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姉と私の日常

作者: S


 生まれ変わり、と、いうものを信じるだろうか。

 転生ともいうかも知れない。

 板倉奈津美には前世の記憶らしきものがあった。それは完全ではなく部分部分でしかなかったが、何故だか前世のものだと確信していた。自身の死んだ記憶が含まれていたからかも知れない。しかし幾ら前世の記憶があろうとも、今の彼女は板倉奈津美であり、それ以上でも以下でもない。ただ自分の内にだけ秘めておけば、何一つ変わりなく日常を過ごせる、その筈であった。

 前世との大きな差異がなければ、その筈だったのだ。

 板倉奈津美は溜息を吐く。

 小さく息を吐きながら、制服へと着替えていた。今の彼女は女子高生だ。では昔の彼女は何だったかと言えば、社会人であった。普通に年を取り、だが平均よりは幾分か早くこの世を去った。そんなにも世に未練があっただろうか、と、思う。覚えていない。けれども彼女は新たに人生をやり直しているのだ。少なくとも、人としての人生が二度目であると確信していた。

 喜ばしいと、感じるべきなのかもしれない。

 けれども、どうしても手放しでは喜べなかった。

 別に今の人生に不満があるわけではない。極普通の人生であると思う。両親がいて姉がいて、何不自由なく過ごしている。上々だ。唯一つ神様に文句を言えるのならば、声を大にして伝えたいことがあった。

 性別を変えないで欲しかった、と。

 今の彼女は板倉奈津美と言う、れっきとした女子だ。中身は兎も角見た目は完璧に女子である。誰が何といおうと間違いなく女子高生だった。しかし、彼女の記憶の中の自分は違うのだ。男であった。男として生き、異性を愛し、死んだのだ。どうしてもそのことが頭を過ぎり、板倉奈津美は恋愛をすることが出来ないでいる。男性は苦手だ。友人付き合いなら出来る。だが、元々男であった自分が恋仲になれるとは思えない。そもそも手を繋ぐとか、考えただけで寒気がする。ならば、女子相手ならどうかと言えば、それはそれで違う気がしてしまうのだ。何故なら前世がどうこういったところで、今は女子だ。前世が男だったので、生まれ変わっても女子と付き合います、等とは言い辛い。そもそも本当に女子が好きかと言えば、今まで女として生きてきた十数年の下地があるせいか、そうも思えないのだ。

 だがまあ、恋愛などしなくても生きてはいける。

 取り敢えずはそう言い聞かせて、彼女は日々を乗り切っている。実際、恋愛のことさえ絡まなければ、何一つ不自由していないのだ。

 では何故、恋愛のことを考えてしまうのか。

 偏に、姉のせいであった。

 はあ、と、再度溜息を吐く。

 取り敢えずは朝食だ。身支度を済ませ、階下へと足を運ぶ。食卓には両親の姿。姉の姿はない。しかし、いつものことである。

「おはようございます」

 朝の挨拶を口にしながら席に着く。母がおはよう、と、答え、父は新聞を畳んだ。何の変哲もない、毎朝の風景がここにはある。頂きますと手を合わせ、箸を手に取る。今朝は和食だ。テレビから流れる女性天気予報士の声に耳を傾ける。可愛いと評判の天気予報士だ。ちらりと父を見やれば、真剣な表情でテレビを見ていた。無言である。まるで重要なメッセージでも受け取っているかのようだ。実際は、今日も過ごしやすい一日でしょう、くらいのことしか言っていないのに。だが、分かる。父の気持ちが少なからず分かってしまう。朝から可愛いお姉さんを見るといい気分になる。朝の占いの結果などより、余程に効果があるだろう。癒されると言うか。このお姉さんが人気だと言うのも頷ける。世の中年男性の癒しなのだろう。父も例に漏れず、このお姉さんの笑顔を思い出して、一日頑張って欲しいと思う。

 そんな事を考えながら、決して口には出さずに黙々と食べ続けた。

 あくまで板倉奈津美は女子高生だ。父親に、このお天気お姉さんの可愛さって癒されるよね。今日一日この笑顔で乗り切れるよね、なんて、言えやしない。別に言ってもいいのだが、何となく娘としてはちょっと違う気がするのだ。

