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拝啓 お兄様


 元々身体の弱かったお兄様がお亡くなりになり、新しく弟ができたのは、私が十四歳のときのことだった。兄とそれほど親しくしていた訳ではない。共に同じ部屋で談笑することもなく、兄は私のことを嫌っているようだった。馬鹿にして見下すように笑うこともあれば、時折憐れむような顔をして可哀想に、と気まぐれに私の頭を撫でるような人だった。そんな兄を私は特別好きになることも嫌うこともなかったので、そのときは兄の死を悼むよりも、突然現れた弟への戸惑いの方が大きかったように思う。


 一歳しか歳の離れていない弟は、父が愛人に産ませた異母弟だった。兄という跡継ぎを失い、家を継がせる為に引き取ったのだと父はいっそどこか誇らしげにそう語った。これに狂乱したのは、当然母である。


 そんなふしだらな女の息子に家を継がせる訳にはいかないと、母は狂ったように泣き叫んだ。異母弟を真正面から罵倒し、父を詰り、最終的には心労が祟って身体を壊した。大好きだった買い物も茶会を開くこともなくなり、部屋に閉じこもっては私を呼び寄せ、ただただ泣き暮らすようになった。私にはもうあなたしかいないわ、と母は見たこともないほど弱々しく私を抱きしめた。


 私はどうにもそんな母へ、親身になりきれなかった。心と身体を壊す姿を憐れと思っても、どこか同情しきれなかった。これまで奔放に過ごしてきた母の姿を身近で見てきたこともあり、どうしても白々しく感じてしまったのだ。それよりも私は、突然この家に連れて来られて、母に虐げられる弟の方が余程気にかかっていた。


 一歳年下で十三歳の弟のアロイスは、父によく似ていた。幼さこそ残るものの、男らしい精悍な顔立ちをしており、いつも冷たく厳しい表情をしていた。彼は誰に対しても笑顔を向けることはなく、いつもどこか苛立たしげだった。


 そんなアロイスを、父は心から愛しているようだった。私や兄には笑顔一つ向けたことのない父だったが、アロイスには惜しみない笑顔を向けていた。それだけで分かってしまった。父にとって価値のある子どもはアロイスだけなのだと。


 だからこそ、父は私が邪魔だったのだろう、と思う。母は私に婿を取らせ、その夫に家督を継がせるべきだと主張していた。それを退ける為にも、父は早く私をあの家から追い出したかったのだ。父は、アロイスがあの家に来て一年が経つ頃、私に縁談を持ってきた。

 私は父の持ってきた縁談に、粛々と従った。いつだって、父の意向に従ってきた私は反感さえ抱かなかった。何より、アロイスの為にはそうした方がいいと思ったのだ。おそらく望んであの家に来た訳ではない憐れな弟が、少しでもあの家で居場所を得られるように。彼の為に私ができる事と言えば、その程度のことしかない。次期当主ともなれば、母もそう安易にアロイスを邪険にすることはできないはずだ。


「改めてよろしく頼むよ、エミリア」


 そして、私は結婚し、あの家を出た。父が用意した私の夫は、兄の友人であったネイト様だった。彼はあの家でもよく私へ向けてくれていた柔らかな微笑みで、手を差し伸べたのだ。









「おはよう、エミリア」


 私の朝は、簡単に身支度を整えてネイト様を起こすところから始まる。同じ寝台で眠っているが、ネイト様が私より早く目覚めることはまずない。彼は声を掛けた私にそう朝の挨拶を返したものの、すぐに起き上がることはなく、しばらく布団の中で身を捩っていた。


「ネイト様。そろそろご用意をなさらないと、朝食が冷めてしまいますわ」

「ん、うん。んん、わかっているよ」


 彼はそれでもまだ何度か唸り、シーツの中に顔を埋める。ネイト様は朝が苦手だ。対照的に夜は得意なようで、小さな灯りを頼りに本を読み耽ることも珍しくなかったらしい。今では私がいるために、少々自重してくれているそうだ。


 ようやく起き上がったネイト様は、寝台の上で身体を伸ばす。そうすると少し頭がすっきりするようで、どこかぼんやりとしていた彼の瞳がしっかりと私の顔を捉えた。


「いつも悪いね」

「いえ、妻として当然の事をしているまでです」

「そうか、そうか。妻かぁ、なんだかくすぐったいね」


 彼はおかしそうに肩を揺すって笑みを零した。私にはよく分からないところで、ネイト様が楽しそうにされることは別段珍しくもない。特に気にすることもなく、私は彼の着替えを手伝った。

