28_キャラバン(Караван)
第5章スタート。
【グロ注意!】
先ほどから、便器に腰かけたまま、クニカは苦痛に堪えていた。下腹部に痛みがあった。“痛い”では生やさしいかもしれない。“リエゴーイ”とは、内臓がはがれることなのだ――という話題を、クニカはSNSで聞いたことがある。足の付け根からペンチを突っ込まれ、そのまま下腹部を尖端で掴まれ、かき回されているかのようだった。
気が遠くなりかけるのを、クニカはかかとで踏ん張って堪える。“リエゴーイ”が終わるのが先か、クニカの性根が尽きるのが先かだった。
しかし、今回ばかりは、クニカは持ちこたえられそうになかった。腹部の痛みだけではない。トイレは――ひかえめに言ったとしても――汚なかった。臭いで鼻はもげそうになり、電球の周りでは、ハエが我がもの顔で飛びかっている。クニカの身の回りにある、ありとあらゆるものはべとついていた。このベタつきは、亜熱帯特有の湿気のせいなのだ……と、クニカは自分自身に言い聞かせる。
痛みが、一段と鋭くなる。便器に座ったまま、クニカは体を直角に折り曲げる。折り曲げた際に、クニカの首にぶら下がっていたものが、視界を下から上へ通り過ぎた。
それは、銀製のロケットだった。べスピンでの一件以来、リンは銀製のロケットをクニカに預けていた。ロケットが何なのかは、クニカには分からない。リンも“お守り”と言う以外、くわしく語ろうとはしなかった。
それでも、不安なとき、勇気が必要なときになると、クニカはいつしか、自然とロケットを握りしめるようになっていた。ロケットを握りしめているだけで、クニカは不安がやわらぎ、勇気が湧いてくるような気がした。
今回もロケットは役に立った。握りしめているうちに、下腹部の痛みはしぼんでいった。両手足の力が抜け、肩から背骨にかけて、軋んだように痛くなり。足の付け根から、生暖かいものが流れ落ちる。
上体を起こすと、息を止めながら、クニカは便器の中を覗く。黒ずんだ便器の表層に、白い液体が張り付いている。精液である。クニカは憂鬱な気持ちになった。
リンから渡された小袋から、クニカは中身を取り出す。しかし、使う気にはなれなかった。壁際に腕を伸ばし、クニカは紙を取ろうとする。クニカの手は空ぶる。
全身から、どっと汗が噴き出した。紙はなかった。トイレットペーパーの芯さえない。クニカの視線が宙を泳ぐ。これだけ汚いというのに、トイレの個室の中には、歯磨き粉宣伝のようなビラもなければ、水浸しで朽ち果てているエロ本もない。
どうしよう――別の意味でもだえはじめていたクニカの耳に、
「おい!」
と、外から声が響いてきた。リンの声だった。
「あっ、リン!」
「クニカ、今な、ちょっとだけ……」
「あのさ……」
「どうした?」
「紙、無いかな?」
「はぁ?」
リンが言う。
「お前……そういうオッチョコチョイなところ、どうにかしろよ」
「ゴメン」
「ちょっと待ってろ……」
その言葉と同時に、クニカの隣にある扉が開け放たれる音がした。どうやらリンは、用具入れの中から使えそうなものを取り出しているらしい。
「あっ」
リンが声を上げる。
「あった?!」
「いや……まぁでも、無いよりはマシかな。――ほら」
リンの白くて細い腕が伸びる。クニカの個室へ、何かが投げ込まれた。
それを見て、クニカは叫ぶ。足下に投げ捨てられたそれは、湿り気を帯びて朽ち果てているエロ本だった。
「ばか。用が済んだらさっさと出るんだ」
「もしかしてリンも……?」
「ちがうよ! 一緒にすんな、ばか」
ようやく出たクニカだったが、そんなクニカの腕を、リンはすかさず掴み取る。
「さっさと出るぞ。まずいんだ」
「まずい、って?」
「チャイが呼んでる」
二人はトイレを後にする。
◇◇◇
ウルノワを抜け出してから、三週間が経とうとしている。国道二十二号線沿いにあるガソリンスタンドに、クニカとリンはいた。
国道二十二号線は、山の中を蛇のようにうねっている。他の道よりもさびれている上、何よりも、ウルトラを目指すに当たっては遠回りになる。だからリンは、国道二十二号線を使うことをしぶった。
