30_竜の娘は生きている(Нефрит)
雲の内にある光、そして、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星こそが、お前の星である。(『ユダの福音書』、第57頁)
何かの弾みで、クニカは目を覚ます。外では、雨が降っているようだった。モーテルのくすんだ白壁を、雷鳴がきしませる。
頭を振って眠気を追い払うと、クニカは立ち上がった。寝る前に、皆で
「誰かが起きて、外の様子を見張ろう」
ということに決めたためだ。
初めにシュム、次にクニカ、という順番であ。ところが肝心のシュムは、クニカの隣で寝息を立てている。
訝りつつも、クニカはダイニングへと向かった。
◇◇◇
扉の隙間からは光が漏れていた。扉をそっと押すと、クニカはダイニングをのぞき込む。
ダイニングでは、チャイハネがテーブルに肘をついている。一本のろうそくが、かすかな光を放っている。チャイハネはその光の中で、所在なくマッチ箱をいじっていた。
いつもは長袖の白いシャツに身を包んでいるチャイハネだったが、このときばかりは、腕まくりをしていた。
チャイハネの腕を見て、クニカはどきりとする。腕には、青い花の刺青が施されていたからだ。
「チャイ?」
「――おっと」
クニカに気付くと、チャイハネはシャツの袖を引っ張り、腕の刺青を隠してしまった。
「変なモノを見せちゃったかな?」
「いや、そんなことは」
クニカは、しどろもどろな返事をする。一目だけでも、チャイハネの刺青は、出来心で彫ったもではないことと分かった。
クニカは、空いていた椅子に座る。
「眠くないの?」
「夜行性だからね」
チャイハネの言葉にピンとこなかったクニカだったが、よく考えてみれば、チャイハネは“梟”の魔法使いである。夜に目が冴えてしまうのは、チャイハネにとって当然のことなのだ。
「見張りの交代だろ? だったら、あたしひとりで十分さ。明日の昼にはお世話になるよ」
「あ、分かった」
会話への興味を失ったのか、チャイハネは再びマッチ箱を転がしだした。皆が寝静まり、することがない以上、チャイハネは長過ぎる夜をじっとして過ごさなくてはならない。そんなチャイハネに同情はするものの、クニカは具体的にどうすればよいのか分からなかった。
が、とりあえず会話をつなげようとする。
「あの、チャイ」
「何?」
「その……どうしてタトゥーを入れてるの、って、訊いていい?」
「なんだそりゃ」
「だって……」
「別にいいけどさ、クニカ。その前にあたしにも質問させてくれよ」
「何?」
「クニカの父さんって、何の仕事してた?」
「それは、えっとー―」
クニカは天井を見上げる。
「じ、実はね、チャイ、わたし、記憶がなくってさ――」
「へぇ?」
「うん。リンには言っておいたんだけど、チャイにはまだだったよね? あ、シュムにも言っておかなきゃ。そうしないと――」
ここでクニカは、言葉に詰まってしまった。チャイハネが唇を引き結んだまま、クニカをじっと見ていたためである。チャイハネは、クニカの瞳の奥を覗きこんでいるようだった。
「目は右上を向いていて、まばたきはさっきよりも多い」
いじっていたマッチの箱を、チャイハネは机に投げ出した。
「瞳孔は開いているし、指はせわしなく動くし、声は上ずっているし、息も荒い」
「うっ……」
「つまりクニカは、あたしに嘘をついている」
「ご、ゴメンナサイ……」
「しかし、これはどういう意味だろうか?」
チャイハネは語り続ける。
「『あたしに嘘をついている』というところが、ひとつのポイントだ。つまり、あたしはクニカに信用されていない、ということになる。では、どうして? ――実はクニカは、なにか良からぬことを企んでいて、あたしたち全員をワナにはめようと――」
「え? いや、そんなことは――」
「フフフ……」
慌てふためいているクニカを尻目に、チャイハネは肩をすくめる。
「いいよ、別に。訊かれちゃ困ることの一つや二つくらい、だれにだってある。生きてりゃ色々ある。そうだろ?」
(生きてりゃ色々、か)
チャイハネの言うとおり、色々なことがある。というより、クニカの今の生は、まさに色々なことの典型のようなものだろう。
「話は変わるけどさ、クニカ」
物思いにふけりかけたクニカをよそに、チャイハネは言う。
「自分の才能には、いつから気付いてる?」
「才能?」
「そうだよ」
机から身を乗り出すと、チャイハネはクニカに耳打ちした。
「才能があるだろ?」
クニカの脳裏に、シャワールームにおける、シュムの言葉がよみがえってくる。
――クニカには才能があります。
しまった――クニカは絶望する。シュムを追い払ってくれたのだから、チャイハネはきっと味方だろう、と、クニカは思い込んでいた。しかし、思い出してみてほしい。チャイハネはシュムに、直腸検査という離れ技をやってのける人物なのである。このままぼんやりしていたら、クニカなどひとたまりもないだろう。
しらばっくれるなら、今しかない。
「わたし、そんな才能ありません」
「なに言ってんだ」
きっぱりと言い放ったクニカに対し、チャイハネはけげんな様子だった。
「リンだって言ってたぞ、特殊だ、って」
クニカは、椅子から転げ落ちそうになった。
「そんな……信じてたのに……」
「そうそう、それだよ」
「え?」
「いや、正確には“祈り”ってヤツかな?」