 ネイト様のシャツのボタンを下から留めていけば、彼の指が私の髪をゆっくりと梳く。


「何か、困ったことはないかい?」


 ネイト様は、口癖のように私にそう尋ねた。兄と同い年の友人であったネイト様は、私より五歳年上の二十一歳で、実の兄以上に兄らしい仕草で私に触れる。仲のいい兄妹の兄とは、彼のような存在なのではないかと思っている。


「いいえ、何も。使用人も皆、慣れない私によくしてくれますし」

「そうか、そうか。それは良かった。何かあったらすぐに言うんだよ」


 まるで小さな妹を褒めるような仕草で私の頭を撫でると、ネイト様は瞼の上にキスをして、そっと私から手を離す。着替えの終わった彼は、部屋の窓を開け放ち、室内に爽やかな風を取り込んだ。









 ネイト様は領地の管理の為に執務室にこもることもあれば、自ら領内へ視察へ向かうこともあった。それ以外のときはのんびりしたもので、彼は積極的に外出することもなく、屋敷の一際日当たりのいい部屋で読書に耽ることがほとんどだった。

 窓辺に安楽椅子を寄せて、ネイト様が本のページを捲る音だけが室内に響く。彼は何よりもそんな静かな時間を愛しているようだった。


 その隣で、同じく椅子に腰掛け、刺繍をするのが私の日課になっていた。初めの頃はあてがわれた私室で行っていたのだが、それに気付いたネイト様に誘われ、共に過ごすようになった。ネイト様は男性であるのに、私の作る刺繍に甚く興味を示されて作り方を教えて欲しい、とお願いされたが、早々にこれは向いていないと音を上げた。人には向き不向きがあるからね、と一人でうんうん頷いていたものである。


 ふと、視線を感じて手元の刺繍から顔を上げれば、行儀悪く椅子の上に片膝を立てたネイト様が、目を細めてこちらを見ていた。本は読みかけのページに指を差し込んだままで、彼らしい柔らかな微笑みを浮かべている。


「楽しいかい?」


 彼が問う。刺繍を楽しいと思ったことはなかった。ただ、淑女の嗜みとして行っているだけだ。彼のように本など、私には特別好きなものがない。持て余す暇を消化する為に、刺繍はちょうどよかった。


「はい。もうすぐ一つ、仕上がります」


 けれど、私はそう答えた。ネイト様は、やけに私の状態を気にかける。正直に伝えれば、彼はもっと日々を楽しく過ごすことができないかと、何かと気を揉んでしまうだろう。迷惑を掛けてしまうことは本意ではない。

 ネイト様は、少々難しい人だった。実家にいた頃は、父も母も私に何も求めることはなかったので、ただ家名に恥じないよう礼儀作法や身だしなみに気を配るだけでよかった。それに対して、ネイト様は私に多くを求めた。彼は私の退屈を危惧し、喜びが何であるかを明確にすることを求めた。食事をすればその好みを口にすることを望んだ。ただ、与えられるものを甘受してきた私にとって、それは些か窮屈ですらあった。


 柔和なネイト様に対して、兄はどちらかというと繊細で神経質だった。それなのに、そんなところだけ、二人はよく似ていると思った。兄はよく言ったものだ。おまえには不満の一つもないのか、と。素直に頷けば、兄は詰まらなさそうに舌を打った。









 ネイト様は、よく私の実家に訪れていた。兄は病がちで滅多に外出をすることはなく、ネイト様が訪ねてくることで友情を育んでいたようだった。おそらく、兄の死を一番に悼んでくれていたのは、私や両親でもなく、彼だろうと思っている。

 ネイト様は、あの家に訪れる度に私にも声を掛けてくれた。あの柔らかな微笑みを浮かべ、何をしていたんだい、と私の日々の過ごし方を尋ね、時折持参した菓子を秘密だよ、と言いながら渡してくれた。勝手なことをするなとニールに怒られてしまうからね、秘密の理由をそんな風に語って、ネイト様は悪戯っぽく笑った。


 婚姻を結び、ネイト様は兄の友人から私の夫へと変わった。けれど、その微笑みの柔らかさも時々浮かべる悪戯好きな子どものような顔も変わることはなく、ネイト様は変わらず年上のお兄さん、という印象を私に与えた。


「奥様、ご実家からお手紙が届いております」


 そう昼下がりに使用人から渡された郵便物を、私は急いで私室に戻って確認する。封を開けて中を確認しても、そこにはいつものように母からの愚痴や不満を綴った手紙が入っているだけだった。

 私は、こうした母の父やアロイスへの恨み言ではなく、もっと客観的な実家の様子を知りたかった。気にかかるのは、いつもアロイスのこと。あの家で母の怨嗟に晒されている弟は、果たして健やかに暮らしているのだろうか。私がネイト様に嫁ぎ、あの家の世継ぎはもうアロイスしかいないので、早々邪険にされることはないと思うが、弟のことが心配でならなかった。


