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蝶蝶

作者:


「人が狂っていく様子を、間近で見てみたいと思ったことはないかい?」

 そうだろうか。そうは思わないが。

 至極真っ当にしてどこか冷めた、そんな私の気持ちを表情から読み取ったのでしょう。教授は年齢に比較してとても若々しい面貌を崩して微笑みました。

「脳科学の視点から考えた場合、狂人とは即ち精神的倒錯者のことであり健全な脳細胞を失った一種の病人だ。心という不確かにして肉感のない概念を病に犯され、思考能力に著しい障害を患った憐れな自己崩壊プログラムの被害者といえよう」

「……はぁ」

 心理学に脳科学。何の前触れもなく自身の専門外の分野に興味を抱くのはこの教授にはよくあることで、上述のような台詞が彼の口から飛び出した件に関しては別に驚きに値する現象ではありませんでした。私が生返事を返したのは、未だに現状が講義の時間なのかおしゃべりの時間なのか、それともそれとは違う別の何かなのか判断に迷っているからです。

 そして、そんな私の当惑さえ表情から一文一句違わず抽出したのでしょう。

「私は、人の精神が壊れる経過というものを実感してみたいのだよ」

 鷹揚に広げられる両腕。白衣が瞬いたその背後、今まで薄闇でしかなかった風景に長方形の光が産まれました。それが窓ガラスだということに気付き、更にその向こう側にある程度の広さを持つ空間が存在していると気付いたとき、私は教授の思惑を何となく読み解くことに成功しました。

「しかし、教授」

「うん?」

「いくら教授の権威を行使したとしても、そのような非人道的かつ危険性の高い人体実験が容認されるはずはありません。それに、もし無認可を承知の上で敢行しようものなら、果たして学会が――」

「無論、把握しているさ」

 教授は笑いました。

「今回の実験における被験体を務めるのは、私だよ」

 もう既にあなたは狂っているようなものだ、と――そう言うのが正解なのでしょうか。

「そして君を、此度の実験の記録員に任命する」

 教授らしい、奔放で勝手な命令でした。

「これから君が記録するのは、私だ。私という生体が、如何なる時間を経て、如何なる行為を行い、如何なる変化を起こし、如何なる順序を踏んだ結果、個人としての意思、思考の瓦解を起こすに至るか。そのパーソナル崩壊の過程を観察するのだ」

 現在、私達の居る場所が記録室。数メートル横長の窓の向こうに見える眩い空間は、白い部屋でした。窓もなければ時計もない。あるのは簡素なベッドとイスと机。剥き出しの洋式便器。まるで少し広めの牢獄そのものです。

 記録室からは部屋の中が見渡せるようです。窓自体はマジックミラーとなっていて、向こう側からはこちらを見られない仕様との話でした。

「……何も、ありませんね」

 目下の実験台を見回し、私は頭の中に浮かんだ最初の感想を正直に漏らしました。

「そう、なにもない。環境の無変化に対する精神の反応。心の強度実験とも言えようか」

 しかし、こんな場所をよく作ったものだ。教授は、私以外の誰にもこの建物のことは話していないといいました。私自身、人里離れた山奥深くのここまで連れて来られるまでは知りもしませんでした。極秘実験、なのでしょう。当然と言えば当然ですが。

「これから先、この施設のすべての権限は君に譲渡される。食糧、飲料水に関しては十分な備蓄を用意しているから心配する事はない」

 電気に関しても、独自の発電所があるのでしょう。こういうことには、金銭を惜しまない人ですから。

「……トイレも、まる見えですね」

「女性としては、流石に気にかかるかい?」

 部屋の片隅に趣味の悪いオブジェの如く設置されている便器を見下ろし、眉を顰めた私に、教授は柔和なままの声音を返しました。

「いえ、私は別に……ただ個人の尊厳を著しく損なう行為かと」

 教授は平気なのですか? そういう意味で。

「今回の実験における私の役割は、実験動物以外の何物でもない。モルモットの排泄に一々異議を唱える科学者はいないよ」

 この人に問うような質問ではなかったのかもしれません。

 私は嘆息し。

「一つ質問なのですが、博士は何故、このような実験をしようとお思いになったのですか?」

「理由が必要かい?」

「目的を認知しておきたいので」

「そうだなぁ……実験が無事成功した暁には、これで論文の一つでも提出してみようか」

 ハハハ――と、軽妙に笑う教授に、私は呆れや諦念や色んなものが混じった溜息を吐く。

 元より心の内を読み難いひとです。

 けれど記録室のドアを潜る最後の瞬間、教授は一言だけぼそりと呟きました。それが何を意味する言葉なのか――残念ながら私には理解できなかったのですけれど。

「なに、少しばかり深淵ってやつをのぞき込んでやろうかと思ってね」



《記録一日目終了》実験開始。



   ◆◇◆◇◆◇



 朝昼晩と三度の食事。

 三度の排泄。一度の排便と二度の排尿。

 15分ほどの軽いストレッチ。30分間の有酸素運動。

 瞑想。黙考。

 以上が純白の正方形の中、教授が過ごした一日。

 記録室の中で観察を続ける、私の見た風景。

 実験初日は、そうして何の変哲も無く終わろうとしていました。

 拍子抜け、という感覚はありません。むしろ一日やそこらで、人間の精神が簡単に壊れてしまっても困ります。確かに何も無い、無色の世界で生きるなど異質な日常だとは思いますが、それでも地獄からは程遠いでしょう。

