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影ふたつ 作者:塚原 蒔絵
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三章ノ八




「また雨だ」
 窓の外をふと見やったひとみの顔が寂しく曇った。
 もうすぐ晴れの日が来ると聞いていたのでひそかに期待していたのだが、残念ながら今日ではなかったようだ。
 昨日の夜、無事に戻ってきた病院では医者に怒られ、看護師に泣きつかれ、大変な目にあったのだ。
「寝ていなくてもいいんですか?」
「大丈夫ですよ、もう」
 振り向けば、花瓶に活けられた花を岩下が丁寧に整えているのが見えた。
 彼は外の天候に興味がないらしい。
 恵みの雨。その聞き慣れた音を耳にしながら、しばらく黙っていると微かに布が擦れる音が聞こえる。こちらを真剣に見ている岩下の視線とぶつかった。
 直感的にここまでなのだと――一緒にいられるのはもう終わりなのだと分かってしまった。
 できることなら今から開くその口を両手で覆い隠してしまいたい。けれど、そんなことができるはずもない。
「ひとみさん。そろそろ、あの家を出ようかと思うんです」
 ツキンと確かに痛んだ心を隠して、ひとみは精一杯の笑顔を返す。
「岩下さんの怪我、治っちゃいましたもんね。今は私が怪我人だし」
「これを水島くんに渡してもらえますか」
 岩下から小さなチップを手渡される。黒くて手の中で潰せそうなサイズのチップだ。
「これは?」
「機密情報です。要らなければ処分していいと、伝えてください」
「……分かりました。岩下さん、私、お料理上手くなりましたよね?」
「ええ」
「女の子らしくなりましたよね?」
「そうですね」
「もう一人でも大丈夫なんですよ。亮ちゃんだって、もう一人前だなって言ってくれます。だから……」
 言い募り、やめる。
 なにを言おうとしているのだろう。
 どんな言葉を用意したところで、彼がここに留まることはない。
 それが分かっていてなぜ、こんな無駄な行為をするのか。
 ひとみは力なく笑うと、再び窓の外へ視線を向けた。
「なに言ってるんでしょうね、ごめんなさい、忘れてください」
 窓の外を行き交う車のヘッドライトを眼で追いながら、意識を他の場所へと向ける。
 そんなひとみに岩下は少し俯くと、(きびす)を返した。
「……では」
「あの!」
「なんですか?」
「もう、会えないんですか」
 否定してほしいと、その考えが透けた声色だっただろう。
 しかし岩下は首を振った。
「会わない方がいいですよ」
「私が会いたいって言ってもですか?」
 緩やかにひとみを見つめる岩下。
 その表情は困っていて、つい泣きそうになる。
 困らせたいわけではない。嫌われたくもない。けれど、いま手を伸ばさなければ二度と手の届かない場所に行ってしまう人。
 一度呼吸を整えると、ひとみは岩下に手を伸ばした。
 顔は見れない。もし見上げた先で嫌悪の感情が少しでもあれば、その瞬間に自分は泣いてしまう。
 指が届くと服を掴んで、ぎゅっと引っ張る。
 岩下はそんなひとみの行為をとがめなかった。
「だったら、最後に一つだけ我侭(わがまま)言ってもいいですか?」
「……ええ、いいですよ」
「デート、したいです」
「……今からですか?」
 思いがけず優しげな岩下の声に、ひとみは恐る恐る顔を上げた。
 そうして見えるのはいつもと同じで無表情な、しかしどこか照れたように見える岩下の顔。だから、駄目元(だめもと)で強気に身を乗り出してみる。
「今からです」
「その服じゃ目立ちますよ?」
 そう言いながら岩下はひとみに手を伸ばしていた。
 ひとみは差し出される手をしっかりと取る。温かく大きい、いつも憧れていた人の手。
 手放してはいけない、大切な人の手。
「そんなの、気にしません」
 笑顔で岩下を見上げると彼は一瞬驚いたようで、しかしすぐに頷いてくれた。