 あの家に初めてアロイスが現れたのは、彼が十三歳のときだった。元々男性らしい精悍な顔つきをしていたが、十五歳となった今では益々凛々しくなっている事だろう。弟の成長を想うときだけは、素直に私の心が躍った。









 食事を終える頃には、すっかりと夜が更けていた。湯浴みを済ませて寝間着に着替えると、いつも身嗜みを整えてくれる侍女が、梳かした髪に花の香りのする香油を塗りこんでくれた。甘すぎることのない仄かな香りは好ましいもので、侍女は旦那様もお喜び下さいますわ、と嬉しそうに笑った。この家の使用人は、皆不思議なほど朗らかで表情が明るい。


 寝室に向かえば、ネイト様はいつもと変わらず寝台の上で上体を起こし、灯りを付けて本を読んでいた。私と目が合うと、彼は本を閉じる。


「では、そろそろ眠ろうか」


 ネイト様は何が楽しいのか変わらず笑顔を浮かべて、私が寝台に入ってから灯りを消す。彼は私を両腕で抱き込むと、ゆっくりとこの背を撫でた。柔らかな布団に包まれ、こうして背を撫でられると自然と眠気を誘発される。


「あの」

「なんだい、エミリア」


 彼は歌うようにそう答えて、私の髪を梳いた。あまり直截に言うようなことでも無かった為、言葉選びに少し迷ってから疑問を口にした。


「眠られるのですか?」

「もういい時間だからね。本は明日でも読めるさ」

「いえ、そうではなく…………」


 私が言いたいのは、所謂夫婦の営みというものについてだった。最近の彼は、私にそれを求めることがなくなっていた。結婚して初めての夜と、その後二晩ほどはあったが、そのときに随分私が痛がった為か、ネイト様からしばらくは止めておこう、と提案されてしまった。妻の、最も重要な仕事は跡継ぎを生むことであるのに。


「言っただろう。君がこの家と僕に慣れてからでも遅くはない」

「ですが………」

「焦る必要もないさ。君はまだまだ若いし、僕だって老いちゃいないしね」


 そう言って、ネイト様は私の額にキスをした。彼は、きっと優しいのだろうと思う。私のことを気遣い、そう提案してくれているのだ。

 外に恋人でもいるのかと考えたこともあった。それならそれで構わなかったし、彼が夜を求めないことに納得することもできた。しかし、その割には、ネイト様は毎晩こうして私と同じ寝台で夜を明かす。


「君を泣かせては、ニールに申し訳が立たないもの」


 兄は私を嫌っていただろう。それでも、血が繋がっている、というだけでネイト様は兄の友人として私へ思いやりを向けてくれる。

 けれどそれは、私の望むところではなかった。痛くて構わなかった。酷くしてくれればしてくれるだけよかった。苦しいのも、辛いのも、嫌がる理由はない。この結婚に苦難が多ければ多いほど、私は胸を張ることができるのだから。









 お兄様は生まれたときから病弱で、一生のほとんどを寝台の上で過ごされた。常に不機嫌そうな顔をしており、家族であろうとも他人を拒絶し、当然私の事も嫌っていた。顔を合わせる度に顔を顰め、時折気まぐれに話しかけても、やはり会話が弾むようなことはなかった。

 ただ、兄は気まぐれに私の頭を撫でた。妹に向けるとは思えない他人行儀な顔で、私の頭を一撫でだけして、可哀想にと呟いてすぐに背中を向けるのだ。


 母は兄を溺愛していた。兄と私は揃って母に似ていたけれど、母は殊更兄ばかり自分によく似ていると褒め称えた。兄は自分を愛する母の事さえ疎んじていたようで、時折声を荒らげては母を部屋から追い出していた。


 そんな兄の笑顔を生まれて初めて見たのが、お見舞いに来たネイト様へ向けたそれだった。わずかに開いていた扉の隙間から覗き見た二人は、心から笑い合っていた。私は大層驚いたものだ。あのいつも不機嫌そうな兄も、笑うことがあるのかと。兄は、唯一ネイト様にはその心を開いているようだった。

 こっそり部屋を覗く私に気づくのは、いつも決まってネイト様だった。


『エミリア、こっちへおいで』


 ネイト様にそう声を掛けられれば、兄は顔こそしかめるものの私を追い出そうとすることはなかった。明るく朗らかなネイト様と気難しい兄がどうやって友人となったのか、私には検討もつかなかったが、ネイト様といるときの兄の空気は少しばかり柔らかかった。だからこそ、私はその空間に入れてもらえたことが嬉しかった。