 教授は今日も変わらず元気でした。

「………ふぅ」

 記録室の中に設置されたベッドに腰を下ろし、私は体を解きほぐします。ベッド以外にも、小型の冷蔵庫や洗面台。またパソコンやテレビなどの端末機器も設備されており、もしかしたら私の自宅よりも居心地が良いかもしれません。

 ふと、私はデスクの上に置かれたマイクの存在に気が付きました。

 実験室内の声は全て記録室のスピーカーで拾うことができます。加えて、記録室からはこのマイクを使用し話し掛けることが可能だと――昨日、教授が説明していたのを思い出しました。

 初日の終了を知らせるため、私はマイクを起動させ、窓の中の彼に話しかけます。

「やぁ。ちょうど君の声を聞きたいと思っていたところだ」

 記録室のスピーカーから聞こえた、教授の変わらない軽薄そうな声。調子の良い事を言うのは、いつものこと。

「体調の方はどうですか?」

「頗る健康さ」

 向こう側からは、こちら側を見ることはできません。なので、皮肉気な言葉を発しながらも、上手く視線同士が噛み合っていない状況が、私は少しおかしく思いました。

「順調と言えるかどうかは、わからないがね」



《記録二日目終了》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



「先ほど、私の携帯電話に研究室から連絡が送られてきました」

 時刻は夕刻。即ち夕食の時間。

「向こうでは、やはり教授が居なくなったことで色々と問題が起こっているようです」

 私は窓ガラスの向こうで食卓についている教授を見ながら、手に持った固形食糧を口に運びます。もそもそとした食感と口腔の唾液を生理ナプキンの如く吸い取ってしまうそれは、お世辞にも豪華な食事とは言い難い物質ですが、この施設に備えられている食料品は基本的にこの手の類のものばかりなので、諦める他ないのでしょう。

「無視してかまわない」

 教授への食事は、基本的に部屋の隅に設備された小型のエレベーターを用いて運ばれます。と言っても、メニュー自体を用意するのは私の役目なのですが。

 彼が現在口にしている夕飯は、全体的に薄色で薄味の家畜の餌もとい病院食のような内容です。それに加えて、幾らかの錠剤の服用も忘れません。健康を保つためにサプリメントで栄養バランスを確保するのは教授にとっては日常的な行為でした。体が資本。その信念は、研究者から被験者となった現在においても変わっていないようです。

「流石に三日も消息がわからなければ、向こうも心配しだす頃か」

「当然でしょう」

 呆れたように返す私に、教授は愉快そうな笑みを傾けてきます。

 私はそこで、もしかしたら教授はそんな面倒なしがらみから抜け出したくて、こんな突飛な研究をしだしたのかもしれないと、そんな憶測を思いついたりもしました。



《記録三日目終了》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 今日も、変わらないサイクルで教授の一日は終わろうとしていました。

「始まった当初は物珍しくも思えてはいたが、流石に100時間を越えれば環境への順応も済むか」

 自分自身を客観的に観察し、「少し退屈だな」と、今度はあくび混じりに大きな声を発します。こちらからの反応を待っているのかもしれません。しばらく無音の時間が経過。教授は今度こそはっきりと、記録室の方をむいて「おーい」と、私に話しかけてきました。

 しかし、今の私に彼の退屈を潰すための玩具になっている暇はありません。

 この実験における私の役目は経過の記録だけではありません。食事の用意のみならず、この広い施設内の様々な雑用もしなくてはならないのです。全権を任せるなどと大それたことを言っていましたが、それは即ちこの巨大な城の面倒を一人で見なくてはならないということであり、さほど素晴らしい勅命などではありませんでした。

 加えて、ほぼ数時間おきでかかってくる研究室からの電話にも対応しなくてはならず、とても忙しいのです。それもこれも誰のせいだと思っているのか。窓ガラスの向こうで暢気にストレッチをしながら私の名前を連呼している教授が、ぐずりを止めない赤ん坊のようでとても腹立たしい。

 私はひとまず、彼に良い子にしててもらおうと思いました。

「奥様から送りものが届きました」

 カードキーを滑らせ、実験室の扉を開ける。ベッドに腰掛けていた教授へ、私は着替えの新品のシャツと下着。そして数冊の本を渡しました。彼の好きな、洋書です。

「ありがとう。以前から読みたかった本だ」

「そうですか」

 素っ気なく返事を返し、私は部屋を出ようとします。

「ああ、そうそう」

 そこで、扉が閉まり切る寸前、背後から声。

「この本は、君のだろう? そもそも私が興味をもったのも、君がこの書物をやけに熱心に読み耽っている姿を偶然目撃したからでね」

「……そうですか」

「それに、私に配偶者はいないよ」

 博士は爽やかに笑った。

 彼にはまだ、判断能力が備わっているようでした。



《記録四日目終了》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 その日、私は実験記録員としての仕事を完全に放棄していました。

