鳩首会議
青空が広がる有明コロシアム。本日より熱戦全日本テニス選手権の開幕である。
会場となるセンターコート。オープニングセレモニーのため関係者が詰めかけていた。テレビ中継スタッフ。テニス雑誌プレス。日本テニス協会のお偉方などの貴賓客などがいた。
出場選手は普段滅多にお目にかかれない雲の上の理事や役員らに緊張をする。
有明コロシアム前停留所コンビニストア。こちらは普段買い物客など滅多にいないのだがこの日は早朝から満員である。そのためアルバイトを臨時に数人雇って対応にぼわれる。
有明コロシアム最寄り駅に東西から観客も押し寄せていく。一見をしてテニス部員だとわかる大学生や高校生が目立つ。
今日は華やかなオープニングセレモニーが予定されており人気タレントが始球式を執り行う。若い世代に楽しみな一日になりそうである。
セレモニーには大学吹奏楽団が参加していた。女子高生チャーリーディングと招待され華麗な演奏と演技はテニスファン観客を魅了してやまない。日本1のチャンピオンを決めるのに相応しい舞台が整えられていた。
大会主催の合図でセレモニーは始まる。日本テニス協会会長の挨拶が厳かに響きわたり会場は緊張感が漂う。
厳かに進行する会場が盛り上がりを見せる。昨年度優勝者の盾返還儀式である。男女シングル・ダブルス・混合ダブルス。
選手個人個人から会長の手に憧れの盾は渡っていく。
優勝盾が会長の手に返される度に大きな拍手が起こる。この盾こそ出場選手全員が狙う優勝の証しであり憧れである。
セレモニーの選手整列席でタカオも近藤もジッと優勝盾を見つめていた。ふたりとも欲しいのは男子シングル優勝の名誉と称号である。もちろんプロである以上賞金稼ぎもである。
整列席にいる近藤は隣りに立つタカオが眩しくて見ることができない。憧れのタカオ。全日本優勝のためには必ず倒さなければならない壁であり目標となる。
「あの盾を手にしたい。僕が全日本出場する限りは優勝者として名を刻まなければならない。優勝するためにタカオさんに勝たなくてはいけない。タカオさんに勝つためにあれだけの(星野コーチの)練習に耐えてきたんだ」
改めて近藤は空を見上げた。青空は広がりテニス日よりである。
大会レフリーから全日本の簡単な試合ルール説明がある。いよいよ女子ダブルス開始である。
コートには第1試合の女子選手だけを残し全員解散をする。
場内アナウンスがある。
ただいまから始球式を執り行います。(テニスの)始球式はサービスを打ってもらいます。
コートには今売れっ子の女性タレントが登場する。華やかなテニスウェアにスリムな身を包み颯爽と現れ笑顔をコロシアムの観衆に振りまいた。名前を呼ばれるとラケットを高く振り回し愛嬌もあった。
有明コロシアムは女の子の登場を待ってましたと拍手である。女子高生からは盛んに携帯で写真を撮られた。
この人気女性タレントはお笑い芸人が冠になるトーク番組出身である。あの我が儘な司会者タレントにどうにか慕われてスターダムにのしあがってきた。約1年余トーク番組のレギュラーを務め人気を得ていた。今はドラマに舞台にと売れっ子になり飛ぶ鳥を落とす勢いである。
身長も高くちょっとしたプロテニスプレーヤーに見えた。
始球式は始まる。
バシッ
女の子はしなやかにラケットを振る。少しヘタ当たりな音がした。始球式のサービスはヘナヘナしながら相手コートにポチョンと落ちた。
タレントは可愛らしくアラヤダァ〜と叫び舌をペロリと出した。
可愛らしい女の子のサービスで会場はやんやの騒ぎになった。
始球式が終わるとただちに女子ダブルス一回戦である。コートにいるプロテニスプレーヤーは真剣そのものな顔つきでラケットを握った。
女性タレントはお役御免と放送室にやってくる。テレビ局が用意したプレスルーム。アナウンサーがインタビューをする。聞き出す内容はあらかじめ決めてある。
「始球式ご苦労様でした。いかがですか緊張しましたか。トーク番組のスタジオのようにはいきませんでしたね」
女性タレントは嬉しい笑顔を湛えインタビューに応えた。
「この全日本テニスは憧れていました。私こう見えてもテニス部員でしたの。お友達のひとりが全日本に出場していますの。そりゃあもう熱烈に応援しますわ。頑張って〜。そして私。次週から舞台が始まります。初の舞台となりますから緊張しています」
舞台の宣伝が主なインタビューになる。
この女性タレントが始球式をすることはお笑い芸人にも知らされていた。冠トーク番組から抜擢された数少ないタレントである。番組から巣立つケースは稀れなことである。
「始球式やりはったんかい。えらいぎょーさん出世しはたんやなあ。つい最近までワイの横でトーク展開していた(あかんたれ)なのになあ。まもなく舞台やろっ。あやあやぁ〜女優さんになりまんのか」
ここはお笑い芸人のトーク番組収録スタジオである。
このトーク番組から全日本テニスにゲスト出演をしたタレントが出たことからなおいっそう盛り上がる。
「しかしなんやなぁ。テニス好きなワイがこうしてスタジオでベラペラ喋りテニスに関係ないアイツが始球式やろ。なんや不公平な話や。ワイも全日本テニス行きたいなあ。どこぞのどなたか招待してんか」
スタジオには爆笑の渦が出来上がる。お笑い芸人の司会は今日も絶好調である。
スタジオは笑いと熱気に包まれていたが控え室は閑散である。芸人のいない時間、マネージャーがさまざまな事務処理に忙殺されていた。
「まったくウチの先生ときたら。こんな忙しい時期に近藤相手に訴訟なんか起こして。だいたい考えてみたらわかるよ。売れっ子中の売れっ子先生があのハードスケジュールの中どうやって法廷に立てるんだ。芸能人のスケジュールはみっちり来年の夏まで埋められているんだから。となると法廷だろうが弁護士相談だろうがマネージ
ャーの僕が担当する羽目になるんだ。嫌だなあ」
マネージャーは3ヶ月余も整髪していない頭をかきむしった。
控えに内線が鳴る。テレビ局受付嬢からお笑い芸人司会者に面会人が来ていると連絡が入った。
面会人は横浜の大御所の使いのものだと名乗ってきた。用件は大変重要なことだから直接にお話をしたいとのことだった。
マネージャーは驚く。先日お逢いしたばかりの大御所である。なにか粗そうがあったのか、あのご老人に不愉快なことをウチの先生はしでかしたのではないか。
取るものも取らず受付嬢の指図するロビーに行くことにする。お笑い芸人は番組収録真っ最中である。
マネージャーはロビーに出向いて驚きである。横浜大御所の使者とは老人の用心棒であった。
屈強な大男たちが3人。黒づくめのスーツにサングラス。いかにも武道に長けた身のこなしである。老人の用心棒であるという面識がなければ闇の世界にしか見えない。
黒服たちはマネージャーの姿が見えたら深々と礼をする。素顔がわかるサングラスは取りはしなかった。
「マネージャーさんご苦労様。お忙しいところ恐縮でございます。(横浜の老人の)ご威光(事件揉み消し)はいかがでございましたか。効果は満足されましたか」
黒服らはマネージャーに子細に説明を始める。横浜の大御所の尽力からマスコミのゴシップはもうお笑い芸人には及ばないと念を押した。さらに老人への謝礼へと具体的な話になる。
マネージャーはギクッとする。ゴシップの火の粉がこちらに飛び火しなくなった。一難去ったなっ、ホッとしたなっと芸人と話をしたばかりである。
横浜の老人が策略して揉み消しをしてくれた。お笑い芸人はそれで終わったとした。取り立てて老人にお礼もする気はなかった。
黒服は芸人に直接話がしたい。横浜の老人からの意向を本人に伝えたい。いつ番組の収録は終わるのか。長くかかるのであれば本番であろうとなかろうと構わないロビーに呼びつけろと高圧的態度に出た。
黒服らは互いに顔を見合わせる。
「なあ時間がないんだ。今からスタジオにいけば"ヤツ"はいるんだ。なに構わない(押し掛けて)交渉してしまえ」
マネージャーは両手を広げ黒服らを挺する。スタジオにこの人相が現れたら大変だ。どう見ても関わりたくはない人種である。
「わかりました。お急ぎなことは重々承知いたします。まもなくウチの先生は収録休憩に入ります。ロビーに呼んで参ります。しばらくお待ちください。そうですね10分以内でございます」
マネージャーは顔いろを変え小走りに消えていく。
お笑い芸人は快調な番組収録を続ける。休憩に入る直前すらもスタジオ内は爆笑の渦。まったく衰えを知らぬユーモアのセンス。長年に渡りお茶の間の人気を博す芸人であった。
スタジオ収録が休憩に入る。笑いを振り撒く司会者はドッと疲れが全身を襲う。早く楽屋に戻って緊張感から解放されたい。
ドアのノブに"ノック禁止"のプラカードを出す。
芸人は休憩時間に再度番組脚本の見直しや手直しをしたかった。必然的に楽屋には誰も入ることは許されない。マネージャーとて例外にあらず。
「うーん今日の笑いは反応がイマイチやなっ。ネタが古いか、話題がショボいか。収録番組はオンエアまで約2週間やさかいその間に親切さが消えてしまいそうや。脚本書き直し手直しして軌道修正や。しかしあのアホタレントなんとかなんないか。ワイが話題振っても反応が鈍いやんけ。後半からの収録は外したろっ。余計な気を使うだけでも嫌になるさかい」
懐から携帯を取りだし女性タレントに直接降板を告げようとする。
「降ろすや。とにかく役立たずはいらんさかい。えっと番号は何やった」
携帯アドレスを探り始める。携帯画面に受信メール点灯。
誰かなっ。
「なんやマネージャーやないか。くどいでじかに話せんとメールやって」
文句タラタラ言いながらクリックしてみる。
先生至急にロビーにおいでください。横浜の大御所さまからお客様がおいでになっております。
「お客様てなんや。横浜のってのはあのジイサンやろ」
首をかしげながらマネージャーに連絡をした。何のために老人からなのか。
マネージャーに電話はすぐ繋がる。
「あっ先生っ。お忙しいところ恐縮です。今ロビーに横浜の大御所様からのお客様がお見えになられて」
マネージャーが携帯を使う横、黒服のひとりが無理矢理マネージャーから携帯を奪う。
「横浜のご隠居からの使いだが」
押しの強い威圧感な声だった。
電話を切りしばらく控えでボソボソしていたがロビーに出向くことにする。相手が相手であり何をされるかわからなかった。
横浜の老人やって。何の要件なんや。ワイに降りかかるゴシップ揉み消しのことやろうがな。ひょっとしてなんかお礼せんといかんかしれんなっ。折り菓子箱ひとつ持たせなあなんか。
なんだろうなんだろうと腕組みしながら考えて廊下をトボトボ歩く。
ロビーに行くと異様な雰囲気にまず驚く。ソファーにはマネージャーがショボい格好で座る。人質のようにサングラス黒服3人に囲まれていた。
「おう遅いじゃあねぇか。こっちとら忙しいんだ世話掛けんじゃねぇ」
黒服はドスの効いた低い声を出す。マネージャーはすっかり怯えあがり今にも泣きそうであった。
芸人もソファーに座らせられる。黒服がちょっと失礼だっと懐を探り携帯を探り当てる。
芸人の携帯から横浜の大御所に掛ける。黒服は横浜の老人専用の電話番号を記憶させたかったようだ。
リーンリーンっと呼び音が続く。心臓の鼓動がバクバクし始める。大御所はいかなる話をするのか予測ができない。
老人は電話に出た。物静かな口調。腰の柔らかい差し障りのない話ぷりである。
「突然若い者が押し掛けて済まないね。驚きだったかな。もう少し丁重にするべきであったかな。前夜は楽しく過ごせましたありがとう。孫娘もあなたにお逢いでき喜びでございます。当代ナンバーワン売れっ子さんは格が違っておりますな」
老人は話の枕をあれこれ並べる。なかなか核心に迫らない。
「あっ先日はありがとうございました。何かとワイのような若造に気使こってくれましてん。また日を改めてお礼さしあげとうおます。ならワイ今からトーク番組収録本番やさかい失礼させてもらいます。ほな改めてまして。失礼致します」