「エミリア、こっちへおいで」


 あの頃と同じようにネイト様は私に手を差し伸べ、やんわりとこの手を引く。以前と違うのは、そこで手を離すことなく彼はそのまま自身の腕に私が手を添えるように促した。


 たまには一緒に散歩をしよう、そう誘ってくれたのはネイト様だった。彼に促されるまま領内をゆっくりと歩き、屋敷からそう遠くない場所にある丘の上に案内された。そこには、自生している草花が緩やかに風に揺れている。庭師が手入れをする大輪の花のような華やかさはないが、自然に身を任せる小さな花は優しい色をしていて大層愛らしかった。


「おいで」


 ネイト様はまたそう言って私を呼び寄せた。彼はしゃがみ込んで一輪の薄紅色の花を手折ると、立ち上がって私の髪を何度も撫でた。そのまま私の髪を耳に掛けさせ、そこへ先ほど手折った花を差す。


「よく似合う。綺麗だよ、エミリア」


 何が、嬉しいのか。ネイト様は嬉しそうに微笑んだ。花を私の髪に差したまま、もう一度、二度と髪を梳かし、両手で頬を包み込んでその額を私の額へすり寄せた。間近にある彼の顔の綻ぶような笑顔が、どうにもむず痒い。


「エミリアは、花は好きかい?」

「…………嫌いではありません」

「そうか、そうか。何色が好きかな?」

「色は、特に………けれど、あまり大きい物よりは、小さく可愛らしい物が好きです」


 彼はまた、そうか、と笑う。ネイト様は何かと私に尋ねる。あれは好きか、どれが嫌いか。何が苦手で、それは得意か。全て彼の意志で決めてしまって構わないのに、何かにつけては私に尋ねる。私はその度に困惑してしまうのだ。私がどう思うかなんて、そんなことはこれまで重要視されたこともなければ、好みなど尋ねられたこともなかった。聞かれても、よく分からない。


「エミリア、僕はもっと君の事が知りたい。そして僕の事を知ってほしいと、そう思うよ」


 そう告げられて、初めて気付いた。私はこの人について、自身の夫について、何も知らないのだ。尋ねようとしたことはなく、そもそも知りたいと思ったこともなかった。精々、見れば分かる程度の本が好き、ということしか知らない。

 理解をし合うのが、夫婦だとは思わない。両親を見ていても、とてもそうは見えなかった。それなのに、私の事を知りたいと言われて、実際に沢山のことを尋ねられ、対して私は、彼のことを何一つ理解しようともしなかった。


 そのことに、どうしてだろう。不思議と罪悪感のようなものを覚えた。









 突き動かしたのは義務感かもしれない。私は初めてネイト様にあれやこれやと尋ねるようになった。好きな食べ物、好きな時間、好きな色に好きな花。思いつく限り尋ねては、一つ一つネイト様の事を知っていく。果ては、ペン先は太いものよりも細いものを好まれるということまで知った。


 ネイト様はそんな私にくすくすと笑った。しかし、迷惑という様子はなく、嘲るようなものでもなく、どこか楽しそうな調子で、そんなに頑張らなくていいんだよ、と笑った。そう言われて、何だか無性に恥ずかしかった。使命感のようなものに駆られて、空回っていたのかもしれない。居心地が悪くて気まずくなって俯けば、彼の手がいつものように私の頭を撫でた。


「嬉しいよ」


 そう、本当に心から嬉しそうに、彼は頬を緩めて笑った。沢山のことを聞かれることの何が嬉しいのか、私にはよく分からない。けれど、そんな風に嬉しそうにされると、妙にくすぐったい気持ちになった。身の置き場に困るような。落ち着かない気持ち。

 ネイト様はよく分からないところで笑う。よく分からないことで喜ぶ。けれどその意味不明さが、不思議と不快ではなかった。


 例えば、食事が美味しかったとき。例えば、窓の外の景色が美しかったとき。例えば、洗いたてのシーツが心地よかったとき。顔に出したつもりはないのに、ネイト様はすぐに私のその感情に気付いた。そして笑うのだ。君が嬉しそうでよかった、と。

 何故、彼はそうも鋭く私の変化に気付いてしまうのか。答えは簡単だった。ネイト様はいつも、私のことに気を配っていた。目を向けていた。ともすれば監視されているように感じるべきかもしれない。しかしどうしても嫌な気持ちにはなれなかった。きっとそれは、私に向けるその目があまりに柔らかかったからだ。


