第二節 警視庁生活安全部特殊捜査課
念動力、瞬間移動、精神感応、予知、透視……。
昭和の時代まで、「超能力」という単語は決して公のものではなかった。
もちろん、SFの世界ではお馴染みだ。
がちがちの本流以外にも漫画やアニメに取り入れられたおかげで、子供たちの間では魔法以上に信じられていた存在だったろう。
「超心理学」という名前のもとに研究されてもいたし、もしかするとどこかの国では軍事利用目的でこっそり実験が繰り返されていたかもしれない。
テレビで超能力者の特番が組まれた日には、その導きで日本中の子供がスプーンを曲げ、一大ブームが起こったりもした。
サイコロを振るときに出目を念じない人間は、恐らくいない。
だが、いくら知名度があり、共通の認識が持たれていたとしても、朝刊一面の見出しを大きな活字で飾るような単語ではなかったはずだ。
せいぜい三面記事で自称予知能力者の詐欺事件が扱われるとか、比喩的表現で「まるで超能力」のあおりがつく程度。
ましてお役所の文書には載ることがない。
要するに亜流。日陰の存在。
お遊びでなら許されても、真面目に語ればすなわち既知の外。
一九八七年。
昭和も終わりに近い六十二年。春のこと。
ある彗星が地球に接近した。
発見者の名前から安里・堀田彗星と名づけられたそれは、肉眼で見えるほどに明るくなり、天文ファンを湧かせた。
前年のハレー彗星が期待された割に今ひとつだったので、その分こっちで取り返すぞ、という心理も働いたかもしれない。
三月二十八日。日本時間で二十二時十五分。
おとめ座に入って主星スピカの傍らを通りかかったちょうどその時、安里・堀田彗星はアウトバーストを起こした。
汚れた雪玉に喩えられる彗星の核は、何かの拍子に分裂することがある。
太陽に接近すればその分風を強く受けるので、恐らくこのときもそうだったのだろう。
分裂した箇所からは、新しい水分や塵が噴き出して、太陽光を反射する。
光度が一気に増す。
これがアウトバーストだ。
この現象により、もともと明るかった安里・堀田彗星は、夜空にまばゆく光り輝いた。
ばら撒かれた塵は流星雨となって地上へ降り注ぎもした。
空いっぱいに目映く翻る優美な銀色の尾の姿、花火と見まごう金の光の矢たち。
荘厳な天体ショーを人々は楽しんだ。
しかし。
古来より彗星および流星は凶兆と言い習わされている。
昔の人の知恵は侮れない。
実際これは凶兆だった。
宇宙の遠い彼方からの来訪者は、その身中に地球にとって未知のウィルスを抱えていた。
大気との摩擦熱にも死することなく、流星の影のように地上へ降り注いだウィルスは、人類に思わぬ症状をもたらした。
「超能力風邪」。
あまりにもストレートすぎるひねりも何にもないネーミングは、ストレートであるが故に定着し、種々の呼び名が提案された今日でもなお、一番通りのよい名称として君臨している。
潜伏期間の後、発熱、そして超能力が発動し、やがて失われる。
潜伏期間は大体数日から一ヶ月、発熱の程度は微熱から入院騒ぎの高熱まで。
超能力の種類としては念動力系と精神感応系に、わかれているようないないような。
失われるまでの期間も、これまたまちまち。
とりあえず、熱の高さと能力の高さには相関関係があるらしい。
能力の強さと失われるまでの期間には「太く短く/細く長く」の法則があるようだ。
ただし例外は存在する。
そう、長年観察と研究を重ねて、いくつかの法則は推定されたが、完全に定義づけようとすると、必ずこの注釈がついてまわるのだ。
「ただし例外は存在する」
そんな中でただひとつ、例外のごく少ない、信頼に足るルールもある。
発症するのは、おおよそ十一歳から十九歳までの若者に限られる、ということ。
さて、この超能力風邪、もちろん一気に存在が認知されたわけではない。
最初のうちは、ごく内々に処理されていた。
何か事件が起こっても、超能力の存在は伏せられて、あるいは気がつかれもせず、新聞の見出しにも「超能力」の文字は躍らなかった。
しかしながら、だんだんそれでは追いつかなくなってきたのである。
何しろ毎年、春先になると流行する。
流星群、という言葉は聞いたことがあるだろう。
