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影ふたつ 作者:塚原 蒔絵
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一章ノ一

 降りしきる雨の中、岩下研一(いわしたけんいち)は公園のベンチに座っていた。
 傘は差していない。いや差せないのだ。彼の手は今、腹部から放すことができない。
 花壇を挟んで向こう側を過ぎゆく群集をぼんやりと見つめる。
 普段であれば赤や青の色彩を放つ傘が見えるが、残念なことに岩下の視界に映る傘はどれもこれもが黒。
 色盲にでもなったのかと一度考え、すぐにその思考を捨てた。己の腹部に見える液体は赤い。
「死ぬつもりなら、最初から一人で死ねばいいものを……」
 愚痴を零すと、取り込んだ空気で咳き込んだ。
 身体をひねって咳をとめようとすると酷く傷口が痛む。
 唇からは荒い息。それがまるで他人ごとのように思えて笑ってしまう。
 自殺願望などないが己が今、死に直面しているという実感がわかないのだ。幼い頃から感情的ではなかったが、死を前にしても客観的に物事を捉えてしまう自分に失笑しかおきない。
「自殺を図るなら、巻き込まないでいただきたいものですね。……歩くのは難しいか」
 腹部を押さえていない方の手で髪をかき上げると、額に雨粒が当たった。
 頬に、唇に、冷たい雫が触れる。そんな小さな感覚を楽しみながら眼を閉じる。
 身体から力を抜くと息苦しさも一瞬和らいだ。
 このまま放っておけばいずれ死ぬだろう。雨に体温を吸い取られ、翌朝には衰弱死体として発見される。そんな無様な結末が自分にはお似合いだ。
 しとしとと降り続ける雨。
 徐々に奪われていく体温。
 死へと近づいている。その事実に少しだけ嬉しさがこみ上げた。
 ここで絶命できれば、これ以上なにも案ずることがないのだ。もう、なにも。
 ふと、遠くの方から足音が聞こえた。
 薄く眼を開くと赤い傘を差した女子高校生が見える。彼女が歩みを進めるたびに揺れるオレンジ色の携帯ストラップ。
「はーいはいはい、分かったってば。戸締りします。変な人にはついていきません。落ちてる物は食べないし……え、なに? 大丈夫だってば」
 楽しげに会話している声に、岩下はふと彼女の顔を見た。
 意識してそうしたわけではない、ただなんとなく声に聞き覚えがあるような気がしたのだ。その予想は当たる。
「犯罪者がこの辺りをうろついてる? そんな人と運命の出会いをする予定はなーいの!」
 近づいてくる足音。
 あの少女に会ってはいけない。そう脳は警告を出すのだが、足に力が入らない。逃げなければと思うだけで岩下の身体は動かなかった。
「あーもー……あ? あーあー、おかしいなー電波が悪くなった。駄目だ、だーめーだぁー聞こえないや。ってなことで切るよ、バイバイ」
 あからさまな嘘を告げ、一方的に会話を終わらせる少女。ポケットに携帯を仕舞う仕草に若干の乱雑さが見えることから不機嫌なのだろう。
「まったく、りょうちゃんは心配性なんだから。この平和なご時勢のどこに犯罪者がうろついてるって言う――」
 少女の言葉が切れた。彼女の視線は自身の前にある人物――岩下に(そそ)がれたまま外れない。
「大丈夫ですか!」
 泥が跳ねることも(いと)わず慌てて駆け寄ってくる少女。あくまでも岩下が濡れないようにと差し出される傘。そのせいで少女は濡れているが、彼女はそんなことを気にも留めていないようだ。
「名前、言えますか?」
 先ほど仕舞った携帯を取り出しボタン押す。そこまでは流れるような動作で、少しの迷いも見えなかった。しかし、いざ通話ボタンを押す手前で手がとまる。
 岩下の顔を穴が開くのではないかと思えるほど凝視する少女。
 傘を持つ手が震えた。
「……岩下さん」
 聞こえる声に懐かしさをかみ締めながら岩下は彼女を見上げた。
 ブラウスにべージュのベスト。胸元では赤いリボンが揺れている。幼い頃に見た時よりも大人びている容姿。髪も伸びて、今はセミロングくらいだろう。真っすぐな黒髪は冷たい雨粒に濡れている。
「おや、意外な所で意外な人に会いますね。こんばんは、ひとみさん」
 唇から出た声が想像していたものより随分と優しいことに驚きを感じたが、岩下はその感情を笑顔で隠した。もっとも、上手く笑えていたかは不明だが。
 対するひとみは呆気(あっけ)に取られ数秒沈黙を続けたが、我に返るときちんと言葉を返した。
「こんばんは……じゃないですよ! どうして岩下さんがここにいるんです!」
 それは彼女にとって至極もっともな質問だったのだろう。しかし岩下は答えない。
 沈黙だけが場を支配する。
 二人とも喋らない。なにを言えばいいのか見つけられないのだ。逡巡(しゅんじゅん)しては舞い戻ってくる同じ問いに的確な答えが出せそうにない。
 それでも、より早く唇を開いたのはひとみだった。
「殺人容疑で指名手配されてたんじゃないんですか?」
「そうですよ」
 淡々と答えた岩下の声色にひとみの顔がくしゃりと歪んだ。
「……また……人を、殺したんですか?」
「おや、また、とは随分なお言葉ですね」
「だって岩下さん――その血」
 岩下の肌を伝って落ちる雨粒が大地に落ちた。その雫は他となんら変わりない。ただ違いを挙げるなら、若干赤みがかっていることくらいだ。
 なにを疑問として言葉にすればいいのか分からない。それは両者同様の考えだった。