「…………何故、そうも私のことを知りたいとおっしゃるのですか」


 どうにも堪らない気持ちになって、私はとうとうそう尋ねた。彼は少しばかり驚いたように目を瞠って、それからやはり、穏やかな微笑みを浮かべた。


「僕らは夫婦じゃないか。妻である君を、今後も愛していきたい。そして君に幸せになってほしい。その為に君のことを知りたいと願うことは、何かおかしいことだろうか」


 私はそれに、何も言えなかった。夫婦に愛などなくとも、それを続けることができると知っている。けれど、そういうことではないのだろうと思った。彼が願うのは、そういう書面上の契約ではなく、きっと私が知らない何かなのだ。

 そう思うと、何故だかとても息が苦しかった。


 それからだ。ネイト様が私に触れるとき、無性に胸がざわつくようになった。触れられた頬が熱を持ち、口付けられる額が、瞼がこそばゆかった。同じ寝台で眠るとき、耳を当てた胸から聞こえる彼の心音に、心が落ち着くようになった。目を閉じてその音に意識を向けると、自然と身体の力が抜けた。


 何かが変わってしまったような気がして、その何かが分からなくて、落ち着かなかった。









 ネイト様のもとに嫁いで半年が経った頃だった。待ち侘びたそれが、けして望まぬ形で届いたのは。


 いつものように、昼下がり。食事を終えた私のもとに実家からの手紙が届けられた。けれど、その日は母の手紙だけではなくもう一通、絵葉書があった。それに気付いた途端、期待に心臓が跳ねる。ドキドキと脈打つ心臓をなだめるようにその絵葉書を胸に抱きしめ、人目を避けて慌てて自室へ向かった。


 辿り着いた自室で扉に背を預け、逸る気持ちを抑えながらその絵葉書の差出人の名前を確認し、内容に目を通す。あ、と思った。それが音になって外に出たかは分からない。

 同時に、手の中から絵葉書と手紙が一緒に滑り落ちた。目の前の床を呆然と滑っていくそれを見送って、その場にへたり込んだ。自身を守るように情けなくもこの身体を両手で抱きしめる。そのまま上半身を前に倒して、床に崩折れてしまいそうだった。


「あ、あぁ…………」


 今度こそ、音として耳に届いた。私という存在が壊れていく、断末魔のようだった。










 床に座り込んで泣き続ける私を見つけたのは、いつも身の回りの世話をしてくれる侍女だった。何事かと心配する侍女に椅子に座らされ、何があったのかと聞かれたものの、頑なに口を閉ざして放っておいてほしいと訴えれば、侍女は気遣わしげな様子を見せたものの私の望むようにしてくれた。申し訳ないと思わない訳ではなかったが、今の私に彼女を思いやる余裕はなく、ごめんなさい、と頭の中だけでぼんやりと考えていた。


 夕飯も断り、窓辺に置かれた安楽椅子に座ってぼうと夜が更けていく様子を眺めていれば、とうとうネイト様が私の部屋にやってきた。


「どうしたんだい、エミリア。夕飯も食べないで」


 彼は片手に灯りを持っていて、それで部屋の中が仄かに照らされ、ネイト様の表情を伺うことができた。ゆっくりと顔を上げた私の目に映るネイト様は、心配そうに眉を下げており、そんな表情をさせることにとても申し訳ない気持ちになった。


「…………すみません」

「謝って欲しい訳じゃないよ」


 灯りが怖いな、と思った。きっとその灯りは現実を映しだしてしまうだろう。せっかく夜が更けて暗闇に包まれたというのに、私の安堵など容易く破壊されてしまうのだ。

 案の定、ネイト様はそばにある小さな机の上に置かれた絵葉書に気付いた。灯りをそちらに寄せて絵葉書を手にとったが、止める気力もない。彼は私を奇異に思うだろうか。吉報を受けて、こうも落ち込む私を。


「ああ、君の弟から。そうか、婚約したのか」


 納得したように、ネイト様は頷いた。それから絵葉書を机の上に戻し、灯りもそこに置いて、私の顔を覗き込んだ。


「そうか、そうか。だからそんなに、傷付いているんだね。可哀想に」


 彼の両手が、私に触れる。


「恋を失うということは、身を切られるような痛みだと言うものね」


 ぞっとして反射的に彼の手を振り払った。全身の血の気が、容易く引いていくのが分かる。頭の中が混乱してめちゃくちゃだった。彼の言葉が信じられなかった。何故、何故、彼がそれを知っているのか。


 私は、アロイスに恋を、していた。


 だって知らなかったのだ。初めて会ったとき、彼は随分汚い格好で庭に蹲っていた。新しい使用人かその縁者だろうと思ったのだ。格好の割にどこか気品があり、幼いながらにまるで父のように精悍な面立ち、鋭く輝く野性的な瞳に一目で心惹かれたのだ。異母弟であるなどと考えもしなかった。私はあまりにも軽率に恋に落ちた。