しかし、
「やめとけ、平野の道を通ろうとすれば、ギャングのエジキになる」
とチャイは言うし、
「山沿いには建物があります。そこを伝っていけば、平野よりも安全でしょう」
と、シュムもチャイハネと同意見だった。
早い話、ウルノワでの騒動以降、チャイハネとシュムも、クニカたちに合流していた。ウルトラ出身の二人は、リンやクニカよりも、このあたりの事情に通じていた。
そんな二人の意見を尊重し、クニカたちのちょっとした“キャラバン”は、山道を歩きながらウルトラを目指していた。
外に出てみれば、空は夕焼けだった。棕櫚とソテツの木や、赤茶けたラテライトの土壌を見なければ、地球と変わらない、日没前の美しい藍色の空だった。
トイレの側のベンチに、チャイハネが座っている。チャイハネは足を組んで、煙草を吸っていた。二人が近づいても、チャイハネは微動だにしない。
クニカの傍らを、シュムが通り過ぎる。
「あ、シュム」
リンが呼びかけたものの、シュムはトイレを素通りして、さっさと茂みの中へと分け入ってしまう。
リンは、チャイハネの服の袖を引っ張る。
「おい、シュムがどっかに行ったぞ」
リンを一瞥しただけで、チャイハネは何も言わない。
「ちょっと待て、オレのナイフはどこだ?」
ベンチの背もたれに手をつくと、リンがあちこちを探し始める。
「チャイ、オレのナイフ知らないか?」
「向こうに森があるだろ? このベンチからまっすぐのところだ。盗賊がいる」
笑顔を崩さないまま、さも世間話をするかのように、チャイハネが言い放った。
「なんだって?」
「大声出すな」
足を組み直すと、チャイハネはくつろいだ様子で、煙草の灰を地面に落とす。
「あとそっち見るのも禁止だ。クニカも。いいね?」
「シュムは――?」
「シュムはトイレの裏を回って、ソイツらのところに行ってる。懲らしめる気マンマンだ。『ナイフは借りる』ってさ」
「いいのかよ?」
リンがチャイハネに尋ねた。
「ひとりで行かせて」
「問題ないね。シュムをサポートしてるのはあたしだ」
煙草を投げ捨てると、チャイハネは自分のこめかみを指でつついた。
「相手の注意をこっちに引き寄せておけば問題ない。だから自然に振る舞うんだ。世間話をしているようにね。質問は?」
「わ、分かった」
クニカはうなずいた。リンはふくれっ面をしていたが、そのままベンチに腰かけた。リンは腕組みをしたまま、しばらく身もだえしていたが、ふと目を見開くと、空を眺めながら、
「はぁーっ。しかし今日は暑いなぁ!」
と言い出した。
「夏にこんだけ暑かったら、フユハドウナルンダロウ?! ナァ?! チャイ?」
「死ね」
「はぁ?!」
「ゴメンよ、リン。前言撤回だ。黙っててくれ、後生だからね。一分でいい」
「何だよ……ちぇっ」
ふてくされたリンは、ベンチから足を投げ出し、そっぽを向く。クニカはひやひやしていたが、森の奥からは何の動きもない。
日は、刻一刻とかげってゆく。空はすでに墨色で、星々が亜熱帯の夜空を照らしていた。“黒い雨”の降らない夕暮れには、虫の羽音や、鳥の鳴く声が、より際立って聞こえてくる。
パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、クニカは所在なく立っていた。リンは腕を組んだまま、貧乏ゆすりをしていた。チャイハネはと言えば、マッチ箱をせわしなくいじっている。もう一本煙草を吸うか、がまんするかで迷っているようだった。
突然、森の中から悲鳴が上がった。悲鳴に続いて、オウムの群れが、いっせいに木々から飛び立っていく。叫び声は断続的に聞こえてきたが、
「痛えっ――!」
という悲鳴を最後に、あたり一帯は沈黙に包まれた。
「ちょっと」
リンが肘で、チャイハネを小突く。
「どうなってるんだよ? シュムは大丈夫か?」
「どうもしちゃいないよ。なるようになっただけさ」
肩をすくめていたチャイハネが、暗闇に向かって手を振る。ほどなくして、シュムがこちらに戻ってきた。