見えもしないが頭を数回さげて携帯を切ろうとする。横から黒服が手を遮った。
「バカ野郎!おいっ勝手に(電話を)切るな。いいか相手は誰かわかっているだろうな。要件は終わっていない」
きつい口調である。まるで軍隊の無謀な上官の命令口調であった。
老人はのんびりと話を続ける。
「ウチの若いヤツ。かなり乱暴者ですかな。不愉快な思いしてますかアッハハ」
老人は暢気なしゃべりをやめた。きつい声を出した。
はっきりと聞き取れるクリアな声である。
きさまのゴシップ揉み消し代金は…
(法外な値段。ベラボウな金額を言った)
芸人はサッと血の気が引く。携帯を持つ手から握力がなくなり危うく落としそうになる。顔面からは血の気がまったくなく真っ青である。目は漫ろに焦点が合わない。
両脇で黒服がガッチリと支えた。支えねばその場にステンと転がり倒れていた。老人はのんびりと話を続ける。
「ほほぉ大丈夫ですかな。では後はウチの若いモンがやってくれます。早めに金の工面してください」
電話はここで切れた。老人はニッコリして電話を置いた。
気を失う寸前、黒服は両脇抱えソファーに横たわらせた。
「おいマネージャー。ボケッとするな。冷やしたタオル持ってこい。酸味の強いドリンクも調達してこい」
気が動転し今にも失神をしそうである。うつろな眼の頭に電話口の老人が映る。
「きさまのゴシップ揉み消しは金がかかっている。どれだけかかっているかよく知らせてやろう」
あの温厚そうに見えた老人の裏の顔がはっきりと脳裏に刻まれた。
全日本の一回戦。女子・男子と試合が消化されていく。
有明コロシアムの控え室。試合スケジュールは、
・第4試合-タカオvs鈴木貴男(大学チャンピオン)
・第5試合-近藤vsヒロキ(高校生チャンピオン)
互いに一回戦は若手と対戦になる。タカオはインカレの、近藤はインターハイの優勝者である。
この一回戦はケーブルテレビ(地方版)で中継録画される。解説は星野が担当した。
放送席ブースにアナウンサーと解説者星野がスタンバイする。
星野は全日本初日だから少し緊張気味。また教え子の登場と相まって気分は高まる。
星野さんいよいよ男子シングル一回戦でございます。今大会には世界テニスATPツアーですでに活躍をしているタカオ(第1シード)やこちら解説者星野さんの教え子近藤などが出場をしております」
アナウンサーの淀みない実況が始まる。放送前の打ち合わせは星野に近藤のことをより詳しく解説をしてくださいと申し出があった。
放送ブースは父親星野ならばコートサイド・近藤のプレーヤーズベンチ後ろにはあみがちょこんと座る。薄めなピンクウインドブレーカーに身を包み可愛くあみは微笑んでいた。
「さあいよいよ一回戦だわ。対戦相手はヒロキ君ね。名古屋のスーパー高校生だもんね。試合前にお父さんがヒロキ君にインタビューしていたの。名古屋から出場したんだから力いっぱい戦ってくれよっなんて。お父さんが昔全日本初出場した時はアガってしまってコテンって負けたらしいの。ヒロキ君もそんな感じかな」
対戦相手ヒロキは憧れの選手に近藤の名を挙げてくれていた。高校卒業したら同じ名古屋の近藤を目指して世界テニスで活躍したい。目をギラギラさせて星野のインタビューに答えていた。
近藤はコートに入る。あみは心の中であれこれ考える。近藤の使用するラケットはちゃんと整えられているか。ガットのテンションはこの試合に適性だったか。またあみが取り揃えるカラフルなグリップテープはツアーバッグに収めてあるか。
※近藤は試合直前にグリップテープを巻く癖がある。テープを巻きながら精神集中をするようである。
忘れてはならないものがもうひとつあった。近藤はプレーヤーズベンチにデンっとダンロップツアーバッグを置く。外ポケットを開け中身を出す。ゆっくり取りだした。熱田神宮の御守りである。
御守りは試合前に必ずあみが熱田に参詣し神主さんから神の詔ご神託を受けてくる。可愛いらしい手を合わせ近藤の勝利、いや全日本の優勝を祈願していた。
近藤は御守りをグイッと握りしめる。
熱田神宮は戦国武将・織田信長が篤く信仰をしたことで知られる。
「信長が戦国武将として天下統一を成し遂げたのは熱田さんのおかげだと言われている。僕みたいなコートの中だけの武将はちゃんちゃらおかしいけど」
しかし近藤は負け試合になる、形勢が不利になるとあみが授けた熱田御守りをグイッと握り士気を高める。
対戦相手のヒロキも名古屋出身。同じく熱田神宮の御守りがバッグに入る。熱田のご神体はどちらに荷担をするおつもりであろうか。
近藤-ヒロキの試合は始まった。しょっぱなから近藤の恐ろしいばかりのサーブから幕は開いた。
有明コロシアムはそれまで女子ダブルスや予選あがりの選手程度の試合ばかり。近藤のような世界テニスでバリバリやるヤツは登場をしていなかった。
バシーッ!
近藤のサーブは気持ちがいいくらい決まる。高校生ヒロキは1セットから防戦一方になる。カウントが4-0から5-0に変わるあたり。高校生の目は真っ赤に腫れ泣き出しそうであった。
セットカウントは近藤2-0ヒロキ
近藤としては緒戦だからと体が堅いプレーもあった。
「とりあえずは勝ててよかった。やれやれだ」
試合後にクルリと後ろを向く。視線の先には可愛く手を振るあみがいた。
お兄ちゃんよかったね。(勝利)おめでとう。
コートから近藤が控えに入るとあみも一緒に観客席から移動をした。仲良しの二人。
その近藤とあみを観客席から盛んに見つめる大衆がある。全日本の始まった直前。発売された写真週刊誌にゴシップが掲載されていたのだ。
「見て見て。あの近藤の後ろに噂の女の子がいるわ。やだあ〜週刊誌の通りじゃあないの。イチャイチャしているのは本当だったのね。ちょっとちょっと大胆過ぎないかしら。人目が気になったら離れるものなのに」
テニス試合そっちのけ。ゴシップは大衆間を駆け抜けていた。
次の試合はタカオ-鈴木貴男。
人気のタカオは大声援を受けてコートに現れた。
タカオ〜タカオ〜
有明コロシアムが最も燃える瞬間である。
対戦相手の鈴木貴男。鳴り物入りで大学インカレを勝ち抜いたモサである。テニスは変則的なものでロブを多用する。インカレの試合ではまともに打ち合うシーンは少なくカウンター打ちなど敢えて避ける選手だった。サーブやストロークにスピードはまったくないが抜群なコントロールと知的な試合運びが卓越していた。
試合は始まった。鈴木貴男はスピンをビンビンに効かせ多彩なショットを繰り出す。これでもかこれでもか。
ストロークもボレーもタカオは面喰らう。長いプロテニス生活を送るが見たこともないようなプレースタイル。まるで糠に釘という形容か。
タカオはコートチェンジするたびに腕組みし首をかしげた。
俺はテニスをしているのか。それとも曲芸をしているのか。緩いボールばかり打たせられてイライラしていた。精神的にラフ気味になると鈴木貴男の望むところである。
見ている観客も戸惑いである。バシーッと決まるタカオのショットがまったくなかった。緩いボールを力任せにひっぱたく。しかしフォームはことごとく崩れておりタカオ本来のスマートさは出てはいない。
カウントは5-5イーブンになる。互いにサーブキープのまま進行している。試合内容としてはタカオが如何にも苛つき攻めあぐむ図であろうか。
気がつくとタイブレークに突入。鈴木貴男はニヤリッとした。大学テニスではタイブレークの勝率8割強である。ワンポイントで勝ち負けが決まるサドンデスが堪らなく好きで得意であった。
タカオはまだ決め手に欠けておりアッという間にタイブレークをロストしてしまう。有明コロシアムは唖然とした。
あのタカオが負けるかもしれない。
第2セット。タカオは開き直る。対戦相手鈴木貴男の変則テニスに合わせてみた。ロブを多用しコントロールを重視する。世に言う安全運転型なテニス。
あらっ〜
鈴木貴男がテニスできない。タカオから強力なストロークが放たれないと打つ手なく自滅していく。簡単にポイントを稼ぎ出せた。タカオ一回戦勝ちあがりである。
横浜の老人は電話を置く。ニヤリッと笑うと頭で金銭計算を始める。算盤をパチンパチン弾く。
「あんな簡単なカラクリでゴシップをまとめられるとは。ヤンチャなお笑い芸人を貶められるとは。ワシの芸能界への影響はまだまだ甚大だ。安い仕事だった。後は黒服が腕任せに現金を持ってくればお仕舞いだ」
黒服にすぐ電話を入れてやる。お笑い芸人に法外な金を請求して数分後である。
「ああっワシだ。どないだ様子は。ガックリ項垂れているのか。気絶しているのか。うーんこいつには金策のアテはないのか。いやいや余計な同情は禁物だ。よいから"いつもの方便"でやってくれ。構わん遠慮するな。期間は来週の日曜までだ。芸能界で顔の広い男だ。その気にさえなればいくらでも金は集められる」
横浜の大御所は自信たっぷりに電話を切る。お笑い芸人の身の上はとっくに調べ尽くしてある。当代最高な売れっ子芸人である。収入は豊富であり困ることはない。
横浜の大御所の請求金額が期日まで用意できねば冠トーク番組を乗っとるだけのことだった。老人の息がかかった東京芸人はわんさかといた。
黒服らは芸人の気付けにヤキモキとする。気絶されたはよいがこのまま病院送りはまずかった。
「ったく困ったオッサンだぜ。おい起きろ」
頬を平手打ち。虚ろな目は宙をふらつく。「弱った野郎だぜ。こいつ白目剥いてぶっ倒れてやがるぜ。このまま気がつかないと本当に病院送りだぜ。よほどのケチな野郎だ」
黒服が困っただけではなかった。ソファー近くにオロオロするはマネージャーである。
トーク番組の収録録画。この休憩が済むやいなや年末に向けての録り溜めが待っている。もしも今日収録できないとなると放映当日になま本番を覚悟しなければならない。マネージャーはそれだけは避けたいと首を強く振る。
芸人はオンエア日に海外バカンスをスケジュールしている。お忍びで番組出演の女性タレントを連れて。日程など変更は考えもしない。
「おい起きろ起きないか。気がつけばか野郎が。たかが請求金額デカイだけで気絶とはな。よほどケツの穴の小ぃせぇ野郎だぜ。うん今反応があったか。気がついたか」
黒服が平手打ちを繰り返した。辛うじて意識は戻ってきたようだ。3人の大男らはホッとする。この芸人から金を耳を揃えて回収せねばならない。取りっぱくれなどあの老人には許されない。
額のタオルが気持ちよく冷やされていく。目はまだまだ虚ろなれど意識だけは戻ってくる。
「ワイどなんしてんねん。うっなんやアンサハン達は」
黒服らはアンサハンと呼ばれて苦笑いをした。暗黒の世界で百戦練磨な屈強な武闘派がアンサハンなどと気の抜けた間抜けな男呼ばわりとは。
「おいきさまっ。意識は確かなのか。俺らの話がわかるか。知らんふりしてんじゃあねぇぞ。そうかソファーに座れ」
サングラスが威圧するも意識がしっかりしないまま。フラフラでありながら横ばいから座る。若干気持ちが悪い。
「おいきさまっ。ご隠居の金はどうするんだ。工面するアテはあるんだろうな。俺らは多少手荒な真似してもきさまから回収していくからな」
金を工面しろ。その昔下住み生活な売れない時代が頭をよぎる。
「金やっ言うても。そないな大金どうなりまっかなりまへんで。ワイがどないやって工面できまっかいな。一生働いても逆立ちしてもできまへん。どないしてそんな大金をワイがお師匠はんに払わなければなりませんの。そりゃあゴシップ揉み消しを頼んだのは間違いおまへん。せやけどアンサハン」
黙って聞いていた黒服が切れた。ダラダラ文句ばかり言うこの正体のない男に嫌気が差す。
「ばか野郎。人が黙って聞いていたらいい気になりやがって。きさまはスキャンダルをご隠居に揉み消ししてもらったんだ。有難いと思え。ご隠居がいなければ今頃きさまはマスコミの玩具だぞ。芸人生命はお仕舞いだ。助けてもらったんだ褒賞金をご隠居に支払いは当然だろ」
