送り狼
妖怪伝承を私なりにアレンジし小説化したものです。
この山道を夜中通る時は、どんなに疲れていてもそのような素振りをしてはならぬ。何かがついて来ていると感じても、けして振り返ってはならぬ。逃げてもいけぬ。ただ、前だけを向いて毅然と歩き続けるのだ。
娘は真っ暗な山道を歩きながらさっそく後悔していた。何故親切な誘いを断ってまで帰宅しようとしたのか。意地を張らずあのまま朝まで世話になっていれば、女一人で夜の山越えなどしなくて済んだだろうに。しかし、もう来る所まで来てしまった。今から引き返すのも難儀である。娘は杖をつきながら険しい山道を歩いていった。
山道も下りに差し掛かった所で、ひたり、ひたり、何かが後を付けて来る様な気配がする。それは一つ、二つと増えて沢山になった。すぐ耳元で何かの荒い息遣いが聞こえたような気がした。これは追い剥ぎかもしれぬ、と娘は駆け出したが、夕方まで働き、そのまま山越えをしようとした体はやにわに縺れて転んだ。地べたに手を付いて起き上がろうとしたところを、何かが跨り押さえつける。うつ伏せの体に跨る其れは、人とも獣ともつかぬ声で唸り娘の恐怖を煽った。気が付けば娘の周りをぐるりと囲むように金の玉がいくつも浮かび上がり、爛々と輝きながら娘の上を飛び交っていた。したらば、直ぐ後ろで地を這うような声が轟いた。
「この娘はほんのひと時休ろうているのみ。去ね」
金の玉は腹を立てたのか不規則に上へ下へ右へ左へと動き回る。四方八方から聞こえる「ゔゔぅ」という唸り声に身を縮めると、何かが近づいてきて耳元で囁いた。
「一休みしていると申せ」
有無を言わさぬ物言いに娘は震えながら「一休みしております」と答えた。すると頭の上から別の声が降ってきた。
「くだらぬ入れ知恵をしてくれたものよ。興がそがれたわ」
馬乗りになっていたものは娘を解放すると、そのまま闇に気配を溶け込ませていなくなった。娘は転がった木の杖を手探りで手繰り寄せると、ふらふらと立ち上がる。娘の周りを踊っていた金色はどこにも見当たらず、辺りは夜の沈黙に満ちていた。
だが、一つだけまだ気配が残っている。後ろの方でひっそりと佇む其れは、近づくでもなくただ其処にいる。娘が後ろを振り返ろうとしたところで、先程耳元で囁いた声が待ったを掛けた。
「お前が恙無く家路に着くまで我が見送ろう。だが振り向いてはならぬ」
其れが人の男の声であったから、娘は安堵してその申し出を受け入れた。
振り向いてはならぬ、と言われた娘は山を越え我が家が目の前に見えてきても一度も振り返らなかった。門のところで「もうここまでで結構ですよ。有り難うございました」と言うと気配はそこから動かなくなった。しかし、もうここまでで良いと言ったが遅い時間である。彼が何処に住んでいるのかは分からないが、今から帰るのは酷ではないだろうか。
「あの、もし? 宜しければ我が家で一晩過ごしませぬか。どうぞ中へ」
そう促しては見たものの、男は影に身を隠したまま出てこない。
諦めて娘は家に入ると、老いた母が炊いておいてくれた飯を握りだした。親切な何方かが山の妖を追い払い、わざわざここまで送ってくれたのだ。何かお礼をせねば失礼である。
娘は握り飯を三つ持って外に出ると、まだ彼が居るものだと信じて呼びかけた。
「貴方の御蔭で無事家に帰り着くことが出来ました。宜しければ此れを召し上がってお帰りくださいまし」
そう言って戸口の前に握り飯を置くと、娘は家の中へ戻っていった。
娘が家の中に入ってしばらく。すっと黒い影が玄関先へ向かうと、握り飯を咥えた一匹の狼が山へ帰っていった。
それ以来、娘が山を越えるときは必ず後を付けて来るものがいる。山道に入ると直ぐに其の気配はやって来て、娘にぴったりと寄り添うようにして付いて来るのである。其の時は初めに言われた通りにけして振り向かずに歩き続けた。娘は姿を見せない其の気配が人ではないことに薄々気付き始めていたが、其れでも自然と家の前で「お見送り有り難うございました」と口にしていた。そして必ず握り飯を玄関先に置いておいた。
娘が家の中に入ったのを見遣ってから、狼はお礼の握り飯を咥えて山へ戻ると一対の金色が音も無く現れた。
「人の子に何を執心している」
「主には関わり無き事」
狼はそう言うと其の身体を夜の闇に向かわせ消え行こうとした。しかし、金色の光は蝋燭のようにか細く揺らめいた後、高く跳躍して狼の目の前に降り立った。
「此れより先も、主はあの娘を送り続ける積もりか」
返ってくる言葉は無い。問いかけたものは始めから答えなど気にしていなかったのか、尚も続けた。
「あの娘は此れからも主と相見えることはありえぬ。其の時は主が娘を喰らう時。まさか本当に握り飯が欲しい訳ではあるまい。今のうちに身を引いておくのだ、同胞よ」
其れでも返事は無い。草叢をかき分ける音が次第に遠のいて、やがてその音も聞こえなくなった。残された一匹の狼が其れをじぃと見ていたが、僅かに金の瞳を伏せた後、彼もまた闇の中へ消えていった。
それから何年も過ぎた。
季節が巡るにつれ、娘の周りも変わり始める。ある時は若い男と仲睦まじく、またある時は娘に良く似た子の手を引いて山道を行くのを狼はじぃと見続けた。娘はその間一度も振り返ることは無かったが、必ず「お見送り有り難うございます」という言葉と握り飯をくれる。近しい者は娘のその行動を訝しんだが、微笑だけ返してやめる事は無かった。
季節はさらに移ろい、娘の杖をつく手に皴が増えても狼は送り続けた。
そうしてある時ぱたりと娘は来なくなった。
狼は気にはなったが迎えに行くことだけはできない。それは彼の役目ではないからだ。
娘の姿を見なくなってしばらく。すっかり日の落ちた山道の入り口で、狼がいつもの様に身を伏せていると人のやってくる気配がする。其方を見ると年頃の若い娘が一人、杖をついて立っていた。
「送ってくださいますか?」
娘は無人の山に向かって尋ねた。
狼はぴんと耳を立ててその娘に近づいた。慣れ親しんだ気配が傍にあるのを感じると、娘は何も言わずに前を向いて歩き始めた。
山の中ほどまで来ると徐々に空が白み始め太陽が昇り始めた。朝日を浴びた娘の体は徐々に透けだし、娘がもうこの世の者ではないのだと知らしめる。
「お見送り有り難うございました」
何時もの様にそう言うと、消え行く最後に娘は振り向いた。
【送り狼】
山道で狐や狸に化かされないよう、家まで送ってくれる妖怪。送り犬ともいう。
送ってもらったらお礼の品を一品置かないと、いつまでも玄関に居続ける。
人が転ぶと襲い掛かってくるので、もし転んだりした時や疲れて休みたいときは「どっこいしょ」と言ったりして少し休憩を取る振りをする。けして途中で振り返ったり、逃げ出したりしてはいけない。
人の後を付けてくるのも、弱ったものに襲い掛かるのもニホンオオカミの習性。昔の人の優れた観察眼によって生まれた伝承である。