 ひとみと岩下が病院からこっそり抜け出してしばらくしたあと、缶ジュース数本をレジ袋に入れた麻生が病室の扉を開ける。
 もちろん、ひとみに会いに来たのだが。
「村田、桃ジュースあったけど飲むかー、ってなに!」
「なに?」
「お? 麻生じゃないか」
 開けた扉の先に目的の人物はおらず、なぜかキティと水島が机で向かい合っていた。
 ここは取締(とりしまり)室ではないが、両者とも、とても真剣な表情だ。
「なんで村田の病室に水島さんとキティがいるんだよ。しかもなにそれ、将棋?」
 格式(かくしき)ある将棋盤ではなく、プラスチックで作られた将棋盤だ。駒を指すたびに軽い音が響く。その音のせいで、真剣勝負なのだろうが、安っぽく見えてしまう。
「やーさ、お別れの挨拶をしに来たんだけどね、ひとみちゃんがどこにもいなくって」
「俺は普通に見舞いにきたら、手紙が置いてあった」
 駒を指す手とは反対の手でベッドの上にある二つの手紙を指す水島。
 麻生は持ってきたジュースを小さな冷蔵庫に入れながら問いかける。
「なんて書いてあるんすか?」
「岩下さんとデートして来ます。Byひとみ」
「ひとみさんとデートして来ます。By岩下」
 短い文だから覚えたのか、水島とキティがそれぞれ書いてある言葉を代弁する。
「……デート?」
 引きつり笑いをする麻生に、追い討ちをかけるようにキティが言う。
「そうデート」
 言葉を脳内辞書で何度調べても、デートが指す意味を一つしか見つけられない。
 デートとは、好ましく思う相手とどこかに出かける行為だ。
 麻生は傍から見ても分かるほど小刻みに震えたかと思うと、冷蔵庫に入れかけていた缶ジュースを派手に開け、一気飲みする。
 これは俗に言う、自棄酒(やけざけ)ならぬ自棄ジュース。
「くっそう!! 岩下め、絶対、ぜーったいにいつか追い越してやる」
「若いっていいわーねー。あ、みずっち、王手!」
「う……待った」
「待ったなし!」


 いつもなら仕事場であくせく働いている時間だが、今日の一之瀬は違った。
 この頃の天候を鑑みて、折り畳み傘を持参したのだが、雨が降る様子はない。手桶ておけの水がたぷん、と揺れた。
 砂利が敷き詰められた細い通路を誰にもすれ違うことなく進むと、目的の墓石が見えた。
 するりと涼しい風が一之瀬の前髪を揺らす。
 ここにくることは得意ではなかった。この場に立って墓石を前にすると、いつも感情の制御ができなくなるのだ。 しかし、今は静かな気持ちで明日香の前に立てる。
「明日香、私これからも刑事でいることにしたよ」
 タオルで墓石を拭きながら現状の報告をする。寂しい行為だ。けれど一之瀬は明日香に聞いてほしくて喋り続けた。
 墓石は随分と汚れていて、力強くタオルで擦る。そうして十五分くらいすると、ようやく一之瀬は動きをとめた。タオルを桶に放り投げ、明日香に正面から向き合う。
「色々あると思うけど……でも、もともとね、私の夢は警察官だったから」
 もう下を向いてはいられない。
 あの事件の原因がどこにあったのかは判明したが、誰かを裁くことはできない。いや、誰もそれを望まない。
 ならば自分はどうするのか、どうしたいのか。答えは意外と簡単に見つかった。
 一之瀬は手を合わせて眼を閉じる。
「もう明日香みたいな子が増えないように、頑張るから――見ててね」
 水島の隣に立って、不正を――事実を隠す前に暴けるようになってみせる。
 そして誰と対峙たいじしても、自分を恥じることなく前を向いて生きていられるように。
 今は無理でもいつか、自分を誇れるように。
 そう心に誓い、一之瀬はほほえんだ。

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