褒賞金だろうと表に出せない金だろうと相場というものがある。あまりに法外な金をつきつけられてはいささか気が滅入るところである。
「きさまはこれだけ売れっ子なんだ。2〜3借金を申し込めばなんとかなるだろ。てめぇならなんとかなるぞ」
その金借りの手伝いを黒服は手助けしてやると申し出た。
「手助けいうたかて。そないな大金おいそれと誰が貸してくれまっかいな」
徐々に意識が戻り言葉がしっかりしてくる。
黒服たちは互いに顔を見合わせた。まったく呑気なばか野郎だぜ。こいつ金が期限までにできなければご隠居に抹殺されるかもしれない。本当にわかっているのか。俺ら黒服をなんだと思っていやがる。
「ゴチャゴチャ抜かすなっばか野郎。(ご隠居の)金が回収できないときさまどうなるかわかっているだろうな。早く金集めに走らんかい」
黒服の"どうなるか"の一言に敏感に反応をする。あの芸能界の首領に睨まれて闇に葬られた芸人は数知れず。徐々に恐怖が体を襲い出す。
「おまえ金の工面はどうする。アテはあるのか。所属事務所は大丈夫か」
あかんあかん事務所なんかどない名目で金引っ張り出すんや。ゴシップをお師匠はんに頼んだやて言えまっかいな。
「きさま実家は金持ちか。家屋敷土地担保にして銀行から引っ張りだせや」
残念やなあ。ワイ貧乏な生まれですんや。大阪の父親はとうに亡くなり家というもんおまへんのや。親戚も右に倣えですわ。
黒服は言い逃ればかりを繰り出す男にうんざりする。
「きさま売れっ子芸人のくせに。本当に金がないのか。信じられんな。これだけテレビに出まくりなんだぜ。どこかに隠してやいないか。おとなしく出せや。それとも痛い目見たいのか」
出せ言うたかて…ワイが自由になる銭なんか知れてまんがな。売れっ子言うたかて金は巡りまへんのや。旦那さんはどないな風に思ってまっか知りまへんが所詮は事務所から給料貰うサラリーマンでんねん。なんでしたら給料明細見せまっか。厚生年金天引きされてまっ。せやから無いもんはないんでんがな。
※黒服は国民年金だった。
「ふぅ〜無いもんはないか。だったらきさまが努力して今から金を作れや。銀行襲撃せえや。サラ金行けや。金庫には山と金は唸ってあるぜ」
滅相もないでっせ。銀行やなんてワイは犯罪者になりまんがな。そんな銀行強盗したかて必ず捕まりまんがな。そんげな効率の悪い(銀行強盗いう)商売はワイは性に合ませんで。
「なら好きにせぇ。ご隠居の金はどんなことしても工面しろ。できないならお前が体を張って(保険加入して)金に換われ」
そんなむちゃくちゃなぁ。ワイは死にたくありまへん。旦那はんむちゃくちゃ言ってくれまんなあ。そんなら子供誘拐犯人の方がよろしいでっせ。あれやったらうまく身代金奪い取れまっせ。前にテレビドラマでワイは犯人役したさかいな。台本読みながらワイやったらもう少しうまい強奪できまっせと思いましたわ。ただワイが頭で思っているだけやけど。いやあ嘘でっせ。真面目に額面に受け取らんといてぇな。
黒服は呆れ返る。この男は糠に釘である。飄々とした受け応えしかどうやら示さない。イライラさせるだけだ。
本当にこの場でズドーンと殺ってしまいたかった。埒があかないと諦め横浜のご隠居に電話を入れる。電話口からは怒りを伴う声が伝わる。黒服は焦る。
「もしもしご隠居。この男ダメですよ。いががしましょうか。(保険掛けて)海に沈めましょうか」
横浜の老人は今のところ金の工面がつかないと報告されイラつく。あれだけの売れっ子が金の工面に苦労しニッチもサッチも行かないとは。
この金の亡者到底信じなかった。
「あの男は単にケチだろう。無意味な金はびた一文出したくないだけだ。それなら例の通り"出したくなる"ように仕向けるだけだ」
老人は黒服に命じた。
この際だ手荒なことをしても構わん。金を用意させろ。
老人は低い声で呟く。
どんなことをしても金は手に入れろ。男から金をむしり取らねば今度はこちらが立ち行かなくなる。老人には老人の事情があった。右から入った金は左へ抜けていく必要があった。
黒服は芸人を脅すことにする。人目につくロビーはまずい。大道具の倉庫裏に連れていく。サングラスの大男3人に取り囲まれ万事休す。
「おいきさま俺らをなめんなよ。早急に金作れ。本当に銀行強奪がやれるのか。いや得意は誘拐だったな。俺らが手助けしてやる。どんなことしても構わん。やってくれ」
なっなんやて誘拐やってぇ?そんなアホな。無理でっせ。ワイに犯罪者になれやなんて。冗談はナンボデン言えまっさ。せやけど実行犯にはなれません。諦めておくれや。
ドスの利いた声に脅され命の危険さえ感じた。この窮地を抜け出すには銀行強奪や子供の誘拐をやると黒服に返事しなくてはいけない。黒服は業を煮やし芸人を蹴りあげた。
バシッ
鈍い音響き鳩尾に鈍痛が走る。芸人はゆっくりスローモーションで倒れていく。
黒服に脅されたのはマネージャーも同等である。
「金の工面はマネージャーきさまの仕事だろ。こいつはわがまま勝手な奴だ。金作って持ってこいっと命じられるだろ。お前ならどこかかしこに電話して(金を)引っ張り出せるはずだ。この芸人の名前と社会的名声がある。フルに利用して集めてこい」
マネージャーは震えながら大きな声で答えた。
お言葉ですがそんな大金すぐに用事できません。無理は無理でございます。
頭を床につける。土下座でもなんでもしたらこの窮地を脱せるであろうかと考える。
黒服らは互いに顔を見合わせる。サングラスの下はニヤリと笑いマネージャーの頭を空に蹴りを回す。ビューンと鋭い蹴りであった。
「おいマネージャーよ。"金の成る木"を互いに考えようじゃあないか。まずはコイツの所属事務所だな。どれだけ引っ張り出せるかやってみろや」
黒服は電話を掛けろとマネージャーの顔に押しつけた。
マネージャーも芸人もダメダメと嫌がる。とても事務所に無心できる額ではない。さらには借りる名目が見当たらない。
ウルセッー
黒服は部屋の壁に正拳をガッツーンとめりこませた。
芸人とマネージャーは恐怖から抱きしめ合い悲鳴をあげた。
わっわかった!金は作って差し上げます。やります!やらせてもらいます。どんなことしても金は作って差し上げます。
マネージャーは声を搾り出す。芸人はすでにお釈迦になり気を失う。役に立たなかった。
「そうかいマネージャーさんよ。やっと言うことが通じてくれたな。さすが有能なマネージャーだな。ならなっ俺たちの言う通りに
やってもらうか」
黒服は手間どらせやがったぜと芸人の背中を擦った。ツボをグッと押しつけたら気がついた。
黒服をスタジオに寄越したのは横浜の老人である。港が見渡せる大邸宅。きれいに整えられた日本庭園が自慢だった。その邸宅に孫娘が帰ってくる。
女子大生の孫娘。キャンパスでは清楚なブラウス姿で今どきの娘さんである。異なるのは芸能界に影響のある老人の孫娘であること。学校の送り迎えはお抱え運転手の黒塗りスーパーサルーン。誘拐事件に巻き込まれる可能性がなきにしもあらずで幼稚園からずっと車通学である。
邸宅の門を入るときれいな日本庭園がサルーンから見えた。お手伝いさんがにこやかに孫娘を迎える。いつものようにお嬢さまが可愛く変わらない様子を見て微笑んだ。庭園にポツリと祖父の姿が見えた。
「おじいさま。ただいま帰りました」
孫娘の帰宅する時間に祖父は庭先で趣味の盆栽を手入れ。芸能界引退してやりたかった趣味であった。日本庭園の周りに用心棒の黒服が必ず見張る。が今は見えない。
祖父の姿を見た大邸宅。庭から部屋からキョロキョロとする孫娘。帰ってくるとお手伝いさんや黒服がいつも迎えてくれるのだ。
「(黒服が)いませんね。またおじいさんが(よからぬことを)命じたのね。ヤダヤダ困ったことですわ」
孫娘は祖父のおかげでどれだけいい思いをしたかはかり知れない。自室に入ると簡単に着替えを済ませる。女子大生らしいブラウス軽装から和装になる。
今夜も芸能界からお客様が訪問することになっていた。祖父の命により孫娘はもてなしをしなければならない。もてなしの宴の時まで自由である。インターネット(ブログ)を開示してみる。時計を確かめて自身のサイトを更改する。大学に入ってから自分のサイトを立ち上げ日々開示をしては楽しみにしていた。
偉大な祖父の孫娘である。絶大な宣伝効果を発揮し人気あるブログになっていた。
横浜の邸宅を訪問した芸人は大抵が孫娘ブログの最新ページを飾っていた。
彼女は毎回訪問をしてくる素敵な男性たちは歓迎する。だがネットに存在するマニアにはうんざりである。邪険に扱いをするといかなる報復をされるかわからないネチケット違反な奴ら。
「あらっ私のお部屋に変わったお客様がいらっしゃったわ。うーん困ってしまう。ネチケット守ってくれないと」
ネットマニア=ネチケット欠乏なネクラ。サイトに無関係なコメントをばかすか投稿。
あなたと似ていますよっと星野あみの写真(無断掲載)を貼り付けてきた。コメントには姉妹になりますか。仲良しですか。お父さんはテニスコーチの星野なんですか。あの芸人のおじいちゃんは嘘なんですか。ひょっとして同一人物ですか。
やれやれと孫娘は溜め息をつく。この程度の無謀さは珍しくもないところである。でもなぜこのタイミングでやたら書き込みなんだろうか。
ネットサーフィンを"星野あみ"で検索。理由がわかった。ネット上に近藤とあみのゴシップがヒットした。
近藤を検索したらテニスになっていく。開催中の全日本出場。ATP(世界テニス)の活躍がつぶさにわかる。それはそれで孫娘も知っること。
「あらっどうしてかな。近藤がお笑い芸人の司会者とリンクしている。あっそうか。司会者さんは趣味でテニスやるからね。お子さんもテニススクール通っていらっしゃるなんて言うから」
適当にマウス操作しクリックを繰り返したらあの押しの強い芸人までヒットした。
孫娘は昨夜遇ったばかりの芸人ゆえに興味である。クリックしたら芸人のゴシップ一覧にヒット。大女優の2世息子とテレビのワイドショーを賑わせたことが克明にわかる。
そのゴシップをうまくはぐらし世間の目を誤魔化し難を逃れたこともそれとなく理解する。
「あらっこの手の(芸能人の)ゴシップって。私のおじいさんの得意なマスコミ操作ね。フムフムなんかおじいさんが手を入れた感じだわね。だって昔からこの手で芸能界をのしあがったんですから」
孫娘は芸人の突然な訪問の夜を思い出す。部屋でのんびりしていたら黒服から和服に着替えるように言われた。
お嬢さん。ただ今から大切な芸人を接待致します。大きな商取引が掛かるゆえに粗そうのないように顔を出してください。客人はお笑い芸人です。冠トーク番組の司会者って言えばわかってくれますね。
「今を思えば大きな商取引ってなんだったのかな」
うーんなんだろうかと腕組みをしてみる。詳しい内容は伝えてられていない。祖父に聞けばわかることではあろう。
だが芸能界の黒幕・祖父がペラペラ孫娘にしゃべることはない。それなら用心棒の黒服にそれとなく聞けばわかるかもしれない。
廊下を渡り祖父の部屋の前を通り過ぎる。この瞬間に隠しカメラが稼働である。姿が映り黒服が監視する部屋に赤ランプ点滅をする。
居眠りをしていた用心棒黒服。突然赤ランプ点滅がありギクッとする。
「なんだいまったく。怪しいやつが来たかと思えば孫じゃあないか。あれだけ無意味に(じいさんの)廊下は歩くなっ非常ベルが鳴ると言っておいたのに。まったく学習能力の欠如したバカな娘だぜ。ご隠居がなくなったらどうなるか覚悟しておけ」
黒服は監視カメラを軽く叩き異常事態発生スイッチを切る。どうやら孫娘は疎ましい存在になるようだ。
孫娘はキョロキョロと廊下を渡り隠しカメラの前を堂々と通過する。黒服の詰め所に行きドアをノックする。
「いらっしゃるですか。私です。ちょっとお聞きしたいことがございますわ。おじいさまに内緒にしてね」
黒服はサングラスを掛け直し少し怒り気分を隠してみる。
けっ(バカ娘が)俺に用事なんか。なんだい話って。暇な娘だぜ。また和服かっ。今日は若手漫才師が来客だったな。バカ娘にふさわしい来客だぜ。
