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可愛らしい将棋屋さん
作:sadakun_d



優勝したい


空調(クーラー)のよく効いた会館。夏休みの一日に子供のための将棋大会が開催された。

日本将棋連盟北陸東海支部理事杉本昌隆7段が挨拶の声を張り上げた。

「皆さんこんにちわ。夏休みのお暑い中お集まりになりありがとうございます。どうですか夏休みの宿題は済んでいらっしゃいますか。私といたしましては宿題よりも将棋盤に向かっていただいた方が遥かに嬉しいでございます(笑)」
将棋大会会場に埋め尽くした父兄からも笑いが洩れる。

「本日は第7回全国小学生将棋大会の東海地区予選(主催板谷将棋後援愛知県・名古屋市)にお集まりいただきありがとうございます」
壇上マイクを持ち大会主催者となった棋士が冒頭の挨拶をしている。

胸に深紅の薔薇の(デコレーション)をつけた細身の男性棋士は杉本昌隆(38)7段。杉本は名古屋出身のプロ将棋棋士。名古屋の雄・板谷門下の出世頭であった。
「この名古屋から次世代の将棋棋士をどんどん育成して行くのが我々東海将棋連盟の祝願でもあります。皆さんこぞってその将棋の腕を発揮され頑張ってもらいたいと思います」
杉本は長々と挨拶を続ける。

日本将棋連盟(財団法人)は日本各地に本支部がありその中に杉本が会長を務める東海将棋連盟があった。杉本は会長に就任したのは昨年の暮れであった。会長としての任務で一番のイベントがこの子供将棋大会である。

就任したばかりの新会長は勢い張り切っていた。
「本日の東海地区予選にご参加は中学生16人・小学生64人でございます。男女比は8:2。段位の最高位はアマ五段」
アマ五段と聞き会場からオッ〜と歓声があがる。中学生か小学生からわからないが五段位を持つとは大した実力である。

新杉本会長には中学生や女児などは眼中にはまったくなかった。強い将棋を指す小学生男児をスカウトして杉本の腕で鍛えプロにさせたいと考えていたからだ。中学生では遅すぎた。

「東海地区将棋予選のルールをご説明致します。中学生棋士さんは4人のリーグ戦が予選。勝ち上がりは決勝トーナメント。小学生棋士の方はトーナメント。こちらは一発勝負になりますね(笑)」

会場から笑いが巻きおこる。
「一発勝負だなんて。なんか小学生には酷な感じだわ」
父兄の意見であった。
「また運悪く勝負に負けてしまわれたお子さまは我々プロ棋士が指導対局を致します。皆様の向かって右手に12面盤を用意致します。対局はプロ棋士3名。そのうちのひとりは私ですが。遠慮なさらず対局盤に足を運んでいただけたら幸いです」
杉本は大会の勝ち負けなんぞどうでもよかった。もっとも知りたいのは小学生の強い奴が存在をするかどうか。将来性がある奴がいるかどうかだった。
「では係員が対局盤の選手の皆さんを読み上げますから素直に従って対局を行ってください。対局は持ち時間があります。使い切りますと一手何秒という厳しい差し手となります。秒読み上げに慣れていらっしゃらない方は気をつけてくださいね。実は毎年トラブルがありますので。ちゃんと係員さんの指導に従ってください」

長い挨拶を終え杉本会長は壇を降りた。
「さて今からが楽しみなんだ。いでよ未来の名人たちよ」

対局は始まった。時計を持って係員が合図を送った。
「時間が来ました。皆さん始めてください」

よろしくお願い致します。

パチン

一斉対局が会場の30面盤で始まる。

杉本は席につくこともなく(せわ)しく子供たちの熱戦を見回る。杉本7段の気になる戦法を指していく小学生がどうしても気になるようだった。

子供たちは将棋に対局に集中してはいるはずなのだが。
「近くで杉本プロが見ていたら緊張しちゃうよ僕」
小学生中学生の憧れのプロ棋士は神様同様である。
「僕ね杉本先生のご本は三冊読んでいるんだ。ちゃんと勉強したよ。だから四間飛車や振り飛車は得意な戦法なんだ。小学では負けたことないよ。だってみんな始めて見る戦法だもん。だけど将棋道場だと大人にコテンパン(笑)だった。まったく勝てないよ。杉本先生にちょっと苦情言いたいなあ。言ったら振り飛車教えてくれるかな」
何も知らない杉本がゆっくり歩いてやって来た。
「ホオッ俺の得意な四間飛車を指している。見込みありだ。あらっちょっとちょっと駒組みが金将と銀将逆だよ。アチャアまずいぜ」
対局中の子供がチラッと杉本の赤い薔薇を眺めた。でも杉本とは目を合わせることはできない。

「この東海地区予選までやってくる子供棋士たちは棋力はそうだなあアマ2段くらいはありますか。僕が小学生だったら勝ちあがることはまずは無理無理。だってその時代は野球に夢中で将棋なんて真面目にはやらなかったからね。だから皆さん尊敬します」
会場をゆっくり覗いた杉本の感想であった。

対局の始まりから30分程が経過をする。

「(差し手が)ありません」

勝負がポツポツとついてくる。杉本7段のご本を三冊も読んで挑んだ小学生も早々と負けてしまった。
「あっ負けちゃった。杉本先生嘘ばっかりやんかあ」
ベソをかきながら母親の待つ父兄席に向かって走り出す。四間飛車の戦法でコテンっに負けてはよほど悔しいらしかった。
「ママ負けちゃった。僕悔しいよぉ。杉本先生のご本は嘘ばっかりやん。勝てないやあ」
母親の顔を見たら大粒の涙がポロポロとこぼれた。まあまあと母親は白いハンカチを取り出しながら息子を(なだ)めていた。あまりに泣くからハンドバックからチョコレートを取り出した。
「泣かない泣かないお兄ちゃん」
チョコレートを一個頬張ったらピタッと泣きやんだ。

対局で子供がチラホラと終局を向かえたなっと杉本はわかる。
「負けてしまった子供は指導対局をしましょう。盤は12面もあるんだ。だけど何も7段の俺が一番先に席につくこともあるまい。3級と初段のお弟子がまずはお相手だな」

会場にいた棋士は杉本7段とその弟子にあたる奨励会会員の3段(18・名古屋出身)と育成会員3級(14歳・名古屋出身・来期奨励会員なる予定)

※4段からプロ棋士だから正確には初段はプロとは呼ばれない。

3級に勝つ子供がいたら3段と指導対局。3段も負かす子供ならばいよいよ杉本7段が出て行こうとした。
「お弟子の3段は今が伸び盛り。師匠の僕から見ても4段になれる逸材だ。まず子供では勝てないだろう。となると育成の3級に勝つとこちらに御鉢が回ってくるかなアッハハ」
杉本は貴賓席に着席をして差し出されたパイナップルジュースを美味しい美味しいと飲んだ。パイナップルはひとり娘が大好物だった。

「あのぅすいません杉本先生」
貴賓席の杉本が暇にしていたからか小学生の父兄
が声をかけて来た。杉本の四間飛車で負けた小学生の母親だった。
「うちの子供は杉本先生の大ファンでございます。大変申し訳ございませんがこちらのご本に杉本先生のサインをいただけたら」
和服のよく似合う清楚な感じのお母さんだった。言われた杉本は心良くサインに応じる。
「嬉しいですねお母さん。僕の著作を読んでいただいて。すぐサイン致します。ところでお子さまはどちらの方に」
杉本がサインをしようとした3冊。かなり子供は読みこんでいるようで赤い線や青い線が書いてある。
「律儀なお子供さんだな。赤い線はなんだろうか。青いのは意味があるのかな」

杉本が著作の中を見ながらサインをしていると母親は子供を連れて来た。子供は目を真っ赤に腫らして今先負けた悔しさを顔に現している。母親からもらったチョコレートで少し泣きやんだばかりである。

子供の顔を見て杉本はにっこりとする。もう一度見てみたい将棋を差した子供のひとりであった。

「あっ僕かぁ。こんちはっあの第15ブースで対局していたね」
杉本は手元の小学生トーナメントを確認する。第15ブースは誰と誰か名前と学年を確認をした。
「僕は四間飛車戦法で対局されていたね。よく頑張ったんじゃあない」
杉本は自分の得意な戦法を小学生が指して嬉しかった。スラスラと著作にサインをし子供に一冊母親に二冊と手渡す。

手渡された和服の母親は喜びだった。杉本はあまりの美人さにちょっと気後れを感じる。
「杉本先生ありがとうございます。お兄ちゃんよかったわね。だってお兄ちゃんの大好きな杉本先生ですものね。先生ウチの子は大ファンでございますの」
丁寧に母親は頭を下げた。

なんでも父親と祖父が名古屋の産婦人科医。親子三代で将棋が強いという家系らしい。
「父親がちょくちょく将棋を教えてはいたんですがなんせ医師が忙しくなりまして。でこの子に将棋の本を買い与えました。それから強くなって」
近くの将棋教室に通うようになりメキメキだったらしい。その父親が買い与えた本の中に杉本の著作もあり子供は気になって読んでくれたらしい。

礼儀正しい母親の横の子供はじっと黙っているだけだった。杉本はにっこりとした。
「僕の本をこんなに読んでいただき光栄です」

杉本7段の戦法四間飛車を心から尊敬し著作を3冊も買い毎日毎晩寝る前には必ず読み漁る程の大ファンだった子供。

杉本の前だというのにプッと脹れたまま黙って立っていた。

杉本は負け将棋だったから悔しいのだろうと察した。
「どうですか本を読まれて。四間飛車は体得できましたか。振り飛車が好きなんですね。こりゃあ将来楽しみだなあ」
杉本7段本人の本音である。子供時代から居飛車ばかりでは面白くはない。
「時間があれば栄の板谷将棋道場に来てもらいたいぐらいですね。僕も時間があれば指導します」
子供の住所から栄は近いと知った。対局中の四間飛車の駒組みが頭に浮かぶ。
「四間飛車戦法で駒の金将と銀将を逆に組んでしまったね」
杉本は子供が無反応にしていることにハッとした。

まずかったかな。

子供は和服の母親にしがみついて後ろに隠れてしまった。杉本が痛いミスを指摘したせいである。

弱ったなあ。

母親はどうしたのかしらと子供の頭を撫でた。
「そこであのぅ杉本先生。ウチの息子をその指導将棋していただけたらと思います。いかがでしょうか」

杉本は指導対局の盤を見渡す。12盤面あるうち半分が子供で埋まっていた。
「あれどうして負けた子供があんなにも多いんだろう」

指導将棋は杉本の弟子の3段と3級が真っ赤な顔をして座っていた。

3級は2面差し対局。相手は中学生アマ5段。3級は年齢が中学生に近いことと棋力にアマ5段とかはあまり差がないくらいだった。

3段は4面差しを子供に指導。こちらは駒落ちでも余裕であった。

その盤面の周りには対局を待つ子供が取り囲んで大盛況だった。
「先生お願い致します盤面が6面も空いてるから対局してください」
3級はガキんちょに言われた。もう勘弁してくださいと言わんばかりにベソをかいてしまう。

貴賓席の杉本は母親の申し出を受諾する。
「よろしいですよ私が指導将棋いたしましょう。僕行こうか。四間飛車で対局したいなアッハハ」
杉本7段パイナップルジュースをグイと飲んでいざ対局盤に向かう。

指導将棋盤が混雑していたのは子供が我も我もと来たためであった。杉本会長は負けたら指導対局と言ってはいた。

対局まで時間がある者は指導将棋で腕試しをしていた。
「だってプロ棋士と将棋なんて初めてだもん。できたら3級(育成会)3段(奨励会)7段(プロ棋士)と全部平手でやりたい」
会場にいる子供はほぼ全員が平手の将棋を希望しひとりぐらい棋士を負かすつもりであった。

「なるほど負かせてくださいアッハハ」
杉本は真っ赤な薔薇の花を揺らしながら対局盤面に正座した。
「3級は2面。3段は4面。7段の私は6面差しだね。よしみんなかかってこい」

杉本7段が座ると周りの空気が一変する。子供たちの憧れはプロ棋士。杉本の名前も顔も知らなくても将棋7段の肩書きは後光(ごこう)が差していた。対局で座る子供の目の輝きは違う。

「最初にこちらの僕から指導したい。ごめんなさいね並んでいらっしゃる方は。こちらの子は私の得意な四間飛車戦法で攻め将棋をしたいので皆さん御手本になさってください」
杉本に手招きをされ子供は着席をする。先程まで泣いたりはにかんだりとしたあの顔はなかった。ただあるのは存在をする杉本7段といかにうまく四間飛車を差しこなせるかだけだった。
「四間飛車戦法はあれだけご本で読んでマスターをしたのに。だけど負けたんだから仕方ないや。でも杉本先生と対局できて嬉しい」

対局は二枚落ちで始まった。おっと杉本7段は6面差し。

大会は午前を終了する。中学生は各自2局を消化。4人リーグ戦だから2敗を喫してしまうと勝ち上がりはかなり厳しくなる。

小学生トーナメントは順調にこなされていく。
「先生先生杉本先生。いががでしょうか杉本会長。ブース(対局席)が空いて参りました。敗者復活(コンソレーション)を組み入れませんか」
係員からの要望であった。
「復活戦いいですねやりましょう。手合いは持ち時間10分。一手30秒でお願い致します」 