 色々と、難しい。

 熱いお茶を入れた湯飲みを片手に、一息つく。いや、つこうとした。しかし、遮られた。お茶を口に含む一歩手前で、奈津美は固まった。

 ダダダダダ。

 突然の騒音。板倉家の静かな朝はこうして破られる。そう、毎朝のことだ。

 毎朝のことだった。どこか諦めにも似た気持ちを、奈津美はお茶と一緒に流し込んだ。

「おはよう!」

 姉である。

 静かな食卓をたった一言で塗り替える、奈津美の姉である奈美恵が騒々しく現れたのだ。

「おはよう、姉さん」

「今日も地味ね、あんた」

 さして興味がないと言わんばかりに、一瞬だけ奈津美に視線を向け隣へと腰掛ける。

 朝一で地味との評価を貰った奈津美であるが、こちらもこちらで、さして気にした風もない。毎朝のことだからだ。奈美恵は妹を地味だと言うが、言われた本人は極普通であると思っていた。寧ろ逆で、姉の方が派手すぎるのだと思っていた。

 前世が男だったから、と、言うわけではないが、奈津美は髪を短くしている。ショートカットの方が手入れが楽だからだ。反対に、姉の奈美恵はロングヘアーだ。長い黒髪は彼女の自慢でもある。毎日長時間ドライヤーと格闘している姿に、奈津美は尊敬の念すら覚えていた。女って凄いと、自分も今現在女でありながら思うのだ。その上奈美恵は化粧も完璧である。一見してなさそうに見えるように、ナチュラルメイクを念入りに施しているのだ。男ってこれに騙されるんだなあと、奈津美は思っている。自分も妹でなかったら、騙されているに違いないと。

 板倉奈津美の姉である奈美恵は、一見完璧な美少女であった。

 また奈美恵本人も、そのことを自覚し、そう見えるように振舞っているのだ。

「今日も姉さんは派手だね」

 故に彼女は、派手と言われるのを嫌っている。

 決して派手に見えないように、いわば清楚に見えるように外見を整えているからだ。

「え? 派手? 嘘? どこが?」

 だから、派手と言われると焦る。

 それが分かっているので、奈津美はわざと言うのだ。見えないように僅かに俯き、口角を上げる。

「私に比べたらド派手だよ」

 直後、軽くではあるが隣から頭を叩かれた。

「もー! あんたに比べたら世の女性の九割派手よ! このド地味!」

 我が姉ながらこういうところは可愛いと思いつつ、奈津美は肩を震わせた。

 派手と言われるのが嫌なのを分かっていながら、ついつい口にしてしまうのは、何だかんだで反応が可愛いからである。しかも外では大人しく振舞っているから尚更だ。奈美恵は外では猫を被りまくっている。故に奈津美は、極力家の外では会わないようにしていた。恐らく、互いにとって良い事はないだろうと。

「いい加減にしないと遅刻するわよ」

 二人のやり取りを見かねて、母が注意する。

 遅刻したらあんたのせいだからね、と、姉が言った。

 だがどう考えても身支度に時間を掛けすぎる奈美恵のせいである。けれど懸命にも言葉を飲み込んで、奈津美は立ち上がった。

「それじゃあ、お先に」

 上から声を掛ければ、下からじろりと睨まれた。

 慣れているので気にしない。

 別段二人の仲は悪くない。奈津美自身、姉のことは嫌いではない。人生における比重を恋愛に置きすぎているきらいはあるが、悪い人間ではなかった。理解するのは困難だが。常に自分を良く見せて、男を侍らせているのだ。取り敢えず奈津美はそれを、凄いと思うことにした。確かに誰にでも出来ることではないからだ。情熱を向ける方向性を間違えているような気もするが、それが楽しいと言うのだから仕方がない。奈津美に出来ることは、 何も言わず何も聞かず、そして極力関わらないことだけだ。

 だから、別の高校に進学した。

 中学までは大変だった。板倉奈美恵の妹だと言うだけで、男女問わず色々なことに巻き込まれた。男からは好かれるが、女からはどちらかと言えば嫌われる。それが奈美恵であった。鼻持ちならないのだろうと思う。それとも女には女の本性が見えるのだろうか。奈津美にしてみれば、姉のことは姉で解決して欲しいのが本音だ。だが何故か人は、奈津美にも干渉してくる。それが酷く煩わしく、流石にその時は姉にも思うところがあった。