毎年決まった時期に、決まった星座の一点から、たくさんの流星が放射状に出現する現象だ。
しし座流星群、ふたご座流星群、ペルセウス座流星群などが有名だが、つまりそれらは、しし座、ふたご座、ペルセウス座にその一点――輻射点がある、という事を指す。
彗星から噴出した塵が宇宙空間に残っていて、地球が公転軌道の同じ位置を通過するときに、地上に降り注ぐとされている。
というわけで、安里・堀田彗星を母彗星として、新おとめ座流星群は誕生した。
三月末から四月頭にかけて、ちょうどスピカの辺りから流星が降り注ぐ。
一緒にウィルスも降り注ぐ。
何年も宇宙空間に漂って、それでも死滅しない。さすがは未知のウィルスというべきか。
ちなみにいつまでも「未知のウィルス」では具合も悪いので、「SPウィルス」という名前がつけられているが、日本では《麦芽》という俗称が、若い世代を中心に広がっている。
スピカは《麦の穂の先端》の意味。
そこから降り注ぐから、《麦芽》。
ネットで誰かが言い出したことが、妙に定着してしまった。
ここより派生して、新おとめ座流星群についても《穀物の雨》と呼ぶ者がある。
新、とつくことからもわかるように、それまでにもおとめ座流星群が存在し、区別をつける必要からしゃれた名前が考えられたと言われているが、真偽のほどは定かではない。
さてこのウィルス、流行するといっても、感染拡大という意味ではインフルエンザほど怖いものではない。
免疫は五年程度保たれるので、十年の間にはかかっても二回(ただし例外は存在する)。
人体間感染はごく濃厚な接触があった場合に稀に見られる程度(ただし例外は存在する)。
そして前述の通り、発症する年代が限られている。
このため、二十代以上の社会人や、抵抗力の弱い老人・乳幼児・妊婦などは、とりあえず発熱の心配をしなくてもよい。
が。
この「若者の間で発症する」というのが曲者なのだ。
想像してみてほしい。
高熱で倒れ、春休みを棒に振って、もしくは新学期早々、何日か寝込む。
深い眠りの後、やけにすっきりした気分で目が覚める。
時刻は夕方で、部屋はすでに薄暗い。電気をつけなきゃ、と思った瞬間に――
かちり。
手も触れていないのにスイッチが入ったら。
喉が渇いた、と思っただけで、枕もとの水差しからコップに水が注がれて手元に飛んで来たら。
試しに「晩御飯にステーキが食べたい」と念じたら、給料日でもないのに母親が奮発してくれたりしたら。
そんな便利な力を持ったら、使いたくなるのが人情というものである。
まして十代、目覚めかけの自我が緩い自制心にくるまれた生き物だ。
そして期間限定、およそ一生一度のチャンス、使わなくちゃ損という気にもなる。
晴れ着姿の新成人が、式典会場で羽目を外すように。
毎年春に多発する超能力を悪用した少年犯罪を取り締まるべく、法の整備は徐々に進められ――
そして今年、二〇一六年新春。
日本では初めて、超能力犯罪専門の課が正式に設立された。
警視庁生活安全部特殊捜査課。
それが、アキラたちが所属する部署の名称である。
逮捕劇の後に、ちょうど店長が戻ってきた。
コンビニ経営もいろいろと大変なようで、他店のミスであっても本部から応援の指示があれば知らんぷりは出来ないらしい。
吉岡被疑者に少しだけ話をさせてほしい、とレジ奥の小さな事務スペースに通される。
アキラはそのまま裏口から出て、詰め所に連絡を入れた。
「――はい、今はライムと、合流した宮本刑事が立ち会ってます。話が済み次第、被疑者を連行します」
『了解』
返る声は歯切れよく、爽やかだ。
いつか上野署の誰かが、ショウコのことを美人声だと言っていたが、声が美人という意味でも、美人を想像させる声という意味でも、それは正しいと思う。
またその想像もさほど間違ってはいないだろう。
『そしたら、連行は二人に任せて、アキラは別の用事受けてくれる?』
「はい。また事件ですか?」
ここ数日落ち着いてきたと思ったのに、今日は朝からやたら忙しい。
このコンビニに来る前にも別件の調査に行かなくてはならなかった。
後処理を宮本刑事――諒に任せて、ぎりぎり間に合ったのだ。
もっとも、本当は被疑者が立ち読みをしていた辺りから見ていたのだが、ライムが、どうせなら出てきたところで仕掛けようと主張したのである。