“鷹”の魔法使いであるリンは、だれよりも遠目が効く。しかしそれは、飽くまで昼だけだった。夜になると、梟の魔法使いであるチャイハネの方が、ずっと遠くまで見渡せる。
シュムが近づいてくる。褐色の肌に銀色の髪、そして紫水晶色の瞳を持っているのが、このシュムという少女である。
ウルノワにいた際、リンは、
「シュムだっけ? 元気になったら、チャイハネもろとも一発ぐらいぶん殴っておかないと――」
と口走っていたが、チャイハネは別としても、リンがシュムをぶっ飛ばすことは一生ないだろう。
ウルノワを抜けてすぐのときならば、リンにも勝ち目はあったかもしれない。しかし、シュムの体調が万全になった今では、リンといえども、シュムには勝てないだろう。シュムの身体は筋肉質で、それでいながら、きれいに引き締まり、女性らしい稜線が維持されていた。ゴツゴツした印象はなく、むしろしなやかさがきわだっていて、まるで
豹
のようだった。
これでもう少し背が高ければ、プロポーションとして完璧だったにちがいない。実際は、クニカよりもちょっと低かった。転生する前、性別が転換してしまう前にこんな少女に会っていたら、上目遣いをされただけで、クニカはイチコロだったかもしれない。正直クニカは、ややもすれば、シュムにくぎ付けになりそうだった。
それは、今回も同じだった。
「どうかしました、クニカ?」
「いえ……別に……」
シュムに尋ねられ、クニカはあわてて目をそらす。だれに対しても丁寧なのが、シュムの特徴だった。
「シュム、お帰り」
「ただいまです、チャイ」
チャイハネとシュムは、互いに口づけを交わす。
「ナイフを返してくれよ」
「あ、ごめんなさい」
唇に指を当てると、シュムはいたずらっぽく微笑んでみせる。そんなシュムの様子に、リンはばつ悪げに頭を掻く。シュムの振る舞いに他意はないようだったが、さすがのリンも、シュムを前にするとうまくいかないようだった。リンのポニーテールが、クニカの前で揺れる。
「そんなに気にしてるわけじゃないけど……うおっ?!」
シュムが右手で、何かを放り投げる。太くて長いものが、地面に落ちた。
どんくさいクニカは、リンから一拍遅れてのけぞった。シュムが投げ捨てたのは、蛇だった。クニカの腕よりも太く、リンのポニーテールよりも長い。その脳天には、リンのナイフが深々と突き刺さっている。
「四の字固めをしているときに、脇を通ったんです」
「四の字固め」
思わず呟いたクニカを前にして、シュムの目がきらりと光る。
「クニカ、かけてあげましょうか?」
「へ? いや、いいです」
「遠慮は要りません。優しくかけてあげます」
獲物を狙うネコのような、やけに爛々とした瞳で、シュムはクニカをじっと見つめてくる。そんなシュムのまなざしを受け、クニカはどきりとする。ときめいている――わけではなかい。
「で? 野盗は?」
蛇からナイフを抜き取ると、リンはぼろきれで刃を拭う。
「シュム。二人に説明してやれよ」
口から煙を吐きながら、チャイハネが言った。結局チャイハネは、煙草の誘惑に負けたようだった。
「三人いました。とりあえず全員、鎖骨は折ってあります」
爛々とした目のまま、シュムが答える。
「ひとりはあごと、肋骨。もうひとりは手首と、足の骨。後のひとりは、ちょっとかわいそうなのですが、蛇にナイフを突き立てているときに力んでしまって、膝の関節が反対方向に――」
「クニカ、泣くなよ」
「だ、だって……」
だって、怖かったのである。クニカには、骨の折れる湿った音が、耳元で聞こえてくるような気がした。
「ま、いいんじゃない?」
煙草をくわえたまま、蛇の亡骸を掴み取ると、チャイハネはそれを、自分の首に巻きつけた。
「先へ進みましょう。野党たちの話では、もう少しでモーテルがあるそうです」
「いいね! シャワーでも浴びたいよ」
「チャイと一緒なら、私はどこだって平気です」
二人の背中を見やりながら、リンがしきりにクニカに目配せしてきた。
それに対し、クニカもあいまいに頷く。チャイハネとシュムの二人が、敵でなくて良かったと考えるだけで、クニカには精一杯だった。