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影ふたつ 作者:塚原 蒔絵
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三章ノ三

「ひとみが、さらわれた?」
 水島は力なくベッドに腰かけた。顔には珍しく疲労の色が強く出ている。
 本来ならひとみが寝ているはずのベッド。しかし今、そこにいるべきはずの人がいない。
 温もりを感じられないことから、随分前にこのベッドを出たのだろう。
 確認し終わると岩下は辺りを見渡した。
 部屋には荒らされた形跡(けいせき)がない。簡易(かんい)テーブルの上にカップが三つ。内二つには紅茶が入っている。
 カップを持ち上げると、微かに甘い香りが鼻につき、岩下は顔をしかめた。
「どうなってんだよ」
 水島が苛立ちながら言葉をはく。彼の心情を表すなら間違いなく怒りだろう。状況把握など落ちついてできるはずもない。ひとみが狙われていると知りながら彼女の傍を離れたのは自分たちだ。
 一之瀬は病室をくまなく見ると、腕を組み、思案顔をした。
「キティや、大樹はどこに?」
 声に反応するように水島が顔をもたげる。
「一緒に捕まったって考えんのが妥当(だとう)だろうな」
「そんな、大樹は無関係ですよ?」
 非難めいた様子の一之瀬に、水島は力なく首を振る。
「んなこと、あっちにはどうだっていいんだよ。その場にいたから一緒にさらった……それが俺たち、警察のやり方だろ?」
 失笑を含む声色に口を閉ざす一之瀬。
 警察がこのような手段を取ると分かっていて、それでも問わずにはいられなかったのだろう。
 まだ警察を信じていたいと願う彼女の気持ちを理解できないわけではない。ただ、ここで論争しても、事態が好転することなどない。
 岩下は静かに刑事たちの様子を観察していたが、そっと机の上の紙きれを取った。
「しかし、こんなふざけた手紙を置いていくんですね、今の警察は」
 書かれている簡潔な文に自然と口元が歪む。
 ひとみをさらったということ、手荒くされたくなければ所定(しょてい)の場所に来ること。
 水島は岩下から手紙を奪うと一度読み、忌々(いまいま)しげに放り捨てる。
「俺たちが会ったってことは、とっくにばれてただろうし。その上でこんな対応をするってことは」
「間宮警部は、私たちとなにか交渉したがっていると考えていいでしょう」
 水島が犯罪者を匿った不正を暴露せず、あくまで交渉がしたいということだろう。
 話し合いを望む間宮の意図が不明だが、それ以外には考えられない。
 一之瀬は水島が捨てた手紙を拾うと、ついた(ほこり)を払う。
「間宮警部は、なにについて交渉がしたいのでしょう?」
「それが分かりゃお前、苦労しないって」
 水島はお手上げだと言わんばかりにベッドに倒れこんだ。ぎしり、とベッドが(きし)む。
 一之瀬もため息をついて項垂(うなだ)れた。
 岩下は黙ったまま窓の外を眺める。降り続ける雨で濡れた窓ガラス。雨でぐちゃぐちゃになった様子は、まるで自分たちのようだ。
 次々と物語が進むが追いつけず、ここに残された人たちは展開に置いていかれている。
 もうこのシーンには役者が足りないのだ。他の役者は、次のシーンに立っている。
 岩下は歩き出した。
「とりあえず、行ってみます」
「どこに」
「どこにとは?」
「あのな研一、所定の場所に来いって書いてるだけで、どこって書いてないだろ」
 苛立ちが隠せないのか水島は(うな)る。
 手紙には所定の場所に来いと書かれているだけで指定がない。しかし岩下は迷わず一之瀬に向きなおった。
「あなたが知っているのでしょう」
「は? いえ、自分は指示など受けていません!」 
 疑いをかけられていると思ったのか、一之瀬は強く否定する。
「言い方が悪かったですね。間宮との話の中で私をおびき出す際、どこに呼び出すかなど決まっていませんでしたか?」
 様子を見るように問いかけると一之瀬はしばらく迷い瞑目(めいもく)した。
「……決まっていました」
「ひとみさんはそこにいます」
「なんで手紙に書かなかったんだ?」
「一之瀬さんへの警告でしょう。裏切ることは許さないと」
 だから麻生までさらったのだと、岩下は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
 言ったところでなにも始まらない上に、自分たちのふがいなさを痛感するだけだ。
 この事態について、誰かを責めたいわけではない。
 一之瀬は戸惑った様子で視線をさ迷わせる。
「私が案内を?」
 彼女の動揺は当然だろう。信じていた相手にだまされていたと聞かされたのはつい先刻で、すぐに気持ちの切り替えなどできない。
 それに、岩下から聞かされた情報を信じるか信じないか、判断しかねている様子でもある。
 犯罪者の言葉を、おいそれと信じられないのは当たり前だ。その証拠に水島を(すが)るように見つめている。
 ふと、一之瀬の視線に合わせるように水島が顔を上げた。
「場所、覚えてるか?」
 一之瀬を見つめる水島の眼が一瞬だけ優しく緩んだと、少なくとも岩下にはそう見えた。
 このように自然と相手の心を掴む手段をやってのける水島は、ある意味で世渡りが上手いのだろう。猪突猛進(ちょとつもうしん)ではあるが、部下からの信頼は厚い男だ。
「覚えていますが……案内をすれば」
 水島の思いに答えて発言する一之瀬だが、だんだんと言葉が尻すぼみになっていった。
 どう考えても、悪い方向にしか結末が辿りつかないのだろう。
 静かになる空間の中、ここで手をこまねいているつもりはない岩下は携帯を一度確認すると、胸ポケットにしまった。
「私は捕まるでしょうね。犯罪者ですし」
「俺も拘束されるだろうな。あっちからすれば裏切りモンだし」
 両腕を後頭部で組む水島に、一之瀬が詰め寄る。
「そんな状態になるのに行くんですか?」
「ま、ここで愚痴ってても仕方ねぇしな」
 大きく息を吸うと勢いよくベッドから起き上がり、水島はいたずら好きの少年のように屈託(くったく)なく笑う。
「一之瀬、知ってるか? 岩下は売られた喧嘩、必ず買うんだぜ」
 言って岩下の肩を叩く水島。水島の手を叩き落とそうと拳を握った岩下は、手を上げたところで動作をとめた。一之瀬がこちらを凝視しているのだ。
 犯罪者になって他人の眼には慣れたが、このように至近距離で凝視されるとさすがに()(たま)れない。
 穴があくのではないかと思えるほど、凝視された後、ぽつりと感想を漏らす一之瀬。
「……随分と印象が違いますね」
「……どうも」
 そう言って苦笑いするのが精一杯だった。
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