昼食を挟んで午後からは子供たちはどっかこっかで対局である。全員真剣な眼差しである。仲良しの子供同士の無駄話をする者はひとりとしていなかった。 

杉本7段・3段・3級も同様。指導将棋に熱が入る。
「杉本先生。この子供たち強いやあ。午前中で3局/15もやられてしまいました」

3級の弟子が鮭弁当を食べながらぼやく。子供たちの将棋は定石や基本的な差し手を知らなくても勝てるらしい。
「でたらめな差し手みたいでね。どう対処したらと考えたら負けたぁ」
杉本も3段も大笑いだった。

中学生の予選は2時過ぎに終わった。4人リーグからの勝ち上がりは4人。杉本はどの子かなとまずは顔を眺めた。中学生3年アマ5段はもちろん勝ち上がりである。
「このメンバーを見ると5段が優勝するかな」
杉本は4人の顔触れを確認した。3人がアマの段位だった。5段・3段・2段。ひとり無段。
「この子は女の子だね。どんなお嬢さんかな」

それが杉本と女流棋士との出逢いとなった。

中学生のトーナメントは2局同時に始まった。子供たちの注目度はかなり高く対局ブースの周りには人たかりになる。
「5段強いね。居飛車であなぐま。陣形がしっかりとしているから予選では相手からは一度も攻め込まれたことがないんだって。横綱さんだね」

アマ5段は人気であった。たぶん優勝をするのではないかと期待された。

隣の対局の女の子はどうか。
「あの女の子なんかさあフニャフニャした差し回しだよ」
女の子は予選3局は勝つには勝つがこれと言った決め手がない戦いぶり。
「飛車なんかアッチフラフラこっちフラフラだった。空に浮かぶ風船みたいな感じかなあ」
その飛車の回しが抜群にうまく勝ち上がってきた。女の子は小学生の弟さんも参加をしていた。
「弟も勝ちましたか。お姉ちゃんは頑張ったぞ」
弟は小学生ベスト8まで来ていた。

対局に負けた小学生中学生はどんどん中学の対局準決勝に集まってくる。
「5段の中学生は面白い将棋だ。女の子はフラフラ将棋だ。あれあれって思っているうちに勝つんだから参ったよ」

定石をしっかり勉強し自分のものとしていた。言わば基礎を踏まえた5段と言える。

対象的なフラフラ風船の女の子が勝ち上がり中学生の決勝は異色の対局である。

杉本は指導対局の場で決勝の名前を聞く。
「女の子が勝ちましたか。凄いですねどんな棋譜だったんですか。信じられないなあ」
杉本は驚きながら係員に棋譜を頼む。

指導対局は6面手一杯であった。対局している子供は全員真っ赤な顔。とても勝ち目がない様子であった。

「まさかあの女の子が勝ち上がってくるなんて。対局の男の子はアマ3段や2段だったはず。2段は僕が板谷教室で2〜3回指導した。あの子供らを破り決勝に来るとはどうしたもんか。早く棋譜が見てみたい」

杉本は6面をザアーと流すように歩いてパチンパチン指した。対局相手は誰ひとり身動きしなかった。

係員が対局の終わったばかりの棋譜を対局中の杉本会長に届ける。
「先生これでございます。棋譜を打ち込んだばかりでございます」
綺麗に印字されたデータ棋譜だった。杉本が見たいものはだいたい書いてある。
「ありがとう。えっとどんな将棋をやるんだ」
杉本は6面指しをやりながら棋譜を眺めた。

パチンパチン

対局の子供のうち2人が、
「先生ありません」
項垂れて負けた。

杉本は棋譜読みながら、

パチンパチン

「先生ありません。ご指導ありがとうございました」
またひとり負けた。

パチンパチン

杉本先生はものの5分でたちどころに勝つ。6面指した相手すべて詰ませてしまう。

「先生ありません。悔しい僕」
最後のひとりは杉本がちょっと手加減しなかったから厳しい王手となった。悔しいことから泣いてしまった。

杉本は6面指しを終え中学生の将棋に移る。
「中学生なんてまったく見ていなかった。ましてや女の子なんて。この棋譜を見る限りかなり指した経験が感じられる。親御さんとだろうな。定石が崩れオリジナルが随所に見える。序盤から中盤は見事だとしか言い様がない。振り飛車は変形されている。いや適当に動きだな」
杉本は唸った。うまい駒回しだと。
「振り飛車は振り飛車らしい。なんだろうこの動きは妙に動きまくるじゃあないか。子供が風船だと言ったな。確かにフラフラしている」
プロ棋士の杉本が見てわけのわからない飛車が右に左に棋譜に残る。杉本は棋譜を読みながら体を右に左に揺する。

「僕までやることないか」

休憩を挟んで中学生決勝対局は始まった。先手は5段である。
「チェみんなだらしないなあ。女の子に負けたんか。女の子のスカート短いからどんなだろうなんて考えて将棋差したんじゃあないだろうな」

女の子は決して美人ではないが可愛いらしい服装をしていた。今時の女子中学生である。手荷物にはキティちゃんがペッタンされていた。

決勝が始まり数手進められたあたり杉本会長がやってくる。6面指しの指導対局を全て勝って貴賓席でパイナップルジュースをキュッと飲んでからやってきた。
「パイナップル飲むと娘を思い出すから」

決勝の対局ブースに赤い薔薇をつけた杉本会長が現れた。

対局者の中学生5段も女の子も杉本が見ていることに気がつく。
「やだ杉本先生が見ていらっしゃるわ。悪手したら叱られちゃうかな」
女の子は畏まって緊張してしまう。男の子中学生5段は違っていた。
「杉本先生見てくださいね。僕の5段は伊達ではないと見せてあげますから」
5段はパチンと杉本の前で飛車を中に置いた。杉本の著作にあった手をひとつやってやるかと構えたのだ。中飛車で杉本は顔がヒクッとした。

手は進み35〜40手順となった。中学生5段は顔いろが悪くなっていく。指す手指す手を女の子は巧妙に防御していたのだ。
「なんだろうこの駒は。妙に堅い守り」
5段は定石の将棋本を見たくなる。谷川将棋にあったかなっと。
「金将と銀将がスクラム組んで強烈な守りだ。飛車は飛車でフワフワしながら風船みたいにアッチコッチだ。初めて見る」
中飛車の強烈な戦法が強烈な妙手にならなくなった。かなり対局の場数は踏んでいたが初めての経験だった。

杉本はじっくり両者をみた。余裕のあるのはどちらか。
「まもなく持ち時間を使い切るな。秒読みになるわけだ。この決勝という舞台で焦ったら負けだ」

中盤は女の子が駒組み有利かと思ったが終盤は終盤。ドラマが待っている。

「お知らせ致します。両者持ち時間を使い切りました。これより秒読みに入ります。よろしくお願い致します」
中学生5段はグッと口唇を噛みしめた。右にあるペットボトルから冷水をガブリと飲んだ。大好きなグレープフルーツジュースだった。ガブリと飲んだがまったく味覚は感じてはいなかった。

右の御盆にあったから右に戻しておくべきだったが。
「あのぅすいません。ボトルは膝の上に置かず元の位置に戻してくれますか」
係員に注意を受けた。興奮していたのであろか。迂濶(うかつ)にもちょこんっと膝に挟んでしまった。はしたない格好であった。
「すいません癖です。直します」

膝にボトルを挟んで将棋をいつもやっていたらしい。

将棋は終盤に差し掛かる。詰みか詰まされるかの攻防が繰り広げられる。

杉本は対局を眺め中学生5段寄せが弱気だなと感じた。
「詰みを読み切らないまま駒を動かす感じだな。駒組みを崩されたらどにもガタガタになってしまうタイプだな。対して女の子は積極的だ。かなり手厳しい指し手を繰り広げている。見ていて気持ちいいな」

中学生5段は銀将で王手をする。王が逃げたら詰みを読んだ。
「決まってくれ。投了してくれ」
祈ってしまった。この王手を逃れたら逆王手が待っていた。
「攻めしか生きる道がないんだ」
持ち駒に銀将が2枚。王手を次に銀将でかけてやりたい。王手の途切れは負けになる。

「やらなければ負けだ」

頼むから王よ逃げよ

彼女は冷静に細い右手を出した。銀将をちょいっとつかみ王で簡単に取る。守りが一気に楽になった。

中学生5段は顔面蒼白になる。負けた一瞬だった。

「(指す手が)ありません」
小さな負け宣言をした。

会場内は静粛からガラリとかわり拍手が巻き起こる。
「おめでとうおめでとう。よく頑張ったねめでたいなあ優勝だよ。女の子が優勝は何年振りかな。ちょっと調べなくちゃあね」
女の子は恥ずかしそうに対局ブースではにかんだ。
「嬉しいです。杉本先生の前で優勝ができるなんて嬉しいです。本当に嬉しい」
キティのバッグから白いハンカチを出して目をちょっと抑えた。

負けた中学生はいたたまれず会場から出てしまう。あまりに悔しかったのだろう。負けた瞬間から顔は蒼白となり涙もあった。父兄席から御婦人が心配そうにして息子の後を追い掛けた。顔は子供とよく似ていた。

杉本は腕組みをして対局後を見つめた。
「5段はアマ5段なんだけど。どうしてかな自分の将棋を指していけなかったね。序盤から中盤が山だったか。定石にとらわれない棋風だと言えるのか」
杉本も不思議な感覚を抱く。
「どんな世界でもさ負けたらそりゃあ悔しいさ。勝者と敗者だからね。拍手は勝者に万来する。敗者には何もなしか。勝負の世界に必ずいる両者であるから。それでも泣けるなんて純真じゃあないか。素晴らしいと思うよ。僕も来週の順位戦に負けたらオイオイ泣こうかな。いやバカだと笑われるがオチだなアッハハ」

勝った女の子は父兄席に行く。父親と母親に優勝の報告をする。
「よかったねお姉さん伊織(いお)ちゃん。杉本先生の前で優勝したなんて幸せだね。杉本先生はあの対局を伊織をきっと覚えておくれなさるよ」
女の子はエヘヘッと笑っていた。伊緒も杉本のご本を読んで研究をしていた。ただ四間飛車は指してみたいと思うだけで実際には一度も指したことはなかった。
「お母さん弟の対局が残っているよ。ベスト8まで勝ちあがりだ。中学生対局が終わったから次に小学生対局を一気にバアっとやるみたい」

伊緒の弟は小学6年だった。昨年も大会に出場をしてベスト8まで辿り着いていた。

「お姉さんが中学生で優勝。弟も小学生で優勝となりたいね」
伊緒は母親から冷たい麦茶をもらって美味しい美味しいと飲んだ。

小学生対局は準々決勝4局と敗者復活の対局が組まれていた。
「お姉さんが勝ったんだから」

小学生対局の壇上に弟は上がる。昨年もこの壇上にはあがったと姉は思い出す。

「私は一般の観客として弟の対局を見ていたわ。まさかね一年後の今私が優勝を飾るなんてね。夢見たいだわ。弟も優勝させてやりたいなあ」

壇上の対局ブースは観客も近く観戦をすることができる。

「よし応援にいくかな」
母親に麦茶のボトルを返して行こうかとしたら。

「こんちは日本将棋連盟です。ちょっとインタビューがしたいです。お時間をください」
将棋取材記者につかまった。記者は将棋の強い姉と弟を知らなかった。

伊緒のインタビューは長くかかってしまう。簡単な生い立ちから将棋との出合いを話すだけだったが手間どる。
「インタビューは嬉しいけどね。弟の対局が終わってしまうわ。勝ったらまだ見えるけど」
記者に繰り返し同じようなことを聞かれ写真をバチッ。
「写真撮っておしまいですから」
にっこりと笑ったら撮影された。やっと長い長いトンネルから解放された。

「急いで会場に行かなくちゃ」
対局会場では弟や他の対局も終局していた。姉はどうだったかなと心配しながらトーナメント表を探す。

弟には勝ち星がペタンとついていた。

ふぅー

「勝ったわねベスト4入りか」
昨年をクリアしたなあと実感する。
「後準決勝と決勝か。長い戦いだわ」

父兄席に戻ってみる。姉がインタビューから帰ったと知ると弟がニコニコ顔だった。
「お姉ちゃんどこにいたの。へぇ〜インタビューだったの。優勝インタビューなんて格好いいね」
弟は母親に飲み物をおねだりをする。
「お姉ちゃん僕っ準々に勝ったよっ勝った。昨年負けた相手だったんだ。今年は勝てたんだ。杉本先生の四間飛車を使い勝てたんだ」
弟も母親から冷たい麦茶をもらいゴクゴクと飲んだ。小学生はうまそうに飲んだ。勝利の味は格別である。

「なるほど。弟くんは準決勝進出出来てさらにリベンジできたと喜びなんだ。偉いぞ我が弟くん。よくやりましたよく頑張ってくれました」
姉は弟くんの頭を撫で撫でとした。弟は嬉しい顔をしてみせた。

休憩を挟み準決勝対局となる。この段階までくると小学生という学童疲れてくる。

全国小学生将棋大会は日を改めてNHKのスタジオで対局をさせる。

「対局数が多いからタフになりますわ」

準決勝の対局は順次名前を呼ばれて壇上に上がる。呼ばれたのは強い4人のみ。小学生は64人参加だから60人が敗退をしてしまったことになる。
「64人は強い小学生ばかりだもん。勝ち残りだけでも偉いぜ弟くん」