 しかしそれも過去の話である。

 進学先を別にしてからは、毎日が平穏だ。如何な美少女板倉奈美恵と言えど、学校の外にまでは影響を及ぼしてはいないようだった。

 鏡の前に立ち、最低限の身支度を整える。

 さて、今日も平穏な一日の始まりだ。

 奈津美の毎日は大差なく、ほぼ同じようなカリキュラムで進んでいる。それも、ほぼ一人で、だ。友人が全くいないわけではないが、親友と呼べるような相手がいないのも事実であった。同性の友人が作り難いのだ。自分自身を女だと認識している筈なのだが、それでも、どうしても踏み込んでいけないのである。込み入った話が出来ないので、上辺だけの付き合いになってしまうのだ。とはいえ、それでも大して困ってはいないので、気にしないようにしている。ただ学校でも極端に口数が少ないので、板倉さんは大人しいと思われているだけだ。

 そんな奈津美だから、部活動に精を出すということも無い。所謂帰宅部だ。授業が終われば真っ直ぐ帰る。特別仲のいい友人もいないので、さっさと教室を後にする。誰かに引き止められることも無い。時々誰かが気付いて、さよなら、と、言ってくれる。その時には、少し笑って答えてみる。人間嫌いと言うわけではないからだ。今の自分は、人付き合いが苦手なだけだと、心中で言い訳をする。寂しいと言えば寂しい。しかし、現状を打破するだけの気力も案もないのだ。

 代わり映えしない毎日だ。けれどもそれは裏を返せば平穏で、幸せだと言える、かもしれない。授業が終われば用事も無い。後は真っ直ぐ帰るだけ。さて、どうしようか、と、奈津美は思う。いい天気だ。何処かへ寄ってみるのも、いいかもしれない。そんな風に思う。行きたい所は特に無い。でも強いて言うならば、姉と会わないところがいい。面倒ごとは御免だからだ。

 決めた、本屋にしよう。

 本屋はデートには適していない。少なくとも、姉奈美恵はそんな柄ではない。見た目清楚な文学少女だが、実際は本など漫画くらいしか読まないことを、奈津美は知っているのだ。尤も、そういう奈津美自身、然程読書に興味はない。ただ姉に会わないところへ行きたいだけだ。

 考えた結果、駅の近くの少し小さめの書店へ行くことに決めた。郊外へ行けば、もっと大きな書店があるため、ここの客の入りは疎らなのだ。故に知り合いには会わないだろうという、安心感を得ることが出来る。

 案の定本屋は空いていた。それでいて、全く人がいないわけでもないのが安心する。見れば何処の学校かまでは知らないが、ちらほら学生の姿があった。さて、何の本を探そうか。いつもどおり漫画にしようか。それとも、全然興味のないコーナーを見てみようか。例えば、人の前世についてだとか。奈津美には前世の記憶がうっすらあったが、だからといって前世なるものに興味があるかと言えば、差ほどでもなかった。いや、興味のある時期は過ぎてしまったと言うほうが正しいかもしれない。気にしたときもあったが、今となっては板倉奈津美だ。それ以上でも以下でもない。過去の自分など気にしたところで仕方がないのだ。多少過去に引きずられている自覚があったとしても。

 ふと棚の上の方を見れば、前世との付き合い方、なるタイトルが目に入った。

 一体どういうことだろうと、興味を引かれた。この本を書いた人もまた、前世の記憶があったのだろうか。ちょっと、読んでみようか。そうして、手を伸ばしてみる。しかし、届かない。背伸びをしてみる。少しだけ、背表紙に触れた。困った。奈津美の身長は、高くないのだ。四捨五入すれば、百五十センチだ。因みに姉とは、十センチ以上差がある。無論、姉の方が上だ。

 どうしようか。諦めようか。

 流石に店員に頼んでまで読みたいわけではない。縁が無かったと思おうか。そうだ、そうしよう。

 少し考えて、去ろうと決めた。一歩後ずさる。その時、不意に、影が差した。奈津美の後ろから、手が伸びてきたのだ。奈津美は振り返るのも忘れ、ただ手の行方を見ていた。自分よりも大きな手は、いとも容易く、奈津美が取ろうとしていた本を棚から出してみせた。

「これでいいのか」

 低い声が頭上から届いた。漸く奈津美は振り向いて、声の出所を確かめた。そこには、何時の間に近付いたのか、一人の男子生徒がいた。記憶にない制服であるが、高校生に違いはなさそうだ。