 眼の前にいる相手が自分のことを見ている。そんな当たり前のことにすら、なぜだろうと疑問を抱いてしまう。
 岩下は視線を下げ、地にある水溜りを見つめた。
「ひとみさん、心配は杞憂(きゆう)ですよ。この血は、あなたの思っているようなものじゃありませんから」
「……岩下さん?」
 ひとみは首を傾げた。
 そうして再び二人の視線が合うまで、少しの時間がかかった。それは岩下が緩慢(かんまん)な動作で顔を上げたからだ。
 眼に映る少女は、まるで誰かの身を案じているかのような心配顔をしている。
 どうしてそんな顔をするのか、問うことはなかった。
「岩下さん」
 もう一度、確かにひとみの唇が動いて岩下を呼ぶ。
「……あ、ああ、済みません。少しぼぉっとしていて……」
 きちんと脳が働いていないのだろう。身体が氷のように冷たく、吐く息が熱い。だが岩下は努めて明るく笑ってみせた。
「この血は大丈夫ですよ」
 なぜそんな風に笑ったのだろう。笑顔を見せても少女の顔が晴れることはなく、逆に泣きそうになるだけだと知っていたのに。
「なにが大丈夫なんですか!」
「だってこの血は、私の流したものですから」
 言って岩下は自身の指を腹部からひとみに見える位置まで持ち上げた。
 白い指先を彩るのは、実に綺麗な真紅。
「自分で流したって、それって全然大丈夫じゃないじゃないですか!」
「おかしな人ですね。犯罪者が倒れているんですから、もう少し嬉しそうにしてくれてもいいじゃないですか」
「こんな状態を嬉しがるなんて……とりあえず、病院に――」
 言葉はそこで切れた。
 雨に濡れ続ける携帯の液晶は、通話ボタンを押されないまま青白く光っている。
「短絡的ですね。まともに病院に行けるような人は、刺されたりしませんよ」
 自分で病院に行くことができるならそうしている。
 病院には行けない。だからこそ、岩下はこの寂れた公園でベンチに座っていたのだ。
「でもこんな所じゃ……早く手当てをしないと」
「死ぬかもしれない? ……ははっ」
 笑う。笑う。腹部に力を入れると傷が痛んだが、それでも岩下は笑った。
 おかしいのだ、自分にそんなことを言う人間がいるという今の状況そのものが。
「なにがおかしいんです!」
 ひとみは肩を震わせて怒り、泣きそうな顔で岩下を睨んだ。
「あなたがそんな顔をしなくてもいいでしょう。別にあなたが死ぬわけではないんですから」
「でも――!」
「別に、現状を把握していないわけではないんですよ? ただ、これ以上はどうにも……動けなくて」
 笑おうと思った先で咳き込んでしまった。
 視界に映る少女を少しでも長く留めておきたいのに、雨粒が邪魔をする。
 風が吹きつけるとひとみの髪が揺れ、服に張りついた。それだけ長い間、雨に打たれたのだ。けして穏やかではない雨脚(あまあし)はまだ途絶えそうにない。
「警察に連絡を入れるなら、それを使ってください。動くかは分かりませんけど」
 岩下はポケットの携帯を取り出すと、ぞんざいに放り投げた。ひとみは拾わない。
 再び降りた沈黙。
 それからどれほど経ったあとだろう、ふと岩下は押し殺した声で失笑した。
「あなたも……随分と酷い人ですね。……私が死にゆくさまを眺めていたいんですか?」
「いわ……し――」
「なんですか? ひとみさん」
 言葉に詰まるひとみに、岩下が優しく問いかける。だがそれ以上、喋らない。
 唇をかむ姿が見えた。拳を握り締めている少女。迷い、しかしなにかを吹っ切ろうとする顔。
 駄目だと警鐘が頭に響く。この場にいてはいけない。聞いてはいけない。そう必死に訴える脳があるのに岩下は動かなかった。
「私の家に……来ますか?」
 言われた言葉に、数秒とまった。
 なにを言われたのか頭の中で反芻(はんすう)する必要があったのだ。
「……気は確かですか?」
「こんな時に冗談は言いません」
「では、なおのこと正気を疑いますね。犯罪者を家に招き入れるなど」
「だって、放っておけないじゃないですか、そんな怪我」
 岩下の腹部の傷は刃物で刺されたものだ。無論かすった程度のものではなく、意図的に殺意を持った刃が刺さってできたもの。
 白いシャツがぐっしょりと赤く染まっている。上着のジャケットがもし淡色であれば、それもまた赤く染まっていたことだろう。
「警察を呼べば、適当に死なない程度の処置をしてくれると思いますけど?」
「捕まりたくないんじゃないですか?」
 問いかけるひとみの態度に、もう戸惑う様子は見受けられなかった。
 呼吸を置き、ひとみが笑う。
「心配しなくても、家には誰もいませんから」
「心配? むしろあなたが身を案ずるべきでしょう。私は犯罪者なんですよ?」
「怪我人じゃないですか。なにができるって言うんです」
 引き下がるつもりはないのか、差し出したままの傘は未だ岩下を雨から守ってくれている。
「……あなたは、私を助けたいんですか?」
「そうですよ」
「…………服が、汚れますよ?」
「そんなの、気にしません」
 差し出されていた傘が下ろされ、閉じられる。そうして岩下は自身に差し伸べられる手を見ていた。
 手を伸ばした先にあるのは幻影ではなく、温かみを帯びた人間の手。
 手を取るべきではないと冷静な自分はそう言い募った。しかし、あえて岩下はその声を無視した。

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