名前は杉本会長がひとりひとり読み上げた。
「準決勝まで勝ち上がりましたね。よく頑張ったね。もうひと踏ん張りだ」

杉本はこの4人から将来のプロ棋士が誕生すればいいと思う。
「棋士にさせるにはそれなりの指導をしてやらなくてはならない。僕ら棋士の指名だ」

4人が壇上に上がる。杉本会長はニコニコしている。
「ではただいまから準決勝対局を行います。その際に組み合わせなんですが」
杉本は手元から『詰め将棋』を取り出す。

「解けた方は手をあげてくださいね。A対局とB対局を詰め将棋にて決めていきます」
会場はざわめいた。提示された詰め将棋。難問であった。

4人の準決勝進出小学生の豆棋士はじっくり詰め将棋に目を落とす。

考え中〜考え中〜

4人とも頭をさかんにかしげ熟慮に熟慮を重ねた。見ようによっては泣きそうな顔でもある。5分後伊緒の弟がサッと手を挙げた。会場はオオッ〜ざわめいた。杉本も目を見張った。
「5分で解法出来たのか。アマ5段くらいはあるかな」

弟は杉本会長の許に行き解法を伝えた。杉本は胸の赤い薔薇をちょっと直して解法を聞く。
「う〜ん宜しいでしょ。偉いね正解だね」
杉本会長はニコニコしながら小学生の頭を撫でた。弟はA対局に決まり着席をする。得意気な顔をしていた。

「あの子供凄いね。俺アマ2段だがさっぱりわかんない」
会場に詰め掛けた将棋マニアでも5分では解法に至らなかった。

二番手の子供は15分ぐらいで解法する。残りの2人は時間切れとなる。
「皆さんご苦労様です。それではただいまから小学生準決勝対局を始めます」
杉本の頭には準決勝〜決勝に来る子供が楽しみだとなった。

「それでは開始致します。上座に座った方は先手になります。準決勝は持ち時間20分。使いきりましたら一手秒読みとなります。始めます」

豆棋士たちはお願い致しますと声を張り上げた。一度駒を持ったら真剣に盤面に向かった。

杉本会長は係員からそっと耳打ちをされた。
「先生A対局のあの子供さんはですね」

中学生優勝の伊緒の弟だと知る。

「なるほど」

姉の棋譜と将棋が似てなくもないかと納得をする。
「私の得意な四間飛車戦法を仕掛けてくれた。なんとか優勝してもらいたいね。全国小学生大会に東海から駒を進めてもらいたい」

その杉本の期待に応えたかのように開始30分あたりで、
「(打つ手は何も)ありません」
A対局で終局をした。弟は圧勝した。戦法は杉本の得意な四間飛車であった。勝者は得意に顔をあげにっこり。
「あのA局の子供は杉本の弟子なんだろうか。四間飛車が抜群にうまく決まっていたぜ。駒の動きが子供のレベルを遥かに越えた」
棋譜を見たら危ない局面や差し回しがなかった。絵に描いたような横綱将棋。いや王さま将棋であった。

弟は緒戦からずっと四間飛車戦法を仕掛けていく。小学生の対戦相手は対処方法がわからないまま完敗を喫した。これは杉本7段の得意な戦法そのものである。

「四間飛車は確かに僕の技だ。積極的に使ってもらい光栄の至りだ。他の戦法も見て見たい。中学生優勝の伊緒ちゃんもそうだが飛車や角行の使い方が格段にこの姉弟(きょうだい)はうまい。姉弟とも父親が指導されているんだろう。自宅はどこか。近くの将棋教室は僕も顔を出すから知らないはずはないんだが」
杉本は奨励会会員には熱心に振り飛車戦法を指導するが街の将棋教室ではまず指導はしなかった。
「教室のお子さんには基本をマスターしていただきたい。それからの話が振り飛車なんだね」

杉本は父兄席に父親が来ていたら話が聞きたいと思った。

「杉本先生わかりました」
大会係員が教えてくれた。
「あの父兄席にいらっしゃる赤いセーターの方がお父さん。緑のブラウスがお母さんでございます。お父さんは伊緒ちゃんに似ていますわ」
杉本は貴賓席から父親を遠目から眺めた。

小学生決勝対局となる。
準決勝を勝ち上がったのは杉本の期待した子供であった。
「こりゃあ面白くなったぞ。小学生64人の頂点を極める優勝を今から決める。決勝対局だって実力がなければ到達しない」
杉本は貴賓席から立ち上がる。決勝の寸評を述べるつもりだ。胸の赤い薔薇をちょっと直して壇上にあがる。杉本が最も待ち望んだ小学生決勝である。

「お待たせいたしました。ただいまから小学生の部決勝対局を始めたいと思います」
会場はシンと鎮まりマイク片手の杉本だけに注目が集まる。
「この小学生対局は僕自身最も注目をしてきました」

杉本つい本音が出てしまう。中学生は興味ない。奨励会に中学生から行くよりも小学生がよいと言ってしまった。

決勝対局の子供が壇上に呼ばれる。杉本はニコニコして子供の名前を読み上げた。
「決勝はこの子らによって対局が行われます」
杉本は決勝に上がった子供の顔を改めてみた。準決勝でもちゃんと顔は見ていたはずだった。

うん?誰かに似ているような。

名前を確認してみる。見覚えはない。
「気のせいなのか。どことなく名人に似ているような気がした」

二人の小学生は壇上の対局にあがる。杉本はマイクを持ちインタビューをする。
「よく勝ちあがってきましたねおめでとうございます。今日は調子がよかったのかな」
豆棋士たちはハイッと答えた。

杉本は対局のふたりに小学校での話を聞く。好きな科目や好きなスポーツ。好きな将棋の棋士。
「僕は算数と野球が好きです。将棋はですね」
伊緒の弟がハキハキ答える。
「好きな将棋は杉本先生です。振り飛車はいつも本とお父さんから勉強しています」
マイクを持つ杉本がニヤリと照れた。さも参ったなあっという顔だった。会場内に笑いが洩れ場がしばし和んだ。
「僕を指名していただきありがとう。君には対局した後なにかプレゼントしたいなあ」
弟はエヘヘッと笑う。

決勝も杉本先生の得意戦法の四間飛車でいくから。

「僕は好きな科目は理科です。スポーツは特にありません」
対局相手はにこりともせず淡々と答えた。クールにポーズを決めていた。
「将棋は名人が好きです」
子供はその風貌がどことなく似ている名人の名前を言った。

対局は始まった。
「よろしくお願い致します」

パチン

壇上で対局は始まる。ふたりともさして緊張はしていない様子だった。

駒組みが進み弟は杉本の本の通り四間飛車を差した。飛車がスルスルと定位置に収まると会場からホォっ〜と声が洩れた。
「この子供は全対局を四間飛車で戦うぜ。よほど勉強しているんだろうな」

飛車の駒がピタッと定まり敵陣を睨む。力をためてしかるべき対戦に備えた。

対局者は顔いろひとつ変えず自分自身の駒組みを淡々と差していく。

杉本はこの子供が言った好きな名人の将棋に引っ掛かり考える。
「あの名人は今生きていらっしたら何歳ぐらいだろうか。風貌が似ていらっしゃるから親戚の子供さんという可能性もある」
会場のアマ高段者からは、
「名人の将棋が好きなだけあるな。棋譜がどことなく似通っているよ。あの小学生は孫かな。そんな風貌しているよ」
ざわざわと名人の話題が広がった。観客からは杉本7段に聞いたらわかるかもとも囁かれた。

「ただいま持ち時間を使い切りました。これより秒読みに入ります。よろしくお願い致します」
ふたりとも大きく肩で息をした。観客はいよいよ終盤に向かい激突が始まるぞとワクワクした。

「まったくの互角だ。四間飛車は僕の戦法そのもの。かなり本を読んだらしい。あの駒組みは佐藤棋聖に初めて使い勝ちを収めたんだ」
杉本が4段か5段の時代のことだった。
「対局は互角のまま睨みあいか。秒読みになると焦った方が負けだ。緊張しないで落ち着き払ってくれ。熱戦のままの将棋を最後まで期待している」
杉本は貴賓席で腕組みをする。前にはパイナップルジュースが半分飲み掛けで置かれていた。チラッと見て生まれたばかりの愛娘を思う。

決勝対局の盤面は壇上に掲げられた。パソコンに取り込まれた棋譜は大画面に映し出され会場の観客は息を潜めて眺めた。

アマ将棋のマニアの中には居ても立ってもいられないようだ。
「杉本先生。この先どうなるんですか。私はあの飛車がどう走るか気がきでたまらんです。四間飛車はあの後はどうされたらよいんですか」
貴賓席の杉本まで聞きにくる。熱心だ。
「今のところまったくの互角ですよ。四間飛車が有利かどうか私にも判断はつきかねますからね。そろそろ飛車を捌けないと不利なことは言えますけども」

杉本が大画面を指差しながら説明を始めたら、
「先生私にも解説してくださいよ」
瞬く間に杉本は取り込まれた。

アマ将棋愛好家には四間飛車が憧れであり夢である。
「わかりました。ゆっくり(四間飛車を)ご説明致します。後手番の飛車ですが」

対局は中盤に入る。お互いの駒は思うように王将を守る。いよいよ駒の激しいぶつかり合いの時がやってきた。

対局の小学生はお互い背筋をピンッと伸ばした。その姿勢は観客に評判がよかった。将来の名人戦を彷彿させる姿である。

「ねぇあなた。あの子供って礼儀正しいわね。だけど誰かに似ていないかしら。私さっきから誰に似ているかなあと思っているんだけど」
父兄の席で子供の似た棋士が話題になる。
「似てる?うーん誰かなあ。俺は何とも思わないぞ。それよりも将棋の勝負を見ていろよ。横でガチャガチャ言わないでくれ。気が散るじゃあないか」
アマ2段の父親は勝負の行方に興味津々である。だが母親は将棋そのものに興味とはいかないようだ。

「あのぅ奥様。実は私も誰かに似ているなあと思ってますの。名人になられた棋士さんに似てますわ」
旦那にこれまた叱られた母親であった。
「あらっ奥様もそう思いますの。似てますわよねぇ」
母親同士、将棋にチンプンカンプン同士は話が合う。

対局。伊緒の弟は銀将をぶっつけた。いよいよ戦闘開始である。
「杉本先生見ていてください。僕はこの将棋に勝ちますから。昨年小5で負けたあの悔しさはもう二度と味わいたくはない。この一年間杉本先生の本をどれだけ読んだことか。僕が四間飛車(戦法)で負けたら杉本先生の本のせいだ」
四間飛車の対局は名人には初体験である。駒の動きがどうしても把握できず悩んでしまったらしい。
「駒のぶつかり合いが始まった。この銀将はまったく無意味な手だ。何を(たくら)んでぶつかりにきたのかわからない。ちくしょう秒読みが早くて手が読み切れない」

10秒・・5秒4秒

パチン

対局の名人はすぐに銀将を歩兵で取った。その差した手はブルブルと震えていた。歩兵を捌いた名人の顔は蒼白であった。

銀将を歩兵で取られた弟はキリリっとした。内心でニヤリである。
「しめた。作戦通りに銀将を取ってくれた。このまま一気に攻めてやる。やぐらなんか崩してやる。優勝はもらう。中学生優勝はお姉さん。小学生優勝は弟の僕。姉弟でいただく」

怒濤の攻めが始まった。王将取りに邁進一直線と来た。

対する名人は旗色悪くなるばかり。攻められて攻められては経験がない小学生だった。

10秒・・5秒4秒

パチン

すっかり秒読みの早さに気が散る名人だった。将棋を指す姿勢も背中はグニャリと曲がり将棋永世名人の面影もなくなってしまう。
「お母さん助けて。負けちゃうよ負けちゃう。守るだけでなく攻めなくては」

10秒・・5秒4秒

パチン

将棋に集中できない。

10秒・・5秒4秒

パチン

ついに誤手を指す。
「アッしまった」
名人の右手が少し震え駒から離れた。一瞬にして誤手だったと気がつく。名人は負けたと思い白目を見せて天井を眺めた。泣きたくなったくらいである。

10秒・・5秒4秒

「杉本先生。今の手はなんですか。守るべき駒を放していたのはなんでしょうか」
貴賓席は貴賓席で盛り上がった。杉本はパイナップルジュースを盛んに飲んだ。

杉本は大画面を見ても名人本人が誤手をした、後悔しているとは気がつかない。
「反撃の手でしょう。思い切った手ですよ」
アマ有段者は唸った。さすがプロは違うなあっと関心する。