「ええ、と、有難うございます」

 戸惑いながら礼をいい、本を受け取った。繁々と眺める。流石に取ってもらった以上、買わないわけにはいかないだろうな、と、思った。ちょっと立ち読みするくらいの気持ちだったのだ。しかし今となっては、戻すことも出来ない。仕方なく奈津美はもう一度礼を言って、去ることにした。しかしそれよりも早く、男子高校生が口を開いた。

「君、姉妹はいるか?」

 余りに唐突な質問だった。脈絡も何もあったものではない。一瞬、奈津美は呆気に取られた。しかしそれは、本当に一瞬のことであった。

「いません」

 深く考えるまでも無く、そう、言い切ったのだ。

 無論、嘘であった。

 彼女には姉が一人いる。自分とは全く似ても似つかない、しかし間違いなく血縁の姉が。どうして咄嗟に嘘を吐いたのか。奈津美は内心で自分に問いかけた。面倒そうだから。と、心の中の自分が答えた。そう、面倒そうだからだ。世間は狭い。例え似ていなくとも、何らかの情報から、板倉奈津美が板倉奈美恵の血縁者だと気付いたのかもしれない。見れば、男子高校生はそれなりに男前であった。如何にも知的そうな顔立ちで、黒縁の眼鏡をかけ、それに負けないくらい黒い髪はさらさらで清潔感もある。背も高い。奈津美より、二十センチは高そうだ。

 つまりこれは、姉の恋愛がらみの知り合いなのではないだろうか。

 そう気付くのに時間はかからなかった。清楚を気取る姉奈美恵が好きそうなタイプである。尤も、清楚とは程遠そうな、言わば正反対な派手な男も好きであった。要は、格好良ければ全てタイプなのである。

「それでは、本当に有難うございました」

 名前など聞かれても厄介なので、早々に奈津美は去ることにした。流石に初対面であるし、追ってはこないだろうと。さっさと会計を済まし、追われる様に店を後にした。奈津美の予想通り、店外まで追ってはこなかった。一つ、安堵の息を吐き出す。折角姉に無関係のところへ行ったと思ったのに。これでは台無しだ、と、思いながらとぼとぼと帰路に着いた。購入せざるを得なくなってしまった本がやけに重く感じる。前世なんてどうでもいいよ、と、半ば投げやりに思った。八つ当たりだ。

 今日のことは、姉には言わないようにしよう。

 そう、奈津美は固く誓った。わざわざこちらから面倒ごとの種を蒔いてやる筋合いはない。あくまで自分は無関係だ。勝手に巻き込まれるなど御免だ。大体自分に姉妹がいたら何だというんだ。問う相手はいない。あの時、います、と、答えたらどうなっていたのか。それが少しも気にならないと言えば嘘になる。けれどそれが元で、姉と確執が出来るのはもっと嫌だ。何となく世に馴染めていないきらいはある。それでも奈津美は、この平穏な毎日が好きなのだ。

 奈津美は本当にあの本屋でのことは何も言わなかった。寧ろ本屋に寄ったことすら誰にも言わなかった。買った本も、袋に入ったままで放置だ。いざ買うと、そう読みたくもなくなってしまった。あれから数日が経った。奈津美の毎日は相変わらず代わり映えしない。本屋へ寄ることも無い。普段どおりの日常だ。その静かな奈津美に対して、何だかんだと、姉奈美恵が騒がしいのも日常だ。

「ちょっと、奈津美!」

 しかしその姉が、怒りも露に、真っ直ぐに学校から帰宅してくるのは日常ではなかった。

 奈津美は驚いた。驚いて、つい、姉を凝視してしまった。明らかに自分に対して怒っている姉を見るのは久しぶりだった。毎日のように小突かれたりはしているが、当然本気ではない。だが今日は違う。どう見ても本当に、自分に怒っている。奈津美は困惑した。

「お帰り姉さん。どうしたの」

 極力平静を装って、尋ねてみる。だが残念ながら効果はなかった。少し落ち着いてくれるといいなと思ったのだが、余計に姉はヒートアップした。

「あんた、何時の間に藤永君と知り合ったのよ!」

「えーと……誰?」

 これでもかと言うほど困惑を滲ませる。だが心の中では検討が付いていた。恐らく、先日本屋で会ったあの男子高校生だろうと。他にこの最近新たに出会った人間が思い浮かばなかったのだ。しかしあの人、一体何を姉に言ったのだろう。嫌な予感しかしない、と、奈津美は思った。そして嫌な予感は大体当たるのだ。