 あまりにもやる事が多すぎる。研究院だけでなく、彼と親交のあった学者や大学理事、果てには警察などからも情報を求められる連絡が来て、私はその対応にてんてこまいになってしまいました。

 実験の存在は隠し通さなくてはなりませんし、そのためには自分自身を偽らなくてはなりません。

 通常、嘘というのは会話においてその場凌ぎで用いることを主に置くツールのはずなのですが、こうも多方面から度重なり、多角的な視点より追及がされる事情となると、その嘘の付き方にも細心の注意を払わなくてはならなくなってしまいます。お手軽に利用できるという点が何よりのメリットであるはずなのに。

 実験は、一時中断を余儀なくされました。

 仕方がありません。

 ただ……電話の向こうで「君も彼の助手なら、彼の性格を熟知し行動をある程度把握しておくべきだ」と理不尽極まりない説教をしている人物にぺこぺこと頭を下げながら、何とか全てを凌ぎ切った深夜。記録室ではなく施設内の一室、備え付けのソファの上に寝転がった私は、冷静に考えてみると、何故自分がここまで彼のために心神を疲労させなければならないのかと、そんな当たり前の事をやっと考えたりもして。

 そしてそのまま、深い眠りに飲み込まれていきました。



《記録五日目終了》実験中断。



   ◆◇◆◇◆◇



 人が狂っていく過程を観察するという実験が開始され、五度目の朝。

 私は、教授に怒られてしまいました。

「この部屋には時計が無いからね、正確な時間を計る事は出来ない。けれど、私の体内時計を信頼して数値を算出するとしたなら、私が暗闇を隣人に無音を友人に過ごした期間は一日や二日なんて生温いものではなく一年や二年とさえ思えたくらいだ」

 大袈裟な言い草ですが、何となく想像がつくので説得力はありました。

 記録室ではなく施設内の別室で熟睡に陥ってしまったため、私はその私が犯した失態を確認する術を持たず、それゆえに更なる失態で恥を上塗ってしまったと、そういう結論に至ってしまったようで……。

 私は昨日、実験を行う上で起動させている機器の電源を粗方落としていました。

 この施設の電力は基本的には備え付けの発電機から引いています。元より私自身、日頃から細かく節電を心がけている(昨今、この国が口煩く捲し立てるエコという名の教育に律儀に洗脳されているのが、この私なのです)ため、ほとんど無意識での行動でした。

 問題は、その時、私は誤って実験室内の電力も落としてしまっていたのです。

 つまり、教授はこの無機質無音の空間で、しかも視力さえ通用しない暗黒の中、ほぼ24時間を過ごす羽目になってしまったわけで。

「おかげで夜行生物の気分を味わうことが出来たよ。貴重な体験だ。貸してもらった書物を読むことができなくなってしまったのは残念だったがね」

「申し訳ございません……」

 完全に私の不注意だ。返す言葉もない。

 純白の正方形の中、ベッドに腰掛けた姿勢で窓を挟んだこちらを見る教授。その目は笑っていない。もしかしたら、私が独断で実験を中断したことについても怒りを覚えているのかもしれません。

 しかし。

「………以後、気を付けるように」

 教授はそれだけ言うと、椅子に座り、机の上の食事(寝過ごしてしまったので、時間帯的には朝食を飛ばして昼食)に手を伸ばします。

 ねちねちと説教をされるものだと思っていた私は、あまりにも淡泊な教授の態度に少し拍子が抜けてしまいました。

 どこか彼らしくない、彼。

 違和感。



《記録六日目終了》実験再開。



   ◆◇◆◇◆◇



 教授の生活態度に微小な変化が確認されました。

 生活リズムそのものはまったく崩れてはいません。朝昼晩と三度の食事。三度の排泄。一度の排便と二度の排尿。15分ほどの軽いストレッチ。30分間の有酸素運動。まったくブレる事無く続行される一連の日常。

 崩れたのは、気配。

 だからこそ、それは微々たる変化でした。

 隙を見せないというか。常に神経を張り詰めさせているというか。

 柔和で掴み所の無い、飄々とした人格が反映されていた瞳の灯りはなりを顰め、そこには常に世界を見張っているような硬質でギスギスとした黒色が満ちています。

 教授の目には何が映っているのでしょうか。

 教授の眼は何を捉えようとしているのでしょうか。



《記録七日目終了》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 新しい本を持って来て欲しいと教授が言ったので、私はその日実験室を訪れました。

「奥様から贈り物です」

 私は抱えていた数冊の書物と、それから新品の衣服を彼に渡します。

「私に妻はいないよ」

 教授はそれらを受け取りながら、口端を持ち上げました。私自身、なぜこのような台詞を繰り返してしまったのかはわかりませんが、おそらく先日の一件で教授を怒らせてしまった件を未だに引き摺っているのかもしれません。人は人との関係性に不備を起こしてしまった際、相手の笑顔を確かめるまでは安心できないものです。

