42_嘘/まちがい(Ложь/ошибка)
驚く者は支配するであろう。支配する者は安息するであろう。(『へブル人による福音書』、第3節)
あの後どうしたのか、クニカは記憶がなかった。引き返すことはためらわれ、かといって行くあてもなく、クニカはひとり、サンクトヨアシェの街をさまよった。午後になってからは風が強くなり、さわやかな空気が街の湿気を追い払ってくれた。太陽は薄い雲に覆われてかげり、しかし、“黒い雨”が降る気配はなかった。
錆びついたベンチ、打ち捨てられた屋台の骨組み、缶くずでいっぱいになった金網製のごみ箱――そういったものを漫然と見送るうちに、クニカはいつの間にか、カイが住んでいる橋のたもとまでたどり着いていた。
カイに会いたい気持ちに駆られ、破れたフェンスをくぐり抜けると、クニカは土手を下って、橋の下を覗いてみる。
「カイ――?」
試しに呼びかけてみたクニカだったが、カイからの返事はなかった。
クニカはがっかりしたが、そのまま立ち去るのは名残り惜しかった。適当な場所に座りこむと、クニカはカイを待つことにした。
待っている間じゅう、クニカはリンとのやりとりを思い出していた。川のぬかるみの中で膝をついていたリンの姿は、正視できないくらい、みじめだった。
しかし、そんなリンの姿を見て、クニカは自分の心の中に、ふやけた何かが残っていることに気付いた。やがてクニカは、その感情が、嘘をついたときに感じるものと、同じであると気付いた。
嘘をついていたのは、リンの方である。にもかかわらず、どうしてこんなにも後ろめたい気持ちが募るのだろうか。クニカには、それが分からなかった。
考えれば考えるほど、クニカは、頭の中が散らかっていくような気がした。新聞紙の束を丸めて、それを枕にして横になっているうちに、いつしかクニカは、眠りに落ちてしまった。
◇◇◇
目を開けたクニカは、周囲が暗闇に覆われていることに気付いた。耳を澄ますものの、聞こえてくるのは虫の鳴き声と、川のせせらぎだけだった。カイはいなかった。
クニカは不安になる。思えば一日以上、クニカはカイに会っていない。その間に、カイの身に良くないことが起きていたとしても、不思議ではない。
そのとき。川岸から、水のしぶく音が聞こえてきた。がらくたの後ろ側に回りこむと、クニカは音のした方角を注視する。
クニカの目が、闇に慣れてくる。細長い人影がぼんやりと浮かび上がってくる。
「ウーン……」
人影がうなり声をあげた。カイの声だった。
「カイ!」
「おーっ! クニカー!」
たまらず飛び出したクニカに対し、カイも両手を広げる。その拍子に、カイの持っていた魚籠が地面に転がった。魚籠の中には、魚が入っている。
「カイ、クニカに会えるような気がしてたゾ。会えてうれしいゾ。」
「わたしもだよ、カイ」
カイの身体を抱きしめつつ、クニカは魚籠を見つめる。
「魚とってたの?」
「ん。たくさん捕れたぞ」
「すごいね、カイ――」
魚籠に入っている魚は、クニカが釣ったものなどとは比較にならないほど大きなものだった。それだけの魚をもぐって捕まえられるのだから、カイの泳ぎの技量は相当なものなのだろう。
「今日は場所が良かったゾ。」
カイは得意そうに、鼻の頭をこすっている。
「いつもと違う場所なの?」
「ン。いつもは閉まってる場所だゾ。」
「閉まってる?」
「川の上の方だぞ」
川の上――クニカの脳裏に、異邦人たちの築き上げた基地のイメージがよぎる。そこの「閉まってる場所」が、今日は開いているという。
胸騒ぎを覚え、クニカは、胸元に手を持っていく。ロケットを触るため――だったが、肝心のロケットはもう、クニカの首にはぶら下がっていない。リンと別れる間際になって、クニカ自身がそれを投げ捨ててしまったからだ。
「そうだ、これ、持ってくといいゾ!」
「え?」
カイから魚籠を差し出され、クニカはまごついた。
「いいの?」
「ン!」
「カイの分は?」
「カイ、また、自分で捕るぞ。これ、クニカと、友だちの分だぞ?」
カイの屈託のない笑みを前にして、クニカは言葉に詰まってしまった。
「あのさ、カイ。友だちに嘘をつかれたら、カイならどうする?」
「友だちなら、嘘はつかないゾ」
率直なカイの言葉に、クニカはたじろぐ。
「うーん、何て言えばいいかな? 例えばさ、カイ、わたしが『友だちだ』って思っていた人が、わたしに嘘をついていたとするじゃん? そしたらさ、それはわたしが勘違いしてた、ってことになるのかな?」
「アハハ! それはクニカのまちがいだゾ。」
「まちがい?」
「ん。『まちがい』だゾ。クニカがまちがったんだゾ。」
カイの言葉を聞いたとき、クニカははじめ、なんとかして相槌を打とうとした。しかし、クニカはそれができなかった。
リンは妹を喪った。そして偶然クニカを見つけ、亡き妹の面影を、クニカ自身の中に見出そうとしていた。リンは、クニカの中にある「妹の部分」だけを見ていて「クニカそのもの」を見てはいない。――クニカは、そう考えていた。
しかし、リンは決して、クニカに「妹であること」を強制しなかった。よく考えてみなくとも、これは分かることだった。ウルノワの街で、リンが「母さんに――」と口を滑らせた後も、リンは決して、それ以上のことを言わなかった。怪物の最期を見届けたときは、もっとそうだった。トスカは最期
「お姉ちゃん」
と叫んでいたのだから。クニカには想像もつかないようなたくさんのことを、リンはそのとき、考えていたことだろう。
それでもリンは、妹について、決してクニカには話そうとしなかった。それは、妹の存在を、クニカに隠しておきたかったからだ。――単純に考えれば、それは間違いない。しかしリンは、リン自身のために嘘をついていたわけではない。もしその嘘が、リン自身のための嘘であれば、リンは妹の面影をクニカに託し、自分の妹であることを、クニカに強いただろう。それをする機会は、リンにはいくらでもあった。なぜならクニカは
「自分は記憶喪失だ」
という、小さくとも紛れもない嘘を、リンに話していたからだ。
しかしリンは、妹の面影を、決してクニカに強いることはなかった。
それはなぜ?
それは――リンの嘘は、リンのためではなく、クニカのためだからだ。
「クニカー?」
カイに呼ばれ、クニカは我に返った。と同時に、クニカはいてもたってもいられなくなってくる。リンに話したいことがクニカの中で膨らみ、クニカの考えを全て吸い取ってしまったからだ。
「ダイジョウブかー?」
「うん、平気。ありがとうね、カイ。わたし、戻ってみるよ」
「ン!」
「ゴメンね。また来るからね――」
そう言いながら、クニカは橋の下を飛び出し、一目散に駆け出していた。「リンに会いたい」という気持ちが、クニカの中で、いつになく高まっていた。