自分たちが捕まえるのはただの万引犯ではない。
「超能力を悪用して万引きをしている犯人」だ。
尻尾を掴むためには、いろいろ段取りが必要だ、と。
おかげで確かに、吉岡被疑者がくじの景品を「送る」ところもよく見えたし、店のゴミ箱の横を通り過ぎざまに巾着袋を「飛ばして」隠すところも確認できたが、その時点で現行犯逮捕する権限もあるのにあそこまで引っ張って追い詰めたのは
――恐らくは、半分趣味で半分私情だろう。
『事件というか、用事なんだけどね』
電話の向こうで、ショウコが苦笑いしている。
『迷子を一人、探して連れてきて』
「――犬とか猫とかじゃありませんよね?」
ショウコの物言いに、何故か貧乏私立探偵が路地を覗いて迷い猫を探す情景が浮かんだ。
『一人、って言ったでしょ。あたしたちの仲間よ、れっきとした』
明後日六月一日付で配属になるメンバーが、今日入寮するはずなのに、まだ到着できずにいる。
携帯電話で連絡は取り合っているのだが、どうも最初に駅の反対側に出たのがそもそもの誤りで、歩けば歩くほど目的地から遠ざかり、今は上野公園内で迷っているらしい。
『アキラはその辺の勘は確かじゃない?』
「まあ」
目隠しに耳栓で車に乗せられぐちゃぐちゃに走られても、三時間くらいなら道順を辿れる自信はあるし、見知らぬ土地でもまず迷わない。
しかしその分、方向音痴族の気持ちは今ひとつ想像しきれない。
『違う違う。それもあるけど、困ってる人のところに駆けつけるヒーロー属性が』
「ライムにも割とありますよ」
演出過多だが。
『迷える子羊を救うのに飢えた狼を差し向けるほど愚かなことはありません』
「女性なんですね」
『そうよ。名前はニウカワ・ユミ』
丹生川という漢字が頭に浮かぶ。
「特徴は?」
『可愛い』
「――はい?」
恐ろしく主観的な特徴だ。
『真っ直ぐで長い黒髪が綺麗なのよ。あと目がね、黒目がちで、真ん丸で、ちょっと垂れててなんていうか、そう』
『――ロリ顔巨乳タイプ』
警察の職場にはあるまじき発言がショウコの後ろのほうで聞こえた。
最近の携帯は性能がよすぎるのか、あるいは念が電波に乗って飛んできたのか。
『主任は黙ってて!!』
うん、幻聴ではなかったらしい。
「……セクハラですね、あれは」
『ええ、まったくね。ユミちゃんにうっかりなこと言って泣かれる前に、もう一回きっちり躾けておきます』
鼻息が荒い。
しかしいくら壮絶に躾けられても、主任――トウゴは飄々としたものだ。
『アキラはあんな大人にならないように』
「多分どう逆立ちしてもなれません」
『そうね。で、ええと、他に特徴――』
少し考えて。
『あ、声も可愛い』
「……わかりやすい特徴ですね。その子がライムみたいに一人でも喋りまくってる人間だとしたらの話ですが」
皮肉を言うつもりはなかったのだが、ツッコまなくてはいけない気がした。
「姐さんのボケは天然過ぎてたまにやりづらいねん」とはライムの談。
『やだわ、あんなのがもう一人増えたら』
幸い皮肉には取られなかったようだ。というか意図が通じなかった。
『でも安心して、そういうタイプじゃなさそうでした。むしろ正反対』
となると、大人しくて素直で穏やかで優しくて――。
それはけっこうなことだが、いよいよ目立たない人物像になってしまう。
「長い黒髪」という以外にも、客観的かつ遠目にもわかるような外見の情報がほしい。
(胸のサイズについてはこの際忘れておく。)
「他には?」
『――精神感応能力者』
これまた見た目ではわからない。
『だからね、思いっきり心で呼んでたらいつかは通じるんじゃないかと』
「……もしかして、俺は試されているんですか?」
忍耐力か、ツッコミ技能のいずれかを。
『めっそうもない』
そう言いながら、確かにくすりと笑った。三割くらいは遊ばれていたらしい。
「わかりました。せいぜい呼びかけてみます」
やや投げやりに尋ねる。
――とはいえ、相手の【枷】がわからない現状では、徒労に終わる可能性もあるが……
まあ基本は足で稼いで、保険程度に思えばいいか。
『がんばってね。あ、ユミちゃんの写真と携帯の番号、メールしとくから』
その手があったか!