孫娘はスタスタと隠れ部屋になる黒服の詰め所に入る。言葉はいつも柔らかな孫娘。言う内容は詰問口調であった。
黒服にはズバズバと聞いた。お笑い芸人をなぜ横浜にまで呼んだのですか。
「お嬢さま。申し訳ございませんがご隠居が何も言わないのに我々(黒服)が内容を話すわけには参りません。それは企業秘密って言うやつでね。いくらお嬢さまの申し出でしても(秘密を)打ち明けることはできません」
黒服はサングラスの奥で孫娘をばかにする。聞いてみてもたいして役に立たない。やんわりと拒絶をした。この娘は適当に扱っておけば大した怪我にはならない。
孫娘は悔しそうな顔をする。知りたいことがわからないとなると。
「気になってしかたありませんわ。夜遅く突然訪問されて。確かあの方は訪問した姿がおかしかったですわ。意味ありげな態度でいたんですもの。テレビのトーク番組の快活な陽気さがなかったですわ。気になって気になって」
引き下がらない娘である。用心棒の黒服なんぞ祖父が金で雇う程度の軽さ。娘の方がこの屋敷内では格は上という自負が見え隠れした。
「時にあなたがたは朝どちらに行かれましたか。おじいさまにどんな命を受けていましたの。皆さんの姿が見えなかったですわ。良からぬ事件を起こしていますの。答えてくださいな」
また始まったな。少しは頭を使えよ。シークレットな存在が俺たち黒服なんだぜ。どこで何をしていようが(孫娘になんか)話すわけないだろう。こいつが孫娘でなければ頭を2〜3発張っ倒してやりたいぜ。いい加減しゃべったらトットと部屋へ帰りな。いつまでもガキのままんだから厄介だ。
黒服は孫娘の衿をヒョイっと持つと廊下につまみ出した。
「あんっいや〜ン。意地悪しないでください。私はただどういうことかそれだけを知りたいだけなの。いや〜ん猫じゃあないんだから」
キャインキャインと孫娘は嫌がりつつ外にポイッ。
つまみ出されたら孫娘っ何を思ったか廊下をスタスタ。隠しカメラの前をおじいさんの部屋に向かう。黒服に嫌がらせを受けたっと苦情を言いつけるようだ。
黒服は慌てた。ご隠居には可愛い孫娘。もしものことがあるかもしれない。あることないこと耳に入れられた日には敵わない。
「わかったわかった。もうお嬢さんには勝てない」
黒服は渋々説明を始めなくてはならなくなった。
全日本テニス大会。男子シングルは全試合を消化し二回戦に移る。
タカオは一回戦が冷や汗であったために猛練習をし二回戦に備える。ショットやサービスの総点検を専属コーチと入念に繰り返した。この男には妥協というものは存在しないようである。
近藤も同じように練習である。星野がコーチをすればよかったが連日テレビ解説のために時間がなかった。
「近藤に申し訳ない。違うコーチに代わってもらう」
近藤の放つ様々なショットを見て臨時コーチは不安を感じつつ引き受ける。
二回戦の相手はタカオも近藤も日本ランカーであった。年齢は近藤より3〜5歳上だったが伸び盛り育ち盛りランキングプレーヤーと言われテニス界は期待である。
世界テニスで転戦をするタカオと近藤。彼らから見たら遠く離れた憧れの存在になる。
「僕らに憧れてくれて光栄だ(笑)だけど二回戦ぐらいで全日本を負けるわけにはいかない。彼らのコメントを読んでいると日本のトップランカーを倒して名を挙げたいらしいな。具体的にタカオの名がちょくちょく出ている。俺を倒して全日本を勝ち世界へ羽ばたきたいとなるか。まあっ簡単に俺を倒すことができるならばやってもらいたい。受けて立つぜこの挑戦」
タカオは自らの士気を高めながら試合に集中をする。
近藤は普段の通りに二回戦を迎える。ATPでの戦い同様平常心でいた。その近藤を巡る環境は動きがあった。
近藤のホテルは星野とあみも投宿をする。ホテルのフロントに上品な和服ご婦人が現れた。
「あのすいません。こちらはテニスの関係の方がお泊まりになられているホテルでしょうか。私は名古屋のテニスクラブ星野の知人でございます」
美しい和服婦人はフロントで芳しき香水を匂わせた。対応したフロントクラークは一瞬ドキッとする。目を疑うような美貌婦人だった。ボォ〜としながら星野の部屋を確認する。フロントデスクから在室の確認が取れる。星野の部屋は在室である。
「少々お待ちください。お部屋にいらっしゃいます。連絡を取ります」
フロントで和服美人がやり取りをする。
フロント電話は星野の部屋へ繋がる。部屋には星野が不在で娘あみがいた。
※あみも近藤も星野に再婚相手がいるとは知らない。
「はい星野です。えっとお客様ですか。申し訳ありません。お父さんはテレビ局で明日の試合の解説打ち合わせです。いつ帰るかはえっとわかりませんわ。お急ぎならばお父さんの携帯で呼びますけど。えっご婦人ですの。うーん私が会いましょうか。今からロビーに行きます」
あみは星野に面会の婦人に会うつもりで部屋から出ていく。
帰り時間はまったくわかりませんと和服美人はフロントマンとあみのやり取りを聞く。あみが降りてくることも聞いた。
「わかりました。私も星野さまの携帯は存じております。こちらからご連絡致します。お手数をおかけ致しました」
フロントに軽くお礼をするとロビーの椅子にいく。優雅な和服をふかふかな椅子に腰掛ける。上品な婦人はロビーのお客たちには華やかな優美な女性に見える。
高級そうなブランドバッグから携帯を取り出した。アドレスを開示して星野の番号を探してみる。
携帯から呼び出し音が聞かれた。そのタイミングにロビーにテニスウェアのお客らがゾロゾロ入ってきた。
和服美人はバチンっと携帯を止めた。喰い入るかのようにテニス関係の一団を見つめた。ゾロゾロと似たようなテニスロゴ入りウェアばかりの一行である。
星野さまはいらっしゃるかしら。あの鬼瓦のような星野さまはどちらかにいらっしゃるかな。
和服美人は目を団栗のようにして探してみる。テニスの集団はロビーの前にたむろする。
一際大きな声が聞こえてくる。お待ちかねの再婚相手星野だった。隣りには練習を終えたばかりの近藤もいた。星野は僅かな時間しか近藤に会えないために、
「近藤は二回戦だったな。ダブルスもありで2試合だな。練習は順調な仕上がりだそうだな。俺が見れなくて残念だがけつまずかないように頼むぜ」
星野は近藤に盛んに声を掛けた。しっかりやれっと元気づけていた。
「さて俺は今からテレビ局の本番だ。近藤済まんがあみと先に夕飯済ませておいてくれ。たぶん深夜までホテルには帰れない。さあみんな解散しようか」
ロビーの団体の塊に星野や近藤もいたしその他全日本出場テニスプレーヤーとコーチがいた。
和服美人はロビーの袖にコッソリと移動をする。
再婚の星野だけに顔を見せておこうかしらと考えて東京に来たのだ。この場面では発作的に隠れてしまう。
(テニスの皆さんが)解散されたら星野さまだけになられますわ。お顔さえ見せてしまいましたら私はご用はございませんわ。
高級ブランドのバッグでさっと顔を隠し下を向いた。
この和服美人が隠れた様子をフロントマンは見逃さない。
あれっ変だぞと察知する。(あの和服美人は)あれだけ星野さまに逢いたいと申していたのに。人違いだったのかな。名前を聞き間違いか。いやいや待て待て冷静にならなければならない。この手のホテルでよくありがちな密会とかいうものであろうか。世に言う人目を忍ぶ日陰の存在(女)なのかも知れない。
フロントは妙な嫌疑を美しい婦人にかけた。その手の商売女であろうと見てしまった。
星野がテニス関係者ひとりひとりと別れ再びホテルからテレビ局関係者と打ち合わせのため出ていく。その後ろをコッソリとつき従うのは和服美人であった。人目を忍ぶという雰囲気が見えた。
星野と美しいご婦人がロビーを離れた後、あみが現れた。少しのタイミングで擦れ違いとなった。
あれっロビーに綺麗な婦人がいるって聞いたのにどこかな。
婦人はホテルの外で星野に声をかけた。
あの星野さん。あんな鬼瓦のような顔をして。(あんな美人と仲良くやって)隅に置けないなあ。ホテルマンはロビーの椅子などを整えつつ感心する。さらにこのホテルマンは口の軽いことで有名だった。瞬く間に従業員の噂として広まっていく。
ホテルを出た直前である。星野が流しのタクシーを拾う寸前。和服美人は声を掛けた。
「星野さま星野さま。お久しぶりでございます。御忙しくしていらっしゃいますわね。私星野さまのお顔が見たくなりまして上京いたしました」
星野がクルリッと振り返る。そこに目の覚めるような美人がいた。まさかそこにこの再婚相手ご婦人が現れるとは。星野ですらも想像しないことであった。
和服婦人は笑顔を見せ頭を深くさげた。この再会のチャンスを失うなら再婚の芽はまずはないっと堅い決意もあった。
傍目に可愛いらしいご婦人。見た目と内心はかなり違っているようである。
星野のトキメキな憧れの再婚相手。上品で淑やかなご婦人の出現に星野は弱ったぞっと腕組みをする。どうしようかと悩むだけである。
プップゥ〜
呼び止めたタクシーが二人の前に止まった。早くテレビ局に行かねばならない星野。和服美人をタクシーに乗せることにする。
ご婦人はハイハイわかりましたと当然のように後部座席に同乗をした。ご婦人は堂々としていたが星野はソワソワしっぱなしであった。
星野の向かったテレビ局は東京のキー局である。お笑い芸人の冠トーク番組はこのキー局で作製をされ放映されていた。
星野はタクシーを飛ばし慌ただしくテレビ局に行く。スポーツ部門のスタッフと打ち合わせは時間が迫る。
「すいません。私はテレビ局でテニス番組の打ち合わせなんです。そうですね数時間の打ち合わせがあります。用事が終わりましたら携帯で御連絡致します。よろしいですか」
星野はタクシーを降りる時に言う。この打ち合わせは長くかかる。
「わかりました。私が勝手に押し掛けてしまいましたから御迷惑を掛けてしまいましたわ。私打ち合わせ終わりを喫茶でお待ち申しあげております。どうぞお気を使わずに」
星野に対し可愛いらしい顔で謝りしおらしい婦人となる。星野はすかさず言葉を続ける。
「いや迷惑ではありません。私もお逢いしたいと思っていたところでした」
逢いたいと思っている!星野は私に逢いたいと今言ってくれた。ご婦人はこの星野の一言が嬉しかった。
嬉しかったのかタクシーから降車をする際に星野を和服で軽く抱きしめる格好をする。綺麗な顔を近づけて頬にチュっとキスをした。
可愛いらしい和服美人であった。キスをされた星野はしばらく放心状態でボォ〜となった。ご婦人の口唇の感触は久しぶりの女を思い出させた。芳しき香水の香りが漂い星野はフラフラとなる。意識がはっきりしない。ポワァ〜ンとした状態で打ち合わせスタジオに向かうことになる。
おっと!右頬には真っ赤なキスマークがくっきりついていた。
和服のご婦人はスタジオをやり過ごし喫茶を探してみる。テレビ局の食堂喫茶店は芸能人タレントも一般人も同じ席だった。
「ふぅ〜少し興奮しちゃったなあ。落ち着いて行きますわ。喫茶で何か取りますわ」
ご婦人はいそいそとラウンジに座った。周りの喫茶店でのお客は一斉に婦人を見た。どちらの芸能人かと間違えられた。
星野のいるテレビ局は東京のキー局となる。バラエティー収録スタジオではお笑い芸人が冠となるトーク番組が制作される局であった。
トーク番組の収録はなかなか進まず座礁に乗り上げの状態である。
お笑い芸人はスタジオに一旦入った。黒服に脅されて心漫ろではある。
「あかんねん黒服のおかげやで。どうしてもお笑いトークに集中ができないねん」
どうしてもスタジオ収録を済ませなければスケジュールに余裕がなくなってしまう。
「あかんあかん。今からこの収録はこなしてしまわんとにっちもさっちも行けへんのや。ワイの悩みやねん。キャンセルなったらとんでもないことになんねん。それは重々わかってんねん。せやけどなあ。ワイが(借金・金策で悩み)あかんねん。笑いのエキスがありまへんねん」