 当然それを表に出すことはなかった。アロイス本人にも、知られる訳にはいかない。私は努めて彼から距離を取り、親しくもない異母姉であり続けた。そして、そのままネイト様と結婚した。全てはアロイスの為に。アロイスがあの家で、確固たる立場を得られるように。跡継ぎとして認められるように。全部全部アロイスの為。恋しい恋しいあの子の為。


「………どうして、それを」


 唇が震える。知っているのですか、と最後まで言葉を紡ぐこともできなかった。柔和で変わらずおっとりしているのに、そんなネイト様の笑顔が今ばかりは恐ろしかった。


「分かるさ。自分の妻のことだ」


 一体いつから、と問えば婚約の挨拶に伺ったときに、という返答が返ってきた。それではアロイスとネイト様が初めて顔を合わせたときからではないか。


「君の目は、いつも彼を追っていたね。だから、エミリアが嫌がるようならこの結婚もなしにしてもいいと思った。けれど、君は何故か素直に結婚に応じた」


 理由なんて単純だ。全てアロイスの為だった。そして、それ以上に私の為だった。私は訴えたかった。アロイスの為に、私は好きでもない男に嫁ぐのだ。貴方の為に私はここまで出来るのだと。愛の証明をしたかった。だから、夫は酷い男であれば酷いほどいいと思っていた。

 それなのに、ネイト様は優しかった。どうしようもなく、居心地が悪いほどに。いつだって私を思いやり、柔らかく微笑んでくれる。


「悪いが、離縁はできないよ。君も離縁などしたところで苦しむだけだろう。子どもは一人は産んでもらわなければならないけれど、それ以外は君の好きにしたらしい。僕の存在が疎ましければ、その後は指一本触れはしないとここに誓おう」


 そして、ネイト様はこんなときでもお優しい。私のしたいようにすればいい、と言ってくれる。今になって気付いた。彼が何かと私にどうしたいかと尋ねるのは、私の意志を尊重してくれるからだ。けして、押し付けることなく。


「……………何故、そんな私と、結婚して下さったのですか」


 声が震えたまま治らない。どうしてそうなってしまうのか、自分の体なのによく分からなかった。

 ネイト様は、由緒ある家の生まれで、広い領地を治めている。若く、初婚であり、彼の柔和な面立ちを厭う女性は少ないだろう。何より、彼はとても優しいのだ。とてもとても、優しいのだ。時々どうすればいいのか、分からなくなってしまうほど。

 そんな彼が、私にこだわる理由などないはずだ。


「ニールに言われたんだ。エミリアのことを頼むと」


 ネイト様は迷わずそう答えた。あまりに私の知る兄に不釣り合いなその言葉に、私は呆けてしまう。


「エミリア、彼はけして優しい兄ではなかっただろう。けれど、不器用なだけでニールはいつも君の事を想っていた。憎まれ口ばかりを叩きながら、君の未来を案じ、君の幸福を願っていた。矜持の高い彼が、なんと僕に頭を下げたんだ。どうか君を幸せにしてやって欲しいと」


 それは信じられないことだった。あの冷たかった兄が、私の為にそれほど心を割いてくれていたなど、想像もつかない。けれど、ネイト様がそんなことで、ましてや兄のことで嘘をつくはずがない。

 何も知らなかったことへの申し訳無さが、どうして教えてくれなかったのかという悲しみが、一度に溢れてくる。同時に胸の奥の奥に、爪を立てられるような痛みが走った。


「お兄様が、だから…………」

「ああ。ニールは間違いなく、君を愛していたよ。大嫌いだと語ったあの家の中で、君だけが彼の支えだったんだ」


 ああ、ああ、ああ。お兄様。どうしてそれをあの頃教えてくれなかったのか。礼の一つも伝えさせてはくれないのか。やはり兄は酷い人だ。貴方に向かって伸ばした手を、振り払ったのはお兄様だったのに。素直に愛することも、許してはくれなかったのに。

 浮かぶのは兄への恨み言にも近いような感謝と、愛と、後悔と------引きつれるような胸の痛み。


 ネイト様が私の好みに興味を持ったのも、いつも見守ってくださったのも、その温かい腕で抱きしめてくださったのも、花を手折ってプレゼントしてくださったのも、髪を梳いてくださったのも。全て、兄への友情だったのだ。それを私は、今頃理解した。ネイト様の優しさも温かさも、私へ向けられたものではなかった。