 そういう意味では、教授も気遣ってくれたのか、彼らしいいつも通りの笑みをかえしてくれたのです。

 けれど、その目は未だに張り詰めた何かを宿していました。

 私は教授に一礼すると、本来の自分の役割に戻るため、部屋の扉へと歩み進みます。

「ところで――」

 と、そこで。

 不意に、教授が口を開きました。振り返ると、彼は部屋の中央に設置された一組の机と椅子を注視しながら、発声を続けていました。

「一昨日、君がこの部屋の電気を消してから数時間、私はこの部屋の中で暗闇を隣人に過ごしていた。やがて君が事態に気付き、この部屋に明かりを戻した。私は数時間ぶりにこの部屋の全景を色と形で認識する事が叶ったのだが……その時に、違和感を覚えたんだ」

 教授は、顎で前方を示す。

 部屋の中央に置かれた、アルミの机とアルミのイス。

「最初、この部屋に来た時より、少しずれていると思わないか?」

「………」

「蛍光灯に電気の灯っていなかった数時間の間にも、それ以前にも、私は椅子も机も動かした記憶はない。ずっとベッドの上にいた」

 それに、と教授は続ける。

「それだけじゃない。あの時間の前と後で、部屋の雰囲気が微妙に変わっている気がするんだ」

「………」

 私は部屋を見回す。

 この真っ白い、調度もほとんど存在しない部屋。

 外部から遮断された、音も色も内在しない、ただの実験室。

 何が変わったというのでしょうか。

 私はその時、教授も変な事を云うものだと、その程度の感想しか抱けませんでした。



《記録八日目終了》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 その日、教授はずっと虚空を眺めていました。

 食欲がないと言って、一回分の食事を拒否し栄養剤だけの摂取で終わらせました。こんなことは初めてです。ここまで何事にも揺さぶられること無く続いていた、教授の鋼鉄生活スタイル神話が崩れ去った瞬間でした。

 いつもは暇を訴える口も今日に限って嫌に静かで、昨日差し入れた本にも全く手をかけようとしません。じっと、ベッドの上に座って、何も無い空間を見詰め続けているのです。

「今朝起きたら――」

 正確な時刻は確認し忘れましたが。

 教授は唐突に、言いました。

「また部屋の雰囲気が変わっていた」

 自分が寝ている間に、何かあったのかと――そう教授。だから私は、何もありませんでしたと、答えました。

 閉塞された世界。

 環境の無変化が精神に及ぼす害悪が、ひそかに萌芽を開始していました。



《記録九日目終了》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 喋っていました。

 教授は喋っていました。

 その日一日中、教授は喋り続けていました。

 注意すべきは、この場合の喋るという動詞が現す映像が、独り言を絶えず呟き続けているなどという意味ではないことです。

 教授は延々と、ガラス一枚を挟んだ先にいる記録員――私に話しかけてきていました。実験を開始した当初、ただ黙々と一日の作業を施行していく植物のようだった彼からは――いや、この実験を始める以前において、何事にも自身のスタイルを貫き通してきていた彼からは想像もつかないような、それは、なんというか、驚くべき行為でした。

 たとえば、外のこと。教授が残してきた諸々の手続きや研究状況など、自分なしでうまくやっているのか、など。そんな、ここに来た時には気にも留めていなかったことを、彼は空白が生まれることを恐れているかのように口にします。

 こちらに向けた視線を揺らすことなく。窓の向こう側にいる私の存在を懸命に捉えようと。その顔に湛えるのは、変わらない笑顔。けれどそれは、表情筋で感情を表しているというよりも、まるで貼り付けたような偽ものっぽい笑顔。

「ところで、一つ注文をいいかい」

 漆黒の眼でそう言って、教授は手に持った本を持ち上げました。昨日私が持っていった、本。

「残念だが、この本、随分昔に読んだ記憶があるんだ」

 そんなはずはありません。

 あの本は、最近発売されたばかりの新作です。

「また新しい本を送ってもらいたい。家内に伝えておいてくれないか?」

 何ら躊躇も違和感も覚えた気配すらなく、教授はその台詞を発しました。家内。妻。それは、ただの冗談。ただのうそ。

「……教授には、奥さんはいないでしょう? それに、この研究のことも、この施設の場所も、知っているのは私と教授だけです」

 私が言うと、教授はその顔に浮かべていた表情を無くしました。まるで生まれて初めて手品を見せられた子供のような。呆気に取られた顔。

「……ああ、そうだったな」

 そして変わらぬ声音で、抑揚の無い声で、ぼそりと、言ったのです。

「間違えた」



《記録十日目終了》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 教授は遂に、一切の食事を摂取することをやめてしまいました。

 一日中、ベッドの上で体育座りをしています。顔を膝に埋めて、しかし、視界を閉ざすことを極度に嫌っているのか恐れているのか。

 その双眸は、じっと窓ガラスの方向に向けられたまま固定されていました。

 瞬きすらしているのかどうかわかりません。瞬きには眼球の潤いを維持する機能があり、乾燥すると角膜が萎んだり瞼の裏側が張り付いてしまったりと問題を多く起こしますが、今の教授にはそんなこともどうでもいいように思えます。

