29_少しも寒くないわ(Холодное Сердце)
「大丈夫かな?」
テーブルに両肘をついたまま、クニカはじっとしていた。しかし沈黙に耐えかね、とうとう口を開く。
「どうかしました?」
クニカの傍に、シュムが降り立った。今の今まで、シュムは梁に手を引っかけ、懸垂をしていた。
「さっきの人たち」
「心配いらない」
ヘビの牙を、ペンチで丁寧に引っこ抜きながら、チャイハネが答える。青いテーブルの上には、メスと鉗子が並べられている。
いったいチャイハネは、ヘビをどうするつもりなのだろう?
「そうだろ?」
「ええ。逃げ出せる程度のケガです」
二人にバレないようにして、クニカはそっとため息をつく。
野盗の話のとおり、道沿いすぐのところに、モーテルはあった。ただし、とてつもなくボロかった。屋根は錆びついており、元が何色だったのかは、まったく分からない。外階段は緑青に覆われており、ちょっとでも力をこめれば、簡単に踏み抜けそうだった。建物の内部もほこりっぽく、かび臭く、床のパイン材はワックスが剥がれ落ち、無残なほど白くなっていた。
外で寝るよりはマシだし、トイレで寝泊まりするよりもマシだろう。しかし、所詮はその程度である。くしゃみをすれば吹っ飛んでしまいそうなこんなモーテルに、ちゃんとしたシャワーがくっついているようには、クニカには思えなかった。
憂鬱な思いに駆られていたクニカの耳に、外階段を駆け上がってくる足音が聞こえてきた。リンだった。
「戻ったぞ!」
ドアを開け放つなり、リンが声を上げた。
「お帰りなさい」
「他の場所はどうでしたか?」
「一晩泊まるだけなら、ここで十分だな」
椅子に腰かけると、リンは背もたれに背を預ける。
「一晩だけ、だけどな! シャワーだけは何とかなりそうだ」
「それを聞けて安心しました」
そう言うと、シュムがクニカにウインクした。シュムの意図が分からず、クニカはあいまいにはにかむ。
暑さとは別の理由で、クニカの身体から汗が噴き出してくる。
「なぁ、入る順番を決めようぜ」
「あたしは最後でいいよ。料理で手が汚れるから」
チャイハネが仲間に加わったおかげで、クニカとリンの生活水準は向上した。チャイハネは料理ができるのである。それまで、塩漬け肉を焼いたなんとか、とか、なんとかの缶詰とかしか食べられなかったクニカとリンだったが、チャイハネがレパートリーを増やしてくれた。
「さっきから蛇を解剖してるだけじゃないか」
リンの言葉に、チャイハネが顔を上げる。それからわざとらしく目を見開くと、チャイハネはリンに薄笑いをする。
リンの“心の色”が、たちどころに緑から黄色に変わる。
「嘘だろ?」
「リン、たんぱく質の補給は大切です」
腕を組んだまま、シュムがリンに答える。
「蛇食わなくたっていいだろ! おい、クニカ、お前も何か言え。ありのままの自分をさらけ出すんだ」
「リン、わたしヘビ食べてみたげえっ?!」
「リン、わたしヘビ食べてみたい」とクニカが言い切るより前に、リンの右腕がクニカの後頭部をわしづかみにし、テーブルに押さえつけた。クニカはそのせいで、最後「うげえっ?!」と言うしかなかった。
ちなみにクニカは、「ヘビを食べてみたい」などとは、これっぽっちも思っていない。口が勝手に動いたのである。クニカの視界の端で、チャイハネが左手指を組んでいるのが見えた。クニカの言葉を、チャイハネは操ったのだろう。
「チャイ、コイツあれなんだ」
リンは言う。目は血走っている。
「夜遅くなると眠くなってきちゃって、あることないこと口走っちまうんだよな! 世話焼けるよな、ホント! 笑っちまうぜ! あっはっは」