 私はアロイスに恋をしている。恋をしている、のに。


 酷い扱いをして欲しかった。冷たく見捨てて欲しかった。それなのに、今。どうしてこの程度のことでこうも絶望しているのか。そんな答え、知りたくはなかった。









 気持ちが落ち着くまで距離を置こう、というネイト様の提案で、しばらく顔を合わせない日々が続いている。食事も彼が時間をずらしているようで、別々に摂り、寝所も別になった。

 いつもそばについてくれている侍女は、気遣わしげな目を向けてただただ私を労るばかり。きっと彼女も、優しい人間なのだろう。ネイト様に関わるものは全て、優しいものでできているから。


 私は毎日、ぼうと窓の外を眺めて暮らしていた。あれだけ毎日続けてきた刺繍も、まるでやる気が起きなかった。ネイト様のように本を読むこともなく、時が過ぎることをただ祈るような気持ちで願っていた。


 考えるのは、アロイスのことだった。婚約したというご令嬢はどんな方だろう、アロイスはその方をどう思っているのだろう、そう考えると心の中にドロドロとした淀みが溢れてくるようだった。そして、その度に、ネイト様のことが頭にチラついた。アロイスへ想いを馳せることは、あの優しい人への妻としての裏切りに他ならない。


 けれど、もしかしたら、ネイト様はそんな事を何も気にされていないのかもしれない。だって彼は、兄から私を託されただけなのだ。私の心の向きにまで、心を割く必要などない。

 あの方はただ、優しいだけなのだ。たまらなく優しくて、友情に篤いだけなのだ。


 私には、そのことに心を揺らす資格などない。


 一つ、溜息を吐いて、ふと二階にある自室の窓から外へ目をやった。視線を地面の方へ下げ、すぐに後悔した。そこにネイト様がいたからだ。今は彼のことを視界にも入れたくなかった。視界に入れてしまえば、その姿を目で追わずにはいられないから。


 ネイト様はどうしてだか、両手いっぱいに沢山の花を抱えていた。と言っても、綺麗に整えられたものではないそれは、花束というよりも咲いていたものを纏めて抱え上げたようだった。ふと後ろを振り返ったかと思うと、慌てた様子で使用人の一人が彼に駆け寄った。ネイト様は沢山の花を使用人に渡し、その中から一輪だけを引き抜いて、掲げるように眺める。


「あ………」


 微笑んだのだと、何となく分かった。彼らしく柔和な顔で、目を細め、唇を緩めて優しく笑ったのだと分かった。

 衝動的に立ち上がる。窓辺から離れ、机に備え付けてある引き出しを開けた。そこには、押し花をしまっている。以前、ネイト様がこの髪に掛けてくれた押し花だ。震える指で、畏れるようにそれに触れた。


 そうだ、私。あのときは分からなかった。むず痒くて、居心地の悪ささえ感じていたように思う。そうでは、なかったのに。


 あのとき、私は嬉しかったのだ。こんな風に、押し花として残そうとするくらい。

 どうして、そんな簡単なことが分からなかったのだろう。難しいことは、何もなくて、単純に嬉しかったのだ。私の為に膝を折り、花を手折って目を合わせて綺麗だと笑ってくれることが、とても嬉しかった。


 思わず、部屋を飛び出した。はしたない、と普段なら絶対にしないのに、今ばかりは我慢がきかなくて、屋敷の中を駆け抜けた。スカートの裾を持ち上げて、階段を駆け下りる。途中でぎょっとした様子の使用人に呼び止められたが、振り返ることもしなかった。玄関から外へ飛び出して、ぐるりと屋敷の周りを走る。裏庭に差し掛かるところで、ようやくネイト様と向き合うことができた。彼は、大きく目を見開いて、私の姿を視界に収める。


「エミリア、どうしたんだい」


 女性が走るなどはしたないと思っただろうか。ネイト様は驚いた表情のまま、何があったんだい、と心配そうに私に駆け寄る。目の前に立つ彼は、けれどいつものように私に触れることはなかった。私はスカートをぎゅっと両手で握って、彼を見上げた。


「……………ごめんなさい」


 唇が震えた。勝手に目には涙が溢れかえり、頭が痛いほどに目頭が熱い。上手く言葉にならなくて、それが申し訳なくて歯がゆかった。


「何を、そんな…………」

「私、貴方に、秘密を持っていました。隠して、一生騙すつもりで、貴方の妻になりました」


 叶うはずのない恋だった。だからせめて、アロイスの為に早くあの家を去ることを選んだ。この結婚に何も求めてはいなかった。


「それなのに私、嬉しかったのです。ネイト様の優しさが、思いやりが、温かさが、向けてくれる笑顔が。ごめんなさい」


 子どもみたいだと思った。おまえは泣かない子どもだな、とよくそう兄に言われていたのに、今の私はひっくひっくとみっともなくしゃくりあげている。どうしていつものように、涙を堪えることができないのか。もどかしくて仕方なかった。


