、先に帰るわ」
「なんだよそれ、彼女の忘れ物か?」
「ああ」
女々しいなあ、と下館が絡んでくるのを無視して、俺は立ち上がった。
財布から紙幣を抜き出すとテーブルに置く。
「おい、逃げるのかよ」
「悪いな。女房にゃ月に一度しか遭えないんでね。今日は娘も来るし。今度埋め合わせするからよ」
「女房に娘だってぇ? なんだよ、うまくいってるんじゃねえか。いつ結婚したんだよ」
「まあ、な」
曖昧に答えておく。ちくしょー、と吠える独り身の下館に手を振ると、店の出口に向かう。
居酒屋のテレビが、月に小さな衛星ができたと報じていた。
ニュースを見ながら、俺は小さくため息をついた。
「まいどありー」
店主の声を背中に聞き流して店を出ると、家路を急いだ。愛しい妻とかわいい娘の待つ、あの家へ。
俺の生活は、結婚後も昔と何も変わっちゃいない。
ただ不満なのは、愛妻と愛娘に新月の日しか逢えないことだ。
別館サイトからの転載です。
2005年7月の作品でした。