だらしなく口を開けていたクニカだったが、ようやく全てを理解した。リン、チャイハネそしてシュムの聖三位一体にもみくちゃにされる――という話ではなくて、チャイハネは、単にクニカの魔法について訊きたかっただけなのだ。
「なんだ、そんなこと……」
「『そんなこと』って言い草はないだろ」
あきれ返った口調で、チャイハネは背もたれに背を預ける。
「もっと感動したっていいじゃないか。クニカにしか使えない、特別な魔法なんだからさ」
「『特別な』って……」
クニカの心の内に、ある予感が芽生える。
「チャイ……もしかして、分かるの?」
「“竜”の魔法さ」
「“竜”?」
竜という音がイメージに結びつかず、クニカはチャイハネの発音をなぞる。
「あたしもさ、初めは信じてなかった」
チャイハネは話を続ける。
「でも、クニカは人の心が読める。人にテレパシーを送れるし、テレパシーを受信することだってできる。人の怪我も治せるし。要するに、だ。『そうなってほしい』と思って祈ったことの全てを、クニカは現実に置き換えることができる。あたしの知っている伝承の限りでは、“竜”属性に間違いない。すごいことなんだよ? 分かってる?」
「でも……伝承上、って……」
「良かったじゃないか。クニカは伝説の生き証人になってんだよ。歴代の巫皇にだって、”竜”の魔法使いは、ひとりだっていなかった。でもクニカ、その才能は、“竜”の属性としか説明できない。何かがあるんだな、きっと。宿命みたいなものが」
(宿命、か――)
宿命という単語が、自分の肩にのしかかってくるような錯覚に、クニカは襲われた。
「あの……チャイ?」
「何だい?」
「もしダメだったら?」
「ダメ?」
「だから……もしわたしが宿命に応えられなかったら、どうなると思う?」
「応える? 何のために?」
「それは……」
クニカは言いよどむ。チャイハネの言うとおり、いったいクニカは、何のために宿命に応じようというのだろう? どうしてこの世界に転生したのかもわからず、なぜ性別が女に変わっているのかもわからず、これからどうなるかも分からず、仮に死んだとして、どこへ行くのかも分からない。そんな状況の中で、しかし宿命にだけは生真面目に応じようとするのは、不自然なことのように、クニカには思えた。
「分かってないじゃん、クニカだって」
「ご、ゴメンナサイ……」
「いや、それでいいんだよ」
「え?」
「だってそうだろ」
溶けて傾いたろうそくを、チャイハネは立て直す。
「あのさ、クニカ、歌を歌いながら、『私は今歌っています』なんて言う奴いないだろ? もし言える、っていうんなら、そいつは本当の意味で歌った経験なんてないんだろうな。とにかくさ、宿命だって、そんなもんだと思うよ。宿命を自覚して生きている奴なんて、世の中にはいないね。だから、分かんなくていいんだよ。好きに生きればいいんじゃないかな? だからこそウルトラに行くんだろ? 自分の意志でさ」
「そう……かもしれない」
「『かもしれない』じゃなくて、『そう』なんだよ」
とは言われたものの、クニカには、いまいち実感が沸かなかった。それは、背負っているであろう宿命についてもそうだったし、その宿命を背負わなくてもいいという、チャイハネの言葉に対してもそうだった。
心全体が分厚い膜に覆われているようで、クニカは心細くなる。そして、いつものように、クニカは首からぶら下げている銀製のロケットを握りしめていた。
「ところでさ、クニカ」
チャイハネは、そのロケットを指さした。
「そのロケットは、どうしたんだい?」
「あ、“お守り”。リンからの」
「リンから?」
チャイハネが目を丸くする。
「へぇ。アイツもかわいいところあるんだな」
「そうかな?」
クニカはロケットに視線を落とした。銀製のロケットは、留め金の部分が壊れていて、中に入っているであろう写真を見ることはできない。
(写真か……)
写真には、だれかの肖像画が収められているのかもしれない。このときになって初めて、クニカは“お守り”の中身が気になりだした。
「ねぇ、チャイ。ここの留め金って開けられる?」
「どれ、貸してごらん。――いや、これはずいぶんと……」
チャイハネの唇が、「ふ」という音を発しかけて止まる。
きっと、チャイハネは「古ぼけた」と言おうとしたのだろう――クニカはそう考え、チャイハネの言葉を受けたつもりで、そのまま話を続けた。
「うん。古いんだけどさ、リンにとっては、大切なモノらしいんだよね? だから、わたしもそれを着けてると、その――守られてるっていうか、大切にされてるな、って感じるっていうか……」
照れくさかったので、クニカはずっと、床に視線を落として話していた。だから、チャイハネの“心の色”が、瞬間的に
真っ黒
になったのを、クニカは見逃してしまった。
「どうかな、開けられそう?」
チャイハネは何かを言ったが、クニカは聞き取れなかった。
「ゴメン、チャイ、もう一回言って」
「いや、ちょっときついかな? ハハハ」
早口に言うと、チャイハネはロケットをクニカに返す。
「留め金がくっついてるから、開けるのは無理かな。悪いね」
「そっか……ごめんね、チャイ。無理言っちゃって」
「気にすんな」
チャイハネが言葉を切ると、周囲は沈黙に包まれた。
「ま、とにかく今日は寝ることだ。あとはあたしに任せな」
「うん。おやすみ、チャイ」
「おやすみ。良い夢を」
寝所に戻っていく途中、自分の背中にチャイハネの視線が投げかけられているのを、クニカは何となく感じとっていた。