……どうも情報伝達手段についての認識がアナログ寄りなのは、自分の弱点だ。
四十過ぎの養父のほうがよほど携帯電話の最新機能に明るいくらいなのだから。
『じゃあ切るわよ。――雨が降りそうだし、早く見つけてあげてね』
そして通話は切れた。
「アキラくん……?」
呼ばれて振り返ると、天花がこちらを覗いていた。
表から回ってきたらしい。
手に缶コーヒーを持っている。
「店長が、よかったらどうぞって」
「ありがとう」
受け取ると、天花は嬉しそうに微笑んだ。
宮本刑事――諒の妹で、確かアキラと同じ年。だから……高校の二年生、だったと思う。
長めのポニーテールは、髪質が柔らかいのかしなやかで、重そうな感じがしない。
すらりと伸びた足にスリムのジーンズがよく似合う。
染めているわけではないけれど明るめの髪の色、日本人には珍しい、よく見ると少し青灰色の瞳。
素材はやっぱり諒と似ているが、穏やかで目立たない印象の兄と比べて、妹はきりっとした雰囲気の美少女だ。
今までにも何度か顔を合わせたことがあって、アキラにとっては貴重な、『仕事』以外での知り合いだった。
「こちらこそ、ありがとうございました」
深々とお辞儀をすると、ポニーテールがぐるんと揺れる。
「ごめんね、来るのが遅くなって」
「ううん、とんでもない! ――ていうかあの人が悪いんじゃない! 『一番いいタイミングを狙ってた』って、もー、バカじゃないの!?」
あ、バラしたんだ。やっぱり。
苦笑しながらプルトップに指をかける。
迎えを待っている迷子のことは多少気になったが、まだ中で話は続いているようだし、ちょうど喉も渇いている。
口をつけると、ほろ苦いが基本的にドロ甘い液体が口の中を冷やして、胃に下りていった。
「あんな公衆の面前で押さえ込むのもやりすぎだし、もう少し警官としての自覚というか自重というか――」
「そういえばレジは? 出てきちゃって大丈夫?」
多分そのまま放っておくと、ライムに対する文句が延々と続くので、話をそらす。
聞いていて楽しくないこともないのだが、缶コーヒーと同じで、そうそう大量にはいただけない。
「あ、うん。次のシフトの人も来たし、今ならちょっと空いてるから」
「諒には怒られた?」
「大目玉」
肩をすくめる。
「さすがにこの場で怒鳴られることはなかったけど、後が怖いわ」
「心配なんだよ」
「兄一人妹一人だからね、しょうがないとは思うけど」
諒が高校を卒業する頃に両親が相次いで亡くなったと聞いている。
なので、妹のこととなると普段の穏やかさはどこへやら、一種の凄みを帯びるのだった。
「店長にも注意されちゃったし――あああ」
背中を壁につけて、ずるずるとしゃがみこんだ。
「わかってなかったわけじゃないんだよ? でも……でもね……」
「何か、どうしても許せないことがあったんだよね」
それは自動ドアから飛び出してきた天花の表情を見ればよくわかった。
「――うん」
「そういうの、大事だよ」
「……ありがとう」
「大事だから、それを持ってる自分の安全も、もっと大事にして。――って屁理屈?」
くい、とコーヒーをあおり、飲み干す。そういう言い方しか、アキラには出来ない。
天花は首を横に振った。ぱさぱさとポニーテールが踊る。
「ううん、そうだね。ありがとう」
勢いをつけて、立ち上がった。
「さすがアキラくん、いいこと言うね!」
あまりにも晴れやかな笑顔を向けられて、つい聞いてみたくなる。
「――ところでライムは何て言ってた?」
途端に顔色が変わり、ぐ、という呻きが喉を震わせた。
少しの沈黙の後。
「……『オレやったら、何人かで組んどるな。レジの子がおらん間に現金ごそっとかっぱいどるわ。よかったなぁ、ただの万引きで』……だって」
ライムが聞いたら添削しそうな関東なまりのイントネーションで、それでも原文ママなのは、言い方を含めた丸ごとがよほど心に食い込んだのだろう。
ある種の正解だ。
理屈の正否はともかく、彼女に同じ危険を冒させないためにはまず有効打。さすが。
さて、何かフォローを入れるべきか、と考えたとき、がちゃっと裏口のノブが回った。
「終わったよアキラ――」
出てきた諒から隠れるみたいに、天花は身を縮こませる。
「――天花」
ゆるりと声の温度が変わる。たとえて言うならマッターホルンの山頂で水をコンロにかけたような――百度よりも低温だけれどお湯はぐらぐら沸いている、そんな状態。
「戻りなさい、まだバイトの時間だろう」
「……はい」
それじゃあねアキラくん、と小さく手を振って、正面の自動ドアから戻っていった。
「悪いねアキラ、妹が」
「いい子だよ」
諒はかすかに目じりにしわを寄せる。照れてるような、苦笑してるような。
「俺、ショウコさんから別件言いつかったんだ。あと頼む」
「ああ、了解。じゃ、捨てとくよ」
差し出す手に飲み終わったコーヒー缶を預け、「店長によろしく」と言いおいて、アキラは軽く駆け出す。
まずいな、少しのんびりしすぎた。
冷えてきた風に片目をつぶる。
灰色の空に、少しだけ白っぽい雲が蠢きながら徐々にその明度を落としている。
雨が降りそう、というショウコの言葉を今更ながら思い出した。