さらに杉本は、
「なかなか思い付かない斬新さがあります」
名人の誤手に解説を加えた。

10秒・・5秒4秒

パチン

弟は放たれた駒が誤手だとは思っていない。
「なんだこれ」

10秒・・5秒4秒

わけがわからない。守るべき駒が守られず自陣の王将をキリッと睨んでいる。正直に困ってしまう。敵将の意図がわからない。ひたすら(あせ)った。

10秒・・5秒4秒
「これはやられてしまうのか」

※弟はそのまま攻め立てれば勝ち将棋である。秒読みの慌ただしさと決勝対局であるという雰囲気が焦る気持ちを呼ぶ。

10秒・・5秒4秒

パチン

「しっしまった」
今度は弟が誤手である。攻めたい気持ちと嫌々ながら守る気持ちがとんでもない手を指した。

貴賓席の杉本は誤手に気がつく。
「あちゃ(弟さんは誤手を)やってしまったな」
果敢に攻めた手を弛めてしまった。杉本はこれで決まりだなと思った。

貴賓席のアマたちにも誤手は理解できた。
「あわてて指したんでしょうね。残念なことだが」
配色濃厚になる。

10秒・・5秒4秒

パチン

「(打つ手は)ありません」
弟は深々と頭を下げ負けを宣告する。

決勝は呆気ない幕切れとなった。中盤まで力の拮抗するハラハラドキドキのいい将棋だっただけに誤手の一手はいただけなかった。

杉本は大会主催者として壇上にあがる。小学生に優勝のトロフィを授与をした。
「決勝はよい将棋でしたね」
しめっくくりの挨拶をする。胸の赤い薔薇デコレーションは潰れてしまい枯れていた。

優勝をした小学生と中学生は東京で開催される全国大会に駒を進めることになる。
「全国大会ではしっかり頑張ってもらいます。東海地区代表として優勝を願っています」
会場から拍手が起こり大会は閉幕をした。

伊緒は父親の運転する車に乗り中学生優勝のトロフィを膝にしていた。
「伊緒ちゃんよかったね。今度は東京か。将棋会館らしいな。お父さんは仕事があるから応援には行かれない。残念だがいけないなあ。娘が全国大会ですからっていう理由がなあ」

弟は姉の横に顔を伏せて小学生準優勝の表彰状をもつ。一言も言わないままである。

伊緒の全国大会までの毎日はインターネット将棋に明け暮れた。
「少しでも強い相手を探して他流試合よ。みんな伊緒にかかっていらっしゃい」
夏休みの女子中学生は寝る間も惜しんで将棋・将棋・将棋である。

勝率はかなり高く8勝/10対局。
「それでも2回は負けちゃった。悔しいやあ。その強い相手っていうの。インターネットで噂になっていたの。200連勝したんだって。これってプロ棋士さんじゃあないかって」

夕方に父親が帰ると、
「伊緒夕飯食べたら一番行こう」
アマ4段の実力で力をつけてやる。父親は夕飯の晩酌を堪えて愛娘のために盤面に座る。

父親との対局は

父親7-3伊緒

父親は指導対局の棋譜を丁寧に並べてやる。
「どんな対局に巡り合っても驚くことのないようにしてやる。杉本7段の四間飛車は私は大好きだがこれだけでは全国大会はまず勝ちあがれはしない。負けたら杉本先生が責任取るならなあ」

伊緒が寝静まるとインターネットから名人戦各対局棋譜をダウンする。
「大山永世名人は芸術だなあ。これを手本に行くか。舛田さんとの対局はどんなだいアッハハ。いかんいかんそんなことに熱中していては。伊緒姫のためにやらなくてはな」
大山戦が済むと中原永世名人に。次は谷川永世名人と父親は忙しい。
「それぞれを参考にはするが大山名人の華麗さには脱帽をしたなあ。森内名人はどんな棋譜だろうか。まだ永世がついてないや」
父親の夜はアッという間に明けた。

全国大会の日はやってきた。伊緒に付き添いとして母親が同行をする。杉本7段も責任者として一緒に名古屋から上京となる。
「伊緒ちゃんリラックスしていこうね。一回戦や二回戦は緊張感から自滅する子が毎年いらっしゃるからね」
杉本はリラックスさえすればこの子はベスト8あたりにいけるのではと思った。なんせ杉本の四間飛車を得意とするのだから。

千駄ヶ谷の日本将棋会館に到着をする。

「杉本先生。この建物が将棋の聖地・将棋会館なんですか。ワアッ緊張感でいっぱいになります。私どうしよう困ってしまうなあ」
可愛いいセーラー服姿の女子中学生は驚く。杉本もいつも見馴れた将棋会館の建物を一緒に眺めた。
「小さな建物だけどなあ。はて?なんだろうか」ちょっと首を傾けただけだった。

杉本を先頭にして伊緒と母親は将棋会館に入る。

伊緒は胸が張り裂けそうだった。盛んに母親に感激の言葉を繰り返した。
「ここは将棋の聖地であるの。日本にいる将棋を愛する者は誰もが知ってる会館なのよ」
母親はそうなのという顔で答えた。

伊緒はプロ養成組織の奨励会や育成会が会館にあることも知っている。

プロ棋士になるための奨励会は約100人。その下部の育成会は約200人。(関西は除く)

奨励会から3段リーグ(約30人)という熾烈きまわる戦いを勝ち抜いて初めて憧れのプロ将棋新4段になれる。

いずれにせよ伊緒の弟が父親と将棋を指した際にちょくちょく話題になる奨励会である。子供の憧れる会館と思ったらますます緊張していく。

会館にはぞくぞくと全国大会の出場者が到着をしていた。
「ロビーにいたら人ごみに紛れてしまうね。ちょっと控え室に行こうか」
杉本は会館の関係者に挨拶をしながら伊緒を案内する。

「よおぉ杉本7段先生。名古屋から上京されたのかい。いががかな東京はアッハハ」
対局控え間に人のよさそうな棋士がいらっしゃった。杉本はにっこりとして会釈をする。
「こんにちは先輩。紹介しましょう伊緒ちゃん。こちらはね」

紹介されたのはプロ養成機関の育成会の主任指導員大島映二7段だった。
「杉本も隅に置けないね。どこでこんなかわいい子を見つけてきたんだい。俺にも紹介してくれるんだろうなっ、そちらのお母さんをアッハハ。娘さんもかわいいがお母さんも輪をかけて」
大島はおおらかに笑う。

伊緒の母親は喜んでよいのか悪いのか複雑な顔をした。
「大島先輩はいつもあんな調子ですから。たぶんに気にしてください」
大島(50)の年齢からしたら30台後半伊緒の母親が適齢期ではある。大島は母親にあれこれと会館や将棋の説明を始めた。
「えっお母さん。娘だけでなく息子さんまで作ったんですか。僕は許可していないですよ。弱りましたね」

大島7段は約200人の豆棋士の卵を育成会に預かる。育成会から奨励会は受験をして入会をするシステムになる。
「この育成会は熾烈な闘いの場所でね。奨励会からは毎年4人だけ新4段になれるわけ。となると育成からは4人だけしか進めないという理屈だけど。いやいやそれは嘘。奨励会を辞めていく棋士もいるわけだ。在籍や年齢に制限があるためにね。それら欠員補助の形で新たな奨励会員ができるわけだね。お母さんわかりますか。あのぅご趣味は子育て以外になにがございますか。僕は趣味が将棋なんですよ。よろしくね」

将棋の奨励会や育成会は大相撲の幕下・序二段のようである。かなり厳しい下剋上の世界がそこにはあった。

大島に口説かれている母親はハアとだけ返事をした。大島には伊緒より大きな子供がいる。

杉本が育成会の大島と雑談をしていると控え室に女子高生が現れた。

「大島先生、杉本先生こんにちは」
可愛いらしくチョコンと会釈をする。
「よっ元気かい。今日は何も対局がないからなんですか。何しに来たのかな。あっわかった。現役女子中学生に混ざり中学生大会に出てやろうとしているな」
大島がからかったのは女子高生ながら今年春女流棋士2(プロ)になったばかりの新人だった。
「えっ大島先生から見たら私って中学生に見えますか。ヒャッホー嬉しいなあ」
女流棋士は顔は笑いはしなかった。
「じゃあ黙って中学生大会に出ちゃうかな。ミニスカセーラー服着たいなあ。大島先生が推薦してくださいね。パパって呼んであげる」

このあっけらかんとした女流棋士を紹介をされ伊緒と母親は、
「まだ時間がありますから女流棋士の育成会も紹介しますわ。大島先生以外の皆様はこの美人女流棋士の私について来てくださいね。しっかりついて来ないと迷子ちゃんになりますわ」

美人女流について伊緒たちは二階に上がる。
「今日は私ね中学生大会のテレビ中継のために呼ばれているの。解説は男性棋士の先生ね。女流2級になって初めてのテレビ解説なんだ。もうめちゃくちゃ緊張感なの」
緊張したり将棋に行き詰まりを感じたらいつも大島7段に相談に行くらしい。
「だってねぇ大島先生ってさあ駄洒落がずれて面白いんだもん。街ですれちがったりしたらまず女の子は走って逃げるけど」
育成会の大島7段は慕われています。

女流の育成会は主任を蛸島章子元女流名人(初代)が務める。女流2級はこんにちはと蛸島さんに挨拶。
「あらっいらっしゃい。3月に育成会を卒業したらまた里帰りしたくなたのかな。アッそっか今日は中学生大会だから貴女も出ちゃうのかな」
いえいえ蛸島はちゃんと知ってる。テレビ中継のアシスタントを務める女流2級のことを知ってる。しみじみとよくぞここまで成長をしてくれたなあと蛸島は我が娘のような心境で見ていたのである。

「こんにちは蛸島さん。こちらの女子中学生は東海地区の優勝した女の子なんですよ」
杉本が伊緒を紹介した。伊緒はペコリと会釈をする。蛸島には地区優勝の肩書きが耳に残る。
「中学生大会に出場をされるの。そう頑張ってちょうだいね。中学生大会優勝されたら杉本先生のお弟子さんになられるのかしら。お家は東京かな。アッ東海地区だから名古屋ね。新幹線で千駄ヶ谷まで通うことは考えてくださるかしら。ベスト8でもウチ(女流育成会)は歓迎よ」
優勝したら女流育成会に来てもらえたらっ蛸島の願いであった。杉本はにっこりとした。

女流2級棋士は蛸島にしっかりテレビ頑張ってねと励まされた。

中学生大会はまもなく開幕である。

「伊緒ちゃんどう緊張感はなくなったかな。緊張感もある程度はなくなってはいけないんだがいつまでもあがったままではね」
大会開幕まで時間があるからと杉本は盤面を並べた。伊緒に指導対局をするためだ。
「はい先生よろしくお願い致します」
杉本の指導対局はまったく考えなしにスゥースゥーと指した。

杉本の早指しには意味があった。
「緊張をとりあえず除くために。これから始まる全国将棋大会に対するアレルギーをなくすために」

伊緒は杉本の指し手に誘導されるようにスゥースゥーと指していく。
「杉本先生気持ちがいいくらいに指されていくわ」
約10分程で終局を迎えた早指し将棋であった。杉本は綺麗に負けた。

「よし伊緒ちゃん頑張ってくれ」

全国中学生大会は会館の大広間を使って開催された。日本全国47都道府県代表をブロックに振り分けている。登場の棋士たちは16人。4人のリーグ戦4ブロックに分けて戦い上位2名が決勝トーナメント進出の栄誉であった。
「代表の16人の顔ぶれはどうかな」
杉本は北から南からと代表の名前と棋力を考えていく。

中学生クラスにまでなると小学校から強い子供ばかり。目新しい子供があまりいなかった。
「初顔はひょっとして伊緒ちゃんだけかもな」
紅一点であった。
「4人リーグの組み合わせがまずは問題だけどね。アマ五段位が集まると決勝は難しいけど」
杉本としては伊緒をアマ2段かと見ていた。かなり辛口での2段である。

中学生大会は予選ブロックが始まる。伊緒はAブロックになった。
「伊緒ちゃん頑張ってもらってと言いたいが。メンバーを見るかぎりかなりタフなブロックだな」

伊緒2段以外は5段が3人である。この中から1位か2位にいかなければ決勝進出はできない。
「アマ5段ばかりだっね」
杉本は腕を組み伊緒は0勝3敗を喫するのではないかと思った。

予選が始まると育成会の大島7段や蛸島女流名人も顔を出す。
「杉本どうだい。娘さんの調子は」
大島7段は普段から育成会の子供の将棋を見ているため実力のあるなしはだいたいわかった。
「男に混ざっての女流だからな。例え中学生だとしてもハンディを与えることをしないと勝ち進むのは難しいじゃあないか」
大島は対局をする伊緒の後ろに回った。
「振り飛車だね。なかなか駒組みはしっかりとしているじゃあないか」
大島は全対局に目を通す。グルグルと周り再び伊緒に戻ってくる。
「伊緒ちゃんどこまで手は進むか。あれっこれは珍しい。四間飛車か。ちょっと杉本に似た形だな。なんだ杉本の教えた形をやっているわけか」
果たしてこのまま勝ちを得ることができるかどうか大島は楽しみに思った。

蛸島女流名人(育成会)も大島と同じで伊緒が気になって仕方ない様子である。
「男の子に混ざっての女子対局は大変ですわ。この予選リーグを突破するだけでも褒めてあげないといけないくらい」

蛸島は伊緒の対局を見つめる。背筋をピンっと伸ばし凛々しく見える。
「細い腕からピシャピシャと駒を指しているなんて小気味いいわね」

蛸島女流名人は紅一点を見つめる。

予選の一斉対局が開始されて一時間が過ぎようかとする。

「(もう手が)ありません」
全8対局の内一番早くに投了したのが紅一点の伊緒だった。
「うーん勝てないか」

杉本が伊緒の将棋をみたら。
「駒組みはまずまずだけどね。攻めがまずい。磐石の守りを突き崩せないのは力量もあるが相手(アマ5段)はうまいや」

伊緒1敗を喫する。

対局を終えて伊緒は母親や杉本の控え席に戻ってくる。
「悔しいなあ。私負けちゃいました。対局では緊張しなかったんだけど。途中で銀将をただ取りをされてしまいました。そこからはエヘヘわけがわかんなくなっちゃった。適当にポンポンやっちゃったエヘヘ」
伊緒はペロリっと可愛らしく舌を出した。対局相手がいかに強いかを肌で感じた伊緒であった。