 彼は絶えず、ずっと、私に喋りかけてくるのです。

 一時の間すら空けず、会話なんて成立していなくても、教授は私を相手に言葉の羅列を連ねていくのです。

 常に、私という存在を認識していないといけないかのように。不安であるかのように。

「今朝も、机と椅子の位置が変わっていた」

 時には私の返答を待たず、教授はただ私が話し相手となっている現実を肯定したいがために行うように、話します。

「こんなに大きなずれが見受けられたのは、ここに来て初めてだ。君にはわからないかもしれないが、確かに変化は起きている。思うに、問題は空調か照明機器の整備不全にあるのではないかと推測している。悪いが、君に本実験の記録員として設備の確認をして欲しいのだが」

 私は――。

「……?」

 そこで、私は。彼の言葉に、わざと応答をしませんでした。

「聞いているのか?」

 教授は、私からの返答が無くなったことにゆっくりと、しかしはっきりと混乱を示し始めました。

 何度も私の名を呼び、私がそこに居るという事実を成立させようと懸命になり、最終的には語気を荒げながら私に会話を促していました。

 しかし、しばらく経った後。

「……また、何か作業に出ていったのか」

 彼は、嘆息しながら呟いて、汗に塗れた顔を拭うと、定位置であるベッドの上へと戻りました。

 窓ガラスはマジックミラー。向こうからこちらは確かめられない。だから彼には、果たして私がそこに居るのか居ないのか――真実を知る術はありません。

「部屋の電気は消さないでくれよ」

 言って、彼は横になりました。しかし、寝ようとはしません。

 教授はただじっと、虚空を注視していました。ただただ、ずっとずっと。瞑目することなく、変わらず、ただ空間の一点を。

 そして、そんな教授の姿を、ガラス越しのこちら側より、私は観察し続けていました。ただただ。ずっとずっと。

 私は教授を、記録します。



《記録十一日目終了》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 教授は朝からずっと床の上に寝ていました。

 寝相が悪くて転げ落ちという感じではありません。腹這いの姿勢で床に接着している彼は、やはりあの瞳の色で私の知らない場所を見詰めているようです。

 何をしているのでしょうか。

 マイクを起動させて尋ねてみると、彼は数時間前に予告もなく会話を打ち切ったはずの私にこれといった反論もせず、素直に「不安だからだ」と返答しました。

 ベッドの上に居る事が、椅子の上に居る事が。

 床だとか壁だとか、大きなものに密着していないと、その自分との隙間に「何か」が入り込んできそうな気がして、不安だというのです。

「何か」に、明確な答えはありませんでした。

 ただ漠然と、そんな脅迫観念に襲われているようです。

「………」

 私は吐き捨てられたガムのように床へへばり付いている教授を見ながら、傍らに稼働させていたコンピュータを打鍵します。実験を開始して約十日が経過。当初に比べ、実験対象の精神面は明らかな変質を起こしているように見えます。

 その発端となったのは、きっと「違和感」なのでしょう。

 彼は今でも暗闇を嫌悪しています。あの日、部屋の電光が完全に消失するというハプニングは、きっと彼にも予期していなかったことだったのでしょう。元より仕事の上でも我が強く、己というものをはっきりと保持していた方でした。それだけにメンタル的な強度はかなりのものでしたが、あの日、罅割れた彼の心の隙間に目敏く入り込んだ「違和感」は、それから取り除かれず、根を張り、その屈強な力で裂傷を更に広げていったのでしょう。

 疑心暗鬼。負の感情は増幅します。

 部屋の雰囲気が変わっているという違和感。通常なら外的要因の参入により肯定も否定もされるべき問題を、彼は当事者でありながらたった一人で解決しなくてはならなくなった。気のせいだと割り切れれば楽だが、他の何でもない彼の信奉する彼自身の感覚が、それは真だと断じてしまうのです。

「………」

 私は、部屋の中央で動かなくなってしまった彼をしばし注視していました。腕も脚も投げ出し、死体のように停止している彼。

 そこで私は、不意に、食事の搬入に使用しているエレベーターを起動させてみました。

 甲高い機械音が無音の室内に突如響き渡ります。

 瞬間、教授はびくり、と体を跳ね上げました。

「……食事の時間、か?」

 ゆっくりと体を起こし、彼は部屋の隅に向かいます。しかし、そこには何も用意されていません。当たり前ですが、まだそんな時間ではありませんし、それに、最近の彼は食事を行いません。栄養剤の摂取のみが常となってしまったので、私も自然と用意する事を止めてしまいました。

 博士は小首を傾げながら、元の場所へと戻ります。そして、「設備が故障していないか、調べてくれないか?」と、私に向けて指示を出すと、返事を待たず先ほどまでと同じように寝転びました。

 私はまた、エレベーターを起動させます。

 過去、一日に三度しか動かなかったその機器が、ある時は数分おきに。そして、一時間近く置いた後にと、不確定に動く。そのたびに、博士は体を揺らして部屋の片隅に注意を傾けるのです。無変化が常識であるはずのこの部屋の中で、起きるはずの無い異変が起きている。妊娠中の猫のように神経質になり始めた彼は、明白に、何かに追い詰められているような気配を漂わせ始めました。

 私はその姿を観察し、そして記録をつけます。

 実験は順調に経過しているように思えました。



《記録十二日目終了》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 言い表しようのない……あえて例えるなら、胸騒ぎのような感覚、とでもいえばよいのでしょうか。それに襲われ、深い深い泥のような眠りから私は目覚めました。