収録に入る前に悩みに悩む。控え室でさんざん黒服から金策に走れ!まとまった金を持ってこいと脅迫をされていた。
黒服が頭に浮かぶと痛くなる。控え室に戻ってマネージャーにマッサージさせて横になりたかった。
「けっあのオッサンらがいるやんか」
サングラスの黒服は話の続きがあると控えに待機していた。芸人はイライラしてマネージャーに八つ当たりを繰り返した。
マネージャーはスタジオ内をキョロキョロ見て歩きその様子を芸人に伝える。
「先生っダメですね。(黒服らは)スタジオから出て行く気配がございません。控えにもロビーにもサングラスはいました。また見つかったら何をされるかわかったもんじゃあないですから見つからないように避難したほうが無難です」
マネージャーに黒服が控えにいると聞き鳥肌が立つ。
「まだおるんかいなっ厄介やで。早よイネぇ〜(帰れ)。いくらワイをユスり倒しても(脅迫しても)なんも出えへんのやぁ」
やれやれと思うと頭が痛くなる。横になって休みたい気持ちになる。
自分のタレント控え室に行けないとなるとがっかりである。行くところがないからと喫茶ラウンジに行くことにする。喫茶はリラックスできることはできるが一般客も多くいた。売れっ子タレントゆえに取り囲まれる可能性が高い。
マネージャーに変装道具を取り寄せサングラスとマフラーを装着した。
「まったくなあ。ワイの庭であるテレビ局でこんげなチンドン屋はんスタイルせなならんとは。まったくもって最悪やで」
お笑い芸人はマネージャーの後ろに隠れながら喫茶ラウンジに入る。座席はなるべく目立たないところでとマネージャーに壁際を選ばせた。
隣りのテーブルとは観賞植物で遮られていて美しい和風のご婦人がいた。静かに会食をしている。お笑い芸人の存在を知ることはなかった。
芸人はラウンジに座るとホッとする。壁により他のお客様と隔たり死角になる。サングラスをはずすと頭が痛いためテーブルクロスにバサッ。うつ伏せになりそのまま寝入ってしまう。マネージャーは風邪をひかないように肩にオーバーコートをかけた。しばらくしてウエイトレスがオーダーを取りに来る。
5分ほど経った。隣りのご婦人のテーブルに来客がある。
「お待たせいたしました。たった今一段落着きました。おっお(ご婦人は)食事中ですか。そうだなあ僕もいただこうかな」
星野は席に着きウエイトレスを呼んだ。差し出された水をグイッと飲む。口がカラカラに渇いていた。和服のご婦人を改めて見てみる。星野にはとても綺麗に美しい女性にしか映らない。まずは再会ができた喜びがふつふつとわき上がる。大して腹は減っていなかったが生姜焼き定食を注文してしまう。
和服美人はゆっくりとナイフ銀器をテーブルに置く。軽くナフキンで口元を拭く。
「星野さま。お忙しい時に申し訳ございません。私が勝手なことをしてしまいました。ごめんなさいねっ我が儘なことをしてしまいました。どうしても星野さまに御逢いしたくなり居ても立っても。あんっいやぁ〜ん。私ってなんて愚かな女なんでしょう。きっと星野さまに嫌われてしまいましたわ。後悔してしまいますわ」
少し頬を赤らめて下を向いた。ご婦人は三十路の妙齢だったが若い娘のように可愛らしい品を見せつけた。恥じらいさを強調し対面をする星野にこれでもかっと見せつけた。見せつけられた星野はたまらない。
生姜焼きをパクつく星野。恋の炎はメラメラとさらに燃え上がることになる。口にしたポークの味覚はまったくわからない。
なんて綺麗な女なんだ。和服はスリムな容姿によく似合っている。見れば見るほど美人も美人じゃあないか。一目惚れをしてしまった女だからな。俺はこの女と再婚がしたい。もう好きで好きでたまらない。幼馴染みの院長からの話だから安心をして進めたい。この女は逃がしてなるものか。
テーブルの前の和服美人を眺めながら星野の脳裏に幸せな新婚生活が思い描かれてしまう。
和服のご婦人は星野の視線を感じ優しく微笑んだ。羊の皮を被った狐はしとやかに可愛いらしく細い手を口にあて笑った。
壁沿い観賞植物越えた隣席に芸人がスヤスヤ眠る。同席するマネージャーは携帯ゲームをカチカチさせ暇潰しをしていた。
隣席のお客の会話にマネージャーはふと気がつく。
うん星野?
携帯から目を隣席に向ける。そこにはお笑い芸人と対立をする鬼瓦の星野がいた。マネージャーは一瞬ギクッとする。
こんなとこで星野に逢うなんて。なんたる偶然なんだ。(ウチの先生が)目を覚ます前に消えてくれないだろうか。わかったらまた一騒動巻き上がるぞ。祈ってしまいたい。
隣席に見慣れた男が目の覚めるような美人と座っていた。少し落ち着き改めて星野を観賞植物越しに見やる。
あの綺麗な女性はなんだろう。鬼瓦と不釣り合いだ。まるで美女と野獣ではないか。年齢が高いからテニスの選手ではないな。うん?テニス選手の保護者かな。
マネージャーはひょっとしてこの美女の子供がジュニア選手ではないか。星野に頼みなんとか息子を全日本Jr.(試合)に出させてもらえないかと体を張って良からぬことを相談していないかと勘繰る。
密談かもしれない。
マネージャーはグッと耳を観賞植物に寄せる。
星野と和服美女は快活に話を進めよく笑う。傍目からは中年過ぎの恋人のようであった。
和服美女の笑い声は大変に上品である。いかにも山の手育ちのご婦人そのものである。
「オホホッ星野さまったら。ダメでございますわ。そんなことを仰って私を夢中にさせなさるなんて。罪作りな殿かたでいらっしゃいますことオホホッ」
和服美女の上品な笑顔は魅力的であった。星野はギュンギュン恋のハートが射ぬかれる。
サウスポー・キューピッドは血気盛んに鬼瓦な星野の男心をバカスカ射ぬく。
星野はついにご婦人に篭落をした。
「こんな私ですが。よろしかったら末永くお願いを」
あちゃあ〜星野は目の前しか見えなくなる。再婚をするには娘のあみも関係するというのに。
和服美女は"娘あみは嫌い!あみがどっかの男に嫁ぎ星野家にはいないこと"を条件に鬼瓦と再婚を承諾している。仲介に入る院長は快諾して話を進めてもいた。
和服のご婦人は一息話が盛り上がるところで話を"再婚"にする。聞いた星野は喜び勇みで再婚話を聞いた。
タイミングを見計らいご婦人は切り出す。
「星野さま。娘さんはいつ頃嫁ぎなさるのでしょうか。いえねっ星野家から遠ざかるということでございます」
ご婦人は言葉の語調を強めた。
「私は(あみの)継母になるつもりありません。かような面倒な思いはしたいとはこれっぽっちも考えておりません」
言葉の節々に(娘あみは)邪魔であり不必要だと繰り返していく。
星野と再婚をして二人の間にだけ子供が欲しいとまで言い切るのだ。
星野はアッと口を開けて動きが止まる。生姜焼きはいつしか単なるクチャクチャする紙切れか腑抜けな食べ物にしか思えなくなった。
星野は綺麗な美女との再婚の夢から現実に戻る。
俺にはかわいい娘が一匹いたんだ。あみを忘れていたぞ。いかんいかんすっかり忘れていた。俺は子供がいたんだ。あみに再婚の承諾を取らないといけないな。
和服美女は勝ち誇り美しい顔をあげた。嬉しくて口に手を当て笑う。まるで美女狐が小賢しい若女狐(娘あみ)に勝利を確信をした笑い。
観賞植物の蔭からマネージャーは盗み聞きをする。アンテナのように立てた耳をさらにピンっ!パラボラアンテナ状態。
なるほどなっわかったぞ。テニスの星野は40越えの男鰥だったのか。娘あみはひとりっ子か。
再婚相手は目の前の和服美人。なんであんな綺麗な女性が星野と。納得できないぞ。(和服美人は)芸能人みたいだな。いやよく見たら僕の知ってる(※)女優かもしれない」
※マネージャーの知る女優とは大部屋女優である。なかなか売れず泣かず飛ばずなタレント群はマネージャーは仕事上から関係があった。売れた女優タレントはお笑い芸人が専門分野となる。
「色白な可愛いらしい横顔しか見えないから。残念ながらはっきりと確認できない。女優かなっ」
マネージャーは益々聞き耳を観賞植物鉢越えに立てた。パラボラアンテナは星野より美しい和服美人にである。
喫茶のラウンジ。様々なスタジオの収録が終わったのかワアッとお客様が増えて来た。みるみるラウンジの空席は埋め尽くす。
喫茶に流れてくるお客の中に黒服と孫娘が現れた。
横浜のご隠居の孫娘は護衛付きであった。孫娘も清楚な和服でありともすると和服美人とは親娘かと思われるような調和を披露していく。孫娘も可愛いらしく喫茶ラウンジのお客の目を充分に魅いていた。ラウンジには女優やタレントさんもパラパラっといたが和服美人にも孫娘にも比ではなかった。
「まったくもって嫌ですわ。おじいさまの命令だったから来ただけですわ。こんなにも大勢の観客がいらっしゃるスタジオに連れて来るなんて。まったくおじいさまは意地悪なんですから。おじいちゃんのバカ」
孫娘は黒服に悪態をつく。愚痴を溢されてたまらない黒服である。サングラスを掛けているから顔はよくわからないが"孫娘の我が儘さ"にはしみじみとうんざりである。
「お嬢様。私ちょっと失礼してよろしいでしょうか。ご隠居の命令で同僚がねこちらのスタジオに来ております。なかなか帰宅しないため様子を見て来たいです」
孫娘はラウンジテーブルの上メニューだけを眺めた。
どうぞ好きなとこに勝手に行ってくださいな。私なら構いません。(異様な黒服の姿を)消してもらえるとスゥ〜スゥしますわ。皮肉をつけるケンのある言葉をつけた。
黒服はサングラスの中で孫娘を冷ややかに見て退座した。孫娘は黒服に目もくれずフルーツサンデーと紅茶を注文した。ハンドバックから携帯を取りだし暇潰しをする。完全無視である。
喫茶ラウンジのお笑い芸人。うとうとしたうつ伏せ眠りから目覚めていた。マネージャーがやたら隣り席を気にする素振りに目を覚ましていた。
…なんや隣り席は。ダミ声の主はテニスの星野やんか。あのオッサンにワイがいることわかるとオオッオゾイ(怖い)でぇ〜。また面倒な話だぜ。ここはしばらく死んだふり(狸寝入り)しておかんと窮地になるで。
芸人はわざと寝返りをうちチラッと星野を見てみる。この寝返りにマネージャーはハッと気がつく。
「うん。先生は起きていらっしゃるな」
せやけど…。あの女の声が気になってしまうがな。やけに上品な笑い方しているで。話の流れうまいさかい関西やろかっ。うーん京都やろか。芸人はもう少し顔をあげて声のする女の方を見た。
片目をパッチリ…。
寝惚け眼はしっかりと和服な美人を捉えた。
なっなんや。えろぅ〜可愛いらしい女やんか。歳の頃はワイとさほど変わらんやろうな。美人や別嬪さんやなあ。いかんいかんでやあ。あんげな女に惚れてはいかんで。なんせムナクソ悪いオッサン星野の客や。どんな付き合いの女かわからんやさかい。
テーブルにうつ伏せのまま芸人も聞き耳を立てた。この男は人の観察には聡い面がある。目覚めてからの星野と和服美女の話の内容で大まかなアウトラインは把握する。薄々は星野の再婚であることは想像に難くない。
そうかっ星野のオッサンは独り身やったんか。となると娘あみは片親で育てられたんやな。あの天真爛漫な笑顔には片親の暗い影はあらしませんで。よほどしっかりした家庭環境やろうな。まあ星野そのもんがボンボン育ちなんやろ。あんなでこう(大きな)テニスクラブの取締役やしな。金には不自由してへんわけや。同い片親のワイの家庭環境よりは裕福かもしんわなっ。
うつ伏せながらあみを褒めていた。
せやが…なんたる女っやねん…こいつ。かなりキツいことを勝手にほざいていやがんな。なんやなんやて。あみは娘と認めたくないとホザいてまっせ。身勝手な女なやあ。オマハン(和服美女)は星野と再婚したら娘あみはオマケにチョコンとついてまんがなっ。なんやろうかっ。オマケはいらんさかいどこぞに捨てたりいなっと言うてんねんのやな。けっあみが可哀想やねん。あんな程度の跳ねっ返り娘やけどな。(あみを抱いたホテルの夜を思い出した)
お笑い芸人寝たふりしてあれこれ考えていたらすっかり目覚めてしまう。のっそりと頭をあげてみる。テーブル前にはマネージャーがいた。耳を立てて盗み聞きに夢中である。
