41_深い陽射しの向こう(Помимо глубокого солнечного света)
「主よ、泉の周りには多くの人がおりますが、泉の中には誰もおりません」(『トマスによる福音書』、第74節)
勝手口から外へ飛び出すと、斜面を下って、クニカはリンを追いかける。
クニカたちが滞在している家屋では、裏手に小川が流れている。ちょっとしたあぜ道を通り抜け、菩提樹の根がこびり着いた石畳を下っていけば、小川にはすぐにたどり着ける。
川の手前では、リンが膝をついていた。クニカに背を向けたまま、リンは手を洗うことに没頭している。
木漏れ日に照らされて、川面を流れる石鹸の泡が光る。
「リン」
「クニカ?」
リンが振り向いた。Tシャツの裾で、リンは手を拭いている。リンに近づこうとして、クニカは一歩踏み出した。つま先が当たって、小さな石が川に落ちる。
「どうした?」
「いや……別に……」
リンに尋ねられ、クニカは口ごもってしまった。いざとなると、リンの目を正面から見据えるのは、クニカには難しかった。
「何だよ」
ハーフパンツのポケットに、リンは手を突っ込む。
「ひょっとして、寝ぼけてるんじゃないのか? あんまりボンヤリしてるなら、オレが――」
「ねぇ、リン」
クニカは、リンの話を遮る。
「あのさ、リンの家族ってさ、その……どんな人たちだった?」
「前にも話しただろ?」
咳払いをすると、リンは左手で、額の汗をぬぐう。
「オヤジと、オフクロと、オレと……そんだけだ。オフクロはさっさと死んじまったけどな」
「本当に?」
クニカは別に、この質問でリンを追い詰めるつもりなどなかった。ただ率直に、リンに訊いてみただけだった。
しかし、クニカがリンへ訊き返すまでには、ぎこちない間が開いてしまった。そして、その沈黙は、クニカが語った言葉よりも、はるかに多くを語っていた。
リンの顔色が変わる。一瞬何かを口にしかけてから、リンは後ろを向く。そんなリンを、クニカはただ見守った。正確に言えば、見ていることしかできなかった。どんな言葉をリンにかければいいのか、クニカには分からなかった。
ややあってから、リンはもう一度、クニカの方を向いた。リンの表情はこわばり、青ざめていた。
「チャイハネだな?」
クニカは首を横に振る。しかし、クニカの仕草は、リンには見えていないようだった。
「言うな、って言ったのに……!」
「ねぇリン、聞いて」
「アイツ……やっぱりぶん殴って……」
「聞いてってば!」
クニカは、リンの手首をとっさに掴んだ。掴まれた瞬間、リンの身体は、電撃でも浴びせられたかのように震えた。
驚いたのは、リンだけではなかった。氷のように冷たくなっているリンの肌に触れ、クニカもぎょっとしていた。
「リン、違うの」
「何が違うんだよ」
リンの声はかすれていた。
「夢で見たんだ、わたし。夢で、リンと、リヨウのこと」
クニカがリヨウの名を口にした瞬間、リンはクニカの腕を振りほどき、打ち捨てられていた木材の上に座りこんだ。
「疎開する途中だったんだよね、リン?」
頭を抱えたまま身じろぎしないリンに対し、クニカは話しかける。小川は底が浅い。その気になれば、向こう岸まで渡るのは簡単だろう。
ともすればリンは、不意に立ち上がって、川の向こうまで行ってしまいそうだった。クニカの手の届かない、深い陽射しの向こう側へと。それがクニカには、何よりも怖かった。
「前の列車が止まってて、リンの乗ってる列車がぶつかって、リンだけが助かって……それで、わたしを見つけた……そうだよね?」
――で、何で川を流れてたんだ?
ヤンヴォイのショッピングモールで、リンから尋ねられたことを、クニカは思い出す。あのとき、リンはクニカを見つけた。ほかにも大勢、人の群れがオミ川を流れていた中で、リンはクニカを見つけた。生きていたのは、クニカ以外にもいたかもしれない。にもかかわらず、リンは”クニカを”見つけたのだ。クニカにとって、それは「見つけられた」というよりも、「選ばれた」といった方が正しいかもしれない。
どうしてクニカが選ばれたのだろうか? 何かの偶然だろうか? しかし偶然は、すでに二つ準備されていた。
リンの妹が死んでしまっていたこと。
クニカは、リンの妹にそっくりだったこと。
「リン、どうしてわたしを助けたの?」
リンからの返事はなかった。
「わたしが、リヨウに似てたから?」
「やめろよ」
リンの言葉が、クニカの心に突き刺さった。どうしてリンは「やめろ」と言うのだろうか。どうして「違う」と言ってくれないのだろうか。それは、自分自身が抱えている欺瞞から、リンが目を反らしているからだ。だからリンは、クニカの言葉を拒むしかないのだ。
「――『やめろ』? どうしてリンにそんなこと言われなくちゃいけないの?!」
旅の間中ずっと、リンはクニカを見ていなかった。クニカを通して、リンは、死んでしまった妹の面影を追い続けていたのだ。
妹に似てさえいれば、リンにとってはだれでも良かった。
「リンは……わたしのことなんか、どうでも良かったんだよ……」
「そうじゃない、クニカ」
クニカの声に、リンは顔を上げた。
「そうじゃないんだ……!」
「信じてたのに……!」
自分の足から力が抜けていくのが、クニカには分かった。立っているだけで、今のクニカは精いっぱいだった。
クニカとリヨウは似ている。だけどリヨウは、クニカよりも利口だ。リヨウはクニカよりも気が利いて、クニカよりも前向きだった。
「わたしはリヨウなんかじゃない!」
だからクニカは、リヨウにはなれない。声を嗄らして叫んだクニカを、リンは茫然と見つめていた。
「もういい」
涙をぬぐうと、クニカは小川へと足を踏み入れた。“隠れ家”へ戻る気には、クニカにはなれなかった。自分の知らないところであって、だれも自分を知らないような、どこか遠くへ行ってしまいたいと、クニカはそう思った。
「どこ行くんだよ?」
「関係ないでしょ」
「待ってくれ――!」
立ち上がると、リンはクニカの手を握る。激昂が、クニカを襲った。
「ほっといてよ!」
リンの手を、クニカは乱暴に振りほどいた。リンは姿勢をくずし、川のぬかるみに膝をついた。
クニカの首筋に、鈍い痛みが走る。銀製のロケットの鎖が、クニカのうなじに食い込んだ。
ロケットを外すと、腹立ちまぎれに、クニカはそれを、リンに投げつけた。ロケットはリンの真正面に落ち、川面にせり出した石に当たって、鋭い音を発した。
向こう岸へとたどり着いたクニカの耳に、リンの嗚咽が聞こえてきた。ロケットを握りしめたまま、服が濡れるのも構わず、リンは川面に突っ伏して泣いていた。
それ以上リンのことを見ていられず、クニカは足早に小川から離れた。