 昨日は何時まで記録を纏めていたのか、いつベッドに横になったのか、覚えていません。曖昧な脳を働かせながら、私は立ち上り教授の様子を確認するため、窓の前へと移動します。

 そこには、今までに見たことのない光景が広がっていました。

 白一色で装飾されていたはずの部屋に、色彩が産まれていたのです。

 赤色でした。黒色でした。

 汚らしく、まるで絵具を染み込ませたブラシをやたらめったら叩き付けたかのように、法則性の欠片も芸術性の欠片もなく四方の壁に点々と張り付いているのです。赤黒赤黒黒赤黒黒赤赤黒赤赤黒赤黒黒赤黒赤赤黒黒赤黒赤赤黒赤赤赤黒黒赤黒黒赤赤赤黒赤赤黒黒黒黒黒。

 黒。

「………」

 腐乱死体の皮膚のように気味悪く変色した部屋の中、教授はベッドの上にいました。膝を抱えてがたがたと震えています。見れば、その両腕は青紫に染まっています。肌色を占める面積の方が明らかに少量でした。気のせいかもしれませんが、関節の位置がずれているようにも思えました。

 私はマイクを起動します。

 コツコツとヘッドを叩くと、彼はそれに反応するように顔を持ち上げました。眼球は血走り、クマが強く残り、疲弊に色濃く化粧された表情が露わになります。

「何があったんですか?」

「居る」

 問う私に。

 彼は。

 罅割れた声で、答えました。

「この部屋に、何か居る」

 あそこだ――と、彼が指差した先は部屋の片隅に設置された便器。

「居たんだ。見付けた。あのトイレの影に、あれが居た。今まで感じていた違和感も、きっとあれの仕業だ。あれが、私の知らぬ間に現れ部屋の調度を動かしたりしていたんだ」

 私は便器を見ます。

 濁った水が澱んでいるだけでした。

「私には……何も見当たりませんが」

「ああ、遅いんだよ君は!」

 途端、教授は発火した癇癪玉のように声を荒げます。

「私には確かに見えていた。あれが現れたんだ。あれが姿を見せたんだ。その時、私は君を呼んだ何度も何度も呼んだ。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何。度も何度も何度もなんどもなんどもなんどもなんどもなんど、もなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども。壁を叩いて叫んだのに。なのに君はまったく反応してくれなかった」

 そういうことだったようです。

 あの壁画の正体が、酸化した血液であるということが判明しました。

「わかりました。後で私が部屋を訪れて調べておきます。なので、教授はお休みになっていてください。その様子では、昨日は一睡もできなかったようですし」

「……ああ」

 教授は懸命に振り回していた両腕を下ろすと、糸の切れた人形のようにベッドの上へ体を放ちました。

「そう、だな」

「すいません。どうやら私も思っていた以上に疲労が溜まっていたようで、教授の声に気付くことが出来ませんでした」

「いや……いい。私の方こそ、少し、取り乱した」

 教授は天井を見上げながら、両腕で顔を覆いました。

「……そうだ、電話を貸してくれないか?」

 掠れた声。

「久しぶりに、妻の声が聞きたいんだ」

 私は「わかりました」と答え、マイクのスイッチを切る。



《記録十三日目》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 眠りから覚めた彼がまず私に対し何と訴えるか、予想はできていました。

「説明してくれ」

 教授は、自身の首に巻かれた白色の首輪に触れ確かめながら、言います。

「これは、なんだ……」

 機器の名称を問うているのでしょうか。それとも用途を聞いているのでしょうか。十中八九、後者でしょう。それは、元より彼がこの施設内に用意していた小道具の一つなのですから。

 分かりやすく説明するなら、スタンガンを改造したものです。凶悪犯を取り扱う一部の刑務所などで使用されているもので、遠隔操作で電流を流し、神経を麻痺させ筋肉を支配する機能を搭載している首輪です。彼が寝ている間に、それを装着させてもらいました。昨日のように錯乱し暴れ、怪我を負っては困ります。今回は運がよかったものの、打ちどころが悪く死んでしまっては元の子もありません。なので、この機材を用いある程度行動を抑制することにしました。

 これで安心し、実験を継続できます。

 教授は必死に首輪を外そうとしているようですが、服役囚を対象に設計されているそれはちゃちな玩具ではありません。彼はやがて、ガラス越しの私に向けて言葉を投げつけてきました。苛立ち塗れの口汚い言葉。外にいた頃の理知的な彼からは、想像もできない姿。

 私は記録を録ります。

「電話を貸せ!」

 泣きそうな顔をして、掠れた声で。

「妻の声が聞かせてくれ!」

「妻とは誰のことですか? あなたは独身でしょう?」

 教授は奇声を撒き散らしながら壁へ殴りかかろうとします。

 私は、スタンガンのスイッチを押しました。

 瞬間、破裂音が轟き、教授の体が床の上に落下します。まずは一回墜落、それからもう一度、水揚げされた魚のようにのたうって、頭から地面に激突しました。

 筋肉は電気信号で動いています。彼の体はその刹那、さながら素人の扱うマリオネットみたいに不細工な踊りを踊っていました。加えて、横隔膜が強い痙攣を起こしているのでしょう。呼吸がままならないのか、パクパクと必死で酸素を拾おうとする口は、やはり魚類のようで。