杉本はなるほどなっと頷く。
「対局の相手に誰が座ったとしても心を乱してはいけないよ。常に平常心で駒を動かさないとね。次のリーグ戦には頑張ってもらうよ。伊緒ちゃんは痩せても枯れても東海代表さんなんだから。こんな予選リーグで消えかけてはいけない」
杉本の願いは東海代表から優勝者を出すことだった。
「伊緒ちゃんのリーグはちょっとレベルが高くなっているからタフな面さえあるが」

伊緒は対局を終えると昼休みになった。
「伊緒ちゃん。お昼は僕が(おご)るから。さあお母さんも一緒に。会館近くの和食レストランに行きましょうか」
杉本としては伊緒に少しでも平常心で盤に向かってもらいたかった。そのためには1にも2にもリラックスを心掛けたい。

「この和食レストランは棋士の皆さんがよく利用をされているんだ。歴史も古くて戦後から営業されている。歴代名人はよく来ているんだよ」

伊緒と母親は和風おろしハンバーグ定食を。杉本は豚カツ定食赤だしつきを頼む。
「残念ながら味噌カツではないんだねアッハハ」

定食が運ばれると杉本の将棋のレクチャーも始まった。緊張感のある対局は数々指してきた杉本7段。自らの失敗談を面白可笑しく話す。
「新4段時代には対局される棋士さんがみんな有名な方ばかり。毎日緊張感いっぱいでいたからね」
あまり負け過ぎたからある日開き直って指してみたら、
「無我夢中の対局で気がついたら逆転勝利だった」
プロ4段の初勝利は開き直ってからの呼び込みであった。

「ハイッわかりました先生。私も開き直って将棋を指してみます」
伊緒は可愛らしくにっこりとした。午前中の強ばった顔はそこにはなかった。

「あらっ杉本さんもいらっしゃったの」
杉本たちの会食の隣に蛸島女流名人(女流育成会理事)が来た。
「おぅ〜杉本。お前もここかいなあ。なんだ豚カツ食べているんか。名古屋の豚カツじゃあないぜ。千駄ヶ谷(将棋会館)裏の豚カツ牧場からの豚さんだよ。うまくないだろ。豚死したやつばかりだからアッハハ」
蛸島女流理事についてきたのが大島7段(育成理事)だった。

会食は大島理事と蛸島女流理事を交えて和気あいあいとなる。蛸島女流理事はどうにも伊緒が気になるようだった。あれこれと伊緒にプロ棋士になるのならないのと尋ねた。豚カツを食べながら杉本は、
「まあ伊緒ちゃんは勘弁をしてください。本人はごく普通の女子中学生さんですから(蛸島先生諦めてくださいよ)」

杉本には伊緒はアマ2段ぐらいの実力。今の年齢15歳を考えたら女流棋士はしんどいのではないかと思う。また男の棋士なら杉本も育てたいとは思うが女流棋士は眼中になかった。

「あらっそうでしたの」蛸島女流理事は引かない。女流名人時代の強引な蛸島女流名人のあの眼光鋭い勝負師の顔が覗く。
「伊緒ちゃんが望まれるのでしたら女流育成の試験をぜひ受験されてもらいたいわ。全国中学生大会に出場された女の子はあまりいないの。私が女流理事になってからもひとりかふたりと数えるくらいよ」

伊緒ちゃん女流育成会にいらっしゃいな。千駄ヶ谷の将棋会館で美人の譽れ高い蛸島理事が待っています。

伊緒はどうしましょうと杉本に助け舟を求めた。
「女流棋士さんになるのに東京まで通って来なくてはならないのですか。名古屋からだと大変だわあ。新幹線で毎日ピューしなくちゃあいけないわ」

伊緒は蛸島女流育成理事に盛んに口説かれていた。隣に座る母親は大島育成理事に口説かれてだった。
「お母さんはふたりのお子さんがいらっしゃるんですか。女の子と男の子ですか。お母さんえらいなあ男女を産み分けたんですか」
大島育成理事は不味い不味いと言いながら豚カツ定食を頬ばる。
「いえね僕んとこは女の子3人でしてね。3人目は勝負を賭けたんですけどね。コケッちゃったアッハハ」

母親は伊緒の父親がアマ将棋の有段だと説明をした。

結婚当初から仕事と将棋しか楽しみがないような父親だったらしい。
「仕事と将棋しか楽しみがない男。なんだ僕や杉本みたいな方ですね。僕は競馬がちょっと加えられたりするけど」
母親は大島の冗談に微笑んだ。
「伊緒も下の息子も将棋をたしなみますの。父親は男の子を強くしたかったらしいのですが」
父親と弟が毎晩将棋をしているのを姉の伊緒が見て覚えていったらしい。
「娘は筋がよかったのでしょうか。こうして中学生大会で活躍ですからね」

大島は男の子がいると聞き杉本の顔を見た。
「伊緒ちゃんの弟さんいますよ。東海の小学生大会で準優勝をしています 
。後一歩でこの千駄ヶ谷にこれたんですけどね」

大島は東海の小学生大会はどんなだったと熱心に聞いてきた。すでに目は冗談は言わないものだった。
「へぇ四間飛車が得意なのか。基本的に振り飛車が好きなんだな。となると杉本お前が指導したんだろ」
キッと杉本を睨んだ。
「残念ながら違いますね。お父さんがアマの棋士さんで。ご熱心にご指導をされていますね。で嬉しいことには僕の著作を愛読されていただいたから」
杉本は頭をかきながら照れた。
「というと父親が指導したのか。アマはどのくらいなんだ。うーん父親の(たまもの)か」
アマチュアの指導で大丈夫なのかと大島は顔を曇らせた。

昼休みを終え伊緒は後半のリーグ戦2局目に入る。対局相手はアマ5段である。会館の対局場では伊緒は背筋を伸ばして居ずまいを正した。
「姿勢が悪くなるといい将棋が指せないの。お父さんがいつも言ってたわ」
猫背や悪い姿勢は将棋の思考に悪影響を来たらすらしい。

大会係員が腕時計を見て合図を送る。

対局開始

「よろしくお願い致します」
伊緒の盤前に座るのは落ち払う中学3年生だった。

振り駒の結果伊緒は後手になる。
「よろしくお願い致します」
端整な顔に似合わない細い声だった。

パチン

対局は始まった。伊緒0敗の2局目。2連敗を喫するならば予選敗退は確実である。
「なんとか勝ちたいの。せっかく名古屋から将棋会館まで新幹線でやって来たんだから。杉本先生にも申し訳ないわ」

パチン

伊緒は最も得意とする振り飛車を陣型にする。守って守って死守をする消極的な将棋はやらなかった。
「攻めて攻めてと行きたい。王様を守ってなんて真っ平だわ。攻められたらそれまで。キッパリ諦めて名古屋に帰りますわ」

伊緒の飛車はスゥーと四間に決まる。戦闘開始の狼煙(のろし)の合図である。
「なるほどこの女の子は四間飛車で来るというのか。望むところだ」
対局の中学生は落ち着き払いゆっくり手を伸ばした。銀将を右前に出した。飛車が来るならいつでも来いである。

杉本は控え室モニターで伊緒の対局を観戦していた。心中は決して穏やかならないものがあった。

モニター隣には育成会の大島7段がいた。かなり苦虫を潰したような顔である。
「この女の子伊緒ちゃんは四間飛車をどのくらいマスターしているかだな。相手は強いぜ」
チラッと杉本の顔を眺めた。
「中学3年だが小学校時代から全国大会には出場している。俺の方から奨励会を受験しなさいと勧めたんだがな」
大島のいう中学3年生という意味はすでにプロ棋士となる年齢には越えてしまったが含まれる。

中学3年生は1部上場会社の社長の跡継ぎ息子さんだった。
「なんとな小学大会優勝した翌日に父親から電話をもらってしまった。今後一切うちの息子に奨励会やプロ将棋は勧めないでもらいたいと怒鳴られちゃった」
小学生時代から素質は充分に見込まれていたらしい。
「というと大島さん。この子は中学生のアマ5段だけど奨励会の3段あたりの実力ですか。ヒャア伊緒ちゃんには重荷だなあ」
中学生アマ5段は落ち着き払い差し続ける。伊緒の指す手筋はすべてお見通しとなり余裕を持って差し回す。

杉本から見たら奨励会3段とアマ2段のような気配だった。全く格の違いがありありである。大島も画面を眺めた。
「奨励会かどうかはなんとも言えないがな。ただ言えることは杉本の得意な四間飛車戦法はとっくに防御されてしまったということさ。あの銀将の差し回し見てみろ。見事の一言だぞ。中学生の差し手ではないな。守ってよし。隙あらば攻めたてるの構えだぞ」
大島と杉本はモニター画面に釘づけになる。

中盤を過ぎた。伊緒の果敢な攻め手がことごとく討ち取られた。次の一手がなくなってしまう。
「なんなのこの人。私が攻めても攻めてもうまく受けちゃう。もうやる手がないじゃあないの。やだあ私負けてしまうわ。なんとかしなくちゃあ」
伊緒はしかなく守りの駒を王将の頭に乗せた。
「やったな。これからは攻めまくるだけさ」
伊緒の王将にズバッと突き刺さるがごとく角行を差し回してきた。伊緒は防御だけに回り守勢から劣勢にだんだん堕ちていく。
「あんっやだあ助けてちょうだい」

対局は秒読みに入る。

伊緒は顔を真っ赤にして防戦に務める。秒読みからの焦りも手伝い益々窮地に堕ちていく感じだった。
「あ〜ん杉本先生助けて〜」

伊緒は大きな口を開け降参間際である。時間がなくなり考えもまとまらず銀将を敵陣に打ち込む。

打ち込んだ銀将は杉本がたまにやる幻の銀将打ちに似ていた。

打ち込まれた中学生は唸った。
「この銀将はなんだろう。意図が読めやしない」
あらあらっ悩んでしまう。
「おい杉本!あの銀将はお前の得意なやつじゃあないか。えっと谷川名人に初勝利した対局で使ったやつだな」
大島は頭を抱えながら絞り出すように記憶の引き出しから思い出した。
「ええその通りですよ。あれは谷川名人が攻めに攻めて僕は苦し紛れに放った銀将です。伊緒ちゃんはそこまで参考にしているのかな」

この銀将打ちから形勢は逆転をする。中学生は銀将の意味が理解できないまま悩んでしまう。
「どんな意図が含まれたのか。無駄駒に見える。こんなのは意味のない駒なんだぞ。誤手なんだ関係ないんだ。無視しておけ。しかし気になって気になって仕方ない」
秒読みは早く進み焦りが生じてくる。
「あかんやっ。わからない」
顔は真っ赤になる。どうしても読み切れない。完全に平常心を失った。わけのわからないまま銀将の横に駒を並べた。

「よしもらった。今度は私から攻めていくわ。王手王手の連続で詰めてやるからね。覚悟じゃあ」
伊緒は袖まくりをしてよしやるぞっと勢いを戻す。

王手!王手!王手!

モニターを見た杉本も大島もあんぐり口を開けた。

「(後の受け手が)ありません」
伊緒は逆転勝利を収めた。
「ふぅ〜まさか勝てるとは思わなかった」
にっこり笑って対局室を後にする。

予選リーグは1-1となる。

「杉本見たか。勝ったぞあのお姉ちゃん。逆転勝利だ。銀打ちが利いたなあ」
杉本は驚きの(まなこ)パチクリした。まさか伊緒が勝つとは。
「あれだけの劣勢をあの局面でひっくり返すとは大したもんだ。こりゃあひょっとして決勝トーナメントに進出出来るかもしれない。いやあ驚きだ」

杉本たちの控え室に伊緒がニコニコしながら入った。
「おめでとう伊緒ちゃん。逆転勝利だったね」
パチパチと俄に拍手がわきあがる。
「杉本先生ありがとうございます。なんとなく勝つことができました」

杉本はあの局面で銀将をよく指したねとねぎらう。
「ありがとうございます。あの銀将は微かに本にあったのを思い出しました。でも秒読みが気になって指した後はどうなるのかなっ。全く深くは考えてはいなかったですね。苦し紛れの一手でしたエヘヘッ」
伊緒は杉本を見ながら悪戯っぽく笑う。どうも杉本の銀将だとは気がついてはいなかった。

伊緒は母親からもよく頑張ったわねっとお菓子をもらう。
「お母さんはモニター(将棋)を見て伊緒ちゃんが負けちゃうと思ったら泣けちゃった。ハイッご褒美にチョコレートよ。ベネズエラのやつとベルギーね。杉本先生、大島先生もおひとついかがですか」
杉本は甘いものは食べないから辞退をした。
「ありがとう。その言葉だけで充分です」
大島はニコニコして手を出す。
「あっこれはこれはお母さん。僕はチョコレートとお母さんが大好きです。出来たら両方いただきたいなあ。パックン」

伊緒の第3局。泣いても笑ってもこれに勝たなくてはいけない。
「決勝トーナメント進出は2-1なら間違いなし。1-2は無理だね。しかし対局相手は0-2。必ず1-2にしなくてはいけないと必至に向かってくる。焦った方が負けだ。伊緒ちゃんは平常心で盤に向かってもらえたら」
杉本はあれこれとアドバイスをする。
「わかりました。焦ったら負けはよくよく承知しています」