「藤永君は、黒縁眼鏡のイケメン君よ!」

「そのイケメンさんがどうしたの」

「この私が言い寄ってるのに、よりにもよって、よりにもよって、私より妹さんの方がタイプだとかぬかしやがったのよー!」

 すぱーん。

 わなわなと、拳を握り震わせていたかと思えば、突然スリッパを脱ぎだし、それで奈津美の頭を叩いた。軽快な音が響いた。

「えええええええええ」

 予告無くスリッパで突っ込み紛いの打撃を受けたことと、聞かされた姉の言葉に奈津美は動揺を口にした。意味のある言葉にはならなかった。そもそも何故このような目に合っているのか、そちらの方が気になった。

「何でよ、私の方が絶対可愛いのに、何であんたみたいな地味な方が良いとか言うのよ、あの眼鏡度が入ってないんじゃないの、どう考えても私の方が上でしょー!」

 すぱーん。

 第二撃がきた。何だろう、妹って損な役回りだ、と、奈津美は思った。そもそも自分の落ち度が全く見当たらない。だがそんなことを言って通じる姉ではない。しかも、こうなっては尚更だ。兎に角自分だけは落ち着こうと、奈津美は決意した。

「落ち着いて、姉さん。姉さんの言うとおりだよ。姉さんの方がずっと可愛いよ」

「そんなこと知ってるわよ! 当たり前でしょう! だったら何で私よりあんたが良いって言うのよ、説明しなさいよ!」

 えええええええええ。

 内心で、抗議の声を上げる。口に出す勇気はなかった。あの握り締めた凶器、もとい、スリッパが怖すぎるのだ。いや、私、藤永なる男子高校生じゃないので、彼の気持ちなんて分かるはずないんですけど。と、言えたならどんなに楽だっただろうか。別に言うのは構わない。ただそれで奈美恵が納得するかといえば、到底そうは思えなかった。

「えー、ですから、その、姉さんが妹より劣っているとかではなくてですね、要は、お断りの適当な文句であると推察されます」

「分かるように言って!」

「えー、ですから、面と向かって直接的にお断りすると角が立つので、妹を出すことによって、遠回しにお断りしたのではないでしょうか。妹の方がタイプだといえば、姉さんが諦めるんじゃないかと思ったのではないでしょうか。ですから、決して姉さんが私に劣っているだとか、そういうことではなく、要は方便です方便」

 よし、言った。言い切った。奈津美は拳を握った。妙な達成感がある。奈津美の言ったことを考えているのか、奈美恵も黙った。沈黙が訪れる。出来ればこのままフェードアウトしてくれないかな、と、奈津美は思ったが、そう上手くいくはずもなかった。

 すぱーん。

 第三撃が飛んできたのだ。

「それって結局振られてんじゃないのよー! 私がタイプじゃないってことでしょ! 駄目じゃない! 何でよ!」

「え、いや、それはなんていうか、人それぞれって言うか」

「私なんて格好良ければ全部タイプなんだから、相手だってそうあるべきでしょ!」

 そんな無茶な。

 口角が引きつった。笑おうとして失敗した。寧ろ自分が少数派であることを自覚してもらいたいと奈津美は思ったが、言えるはずもなかった。スリッパが怖い。

「大体何なのよあんた!」

「わ、私?」

「そうよ、何落ち着いてるのよ! 可愛げが無いのよ! ちょっとは私を褒めるとか慰めるとかないの!」

「え、あー、おねーちゃんてちょーかわいーわたしあこがれちゃうなーおねーちゃんみたいになりたいなーおねーちゃ、」

 すぱーん。

「むかつく」

 理不尽である。

 奈津美は思う。怒った女は皆理不尽だと。自分にまつわる全てが気に入らないのだと。

 そもそも自分は勝手に一方的に巻き込まれただけで、どうしてこんな目に合わなくてはならないのかと。沸々と怒りが湧いてくる。けれども堪えた。ここで自分までが切れたら、余計に取り返しの付かないことになる。第一、こんな目に合ったとしても、奈津美は奈美恵を嫌いにはなれないのだ。だから最終的に、許せてしまう。