 私はいけないと思いながらも、少し頬を緩ませてしまいました。

「実 験は、中止……だ」

 何とか気管を回復させた教授が開口一番苦しげに吐き出した台詞。しかし、当然ながら、中止などできるはずがありません。実験は順調に経過しているのです。私は教授に、一記録員としての務めを任された身。実験動物の意向に耳を傾けるわけにはいきません。

「教授」

 私はマイクに語りかけます。

「今日は、もうお休みになった方がいいと思います」

 彼は再び壁に向かって走り寄ってくる。だから私は、それを止めさせるために抑制機を発動させる。

 何回も何回も。何回も。同じことの繰り返しでした。

 彼は止まりませんでした。彼は諦めませんでした。愚直に、とり憑かれたように、この部屋から解放されることを望むように、何度も何度も。何度も。壁を殴ろうとし、床に激突し、壁にぶつかろうとし、床に激突し。

 なんでしょう。

 私は。

 私は彼のそんな姿に……なんだか、子供の頃に見た、虫籠の中で懸命に外へ逃げようと暴れている蝶を重ね合わせました。

 孤立させられ、箱に囚えられ、観察される。

 よくよく考えれば、それはなんて常軌を逸した行為。

 蝶は精神を病んでしまう。

 蝶は狂ってしまう。

 美しい羽をばたつかせ、アクリルの壁に惰弱な肉体をぶつけ。

 衰弱していく。

 儚く儚く、

 崩壊していく。



《記録十四日目》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 翌日より、教授の攻撃性の矛先は私ではなく便器の影に潜む何かに遷移していました。

 依然として私には、彼が見たという件の正体を目撃できずにいるのですが、四六時中、教授は便器に向かって姿をみせろとか、卑怯者とか叫び、机や椅子を投げつけます。

 その姿はとても滑稽でした。

 開始十五日が経過。

 教授が食事を取ることを止めてから五日が経過。

 教授が睡眠をやめてから二日が経過。

 記録は順調に更新中。

 最近、携帯電話がまた騒がしく音を鳴らすようになったので、五月蠅く思い、洗面台に沈めたら静かになりました。

 実験の邪魔です。



《記録十五日目》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 死んでは困るので栄養剤を摂取させました。

 暴れましたが、数回程電流を流せば大人しくなります。簡単です。

 壁に頭をぶつけるのをやめさせなければなりません。



《記録十六日目》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 爪を噛み過ぎて、指の先端を噛み千切ってしまったようです。

 とても痛そうでした。

 この日は、一切言葉を発しませんでした。



《記録十七日目》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 トイレに頭を突っ込み、溺死を図る人間を初めて見ました。

 食事用の皿を割り、その破片で首を切ろうとしたので止めさせました。

 引き裂いた本を飲み込んで窒息しかけました。何とか助かりました。

 本能的な行動が見受けられます。大脳辺縁系はまだ生きているのでしょう。

 監視時間を伸ばすことにしました。



《記録十八日目》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇














《記録十九日目》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇














《記録二十日目》実験継続。



   ◆◇◆◇◆◇



 教授が動かなくなりました。

 ここ数日間、体の汗を拭き落とすことも衣服を着替えることもしていなかったので、彼の姿は到底正視できない状態となっていました。振り回されてグシャグシャになった白色混じりの髪。血と汗が染み込んだ衣服。

 その肢体を床に投げ出して、彼はぽかんと間抜けに開けた口と、黄ばんだ眼球を天井に向けて停止しています。

 電撃を起こすと、最初の内は数秒ほど悲鳴を上げてのたうち回っていましたが、今ではまったく反応を示してくれません。

 死んでしまったのでしょうか?



《記録二十一日目》実験継続?



   ◆◇◆◇◆◇



 被験者に外視的な変化が見込めなければ、実験は頓挫したも同然です。

 仕方がないので、私は彼の容体を確かめに向かいました。

 室内に入ると、すえた臭いが鼻を突きます。部屋の中には破壊された調度が散らばり、白い壁はいたる所が錆びた血で汚れていました。初日、清潔感を通り越し現実感さえ死滅していたこの正六面体も、今では生物が這いずった痕跡を残す生々しく汚らしい部屋へと模様替えされていました。

 私は床に横たわっている教授に近付きます。

 近くで見ると、その酷過ぎる姿に頭痛を覚えました。連日歯を立て続けた結果、のこぎりのようになった爪。その爪で引き裂かれずたずたになった衣服。かつて白衣だったそれには赤黒い斑点が薬害患者の如く浮かび上がっています。彼の背に敷かれ広がり、あたかも毒蝶の翼のようでした。

 かつては小さな物音一つにも神経質になっていたはずなのに、接近した私にもまったく反応をしない肉体。瞬きを忘れた双眸は、乾燥した角膜で空を見上げています。

「教授」

 とりあえず、生死の確認が必要だ。

 私は、彼の体を揺すります。

 すると、暗黒に染まっていた彼の右目がぎょろりと動き私を見て。

 次の瞬間、その腕が伸黒ど激――痛痛痛頭痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛がががががががががががががががががががががががががががががが私



  っ  ……



 ……    … ―

















































 …………どれほど、気を失っていたのでしょう。

 眼を覚ますと、部屋の中から教授が消えていました。



《記録二十二日目》????



