身代わり
霧雨の夜の事だった。
日付を跨ぐほどに帰りが遅くなった僕は、家路を急いで橋を渡っていた。
すると下流の方から、ばしゃばしゃと水音がする。
何だろう。
傘をもたげて夜を透かすと、もこもこと蠢く何か黒いものが、水を蹴立て川を遡ってきていた。
夜の暗さもあって、川面を覆うその何かは、まるで人の毛髪のように見えた。ぐっしょりと重く濡れておどろに絡み合い、毛皮めいた体を為している。
昔何かの折にテレビで、生きた絨毯のように動くネズミの群れを見た事がある。その印象が丁度だった。複数の生き物が統一した意志を持って移動している。そんなふうに感じられた。
その毛皮の表面でもこもこと瘤のように上下しているものは、やはり真っ黒だった。大きさは人の頭くらいで、数は六つか七つ。
だが川といっても、さして広くも深くもないものだ。人間、或いはそれに類するサイズの生き物が存分に泳げるはずがない。
足を止めて眺めていたが、距離が近付いても正体は一向に掴めなかった。
やがて、それは橋の下に消えた。
川のサイズに比して橋の幅もそれなりだ。僕は上流の側に視線を移した。今までの移動速度からしてすぐにまた姿を見せると踏んだのだが、現れない。
おや、と怪訝に思うのと、水音が止んでいるのに気がついたのはほぼ同時だった。
突然、妄想が頭を過ぎった。
橋の下の闇、僕の足下の見えないところでそれは川を上がって、もこもことここまで這い上がろうとしてきている。
ただの想像であるはずなのに、ぞわりと産毛が逆立った。それは予感と呼ぶべきものであるのだと、稲妻のように理解できた。
僕は傘を放り出して、一目散に走って逃げた。
翌日、日のあるうちに橋に行った。
骨も柄もぐしゃぐしゃに噛み折られた僕の傘が、寂しく欄干にぶら下がっていた。