「おいっ何しているねん」
マネージャーにいつもの癖で怒鳴り出す。
シィ!と諭される。
(小声で)先生静かにしてください。テニスの星野が揉めています。先生黙ってください。今どうなるか楽しみですから。
マネージャーは強気であった。普段絶対服従な男が逆らった。
「ケッ他人の話を盗み聞きして何が面白ろいねん。エエわっ。ワイは邪魔くさいからどくさかい」
お笑い芸人は星野に気がつかれないようにこっそりと席を立つ。
後はマネージャー勝手にしてくれ。好きにしろっと捨て台詞を吐くと抜き足差し足でテーブルを離れる。変装用サングラスを確認し伏し目がちに出ていく。
芸人はスゥーと喫茶ラウンジのカウンターに向かう。途中のテーブルには横浜の孫娘がいた。
孫娘はフルーツサンデを注文し美味しい美味しいと頬ばっていた。その姿は"星野あみ"そっくりだった。
お笑い芸人はサングラス越しにテーブルと通路をするりっと抜ける。横浜の孫娘のテーブルを何気なく見てしまう。
ギクッ!なんだ誰かどこぞで見た娘がいる。和服の誰かだ。誰だったか。記憶の欠片を糸をつむぐように探る。
はたっと気がつく。お笑い芸人はそのまま通り過ぎることができなかった。
あれはあみか。それとも横浜の大御所の孫娘かっ。
チラッチラッとその娘の横に視線をやる。サングラス越しに見たら少し輪郭が分かりにくい。その場でサングラスはずしてみたいが出来ない。喫茶ラウンジにはいくらでも熱烈なファンはいる。
どうするかっと立ち往生してしまう。すると背後に人の視線を孫娘は感じクルッと振り向いた。
「あらっ司会者の」
孫娘はお笑い芸人ににっこり微笑んだ。気がつかれドキドキである。
やっ娘は横浜の孫娘やったかいな。和服やさかい孫娘やなっ。あみやったらワイの顔見てヒキツケ起こすかっ嫌がり逃げるやろっ。
芸人は気を落ちつけて孫娘のテーブルに腰掛ける。用心のためにサングラスはそのままである。
「大御所のお嬢はんでしたか。チラッと見てそやないかって思いましてん。先日の夜は遅く失礼いたしました。大変な"世話"をおじいさんにかけてしまいましたわ」
お笑い芸人は孫娘に挨拶しながらハッと気がつく。
この孫娘に頼みこんだらどないかなるんやないか。孫娘になんたらしてもろってじいさんからの莫大な請求金額を少しでも安くしてもろたろっ。あのエゲツナじいさんかて孫娘に頼まれたら安くしてやる。嫌っなんて言わんやろ。
しめたっラッキー。こいつは使えるぞとしたり顔をする。つい嬉しくてサングラスをはずした。素顔を公衆の面前で晒す。
ここは喫茶ラウンジである。
いくらテレビ局内だと言っても不特定多数の客が入り乱れている。忽ち2〜3人の女性ファンに気づかれてしまう。彼女らは互いに何やら話始め携帯写真を撮る。望遠写真は芸人と孫娘をさも恋人のようにバシャと撮影した。当代随一な人気芸人である。撮影された写真は瞬く間にインターネットに公開されていく。
芸人は孫娘に金の工面を相談したい。大御所からの多大な借金は孫娘の助言でもしかして勘弁してもらえるかもしれない。淡い期待を寄せた。
孫娘は孫娘で聞きたいことがある。なぜ芸人はあの夜こっそり祖父に密会をしたのか。真実が聞きたい。これは渡りに舟と身を乗り出した。
「私もお聞きしたいことありましてよ」
孫娘は目をギラギラさせた。互いに聞きたいこと相談したいことを問いただすチャンスが巡ってきたようだ。
喫茶ラウンジのテーブルは秘密と密談で花盛りとなっていく。
こちらはホテルのロビーである。部屋にいたあみはフロントからの電話を受ける。来客の知らせに下に降りていく。
「和服姿のご婦人がいらっしゃる。お父さんに面会だなんて。いったいどなたかな。和服ってまさかお祖母ちゃんが東京に突然出て来たりしてね」
誰か見当のつかないためミステリアスとなる。
フロントに出向くと和服の来客はいないと言われてしまう。
「あちゃあ〜誰だったのかな。早くいなくなっちゃった。得体の知れない謎な女だわ。ひょっとしてお父さんの新しい愛人さんだったりしてエヘヘ」
あみはロビーでなんだろうかと考えた。その時に近藤からの携帯が鳴った。
「あみどこにいるんだ。今練習終わってホテルに帰ったんだ。夕飯は星野コーチ食べないってさ。さっき別れたとこなんだけどね。テレビの解説が忙しくなって夕飯どころかホテルにもなかなか帰れないらしい。うん?わけのわからない女(和服婦人)が星野コーチに現れた。なんだいそれっ」
あみは携帯を切ると走って近藤の部屋に向かった。
お笑い芸人は頭をペコペコさせながら孫娘に頼み込む。
「お孫さんお頼み申しますわあ〜どないもこないもアンサはんのおじいちゃん殺生でっせ。いくらマスコミの口止め料や言うて。あんげな法外な金額をワイに請求してからに。なあなあっ助けておくれやす。頼んます」
芸人は若い孫娘を盛んに拝み倒す。端から見られたらどんな風かなどお構いなしに手を合わせた。
頼まれた孫は困惑しきりである。いくら当代売れっ子の芸人の頼みだとしても無理なことは無理である。
「へぇっおじいさまからそんなことを(法外な請求)。でもせっかくでございますが私は単に孫だということでございますから。どうにも対処できませんことです。ごめんなさいお役に立てずでございます」
孫娘はさんざんに大御所(祖父)の悪口をこのような若手芸人風情に聞かされ内心はムクレていた。目の前に食べ掛けフルーツサンデ。大好物ゆえに最後まで平らげたかった。
「あのぅすいません。私急ぎますからこれで失礼致します」
食べ残しを見てからナプキンを取りはずし席をスクッと立ち上がる。お笑い芸人はちょっと待ってくれっと食い下がる。次の瞬間である。
無意識に孫娘の白い着物に手を掛けてしまう。退座を止めてまだまだ話を続ける算段であったのだ。
襟袖を掴まれ孫もカッとなる。内心が怒りであり腹の虫は燃えあがる。
「なっ何をなさるんですか。私に手をかけて。人を呼びますよ」
孫娘はキョロキョロとラウンジを見渡した。和服姿が立ち上がると一際目立つ。戸口に潜んでいた用心棒・サングラスの黒服は懐から"拳銃"を抜き出す。喫茶ラウンジのお客に拳銃が見られたとしても構わない。
お笑い芸人の背後に忍者のごとく駆け寄った。素早い見事な動きであった。銃口は的確に背骨の一番敏感な部分にあてられた。
黒服はドスの効いた低い声で芸人を威嚇した。
「旦那さん。お嬢さまに何をなさるんですか。貴様ふざけんなボケッ!ご苦労だがなっそのまま振り向かずに歩き出せや!妙な真似しやがったら遠慮なくぶっぱなすぜ」
カチン。リボルバーの安全装置の離脱する金属音が耳に響いた。
お笑い芸人は涙が溢れ落ちた。
「なっ何もしまへんがな。言う通りにしますがな」
黒服とお笑い芸人はラウンジを出て行く。その背後から若い和服姿の女の子が続いた。威風堂々としスリムな容姿で背筋をピンッと伸ばしその筋の姐さんそのものであった。
黒服はこの芸人のスタジオ控え室に連れていく。
「なっなんだい(拳銃なんぞ)物騒なモノちらつかせて」
控えで待機していた黒服(別人)はびっくりして芸人らを見た。
黒服は銃の尻で芸人の肩をドンっと衝く。嚇しのつもりで衝撃そのものはない。拳銃でガツッンとやられたのだ芸人は生きた心地がまったくしなかった。
すっすんまへん!許しておくんなさい。すんまへんもうしません。
普段横柄な態度しか見せないお笑い芸人。すっかり降参をして床に手をついて誤った。
黒服はどうしますかと孫娘を見た。娘は着物の袖を汚ならしそうに睨んだ。
「このオッサンが触ったのよ。すっかり汚れてしまったわ。この男の汚ない手で触ったんだから。どうしてくれるの。まさかクリーニング代でおしまいにする気じゃあないでしょうね。この着物はね黄八丈の特注よ。100万はくだらないわ」
嫌味にも汚れたと態度で示した。芸人は謝りながらまた金が要るんかいとうんざりとした。
黒服にまたしめつけられる。頭をコツかれ腹に蹴りを入れられた。
「オッチャンそのおじいさまの金。どうやって工面するつもり。私に支払いなし(チャラ)にしてなどと寝言ほざいていたくらいだわ。まったく金策のあてがないみたいね。仕方ないから生命保険掛けて海ドボンさんかなアッハハ」
黒服も同意してニヤニヤ笑う。本当に保険金殺人をこのままやりそうである。
孫娘はキリッと強気な顔を示した。脅されている金額に覚えがあったのだ。
「オッチャン。ちょっといいこと教えてやろか。最高の入れ知恵をあなたにしてあげますわ」
孫娘はゆっくりとした口調で芸人に伝えてた。周りにいた黒服らもオッ!と頷く。
このバカ娘にしては久しぶりのヒットじゃあないか。なるほどそれで金策は工面できる。横浜のご隠居もお怒りは鎮まるであろう。
近藤が出場している全日本テニス選手権。男子シングル優勝賞金。芸人が請求されている金額と同じであった。
「あん!(全日本の)賞金をぶん取るやなんて。すいませんどないなことをしてワイが賞金を手にしますんや。あれはテニスプレーヤーの賞金や」スタジオ控えにいた孫娘はニヤリと笑いバカにして芸人を見下した。
「あなたは売れっ子お笑いかもしれないわ。でもね私の言いなりにならなくてはならないわ」
孫娘は和装の草履で軽く芸人の頭をこついた。
隣りにいる黒服にヒソヒソと話し掛けた。サングラス黒服はそういう理屈になるのかと頷く。
「お嬢っあんたもご隠居と同じ悪な血が流れているぜアッハハ」
頭を蹴られひれ伏すお笑い芸人。なんやろうかとガンガン痛い頭で考えていた。
ワイはどないなるねん。着物の黄八丈の弁償代金も出せんちゅうに。
黒服が立てよっと命令をした。さらにマネージャーを控えに呼ぶようにと言う。
「お前だけじゃあ心もとないからな。早くマネージャー呼べ。今から俺らがきさまの"借金返済方法"を伝授してやる。おい喜べ。(横浜の大御所の)納金はサラッとチャラにしてやるぜアッハハ」
マネージャーに携帯を掛けると黒服が寄越せっと端末を奪い取る。
「マネージャーか。お前ラウンジにいるんだろ。早く控えに来い。大事な先生さまがお待ちかねだぜ」
黒服は拳銃を持ったまま大笑いをした。安全装置ははずれたままであった。
あみと近藤はホテルにいた。あみはロビーで近藤を待ち合わせである。
夜は父親の星野がホテルで夕食を取らないという。ならば二人だけの時間だなっと近藤はあみを誘い出した。
「あみ六本木に行こうか。テニスのスポンサーさんが夕食に招待してくれたんだ。いやお前はお子ちゃまだから浅草の花屋敷がいいかな。似合うからなアッハハ」
ふたりは仲良く手を繋ぎ夜の六本木に出掛けた。
近藤は全日本の開催中なれどテニスばかりの毎日に嫌気である。ここらでひとつ息抜きがしたかった。
「わあっお兄ちゃんとデートだもん最高だわ。でもなんであみは花屋敷なの?お子ちゃま!プィ〜だ。お兄ちゃん意地悪さんなんだもん。アダルトなあみさんをからかってはいけないんだぞ。でも六本木行きたいなあ。思い切ってお兄ちゃんと遊びたいなあ。嬉しいなあもう嬉しいでございます。あみは大変幸せでございます」
近藤とあみはタクシーに乗り込む。あみは近藤と出かけることが嬉しくてたまらない。
車内では近藤がグイッと肩を抱き寄せた。あみはイヤンと小さく声を出したが借りてきた猫のように小さくなった。力強い近藤の腕の中でポッと赤ら顔になりそれはそれは幸せな女の子だった。
近藤らはホテルのロビーで待ち合わせをしていたがその時ロビーの一角でとある怪しき男に目撃をされていた。男はサングラスをかけた用心棒の黒服であった。
「なぜこんなところに(横浜の)孫娘がウロチョロしていやがるんだ。いつの間にスタジオを抜け出したんだ。バカ娘のくせにすばしっこいバイタだぜ。しかし確かスタジオでは和服だ。あの娘は和服が好きだからな。いまは(女子大生の洋装)違うな。なんだろうか」
黒服ははてはてと疑問を感じ携帯を取り出す。仲間の用心棒に確認しようとする。携帯が鳴り始めるやいなやロビーに待ち合わせした近藤が現れた。