   ◆◇◆◇◆◇



 鈍痛が響く後頭部を押さえながら、私は起き上がります。

 掌を見ると、薄い赤色が付着していました。床に叩きつけられた際に切れてしまったのでしょう。痛みこそまだ引いていませんが、大した裂傷とは思われないので、大丈夫と判断した私はよれた白衣を着直すと教授を探すため部屋を出ます。

 コンクリートが剥き出しの廊下には、冷えた空気がよどんでいました。彼はどこに行ってしまったのでしょうか。手掛かりとなる材料がないため、捜査のしようがありません。

 彼の足跡を表すように、うっかりと落とした所持品でも転がっていれば助かるのですが。もしくは、有名な童話のように千切ったパンでも構いません。ここにはそれを啄ばむ意地悪な鳥も居ないのですから。あのお話のタイトルは何と言ったでしょうか? 思い出せません。確か森の中にお菓子の家が出てくる、あの話。主人公の兄妹の名前がそのまま題名に使われていたはずです。チルチルとミチル? いや、それは別の話だったような気がしますし。

 私は彼を探して廊下を進みます。

 見つかりません。トイレの中にもいません。部屋を端から開けましたが見当たりません。本当に、どこに行ってしまったのでしょう。

 電話で呼び出しましょうか。名案です。いや、そういえば彼は携帯電話を所持していませんでした。外にいた頃から、何度も持っておいてくれと言ったのに面倒だと聞き入れてくれなかったのです。あちらはそれでいいかもしれませんが、こっちにしてみたら困ったことです。もう少し自分の立場というものを考えて欲しい。

 どう思いますか?

 まったくもって迷惑な話。

 あなたも、そう思うでしょう?

 訪れた二十四個目の部屋にも彼はいませんでした。次の部屋へ向かう途中、仕方がないので、そこにいた方に狂った蝶のような男を見なかったかと聞いてみました。すると、その方は親切にも数分前に彼を見掛けたという方向を指さして教えてくれました。

 私は一礼し、示された方向に向かいます。

 施設の入口でした。

 陽光を拝むのも随分久しぶりのことで、私はガラスを貫いて刺し込んでくる白色の矢に痛みを覚え、目を薄めました。

 すると。

「……教授?」

 扉を開け、外へ出れば。

 そこに、彼が居ました。

 木々に囲まれた山奥、翠と蒼が宝石のように煌めく世界で。

 彼は跪いていました。芝の生えた地面に両足を折り、神に祈りを捧げる教徒のように、こちらに背を向けているので表情はわかりませんが。

 山風が吹き、それを受け、はためいた白衣がバタバタと音を立てていました。

 彼は動きません。私は歩を踏み出します。彼は動きません。私は彼に近寄ります。彼は動きません。私は彼の背後に立ちます。

「教授」

 彼はゆっくり振り返りました。

 脳が砕け、精神が滅び、倫理観さえ忘れた肉の塊。その顔を滑稽なほど歪めて、おそらく表情というものを作り上げています。彼は振り返った私の腹部の辺りを見詰めたまま、動きません。罅のように走った皺が象っているのは、多分、笑顔なのでしょう。

「ああ」

 狂気が。

 流動する狂気が、その瞳に流れ込んで。

 溜まって淀んで、凝り固まって。

 膠着したレンズが、何かを映す。

「あれが……居る」

 私の体に縋り付いて、彼は狂乱しました。

「ああ、ああああ、ああああああああなんだなんだなんだなんだなんだなんだなんだなんなんだ、なんなんだあれはあれはあれはあれはあれは、あっちにもこっちにもどこにもあればかりあればかりが見えるんだ、世界があれで満ちている、色が無いんだあれが黒いから、黒く染まってあれがいるから塗り潰されてしまって見えない木が石が空気が太陽が」

 そういえば、

 虫籠に閉じ込められた蝶は、その後、外に放しても生きていけないという話を聞いたことがあります。

 栄養さえ受動的に摂取させられていたのです。狭い箱庭を飛び回っていた羽は自然の風を受け止められなくなってしまうそうです。

 その結果、蝶には外の世界が今までと違って見えてしまう。当たり前に見えていたものが当たり前と思えなくなり、そこに潜む名伏し難き恐怖と悪意が目の当たりとなって。

 瞳の中に果てしなく広がる、得体の知れない恐ろしき世界。

「教授」

 私は、蹲り震えている彼の頭に手を伸ばし、その顔に触れました。

 冷たく温度を感じさせない、骨ばった頬。心の奥底をつつく憐憫感。なんて哀れな生き物。

 彼は伸ばされた私の手に両手を這わせ、顔を上げます。

 助けを求めるように向けられる、朽ちた眼光。

 落ち窪んだ両の眼が、私を見て。

 彼は

 彼は

 絶望したように笑いました。

 その瞳彩は、底深い黒色を反射していました。

「そうか、君も

 私は、手にしたスタンガンのスイッチを













































《記録???日目》実験継続。



















































『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』 ━━ ニーチェ「善悪の彼岸」

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