母親からもらったチョコレートの効果はいかに。
「甘いものは頭の働きを活性化させるらしいのです。伊緒にも効果が現れますことを祈ってますわ」
チョコレート効果は真っ先に大島7段にはあった。

チョコレートの包みをクシャクシャさせた。
「お母さんチョコレートの効果ありますね。僕あれっ。なんか頭がクリアになって来ました。おおっ気のせいかお母さんが段々きれいな女性に見えてくる。なんてことなんだ。これはお母さんからいただいたものが微妙に作用したからだ。そうかチョコレート効果ですね。いかん頭の働きが抜群に良くなってしまう」
大島は母親に歩み寄る。その手を握ろうかとする。

母親は大島の歩み寄りをスルッと避けた。
「それはそれはよかったではありませんか」
照れながらイソイソと部屋を出て行ってしまった。

「ハヘッ」

大島は目が点になってパチクリしていた。

杉本は苦虫(にがむし)を潰した。

伊緒の対局は気合いが入る。
「泣いても笑っても予選は3局目これでおしまい。勝てば決勝トーナメント進出。負けてしまえば1-2で対局相手と並んでしまう(敗退濃厚)そのまま名古屋に帰らなくてはいけないのかっ」
負けは是が非でも回避したかった。

パチン

伊緒は目を瞑り得意な四間飛車を指す。心境としては負けたら杉本7段の本がいけない。間違っている。

パチン

指す手が10目となる。

「えっ」

伊緒は我が目を疑う。
「なにこの子。私と同じ四間飛車(戦法)をやってくるのね」

伊緒の今までの対局相手の戦法。(公式対局のみ)
居飛車70%
中飛車20%
四間飛車0%

将棋教室ではたまに四間飛車と指すことはある。大概は大人でありアマ2段以上。
「大人の方はいろいろ指すして飽きたから気分転換にやりましょうが大半だわ。中学で指すのは初めて見たわ」

控え室のモニターを杉本と大島は眺めた。
「杉本珍しい対局だな。まるでお前が二人いるようだぜ。と冗談噛ましたが意外や意外。杉本が二人はまんざら間違ってはいないかな」

対局相手の中学生は関東東京地区の代表だった。大島は小学生時代から顔と名前は知っている。
「あの子のプロフィール見たら出身は千葉県だけどな。父親の仕事の関係で日本中グルグル回っているらしい」
父親は大手の損保会社勤務である。損保将棋部の部長さんを務めアマの将棋棋士としてはかなり名が馳せていた。
アマの実業団将棋大会では常連さんだ。谷川名人のお兄さんが実業団で強いと言われているがその一世代前に名前があった方だな」
父親の名前を大島から聞いて杉本も納得をする。杉本は棋譜は見たことはないがその強さは見伝(けんでん)をしていた。東大将棋部出身を思い出す。
「損保のあの方の息子さんですか。確か愛知出身だったですかね。名古屋ではなくて東の方でしたか」
三河の豊橋市出身だった。
「そっ豊橋出身だね。実業団でトーナメント勝ち進んで話題になったんだよ。何年前かな。父親は豊橋であの
「殿」(松平健)と同郷でね。同じ豊橋中学の先輩後半にあたるらしい。損保の将棋部では殿さまと呼ばれているらしいぞ。となるとあの中学の息子は(わか)殿下となるぜ」

ハッハァ〜皆の者。殿の御前である。控えろ〜控えろ〜()が高い。

大島はテレビ番組の時代劇その台詞を真似した。
「大島さん大島さん。控えろ〜は『水戸黄門』ですよ。まあ同じ徳川さんのことだけど」

パチン

対局はお互い四間飛車がガップリ(つの)を出して向き合っていた。
「両方とも杉本の戦法を熟知だなっ。あの銀将の動きは杉本そのままだぜ。父親が指導しているなたぶん。うん?おい杉本ちょっと聞くが」
伊緒の父親は実業団出身なのかと聞いた。
「あっ伊緒ちゃんのお父さんの棋歴ですか。わかりませんね。大島さんの好きな(伊緒の)お母さんに聞かないとわからないですよ」

大島はにっこりした。
「お母さん探してくるかな。大変重要な問題が生じてしまったからな」

大島は四間飛車などという特殊な戦法を子供に教える父親に興味を持った。
「子供の年齢から考えてひょっとして伊緒の父親と実業団将棋部と関係があるのではないか」
と長年の勘から睨む。

日本将棋連盟の育成会に東京近辺からお子さんがやってくる。
「育成会は定員というものがないから僕の目の届く範囲でいくらでも入会させてやりたい。だが誰でも彼でもいらっしゃいとはならなくて」
大島自身が入会希望のお子さんと指導対局をされることもちょくちょくある。
「強いお子さんはいくらでもいらっしゃる。強いからプロになりたいと希望をしてくるんだけどね」

対局をして序盤から中盤あたりでだいたい子供の棋力はわかっていくらしい。
「駒の捌き方に筋のよさが見られていくお子さんは入会させたいと思うね」
さらにどなたが子供の指導をしたかもだいたいわかるらしい。
「うーん将棋教室の師範(アマ4〜5段)が丁寧に教えたりしてくれますね。もうひとつは父親が将棋の指導。父親の指導はすぐにわかる。なぜならば」
指導のアマ棋士はあれもこれもまんべんなく教え込む。だから子供はオーソドックスな攻めの戦法を学び身につける。

父親は将棋指導のプロではないから、
「まあ悪く言えば父親の好きな戦法だけを教えてやる。苦手な手や指したことのない戦法は当然に子供には伝わらない。野球ならば投手出身は投球ばかり。打者出身ならば打撃ばかりを父親は教えていく。投げて打つまではいかない」

大島は育成会入会の指導対局でユニークな将棋を指す。

ワザと飛車をトンデモナイ振りに持っていく。
「攻撃の激しい飛車はちゃんと見ていないといけない」

角行を効き筋の異なる向きに指して子供の反応を見る。
「角行は飛車と同じ大駒と考えていたら火傷(やけど)をしてしまう」
育成会には優秀な豆棋士をどんどん入会させたい。
「さらに優秀な子供を取りこぼしをしてはならない使命さえある」
大島の慧眼ひとつで子供の将来が変わってしまう。
「父親が子供にする将棋指導は当たりハズレがある。教えて悪いとかいけないとかの問題以前なんだろうがな」

大島は将棋会館のロビーを探してみる。伊緒の母親はいないかと。
「こちらに居なければ厄介だ」
ロビーには出場した豆棋士の父兄の方々がじっとして我が子の勝利を待っていた。伊緒の母親はグッとハンカチを握りしめて娘の勝利を待ちわびていた。
「やあお母さん探しましたよ」
大島が伊緒の母親に親しげに話す。父兄の方々が不思議な顔をした。なぜこちらの父兄だけプロ棋士と親しげなのか。
「大島先生」
母親は娘の対局が心配でたまらなかった。

大島はロビーではまずいからと会館のラウンジに行く。
「お母さん少し時間をもらえますか」

大島は真剣な目をして伊緒の父親棋暦を聞いた。そこにはオチャラケな風情はなかった。

父親は石川県出身。大学で名古屋に進学をしていた。
「石川県ですか。女流育成会の蛸島(女流)名人と同郷ですね」
年齢も近い。

本格的に将棋は大学から始めたらしい。
「私は主人と会社で知り合いました。その頃は会社の将棋部でかなり指していましたわ。でも強いかどうかはまったくわからないですけど」

年齢と出身大学。所属実業団。

大島は携帯サイトを検索してみた。
「あっありますね。大学時代は無名だが実業団時代には活躍されています」

父親は実業団ではかなり活躍が目立つ。個人戦では年度によりベスト8あたりまで勝ち進んでいた。
「対局の相手は誰だったんだ。うーんなるほど。お母さんわかりました」

伊緒が今対局している中学生。なんとお互いの父親は実業団将棋で対局の過去が見つかる。
「二回対局してますね。1勝1敗の五分だ。あれっ年齢もあまり変わらないな」
大島は棋譜が見たいと思う。さらに大学将棋選手権を検索した。
「東大と名大ならひょっとしてヒットするかもしれない」

約30年前の対局が見つかる。大学将棋は日本将棋連盟が主催していた。
「しめた。大学選手権なら棋譜が会館に残るはずだ」
大島は記者室のパソコンに向かう。
「大学選手権なら」
記者室にゴソゴソと入りパソコンをクリッククリック。
「あったぁ」
すぐダウンロードをして大島の携帯に取り込む。回りにいた将棋記者はキョトンとしていた。

夢中で携帯画面をクリックし棋譜を読む。
「両者とも中飛車か。この時代には流行した戦法だろう。うーん序盤は手堅く指してはいるが後はどうもなっ」
大島はラウンジの椅子によっこらしょと腰掛けた。丁寧に駒の打ち込みを確かめたくなった。
「中盤あたりは定石ウンヌンでない。アマの将棋という世界だ。あちゃあ名大そりゃあないぞ。明らかな誤手になるな」

クリック〜クリック〜

終盤まで一気に見る。勝者は東大になっていた。

伊緒は序盤の駒組みを定石どおり進めた。杉本の考案した四間飛車そのままを再現していく。
「直接教えたわけではないがまずまずの駒だな」
対戦相手も伊緒の手順を見ながら同じ駒を並べた。
「まず最初互角な戦いだ。駒のぶつかり合いがある中盤からは激しい争いだな。伊緒ちゃん耐えれるかな」
モニターを睨む杉本。両者とも杉本2世と言われるような四間飛車に仕上がる。

控え室に記者が入ってくる。四間飛車が指されていると知って早速第一人者杉本7段に意見を聞きたいとやってきた。
「杉本先生。こりゃあ見事な四間飛車だね。鮮やかというべきか。芸術の域に達した感じですね。ところで杉本先生が教えたんですか」
対局者のプロフィールを記者は眺めた。女の子は名古屋だから杉本(師範)だろうと想像をした。

「残念ながら二人とも指導はしたことなくて。お役に立てず申し訳ない」

対局は中盤に突入をする。係員が時計を確認をした。
「持ち時間を使いきりました。これより秒読みに入ります。よろしくお願い致します」

杉本は膝を乗り出しモニターを眺めた。
「これからが難なんだ。伊緒ちゃん焦ったらいけないぞ」

伊緒はキリッと口唇を噛んだ。

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン

中盤の難しい局面は両者同じ条件である。攻める手だてと守る姿勢。秒読みの中いかに対処をするかハラハラの場面である。

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン

「伊緒ちゃん。守るならば守るに徹しなくてはいけない」
杉本は腕組みをした。モニターに映る伊緒の局面に苛立ちを感じる。
「守る攻めると欲張りは失敗を招くんだ」

杉本この局面から代わりに指したい。

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン

相手の中学生に焦りの色が見える。
「局面が局面だから迷いが生じたんだろう」
モニターを覗く記者もついつい熱心に見てしまう。
「杉本先生。最高の将棋になりそうですね。まだまだ拮抗している」

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン

伊緒も顔いろが変わる。得意とする飛車がどうしても捌けない。
「銀将と飛車が全く攻め切れない。なぜなの」
秒読みの中迷いが生じた。

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン

「難しいね。伊緒ちゃんは今攻め切れないと危ない。攻めないと相手の桂馬の捌きや銀将が活用されてしまう。うーん危ない」

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン

伊緒の対局以外はそろそろ終局を迎えていた。対局が終わった中学生たちはこぞってモニター室にやってくる。杉本7段の解説が聞けるのではないかと期待をした。
「先生この手は正しいのでしょうか。僕なら飛車道をあきらめてしまいたいです。あれだけ厚く守るんだから突破はやめたいです。でも四間飛車は行くんですね」
杉本にあれこれ質問が飛ぶ。言われた杉本はモニターに集中したくてたまらなかった。

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン

伊緒は攻撃の手がなくなった。得意の飛車が封印され身動きできなかった。
「あーんやだあ飛車道が邪魔されてしまったわ。私負けちゃう。強行突破しなくちゃあ(攻撃される)」
手持ちの矢は使い果たした。振り上げた剣は刃がボロボロになったという負け(いくさ)となりそうである。
「伊緒ちゃん悩むだろう。敗着(ミス)があったからな」
杉本7段は伊緒の攻撃筋を嘆く。
「かなり強引に駒を使い過ぎだ。飛車の位置が悪くなったから早めに直してやらないといけない」杉本は口唇を噛んだ。初歩的なミスであるらしい。

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン 

伊緒は攻撃される。
「正直この攻撃には伊緒ちゃんの駒組みは耐えられないような気がする」
杉本は独りブツブツ愚痴をこぼしてしまう。自分が駒を持てばうまく捌ける自信があるという口ぶりだった。それを傍らで記者はフムフムっと聞いていた。
「杉本先生が駒を持てばアマ5段ぐらいは簡単に料理ですからなあ」


伊緒は攻撃は得意だが防御には難点がある。相手が巧妙に駒を進めた場合対処できるかは未知数であった。
「よし勝てる。女の子は打つ手が全てなくなった。僕は誤手(ミス)をしない限り勝てる」
2戦0勝2敗の中学生は胸が踊る。伊緒の陣型をじっくり見ていく。攻め処をひとつか2つかと絞る。