「うんなんだ。あのバカ娘には男がいるじゃあないか。ひょっとして他人なのか。似た女なのか。そうかお嬢じゃあないのか。それにしても似ているぜ」
黒服はタクシーアウトするところまで孫娘そっくりな娘"あみ"を見届けた。
タクシーが出てしまうと改めて腕組みをする。他人のそら似という話なのか。本当は孫娘だったのかもしれない。うーん真相はどっちだ。悩み出してしまう。
「そうか確認してやればいいか」
再び携帯を懐から取り出す。同僚に連絡がつく。電話はハイハイわかったと孫娘に代わった。黒服がわけのわからないことを口走ったからだ。
「あなた何を言っているの。私がホテルのロビーにいたって何?タクシーで男と出かける?なんですのわけがもう(わからない)」
孫娘は怒る。子分の黒服にサッさとこちらに来るようにとキツく命令をした。
孫娘はさらに怒りをぶちまけた。
「この男から早く金を巻き上げなっ。やり方は(黒服の)あなた方のお得意なもんでしょ。おじいさんに雇わられているんだからそれくらい簡単ってわけよ」
黒服らはニヤリと含み笑いをする。
このバカ娘。俺たちを嘗めてやがるぜ。俺らの得意なことだと。睨みをきかす孫娘から(お笑い芸人を)どうにかしろっと詰め寄られた黒服。サングラス越しにニヤリである。
武闘派の黒服らは横浜の大御所に用心棒として雇われた自負がある。手のつけられないチンピラとして鳴らした昔は喧嘩に明け暮れていた猛者ばかりである。そんな荒くれ男たちの中から戦闘能力(空手・拳法)の高さでスカウトをされていた。
さらに自慢は単に手を出す喧嘩だけではなく盥知である。(浅はかな知恵)
ある黒服は街を占拠するヨタ者を手下にして悪の限りを尽くす。かつあげ・窃盗・強奪。警察のお世話になるのは下っ端のヨタばかり。親方にフンゾリかえる黒服は安全地帯の蚊帳の外に早逃げしており逮捕補導には至らない。
「お嬢の頼みならば致し方ないだろう。充分にこいつをいたぶってやろうじゃあないか」
黒服は孫娘を箱入りのお嬢・家柄が良いだけのバカ娘だと見下していた。どうせなら孫娘も一緒に痛めつけてやりたかった。
「私ら黒服にこの岾仕切らせてくれますか。それは有難いですな。さすがはご隠居のお嬢のことはある。ならばさっそく我々で手を打とうじゃあないか」
サングラス越しに控えのソファーの前にひれ伏し涙を流すショボクレ芸人をマジマジと眺めた。
こいつはダメだ。いくら殴っても蹴っても"金の成る木"になりはしない。言わば賞味期限切れな奴ってわけだ。哀れな男だぜ。
うなだれた芸人をマネージャーが気遣い近くにある毛布を掛けた。
だが考えようによってはそれ相当な利用価値があるぜ。この口八丁手八丁な野郎はよ。口の達者な奴は馬鹿丸出しと言うわけさ。
チャランポランな性格は充分に(悪に)利用できる。貴重な事件の犯人役に抜擢できるキャラクターになるぜ。場数を踏み岾を越えた経験の俺さまに間違いはないさ。
黒服は銃口を芸人からようやく離した。掛けた毛布越しにやさしく肩をポンっと叩いた。芸人は怯え震えるだけである。
「オッサン。どうやらあんたの出番が回ってきたようだぜ。よかったなあお嬢に認められてよ。(保険掛けて)海にドボンは免れたんだぜ。悪運があるというか間抜けと言うか」
ニコリともせずに芸人に吐き棄てる。隣りに座るマネージャーにも冷ややかな視線を投げつけた。
控えにいる黒服は仲間に連絡を取り綿密な※奸知・姦智を練る。
芸人に冗談半分で仄めかしていた銀行強盗にするか。そこらの金持ちの子供誘拐にするか。
※奸知・姦智…良からぬ考え。悪智恵。
裏の組織の黒服たち。互いに悪の知識を寄せ集めた。本業発揮となる。
・お笑い芸人にこれから起こる犯罪の犯人になってもらう。
・大御所への納金額は(全日本テニスの)優勝賞金でチャラ(同額)。てっとり早いはこの賞金を強奪してしまえ。
控えであれこれしているとホテルにいた黒服が入ってきた。これから黒服らの鳩首会議の始まりである。
「おい驚くなよ。実はなホテルのロビーで」
入ってきた黒服は孫娘そっくりな女を見たことを話した。
孫娘はふぅーんと無関心を装おうが。
「私にそっくりな女っ。また現れたのかしら。やだなあ私って万人向けの顔しているのかな」
話した黒服の様子からどうやらそっくりな娘は"星野あみ"ではないかとわかった。ホテルにはテニス関係者が泊まる。
「えっ星野あみ。誰だろうか」
その場にいたマネージャー。職務に忠実な性格だったらしくご丁寧に黒服に教えたくなる。
「あのぅ〜こちらを御覧ください。このサイトに星野あみは写真がございますから」
手際よくインターネットに写真を掲示する。あみと近藤の画像があった。仲良くペアで写し出されてきた。
おっ!こいつだ。この女だった。お嬢に間違いないと何度も思ったんだぜ。似てるなあ。それとこのにやけた男。何やるやつだ。女と連れ立ってタクシーに乗り込みやがったんだ。どうみてもただならぬ仲だったぜ。
鳩首会議が俄に喧しくなった瞬間である。
孫娘は改めてあみの画像を眺めた。自分そっくりな女だ。確かに髪を結いアップにすれば私だと間違いもわかる気がする。
次に近藤を見る。孫娘はテニスをやってはいたが近藤にはさほど興味はなかった。今どきの女の子であるから"世界テニス"で活躍をしない日本選手は眼中にはない。
「この近藤って人気ある選手なんだってね。インターネットでちょくちょく騒がれているもの」芸人を"犯人"に仕立ての金稼ぎは黒服の長けた奸知となりえるか。
「おいこういうのはどうだ」(銀行強盗の示唆)
黒服が素顔そのままに銀行に押し入る。金を出せっと行員を脅すと同時にお笑い芸人を登場させる。これはドッキリ番組だからと断りを入れさせる。が現金はいただきトンズラする。後から芸人は警察から叱られるが"盗んだ金は芸人"がぼちぼち返済する。
黒服がかつて実行した都市銀行強奪の自慢を始めた(未遂事件)。岾としてはドラマチックではあるが現実味に欠けるキライがありありであった。
「芸人をクイズ番組に出演させて賞金を騙し取るのはどうだ」(正解をあらかじめ教える)
黒服の話を聞き孫娘は駄目駄目っと茶目っ気たっぷり。
「そんなお伽噺ばかり並べても。もっと現実味のある(奸知を)言いなさいよ」
ワルの集団も芸能界黒幕の孫娘には形無しであった。
「ねぇさっきさ。ホテルで私にそっくりさん(星野あみ)のこと言ったわね。近藤と仲良くタクシーに乗っていた奴なんだけど」
孫娘は目をギラギラさせた。
自分とあみ。この偶然の相似そっくりさんをなんとか利用できないかと黒服に智恵を出せと促した。
六本木に夜が訪れる。ネオンサインがきらびやかに光輝き若者たちの賑やかな街と言う顔を見せていく。
「あみ今から行くのは僕のスポンサーが契約をしているスポーツバーなんだ。ちょっとあみに言いにくいけど」
タクシーの中で近藤は申し訳ないようにあみにまずは断る。
スポーツバーにはプロテニスプレーヤー近藤として行く。スポンサーからは握手サイン会を予定しているため近藤だけ舞台が用意をされている。あみは彼女だからいては困ってしまう。
えっ!
近藤に邪魔だからと言われたあみ。にこやかな笑顔がみるみるうちに泣き虫さんになってしまう。
「あみはお兄ちゃんと一緒にいたいのよ。そんなぁ〜」
近藤はちょっとの間だけあみが我慢してくれたらそれでよいからと諭す。サイン会は時間限定になっている。これもプロとしての営業だからっと。
近藤の手をしっかりと握りしめ離したくない女の子あみ。近藤の厚い胸板に顔を埋めて離れたくない女の子あみ。しかし泣ける。
わぁ〜ん!嫌だあ嫌々っ離れたくないもん。
あみが近藤に甘ったるい声を出しているうちにタクシーはスポーツバーの前に到着をする。
「あっすいません。タクシーは裏口に着けてくれますか。表はファンの皆さんがいるから降りれませんから」
裏口からバーに入る。近藤はあみを一生懸命に説得する。
「あみ。お利口さんだからわかってくれ。僕はプロなんだ。ファンの方々に応援してもらって今がある。決しておろそかにはできないんだよ。だがあみが邪魔だとは言ってはいないよ。僕はあみが好きだからね。ねっ小1時間ぐらい。僕がサイン会している間だけいい子にしていてくれ。ねっあみちゃん」
あみは半泣きメソメソさん。幼児時代から知るあみはたいして成長はしていないなっと近藤は思った。
「本当。ちょっと我慢すればお兄ちゃんはあみに戻ってくるの。うんわかったわ。あみは我慢します。あみは大人だもん。お兄ちゃん大好きだもん。だからあみは嫌われたくないもん」
かろうじて涙だけは止まる。説得する近藤はホッとした。
近藤はバーの裏口から入ってスポンサーに挨拶をする。あみは一般の客としてバーに入る。スポンサーには近藤の知り合いであると伝えてあった。
スポーツバーは様々な分野のアスリートが招待をされていた。舞台にはテニス・サッカー・野球・バスケットの選手がずらりと並んだ。
近藤もテレビで見るアスリートを間近に見て興奮をしてしまう。
「野球選手は中日の2軍・堂上じゃあないか。僕はファンだからサインもらいたいな」
スポンサーの社長はバーを盛り上げるために様々な選手に声を掛けていた。アスリートらをちょくちょく店に招待する。スポンサー契約を取りつけお客様拡張をはかっていた。
舞台の上の各々のアスリート。簡単に紹介がなされすぐにサイン握手会になった。バーに訪れた若いお客はワアッと舞台に押し寄せご贔屓の選手に飛びついた。
テニスの近藤は忙しくサインに応じた。若い女の子ばかりが群がる。
バーの特別席にはあみがチョコン。つまらなさそうに座りオレンジジュースをストローでチューチューと吸う。上目使いの先には若い女の子に囲まれる近藤があった。サインと握手を求められて忙しい。
「もういや〜ん。私はお兄ちゃんの奥さんですからね。皆さん知らないでしょうけどね。あみの"旦那さま"に近寄らないでくださいな。イーダァ」
ぶつぶつ独り言を繰り返した。特にスカートの短い女子高生が団体さんで舞台にあがるとあみはハンカチをグイッグイッと握りしめた。
「お兄ちゃんミニスカ好きだもんなあ」
あみも目の覚めるようなミニスカはいて近藤の前に現れようかなっと考えた。
悔しいなあつまらないなあっのあみ。独りポツンのテーブルに来客が来た。
「あのぅ近藤さま。失礼致します。こちらは同じ名古屋から来られましたお客様でございます。相席をお願い致します」
ストローをくわえあみがチョロと横を見た。
「初めまして。近藤さんですね。私も名古屋から来ました」
可愛らしい女の子がそこにいた。
スポーツバーは盛り上げる。音楽がガンガンに流れお客はノリノリに踊り酔いしれた。
舞台上のアスリートたちはサイン攻めからそろそろ解放をされ思い思いのテーブルにつく。
近藤はあみのいるテーブルに向かう。
「ちょっとした時間だったけどな。あみは怒っているかな。さて約束時間(拘束)は後少しだ。お役御免となればさっそくに六本木の街に繰り出して行こう。腹も空いた。あみの好きなインド料理に行きたいな」
あみが座るテーブルに近藤は向かう。機嫌は直っていてくれないかな。
あらっ見掛けない女の子がいる。親しげにしゃべっているぞ。見掛けない子だなあ。このバーで知り合いになったのかな。
近藤がテーブルに行くと女の子はサッと立ち上がり礼儀正しく挨拶をする。
近藤は自分のファンなのかっと思った。あみは近藤にそっと耳打ちをした。
「中日の堂上くんの彼女だよ」
スタジオの控え室。黒服は鳩首会議を終え奸知を得た。
「よし決まった。お嬢の協力も得てやってやろうぜ」
"すべて"は決まったようだ。長く監禁された芸人とマネージャーは解放され漸くスタジオに戻っていく。元気はないのは相変わらずであった。
「やれやれやなっ。まったくとんだ目に遭ったもんや。せやけど(黒服の奸知は)うまく行くもんやろか。ワイは正直言って洞が峠を決めこむばかりやさかい楽と言えば楽やけどな」
