湖に落ちた筆入れは、光の速さで沈んでいった。
ここは通称『E=mc²湖』と呼ばれていて、中がブラックホール的な何かでできおり、落ちたものは光速で沈んでしまうという不思議な湖だった。
筆入れは、僕が湖面を眺めているうちに、胸のポケットから滑り落ちてしまった。少しぼんやりしていたのだ。
かすかに揺れる水面へ映された僕の顔をみていると、時間の進行にあわせて自分が老けていくのが手に取るようにわかった。ひとつ波が起こるたびに、かつて水上に浮かんでいた僕とは、完全に一致しない別の僕が浮かびつづけていく。その恐怖が、胸元の異変にも気付けないほど意識を不明瞭にさせた。
ポチャンという軽快な音を最後に、筆入れは湖の底へ向かって進んでいった。平べったい缶の形をした、鉄製のペンケース。そこには死んだ恋人の骨が収められていた。
恋人はかつて、『E=mc²湖』に身を投げた。
いくら光速で沈む湖とはいえ、水分を含んだ彼女の肉体は、再び光速で上がってくるはずだった。でも、恋人が浮上してくる気配はなかった。体に重りをつけていたのだろう。
ただ、水中で切り落としたらしい彼女の小指が一本、湖面に浮いていた。
僕は彼女の小指を握りしめながら、湖の前で三日待った。湖は静かに揺れているだけだった。
四日目の朝、もう恋人が上がってくることはないと決断すると、僕は彼女の小指を焼いた。残った骨は彼女が愛用していたペンケースに入れた。
骨壷がわりの筆入れは、離さずに持つと彼女へ一方的に約束したのだけど、まさかこんなところで落とすなんて。
あっという間に遠ざかってしまった筆入れを、僕は愛惜の思いで見送っていた。水面はあざ笑うように、絶えず更新されていく僕を映しつづける。
ふと、ある噂を思い出した。『E=mc²湖』に落ちたものは、百年経った後に、再び頭上から落ちてくるというのだ。
もちろんそんな噂を信じる者など誰もいなかったけれど、僕はほんの少しだけ、信じてみようかと思った。
相対性理論に基づけば、光の速さで進む彼女は、僕から見て年を取らない。別れたままの彼女の姿を(小指はないけれど)、もう一度見たかった。
とはいっても、百年の後に再開できたって、僕はとっくに死んでいる。容赦のない時間のなかで待ちつづけるには、頭上の空は遠すぎた。
僕は自分のペンケースを取り出すと、湖のそばに置いた。そして、ナイフで左手の小指を切り落とし、中へ入れた。
恋人が帰還する前に、百年の時は肉を削ぐだろう。残った小指の骨が、またしても一方的に取り付けた、僕なりの約束だった。
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