チカラアリ人にしては、リンの振る舞いは、主演女優級の演技だった。しかし、当のチャイハネはそんなことにお構いなしだった。投げ出されているクニカの左腕を掴むと、いきなり脈をとりはじめる。
「ははん?」
「どうしたんだよ……?」
「いやね、眠くなって変なこと口走っちゃう奴ってのはね、神経がイカレてることが多いんだよ。で、今クニカの脈をとってるんだけど、これが恐ろしいぐらいにゆっくりなんだ。ホント、止まっちまうんじゃないか、っていうくらいに。だからあれだ、副交感神経の亢進症状なんじゃないかな?」
「ヤバいのか、それって?」
「ふぐっ、ふぐうっ?!」
机に頭を押し付けられているせいで、まともに息ができず、声にならない声を、クニカは上げ続ける。
「ヤバいっちゃヤバい。だけど治療はできる」
「どうやって?」
「蛇を喰わせるんだ」
「あっ」
リンもようやく、自分がかつがれていると気付いたらしい。
「いい機会じゃないですか、リン。ゲテモノを食べる機会なんて、そうそうありません」
「ハァ、分かったよ。クニカも食べたがってるみたいだし」
「え。ちが……」
ちがう――とクニカが言うよりも、チャイハネが印を結ぶ方が早かった。クニカの唇は、二枚貝のようにぴったりとくっついてしまう。
「もぐ、もぐもぐもぐ……?」
「何モグモグしてんだよ、このばか。オレはさ、血清でも作るのかと思ったんだよ」
「リン、血清ってのはさ、馬がいないとダメなんだ」
「そうなのか?」
「そうさ。薄めたヘビの毒を、まずは馬に注射する。そうすると、馬の体内に抗体ができる。それを人間向けに加工したのが、血清なんだな」
馬――チャイハネの話を聞くうちに、クニカの脳裏には、ふとニコルの姿が浮かんできた。ウルノワ大学の病院内で、クニカたちと、思わぬかたちで出くわしたのが、北大陸にあるサリシュ=キントゥス帝国の兵士・ニコルだった。
「馬の面倒を見ていたい」
ニコルはたしか、そんなことを言っていた。かれは今、どうしているのだろう。クニカはふと、そんなことを考える。
風が強まり、鎧戸が音を立てる。
◇◇◇
数週間ぶりのシャワーを浴び、着替えを済ませると、クニカは人知れずため息をついた。
この世界で“クニカ”として生き始めてから、半年も経っていない。にもかかわらず、クニカはもう何年も、この世界で生きている気がした。
それにクニカはもう、自分の体に慣れっこになってしまっている。背が縮むと、周りのすべてが大きく見える――。
「――うわっ?!」
シャワー室の小部屋をぐるりと見回してみたクニカだったが、ふとそのとき、扉の前にシュムが立っていることに気付いた。
「どうしたんです?」
「ええっと、いきなり立ってたから――」
あたりは湯気で、まだもやもやとしている。体の熱を逃がすために、クニカはTシャツの襟を掴んであおいだ。
シュムの視線は、あおぐ際にちょっとだけはだける、クニカの襟元に注がれていた。
イヤな予感がした。
「あ、わたし、もう出ま――」
クニカが外へ出ようとした矢先、とつぜんシュムが右足を上げ、シャワー室の中に踏み込んできた。後ろ手に個室のドアを閉めると、シュムはクニカに上目づかいをしてみせる。
「え?」
「フフン」
たじろいでいるクニカに対し、シュムは得意そうだった。シュムの胸のあたりを漂う“心の色”が、ほんのりと赤くなる。いや、“赤い”というよりも“ピンク色”といった方がいいかもしれない。初めて見る色だった。
「クニカ」
「は、はいっ?!」
「ダンマリではいけません」
シュムはぴしゃりと言ってのける。
「言いたいことがあるのならば、私に言ってください」
「えっと、その……うぶうっ?!」