黒服の監禁から解き放たれ徐々に平常心を保つにいたる。
黒服らは忙しく動き始めた。ひとりひとりが役割を決めて散らばっていく。孫娘も同様でキリッとした。
「私も黒服に一役買うのね。面白いことになりそうだわ」
和服に似合うバッグから携帯を取り出した。あみの写真画像を呼び込み改めて確認をする。よくよく"自分のそっくりさん"を眺める。しっかりと子細なところまで観察をした。
この女の子にうまくなればよいのですね。
携帯を穴の開くまで眺めたらパチンと閉じた。足早にテレビ局を後にするためタクシーに乗り込んだ。
明日からは忙しくなるわ。しっかり"星野あみ"にならなくちゃあいけないからね。
全日本テニス選手権は有明コロシアム二回戦開催となる。当日晴天に恵まれた。全日本の観客はポカポカ陽気に誘われ出足は好調だった。会場前のコンビニは長い列が出来ていた。
有明コロシアムのセンターコート。本日の試合(3日目)は楽しみな対戦が目白押しである。男女シングルに女子ダブルス。
男子シングルは近藤にタカオが揃って登場をする。ダンロップ契約の大物ルーキー(高校チャンピオン)や昨年と一昨年の優勝者に準優勝者も対戦が組まれ星の潰し合いが行われる。
女子シングルは鳴り物入りの女子高生である。全日本の直前にはなんと世界Jr.に優勝。テニスファンには期待の新人となった。
近藤の本日の試合はシングルとダブルスである。ダブルスはキャンセルをしたいくらいであったがスポンサーからの要請で渋々エントリー(1番シード)だった。
朝の近藤はあみのモーニングコールで1日が始まる。「お兄ちゃんおはよっ。昨夜は楽しかったわね。また六本木のカレー屋さん行きたいなあ」
近藤は叩き起こされバイキング朝食を摂る。あみは朝からいたって上機嫌さん。なんせ連れていったインド屋で激辛カレーをハヒハヒしながら平らげていた。これには近藤もあんぐり口を開けるばかりの食欲。
ホテルのラウンジバイキングは近藤をテーブルにちゃんちゃんと座らせる。近藤に好きな皿を取らせないのがあみの流儀。近藤の食生活はあみがすべて取り仕切ります。
ふぅ〜
ホテルから有明コロシアムまでふたりはタクシーに乗る。あみは近藤のツアーバッグからテニスウェアとすべて整えたか改めて確認。
「お兄ちゃん試合のドリンク冷たいのは控えてくださいね。朝から有明は冷えますから。ホットなココアをボトルしておきますわ。朝のコーヒーは脳を活性化させてくれますけどココアは気持ちが和らぐの。エヘヘ私みたいね」
世話女房あみ面目躍如である。
有明コロシアム。近藤は第2試合からである。練習コートで軽く汗を流し最後の調整に集中する。
コートサイドにはあみが陣取り盛んに近藤の動きをチェックする。サービス・ストローク・ボレー。いつもの近藤であるとわかると姿を消す。同じクラブの対戦相手コートにサッサッと偵察である。"くの一"あみちゃん大忙し。
「この人と二回戦なのね。あらっコーチに叱られながら練習しているわ。可哀想だなあ。もっと腰入れてスイングしてくれないといけません」
トレーニングコーチはあわよくば世界の近藤に勝てるのではと檄を飛ばす。選手は調整遅れが如実である。
「あまり(コーチは)苛めてはいけません。選手は一生懸命にやっていますのよ。あらあらきつく叱るから泣き出しちゃった」
あみは近藤の試合が近くなると準備に追われた。有明の天候をみてドリンクの中身を考える。さして汗にならなくとも近藤はドリンクを飲む癖がある。イヤが応でも真剣になる。
近藤はコートに立つ。ダンロップツアーバッグをしっかり抱え込み前をしっかり見据えてセンターコートに現れた。有明コロシアムは歓声に包まれる。
あみは近藤のプレーヤーズベンチ真後ろに陣取る。いつものふたりがいつものようにコートにあった。あみお得意のピンクテニスウェア。ちょこんと可愛らしく観客席に座る。
さあっ試合は始まった。
近藤の唸るサーブで幕は切って落とされた。これぞ全日本いやATP世界のテニスプレーヤーだという素晴らしいサーブであった。サーブが調子良ければストロークも安定し打ち込めた。最初の数分で近藤のテニスは見てわかりコートの決着はついた。
相手はレシーブに追われいただけない。みるみるうちに顔色が青くなりベソをかく。力量の差は選手自身が一番わかっていた。
近藤の二回戦は45分で終わった。あまりの強さに観客は拍手を忘れるくらいである。
パチパチっ。やったねお兄ちゃん。
あみは小躍りして喜んだ。昨夜の六本木で見せたあみの笑顔がそこにあった。近藤がツアーバッグに身支度を全部詰める。ひょいっと担いで退路を歩む。
近藤く〜ん
黄色声がこだまする。近藤は女子高生らにサインをせがまれた。あみと一緒に退場したかったが出来ない。
あみはプゥ〜。口を尖らし茹でタコのようになってしまった。どうも女子高生は"お嫌いなあみちゃん"。
ふんっ
近藤が控えに戻って来ると同じプレーヤー同士二回戦突破おめでとうとねぎらいである。
「近藤っよかったな。最高の試合だったよ。しばらく見ないうちに強くなったな。お前ひょっとして優勝候補のタカオにも真っ向勝負挑み勝てるんじゃあないか」
近藤のダブルスパートナーだった。
昼を挟み午後から近藤のダブルスは始まる。この試合はセンターではなく"第12番コート"である。有明は番号が多くなればなるほど観客数が減りどことなく試合そのものも侘しい感覚である。
ダブルスまで時間が空いた近藤。さっそくにあみとランチを楽しむ。いや試合の最中にはあみが近藤の食生活を管理している。世話やき女房あみのためなんでもかんでも好きに食べてはいけない"監視"である。近藤も試合最中だけはあみの言いなりではある。
「お兄ちゃん炭水化物をたくさん食べてね。お肉は控えましょ。胃にもたれて試合に集中できませんでございます」
近藤っ豚カツが頭に浮かびガックンとする。
ダブルスは定刻通りに始まる。近藤はパートナーと息のぴったり合うテニスを披露した。
「近藤調子がいいんだな。サーブがビシバシ決まるから試合が組み立てやすいぞ。さすがATPプレーヤー近藤だな」
2歳年上のパートナーは盛んに近藤を褒め称えた。近藤は嬉しかった。
12番コートの試合。しかも3時〜4時という夕刻近いところ。観客はセンターコートに大半流れてしまう。
あみはピンクのウェアでお行儀さんよく座り近藤のプレーを見守っていく。
近藤は近藤でコートチェンジの際に必ずあみの笑顔を見た。ピンクウェアのあみを見ると高ぶる神経がスゥ〜と落ち着き払う。
まばらな観客の中ピンクのあみは一際目立つ女の子だった。
「こんにちは。近藤さん。お言葉に甘えてテニスを観戦に参りましたの」
テニス観戦をするあみの後ろから優しい声が聞こえた。あみは誰かなっとクルリっ振り向いた。にっこり微笑む女の子がそこにはいた。
昨夜六本木で親しくなった"中日堂上の恋人"だった。
「あらっ昨夜の」
堂上はにっこり微笑んで昨夜あみと知り合いもう一度逢いたいと願ってやってきたと言った。
「野球は好きなんですけどね。テニスは見る機会がなかなかなくて。あのぅ近藤選手はどうしておふたりで打っていらっしゃいますの。すいません私テニスはよく存じ上げません。よろしければ教えていただけませんかしら」
あみの横にちょこんと腰掛けた。
あみは喜んだ。同じ名古屋の同郷。しかも近藤の好きな中日堂上の彼女。将来は奥さんになるかもしれない。
「私でよろしければ。簡単にルールから教えましょうね。サーブを打つ人がいてレシーブする人がいるアッハハ。試合を見たらすぐわかるもんね」
あみと堂上は打ち解けていく。近藤もコートチェンジのたびにふたりの弾む会話が聞き取れた。
「あみもひとり観戦では退屈するだろう。歳の近い仲間ができて嬉しいんだろう」
近藤ペアは第1セットをストレートで取る。やれやれとプレーヤーズベンチに座る。近藤の背中からはあみの明るく笑う声が聞き取れた。あみも安心をして見ていられる試合内容だ。
第2セット。近藤の強烈なサーブは益々威力を増していく。この時点で勝負あったと近藤もあみも思ったようだ。近藤はサーブの前に観客席を眺めた。
うん!あみがいない。
そのままゲームは進行しコートチェンジで近藤はキョロキョロとあみを探した。ピンクのあみはもとより親しく話をしていた女の子もいなくなっていた。
あみとしては珍しいことであった。試合途中でいなくなることはほとんどない女の子だからだ。
野暮な用事で一時的に席を外したのか。親しく話をしていた女の子となにかあったのか。あみがいないのはなぜなんだ。
近藤の集中力に翳りが見えショットにミスが重なる。正確無比なストロークが考えられないケアレスミスに導かれてしまう。
パートナーからはドンマイだ近藤と鼓舞をされるが。
いかんいかん。どうしちまったんだ。俺はプロなんだ。そんな女の子が見えないぐらいで試合に負けては情けない。パートナーに悪いじゃないか。集中しろ集中力を高めよ。俺はATPで戦う近藤なんだ。こんなところで負け犬になり下がりは許されない。集中しろ落ち着け。
近藤は自問自答を繰り返した。落ち着け落ち着きさえすれば勝てる相手だ。
近藤ペアは第2セットを落としてしまう。明らかに近藤の不調がロスゲームに繋がった結果である。
いかんいかん。あみの顔が観客席にないだけだろ。試合が終わればいくらでもあみの笑顔があるじゃあないか。
プレーヤーズベンチでスポーツタオルをスッポリと被った近藤。パートナーは近藤に話し掛けを一切しなくなる。孤独感をひしひしと感じる時だった。
タオル越しに太陽を眺めた。薄暗いタオルの繊維間から光がチラッとだけ見えた。
タイム!
主審がゲーム再開を宣告する。近藤はタオルを取りダンロップを握りしめる。
観客席をまばらな観客を眺めた。
あっ!あみはいるじゃあないか。
近藤のいるプレーヤーズベンチから遠く離れた席の外野にピンクのあみと女の子の姿が見えた。どこへやら出て行く様子が近藤にはみてとれた。
これが近藤の見たあみの最後の姿になってしまった。
試合は第3セットである。近藤ペアは調子が出ないまま劣勢になってしまう。観客はあの近藤が負けるのかっと心配をした。
あみは女の子に言葉巧みに誘い出されて観客席を離れてしまった。
「ねぇ近藤さん。私ねお願いがありますの。よろしければ一緒に来てくれないかしら。ううんすぐにこの試合には戻って来れますから。私ね近藤さんを見た時からこの人だわって決めていましたの。今からなの。そこの道路に車が待たせてありますわ。わぁー嬉しいなあ」
あみはなんだろうか。私に頼みたいことってなんだろうかと女の誘い出しに乗ってしまう。
女はあみの手をしっかり握りしめて離しはしないと決めた。
「近藤さん。あのほらっ道路の端に停まるスーパーサルーンの車なの。エヘヘ私ねこう見えましても御嬢様なんだ。実はあれはお抱え運転手なの。驚きましたか。ごめんなさいね」
女はあみの手を離さず横断歩道を横切りスーパーサルーンに辿りつく。
車内には黒服がいた。運転手をしていた黒服があみのために後部ドアを開けた。
「御嬢様お待ちしておりました。おおっこちらの御嬢様がお噂の"星野あみ"さまですね。さあ早くお乗りください。さあ乗ってください。時間がありません。私が手荒な運転をすると間に合いますから」
あみは人相の悪い運転手黒服に一瞬怯む。
なんだろうかこの人たちは。
あみは開けたドアの前に立ち往生をする。あみはあみなりに危険を察知したのだ。
「いやです。私乗りたくありません。乗る前に一体なんのお話があるのですか教えてください。私乗りたくありません」
あみは女の手を振りほどいて逃げようとした。
「おやっ御嬢様。何が気に召さないのでございましょうか。ひょっとして黒塗り車が気に入らないのかい。えっどうなんだい」
黒服は短気にも正体をあらわしあみを恫喝してしまう。
カチャ
あみの後頭部に拳銃の銃口が触った。あみは一瞬にして凍りついてしまった。
あみ御嬢様よ。おとなしく乗るんだな。さっさと乗らないかい。手間掛けるな。 |