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン 

「ちくしょう。秒読みが早くて考えがまとまらない。いかん焦る。落ち着け落ち着け」

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン 

杉本は中学生の攻めに疑問を感じる。
「なんだろう。攻め切れないと見たのかな。伊緒ちゃんの陣型が堅牢だと判断したのか」
モニターを見ている杉本7段には伊緒の詰み(敗け)が読み切れていた。

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン 

「ちっ頭が働かない。詰みはあるはず。この盤面には詰め将棋の問題そのままだ」

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン 

頭ではわかったつもりである。しかし指が差し手が思ったように駒を差して行けず。
「あれっどうしちゃったのかしら」
伊緒は守りが楽になっていく。

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン 

杉本は伊緒の敗けを覚悟していたが、
「あらっ挽回ですかね。自滅してしまったなあ」

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン 

伊緒お得意の『飛車戦法』が活きてきた。
「飛車が捌けるわ。銀将を取り換えたら私に勝ちが見える。いやっ強引に攻めてしまうか」

10秒…5秒‥4‥3‥

パチン

伊緒の(王将の頭)銀将が燦然と輝いた。

10秒…5秒‥4‥3‥

中学生は頭を抱えた。どうにも対処出来なくなった。

「(打つ手が)ありません」
投了してしまった。伊緒は予選2-1で通過を果たす。

対局会場とモニター控え室。俄に拍手が沸き上がる。
「杉本先生おめでとうございます。伊緒ちゃん決勝トーナメント進出でございますね」
杉本は誰かれとなく祝福をされた。

伊緒は決勝トーナメントの参加者として大会本部にサインをする。
「これで全国の中学生ベスト8に名乗りあげたわけね。フゥー疲れたあ」

髪の毛をクシャクシャにした伊緒はそのまま雑誌記者からのインタビューを受けた。
「イヤーん御化粧ぐらい直したいなあ」

控え室にいた杉本7段。ぞくぞくと伊緒のベスト8の祝辞が入る。
「杉本先生おめでとうございます。確か東海地区(名古屋)からの決勝トーナメント参加は初ではありませんか」
記者に言われてハタッと気がつく。
「初でしたっけ。そうでしたかっ」
杉本自身が中学生将棋にまったく興味がないことの現れではあった。

それまでは名古屋からの中学生の決勝進出どころか大会そのものの進出さえなかった。
「そうなりますかね。イヤア気が付かなかったなあ」 

伊緒は翌日の決勝トーナメント参加にサインをして将棋会館を出る。
「フゥ〜長い一日だったわあ」
会館近くのホテルに投宿をする。杉本が名古屋から上京した際の常宿だった。

個人経営ホテル女将(おかみ)が杉本や伊緒を出迎えてくれた。
「これはこれは杉本先生。よくおいでくださいました。あらまあっこちらは可愛いらしいお弟子さん。伊緒さまでございますわね。先程記者の方が教えてくれましたの」
女将は杉本の奨励会時代(中学生)からの馴染みだった。

伊緒と母親は部屋に案内をされ(くつろ)ぐ。
「御母様大変でございますわね。明日から決勝トーナメントでございますね」
女将もかなり将棋には精通をしていた。
「私自身は囲碁も将棋も指しません。弟と主人が囲碁も将棋も熱心でございます」
女将の弟は将棋の奨励会で頑張った。しかしプロにはなれずじまい。
「弟は杉本先生と同級生で同期でしたの」

結婚したご主人の実家がたまたま将棋会館近くの旅館/ホテル。その縁で棋士(将棋・囲碁)の方がよく泊まることになっていた。ご主人はアマチュア有段者(囲碁/将棋)。囲碁も将棋もそれなりに強い。旅館ホテルの組合囲碁・将棋大会で優勝の常連であった。

伊緒の通された部屋には数々の棋士のサインや色紙が飾られていた。
「歴代の囲碁/将棋の名人さんやタイトル保持者の方はだいたい投宿をされています。岡崎の石田和雄8段もございます」

伊緒の通された部屋。座った後ろには『大山名人』の毛筆サイン色紙が飾られていた。見た瞬間現代っ子の伊緒でも一瞬緊張感が走った。

「杉本先生のサインもございます。杉本先生は当旅館とは付き合いが長いですから」
女将は杉本が子供の時代から目をかけてくれていた。杉本のサインは年季が入っていた。
「中学生の奨励会時代から昇段をされるたびにサインを御願いいたしましたから」
奨励会の時代初段から7段まできれいに並んでいた。
「まあっ大した棋士でもないけどね」
杉本はちょっと照れた。女将さんは杉本の顔をみやり、
「後のサインはどうかな。7段まで来たら」
杉本はチラッと女将を見た。まあ話はそれくらいにして欲しかった。

女将からは杉本に『8段に昇段』と『7大タイトル』のひとつぐらいはとよく聞かされていた。
「杉本先生頑張ってくださいよ。この女将が後押ししていますから」
30台後半の杉本7段だったが女将の前では母親と息子のような存在である。

旅館で伊緒は将棋にドップリと浸かり体を休めた。
「すごい旅館だね。強い棋士にならないといけないみたいな錯覚をしてしまうわ」
伊緒は母親と同じ布団で(つぶや)いた。

翌日。全国中学生将棋大会決勝トーナメント開催。全国から勝ち抜いた参加者は8人。

「中学生の棋士は何万といらっしゃるが」
杉本は会館の前で将棋記者からインタビューを受けていた。
「女の子が勝ち残りはあまり記憶にないくらいです」
インタビューの矛先は唯一の女の子・伊緒に向いた。
「どうですか伊緒ちゃん。一晩眠ってよい手が(ひらめ)きましたか。決勝トーナメントは杉本先生直伝の『飛車戦法』を使うのかな。ぜひ得意の飛車戦法で頑張ってもらいたいね」
杉本の四間飛車は伊緒のおかげで市民権を得た。将棋記者にも理解者が増えていた。
「ハイッ杉本先生を尊敬しますから。(飛車戦法は)期待に応えられる将棋を指してみたいです。四間飛車になるかどうかはちょっと言いにくいと思います」
杉本7段と伊緒が会館のロビーで記者たちに捕まっていた。その横を蛸島女流名人(育成会理事)が通る。記者は見逃しはしない。
「あっ蛸島さん」
蛸島自身もまさか女の子が決勝トーナメントなんかに残るとは思っていなかった。だから気になって伊緒の様子を見にやってきた。
「ちょっと先生にお話を。(伊緒ちゃんの女流棋士の可能性)聞かせてくださいな」
蛸島も記者たちに取り囲まれた。
「女の子が全国中学生決勝トーナメント進出は二人目の快挙です。女流棋士育成の理事としてのご意見を聞かせてもらえませんか」

記者にインタビュー。また伊緒と蛸島理事の肩を並べる写真もバシャっと撮られた。

「伊緒ちゃんに頑張ってもらいたいですわ。女流棋士の理事といたしましてはガンガン男の子をやっつけていただきたいわ」
蛸島はゆっくり言葉を選んでインタビューを受ける。
「(伊緒が育成会に入会なら)学校との兼ね合いもありますから。(女流棋士・プロ)の道を選んでいただけたら私は喜びです」
インタビューは伊緒の育成会入りから女流棋士と続く。

だが伊緒としては複雑な気持ちである。
「将棋はお父さんと弟がやっていたから私も興味持っただけ。プロだなんて」
ハードルが高過ぎてピンッと来ない。
「だから弟に頑張ってもらい育成会の大島理事さんに目をかけてもらえたらなあ。姉弟だったら私も女流棋士(プロ)になれそうだけど。ダメダメ、自信ないから」

記者たちからは蛸島理事に伊緒の棋力はどんなものか盛んに聞く。
「蛸島先生。女流ならば(伊緒は)初段か2段はあるでしょう。充分にやっていけますよ」

長い女流デビューのインタビュー。伊緒はさすがに辟易(へきえき)をしてしまう。対局会場に伊緒が入ると杉本が待っていた。
「伊緒ちゃんまだ先のことは早い話だね。記者さんはとにかく先走りしてから厄介なんだけどね」

将棋以外の雑念を振り払い決勝トーナメント(8人)に全力で取り組みなさい。

杉本はなんとかかんとかと伊緒を将棋に集中させようとする。

このあたりはアマチュア棋士と異なりプロ棋士の面目躍如(めんぼくやくじょ)である。伊緒が緊張する言葉は決してかけてはいかない。特に『頑張って』だとかは口が裂けても。

「杉本先生。私は嬉しいわ。決勝進出なんて夢みたいな気分です。名古屋(予選)から対局してまさかここまで勝ち上がるなんて。ラッキーなことですわ」

喜んで決勝トーナメントは戦いたいと伊緒は言った。

「そうかい。ラッキーかい。言われてみたら決勝トーナメント進出は夢のようなことかもしれない」
杉本自身もこんな女の子がここまで勝ちあがることは想像もしていなかった。
「僕が毎年東海地区(名古屋)から連れてくる子供は全国大会で予選敗退ばかりだったからね。引率の僕としては鼻高々だ」

だから決勝トーナメントは負けても構わないと言いたいところではあるが。

「さあって。対局相手の対策作戦を復習しておこうか」
杉本は決勝に進んだ選手全員の棋譜をできるかぎり集めた。杉本がまず頭に叩き込んでいた。

「棋譜の収集は得意でね。インターネットにいかに長く触っているかが鍵になったりしてさ」
杉本は棋譜収集マニア的な面がある。他人の将棋を並べては研究対象にする。
「他人の敗着を知ることは自分の血や肉になる」

杉本が見た伊緒の対局相手たち。伊緒の戦法で勝てるかどうかを検討をする。
「僕らが作戦を練るように対戦相手も伊緒ちゃんの棋譜で対策を練られているはず。実はね伊緒=四間飛車のみだとわかって攻めてこられたらまずい。僕の本(攻略戦法)などを熱心に読まれていたら特に」
杉本の得意戦法(四間飛車)は杉本の攻略本を勉強すれば簡単に破られてしまう可能性が高いらしい。杉本の本はかなり詳しく四間飛車の攻略を書き込みされていた。杉本にすれば痛し痒しである。

「時間があれば伊緒ちゃんに手取り足取りと攻略や防御の手を教えてやりたいんだが」
伊緒が直伝の弟子ならばそれも可能だろう。

「なんせ時間がないから」

杉本は決勝トーナメント進出の8人を戦法別にみた。

居・飛車5
振り飛車3(伊緒含む)

「この飛車戦法でみたら振り飛車の2人が伊緒に当たらなければ。すべてはくじ(ドロー)しだいとなるわけだ。祈りたくなる」
準決勝トーナメント振り分けの抽選となる。大会役員が伊緒を呼ぶ。杉本は伊緒に目配せをした。よいくじを頼むっと。

決勝トーナメントの抽選(くじ引き)。挑戦者は各々くじの箱に手を入れていく。子供らの背後に控えるのは杉本。拳をギュっと握りしめた。
「伊緒(対戦相手は)居飛車に当たれ。振り飛車(2人)は勘弁してくれ。野球ならば直球勝負の居飛車が伊緒には最高なんだ。かなりの練習も積んでいるからね。もしも将棋の神様がいらっしゃったらお願い致します」
くじを引く伊緒も祈った。苦手な駒組み戦法(振り飛車)を2人も倒す自信などありはしない。

8人の挑戦者はくじを引き終える。他の挑戦者も組み合わせには敏感だ。

得意と苦手の棋風。苦手とは決勝まで回避したい。いやできたらお手合わせしたくない。

伊緒が引いた抽選の結果は。

くじの球を係員に手渡した伊緒はにっこりと笑ってしまった。
「杉本先生よかったわ。私ラッキーよ」

ドロー組み合わせは伊緒に最高である。苦手な振り飛車2人は直接対決となった。苦労なしで苦手の戦法のひとりは消えてくれる。杉本もくじ運に力が入る。
「(振り飛車には)勝てないとは言い切れない。もしものことがある」
杉本はホッとする。伊緒が優勝をするためには幸運(うん)も味方にしておきたい。

準々決勝で伊緒と当たる居飛車の子供。振り飛車が苦手はこちらも同じであった。本人としては振り飛車は振り飛車だが女の子に当たるとはラッキーだなっと嬉しかったようだ。

4対局は同時にスタートした。伊緒は髪の毛をギュっと右横にしばりあげてみた。私だって気合いが入ったぞと威圧感を出す。対局相手も同様で半袖シャツの片衿をグイッとめくりあげて戦闘状態である。会場はピンっと緊張感が走る。

パチッパチッ

8人の中学生棋士の熱戦が繰り広げられていく。

杉本は壇上にいる伊緒が心配でたまらない。東海地区代表からここまで勝ちあがるのは初である。そこに居るだけでも恩の字である。それを杉本は満足をせず優勝を狙わせたいと欲を出す。自分自身予選敗退の浮き目を見たことは頭の中からスポンっと抜けてしまう。
「伊緒はこの居飛車くんに勝てば先は見える。女の子が優勝するなんて初であり快挙だ。いや東海地区からも初だったぞ。俺が理事就任して優勝するなんて鼻高々だそ。頑張って優勝を勝ち取りたい」
杉本は壇上の伊緒の駒組みをしっかりと見つめる。プロの7段から見ると互いに中学生の駒組みはガチッとせずアヤフヤらしい。
「序盤戦を見た限りは互角だな。駒の流れとしては伊緒が少し自由に動き始めたかなと言うぐらいか。振り出した飛車が伊緒の得意な形勢に持っていけたらこの勝負はいただきだ。しかしそれも相手の防御しだい」
伊緒は杉本の教えの通りに駒を動かしていく。伊緒自身このクラスまで勝ちあがると自分が自分ではない実力を出していくようである。