たじろいでいるクニカの顔を、シュムは両手で押さえつけ、自分の顔の前に固定する。
「ほら、クニカ、人の目を見て話すんです。目を見て話さないと、伝わるはずのものも伝わりませんよ」
「うぶっ――ぷはあっ?!」
シュムの手を、クニカは払いのける。シュムの力が強いせいで、頭がい骨が変形してしまうのではないかとさえ、クニカは思った。
「えっと……えっと……シュム?」
「はい、何です?」
クニカに名前を呼んでもらって、シュムはうれしそうだった。
「あの、ち、ちち、近くないですか、わたしたち?」
「ふふん。それで?」
「だから……その……そ、外に――外に出してくださいッ!」
「ダメです」
即答だった。
ちなみにクニカは、ちゃんとシュムの目を見て話している。伝わるはずのものが伝わらなかった――のではなくて、そもそもシュムは、クニカを外に出すつもりなどないのだ。
とつぜんシュムが腕を伸ばすと、クニカの乳房をわしづかみにした。
「ひぎいッ?!」
「クニカ、いい声です」
「あっ、ちょっ?!」
「大きな声が出せるじゃないですか」
シュムがまたしても一歩踏み出し、クニカににじり寄った。二人の体が密着する。
クニカの耳元で、シュムがささやく。
「クニカ、クニカには才能があります」
「さ、才能……?」
「どエスの才能です」
ネコのように爛々としたシュムの目を見て、クニカはすべてを悟った。
一階のシャワールームからでは、クニカの声は、リンにもチャイハネにも届かない。シュムはそのことを計算に入れた上で、ここまで押し込んできたわけである。
シャツの内側をまさぐろうとしてくるシュムを、クニカは必死になって拒む。
「いや、あの、その、こういうことはチャイと一緒にやった方が……」
「大丈夫です、クニカ。今から矯正すれば、クニカはちゃんとどエムになります」
シュムは言ってのける。
「クニカ、私にそのお手伝いをさせてください」
「いや、だからチャイと一緒に――」
「さいきん、チャイがかまってくれないんです」
「か、かまってくれない……?」
「もともとは私がセメでした」
神妙な面持ちで、シュムがいきなり語りはじめる。
「えっ。何の話です?」
「でも、私がもたもたしていて、チャイが怒ってしまったんです。以来ずっと、わたしがウケで、チャイがセメなんです。でもそんなのイヤです。私だって『はーい、直腸検査しまーす』とかやってみたい」
「えっ」
声にならない叫び声が、クニカのお腹の中で反響した。プレイがニッチすぎて、クニカはよく分からない。
「えっ、直腸検査。えっ」
そのときだった。
「シュム!」
扉が開け放たれると同時に、そこから伸びた腕が、シュムの首ねっこを掴んだ。
「にゃーん……」
シュムはせつなそうな声を上げたが、それだけだった。親トラにくわえて運ばれる子トラのように、シュムはおとなしくしている。
そんなシュムをつかまえているのは、チャイハネだった。
「シュム、クニカがかわいそうだろ?」
「にゃーん……」
チャイハネはげんなりした様子だった。それでもシュムを手なずけられるのだから、チャイハネはすごい――とクニカは思った。
「ほら、クニカ」
「は、ハイッ?!」
「さっさと戻ろう。リンが蛇を投げ捨てちまう」
「クニカ、しばらくおあずけですね」
チャイハネから解放されると、シュムはけろりとした様子でクニカに言い放った。
「クニカ、あたしのシャツ引っ張んないでくれよ……」
クニカにシャツを引っ張られ、チャイハネが声を上げる。しかしここで手を放そうものなら、クニカはあっという間にシュムに喰われてしまいかねない。
シュムの目の届く範囲から、何としてでも逃げ出さねばならない――クニカはそう心に決めるのだった。