「ごめんなさい。私まだ、きっとまだアロイスに、恋をしています。でも、だけど、」


 これは酷い我儘だ。呆れられてしまうかもしれない。けれど紛れも無い私の本心で、今伝えなければ一生伝わらないような気がした。


「貴方の事を愛したい。貴方の家族になりたい」

「エミリア………」


 彼が困惑したように私の名前を読んだ。いつも落ち着いているネイト様が、珍しく焦った様子で私の顔を覗きこんでいた。それでもまだ、伸ばしかけたその手が私の頬まで届かなくて、それがどうしようもなくもどかしい。


「ネイト様の優しさが、お兄様に頼まれたからだという事は分かっています。それでもこれから、私が貴方を愛したいと願うことを、許しては下さいませんか?」


 今もまだ、アロイスへの恋心を捨てきれない私は、どうしようもない不誠実な女なのだろう。しかしどれも本心だった。大事に抱えていた恋心をすぐに捨て去ることはできない。けれど、もしも許されるなら、私をいつも見守ってくれていたこの人の事を愛して生きたいと、そう思った。


「エミリア、君がそんな風に僕とのことを前向きに考えてくれているのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。ただ、一つだけ訂正しなければならない」


 困ったように微笑んだネイト様が、少しだけ首を傾げる。ずっと躊躇われていたその指が、ようやく私に向かって伸ばされた。頬に触れる手の、なんて優しいこと。私を傷つけまいと、万感の思いやりを感じた。


「すまない。僕は臆病なんだ。愛されないと知りながら、愛を乞うことはできなかった」


 互いの額を擦り合わせて、ネイト様はそのままの体勢でじっと私の目を見つめる。


「愛しているよ、エミリア。僕の気持ちを知っていたから、ニールは君を僕に託したんだ。ずっと昔から、寂しそうな目をした君を、僕が幸せにしたかった」


 頬に、唇が寄せられる。流れる涙を拭うように、頬の上を彼の唇が伝った。


「ゆっくりでいいんだ。焦らなくていいんだ。エミリアが僕との未来を想ってくれるなら、それでいいんだ」


 触れる唇の柔らかさが、頬を包み込む手の温かさがもう堪らなくて、私は初めて衝動的に人に抱きついた。当たり前のように抱きしめ返してくれる彼の腕が、これ以上なく嬉しくて。

 ああ早く彼のことを愛したいと、そう想った。









 いつの日か、きっと私は告げるだろう。沢山の思い出と、与えられた優しさを抱えて、心からの感謝を込めて口にするのだ。


『ネイト様、貴方を愛しています』


 そうすればきっと、貴方は私の大好きな顔で嬉しそうに笑って、私を抱きしめてくれる。そう確信できる事が何よりもの幸せだと知る日も、きっとそう遠くないことだろう。






最後までお付き合い頂きまして、誠にありがとうございます。

もしも彼女らの世界に天国なんてものがあるとして、何十年もあとに兄と再会することが叶うなら、笑顔でいい報告ができるように祈っております。




以下人物紹介


エミリア:異母弟に、そうとは知らず初恋をしてしまった不運の人。真っ当な愛情というものを知らない為に、異母弟の為に不幸になることが愛の証明になると考えていた。今後ネイトと共に暮らす中で、愛を知っていくことになるかと思われる。



ネイト:寂しそうな目をした小さな女の子がずっと気になっていた。かなりマイペースで先入観に囚われず、行動力もあるので時々突飛な行動をして、よくニールに引かれたり怒られたりしてた。



ニール:偏屈で神経質でよく言えば繊細。自己主張0の妹が本気で鬱陶しいとも思っていたが、同時にそうあることしか知らない妹が憐れでならなかった。ネイトに対して、平たく言うとツンデレな部分がある。



アロイス:エミリアの異母弟。母親は元使用人。平民として暮らしていた。母親は流行り病ですでに死亡。貴族が死ぬほど嫌いだが、何の因果か貴族の仲間入り。婚約者とはそう悪い関係ではない。



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― 新着の感想 ―
[一言] ピヨさま  はじめまして。  エミリアさんは不幸な幼少期(ご両親)を過ごしたのかもしれませんが、お兄様といいとてもあたたかな人々に囲まれて、その温かさに気が付くことができてよかったなぁ、と思…
[一言] 「私はあなたの為にここまでできるのだ」が気に入った。
[良い点] あらすじ欄の素敵なギミックに脱帽しました.
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