伊緒の指す将棋。杉本は自分が対局をしている錯覚に陥る。
「伊緒。次の手は銀将を左へいけ。よしよし。歩兵を衝き捨てて香車を狙う。よしよし伊緒は冷静だな。そのまましっかり指すんだ。相手が金将を守り駒にしてくれたらチャンス到来だ」
杉本の思う通りに駒は組みあがる。内心はドキドキも伊緒が優勢になりつつある。杉本はニコニコしてくる。
「(次の相手の一手は)伊緒の攻撃的な飛車を指すべきだ。果敢に右や左に回して王将の囲いを破っていくはずだ」
杉本はこの局面からそのまま選手交代をしたい。伊緒と代わり杉本の得意な指し回しをしたい衝動に駆られた。

弟子の伊緒である。駒の進みはプロ棋士杉本7段が駒を持つと同じ攻めをすると思われた。師匠としては歯痒さを感じるぐらいである。自分が対局したくてたまらない。
「指導の時間がもっとあればよかった。四間飛車は攻めは簡単にマスターだが攻め間違いがあると厄介なんだ」
杉本は手元の扇子をパチンとやり悔いる。師匠杉本7段としては伊緒の対局を見て座っているだけで汗だくになった。

顔を真っ赤にして座る杉本の後ろから声をかける。
「杉本先生。伊緒ちゃんはどうですか。準決勝まで勝ち上がりなんて素晴らしいですわ。でもねっこのあたりまで来ますとねぇ」
伊緒と一緒に闘う杉本に一言である。杉本は誰かなっと振り向いた。

涼しげな瞳の蛸島女流棋士がいた。女の子が勝ちあがることはまずないからどうしても気になってしまう。
「ええっ僕もここまで活躍をしてくれると嬉しいです」
杉本はまずは杓子通りに答える。女流棋士として優秀な女の子をなんとかスカウトしたい蛸島育成理事。杉本は決して優勝を目指しますとは言えない。準決勝ぐらいは簡単に勝ちますからっとは思ってはいたが言わない。

「蛸島先生。おかげさまで女の子として伊緒は大健闘でございます」
そうですかと答えた蛸島女流育成理事。みるみるうちに険しい顔つきに変わる。女流名人の時代に見せた勝負師のそれに近い顔である。
「杉本さん。伊緒さんは大丈夫ですか。いえ将棋ではなくてよ。彼女の顔いろを見てごらんなさい。中学生のお嬢さんがどうしてあのような真っ赤な顔つきになるのかしら」
杉本は改めて伊緒の紅潮を見る。男の杉本からは勝負師として真剣な眼差しの棋士にしか見えない。蛸島は仕方ないなあとため息をひとつつく。
「女の子には長い時間の対局はダメなの。このような一手一手で形勢が逆転してしまうような極度な緊張は無理があるの。そりゃあね男の棋士からみたらわからないわ。充分な休憩を挟みながら準決勝まで勝ち上がりと言いたいでしょうけど。今日の準決勝までどれだけあの細い体にストレスを溜め込んでしまったと思って。女の子の紅潮したホッペは危険信号の現れでないとよいのだけれど」
暗に男の子とは体力スタミナが違う。すでに伊緒は体調を崩しているのではないかと心配をしたのである。

杉本は腕組みをしてしまう。女の子の体力は計算してなかった。女の子であることが指し手以外の駒損になるのか。

本局で女流棋士と対局をすることもある杉本。ハタッと気がつく。
「女流は長時間の思考に不向きだとか言われていたな。うーん弱ってしまうぞ。伊緒はその前例に漏れずとなるのか」

師匠杉本と女流育成理事蛸島の心配を他所に伊緒はパチンと勢いよく飛車を回した。

会場を埋めた父兄と将棋ファン。伊緒の右手が飛車駒から離れるとウォ〜とざわめいた。会場にいる有段の者をしても大胆な差し回しと思えた。

会場の雰囲気は一気に伊緒の勝ちムードに傾く。
「フゥ〜うまく飛車が捌けたわ。さあ私は私の形の陣型を作っていける。この勝負いただきだ。負けないモン負けたくないモン」
打ち込んだ飛車から目を反らしフッと真っ正面を伊緒は眺めた。

うん?

目の前をヒラヒラと小さな星が瞬きの合間に見える。心なしか遠近の焦点が合わない。体がふわっとしてしまう。座布団に座っているのか(夢の中で)宇宙遊泳をして盛んに泳ぎまわる錯覚をしてしまう。意識がまもなく飛びそうにまでなる。

はっ!

目をパチンとして頭をグイグイっと振る。気を失う一瞬ではないかと自問する。
「ヤダっいけない。私貧血状態になってきたわ。ヤダなあ座っていられなくなるのかな」
紅潮した頬から血の気が失せ青くなった。中学の体育の授業では女の子がよく陥る貧血である。

観客席にいた蛸島はそんな伊緒の変化を見逃さない。

あっいけない!

蛸島は杉本の肩を揺すった。あのお嬢さんは限界よ。ほらほら対局は中止させて。伊緒ちゃんがふらふらしているわ」
会場に悲鳴とどよめきが聞かれた。伊緒がコテンっと倒れたのだ。
「すぐに医務室に運ばないといけないわ。伊緒さんのお母さんを呼んでちょうだい。控えにいたわ。早くして。医務の先生に連絡してちょうだい。あっ動かさないで。貧血だと思うけど素人判断だからもしものことがあるわ。そっとしておいてちょうだい。医務の先生の指示に従いましょう」
係員は慌ただしく伊緒の看病に努める。医務室からナースが駆けつける。
「直に医務室へ運びます。軽い貧血でしょう」
ナースの指示に従い蛸島はてきぱきと係員と伊緒を運び出す。さすが女流名人、無駄な駒使いはしない。杉本もついていく。

伊緒は意識朦朧になり口にハンカチをあてた。そのまま虚ろな状態で医務室へ。
「先生っ、先生。私の対局はどうなるんですか」
か細く杉本に問い掛ける伊緒。得意の飛車回しがピッタリと決まった瞬間である。このまま指し続けるなら勝利に導く自信がある。体調不良が悔しさに変わる。
「心配しなくても大丈夫。不慮のことだから対局を中断してもらう。負けにはならないよ」
杉本はプロの対局を想定して答えた。

だが医務室で伊緒はなかなか回復をしない。近くの個人医院の医師が往診に来てもらう。若い内科医が到着すると会館に詰めるナースはこと細かに伊緒の病状を説明する。
「うーん対局の最中ですか。このお嬢さんは中学生ですね。極度な緊張感からストレスを併発したようです。そちらにいらっしゃるのはお母さんですか。2〜3お聞きしたいことがあります。主だった既往症をお教え願います」

伊緒が退座する間に他の対局は終局を迎えた。伊緒以外のベスト4(3人)が決まる。大会役員は中挫した対局をどうするかと話し合う。女の子の様子では少し横になっていてもすぐに回復することはないと思われた。役員は女流棋士の蛸島にも意見を聞いた。
「弱りましたね。女の子には」
この女の子だけ特別扱いに蛸島もカチンっとくる。普段より男性棋士の後ろをちょこちょこついて回るイメージの女流棋士。理事としてはプロの棋力は対等に及ばないもののせめて子供らにはハンディを味わせたくないと願っていたのだ。

「女の子だからダメですか」
医務室に駆けつけた医師は伊緒の診断を下す。
「極度のストレスから来る貧血です。こちらの女の子は将棋の対局で長い時間緊張することは体力が持たないことになります。まだ対局はやるんでしょ。弱ってしまうなあ。点滴を打ちながら再度将棋をされても(回復する)補償はいたしかねますよ。いやこのまま安静にしていてもらいたいのが医者としての本音です」

ドクターストップがかかり伊緒は敗着する。
「杉本先生。私まだ指せますから。飛車が回り込めたから後少し指せば勝てます。私は将棋を指せますから」
点滴針をつけたまま対局場に戻りたいと言う。

杉本とてこんな準決勝まで勝ち上がり将棋以外で負けは認めたくないと思う。
「伊緒ちゃん。それはだね」
伊緒の棋譜を杉本は思い浮かべた。飛車が見事に回り込み王手必至の展開にまで至っている。杉本の棋力ならば即詰めで勝ちを収めるであろうか。
「だが対局は僕ではなくて伊緒なんだ。詰め将棋の段階は伊緒が間違いをなく詰められるかは些か疑問に思う。悔しいけれど敗けを認めざるを得ない」
杉本は医務室にまでやってきた係員にリタイアをしますと宣告した。

ベッドで伊緒は叫びたくなる。

イヤッ先生酷い。私は負けなんか認めていないのよ。点滴が終われば対局できるわ。意識がしっかりさせすれば問題はないから。ひどいひどい。先生ひどい。

伊緒に付き添う母親も父親もどうしたものか思案してしまう。すべては杉本に任せるしか手はなかった。
「伊緒よくお聞き。この対局は準決勝なんだ。後1局残るんだよ。それは決勝戦だと言うこと。今以上にストレスがかかり君の体力を恐ろしく消耗するんだよ。僕らプロ棋士でさえ対局はとんでもないエネルギーの消耗戦なんだ。お医者さんもダメだと言っているんだからね」
女の子には限界を越えた対局になってしまったようだ。杉本としては男の子ならば点滴打ちながらでも振り飛車を指せと命じたかった。

伊緒はお願い致します。私大丈夫ですから。対局室に戻って行きます。あの陣型からなら私は勝てますから。杉本に哀願する。

係員は杉本から敗着(リタイア)のサインをもらうがどうも揉めてしまったかなっとその場にいた。
「杉本先生。リタイアでよろしいですね。伊緒さんは敗着になります。取り消しはできません」

伊緒は小さな声でリタイアはしません。私行きます。(私を負けにする)杉本先生嫌い。

ベッドの中から重い体で這い出そうとする。母親は手を貸して伊緒を支えた。
「伊緒ちゃん大丈夫。お医者さまは寝ていないといけないと仰るの。お母さんは将棋に勝ち負けなんてどうでもいいの。あなたの体のことが心配なの。だからもういいです。名古屋の予選から頑張ってきたんですもの。こうして全国大会の準決勝まで辿りつけたんですから伊緒は満点です」
母親はいさめた。伊緒は最高の成績を収めたから満足しなさい。もうこれで充分ですと説得をされた伊緒である。

ベッドでは負けを認めたくなくて不貞腐れていた伊緒である。無理もない。後に数手指し進めば勝ち将棋である。しかも師範の杉本から教わる詰めの手筋を指しての終局が待つだけである。

いやっ!(負けてないもん)

女子高生の目にキラリ。布団を顔に被せひとしきり涙が溢れてくる。目蓋を閉じた伊緒。その脳裏には伊緒が自信満々に打ち込んだ飛車がちらつく。飛車を指した後には杉本に必ずや褒めてもらえるとさえ思ったくらいの絶対なる飛車なのだ。

ベッドから杉本は離れる。伊緒の悔しい気持ちは師範杉本とて同じである。
「将棋という世界は不思議なもの。勝てないと思ったらすっぱって負けてしまう。だが勝てる!勝てます!と信じて指すと光明が差してくる。苦しい中盤を乗り切り勝利への道が見えてくる。後は間違いなく勝ちへの終局に駒を運ぶだけなのだ」

伊緒の将棋は勝ち将棋だと思う。終局は飛車が金将を破り馬が走りおしまいであろう。だが当の差し手伊緒が対局の席に座ることができない。
「勝負の前に体調が悪くては。心・技・体のどれが欠けても勝ちを得ることはできない」

杉本7段は30台半ばのプロ棋士である。将棋サロンに集まる子供らに指導をし素質があらば奨励会に送った。

素質だけでなくさらには伸びシロがある子供。プロ棋士になれる可能性の子供は弟子とした。
「伊緒も弟子にするか。あんなに悔しい将棋を経験したんだ。次には女流の棋士としてプロの世界で活躍してもらうよ」
杉本は心が躍って躍ってしかたなかった。
「女流の棋士か。女の子を指導するなんて少しも思ったことなかったなあ」

伊緒はひとしきり泣くと元気を取り戻す。母親の顔をみたら気持ちが落ち着く。荷物をまとめて名古屋に帰る準備をする。

荷物をまとめ始めると医務室に来客を迎えた。
「伊緒さん。お体はいかがですか。名古屋にお帰りになられますの」
訪問は女流棋士育成理事・蛸島元名人である。

理事は伊緒を女流育成に入会させたいと願ってやってきたのだ。

伊緒はプロの将棋と聞いてまずは驚いてしまう。
「私がそんなプロ棋士(育成会)になるなんて。まだまだ下手な将棋ですしそんな強い人ばかりの世界なんて。なんか住む世界が違う気持ちです。私何処にでもいる普通の女の子ですから」
蛸島は後に師範の杉本と相談をして欲しいと頼んだ。そして育成会に足を踏み入れてくださいと言い置いた。

師範杉本は医務室の外でわかったわかったっていますよっと大きく頷いた。














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