「姉さんてさ」

「何よ」

「私を地味だとは言っても、ブスとは言わないよね」

 ふと、思いついたことを口にしてみる。

 すると奈美恵はスリッパを握り締めたまま、心底嫌そうに眉間に皺を寄せたのだ。

「私の妹が可愛くないわけないでしょ? 馬鹿なの? その地味だけ何とかすればもてるわよ」

 奈津美を褒めるのが嫌なのか、わざわざそんなことを口に出して説明するのが嫌なのか。どちらにせよ、心底奈美恵は嫌そうだった。しかしだからこそ、奈津美は姉を嫌いになれないのだと思うのだ。尤も、奈津美が可愛いのではなく、自分の妹だから、血縁だから可愛くないはずがない、と、言うのは奈美恵らしいが。

 さて、どうしようか。

 これ以上妹の自分が姉を慰める、と、言うのはちょっと無理がある気がする。そもそも、そんなに落ち込んでいない気がする。だからといって、じゃあ藤永なる相手とは自分が付き合います、と、宣言するのも違うだろう。そもそも無理だ。恋愛は出来る気がしない。大体現時点で、奈美恵のお付き合いしている相手は一人ではないのだ。よって、増えなくても全然問題ないような気がする。少なくとも、奈津美はそう思う。だがそう思わないから、新たに声を掛けたのだろう。そう思うと、やはり姉は凄い。凄いの方向性が大分間違っている気がするが。第一、恋愛なんてしなくても、生きていけるだろう。と、奈津美は思うのだ。しかし、完全な恋愛脳の奈美恵に言ったところで無意味だろうことも、分かっているのだが。普通、清楚な美少女は、男を股掛けして付き合ったりはしないものだ。と、告げる勇気は奈津美にはない。それでも、他のことに目を向けることも必要なのではないかと思うのだ。恋愛とは違う何か。いっそ、恋愛から大きく外れてみるとか。

 奈津美は、姉をじっと見てみた。

 美少女だ。文句無く、美少女だ。長い黒髪、ナチュラルメイク。着崩さない制服。そして、握り締めたスリッパ。……スリッパ? そう、未だに奈美恵はスリッパを握り締めている。まるで臨戦態勢だ。そういえば、何度か叩かれたな、と、奈津美は思う。思って、気付いた。あれは文句無く、ツッコミ、と、いうものではなかっただろうかと。

 漫才。

 突然、降って湧いたかように、その二文字が脳裏に浮かんだ。

 何故気付かなかったのか。正に先ほどのあれは、漫才のツッコミさながらではないか。あの叩くタイミングといい、あの音といい、完璧ではなかっただろうか。すると自分は、無意識ながらボケていたのだろうか。姉にツッコミの才覚があるのならば、自分にもボケの才能があるのかもしれない。奈津美は思った。何故かそんなことを思ってしまった。その上で、美少女漫才師って悪くないだとか、姉の男性遍歴を思えばネタに困らない等と言った事まで考えた。清楚気取りの美人な姉と、至って平凡であるが前世の記憶がある妹。インパクトとしては悪くない。何故だか、沸々と自信が沸き起こってくる。根拠は当然ない。

 一体自分はどうしてしまったのか。

 そうやって、冷静に問いかける自分と、このまま突っ走ったほうがいい、と、囁き掛ける自分がいることに気付く。もしや、自分の前世は漫才師だったのではないだろうか。奈津美には前世の記憶がある。しかしそれは全てではない。靄が掛かった部分、それこそが一番重要な職業の部分ではないだろうか。きっとそうだ。そうに違いない。私はこの時を待っていたのだ。自分と姉が漫才を組むタイミング、この時を待っていたのだと、奈津美は確信した。何故だか確信してしまったのだ。

 恋愛など出来ないと思っていた。だがそれは違ったのだ。する必要がなかったのだ。これからもそうだ。姉奈美恵と漫才コンビを組み、生きていくためには不必要である。そう言うネタ作りは姉に任せておけばよいのだ。

 奈津美は行動に出た。

 素早く、奈美恵のスリッパを掴んでいる手とは逆の手を両手で取り握り締めたのだ。そのまま熱い視線を送る。今までこんなに熱い視線を姉に送ったことがあるだろうか。いや、ない。迫る奈津美とは反対に、奈美恵は一歩後ずさった。明らかに危機感を覚えている顔をしている。

 奈津美は、大きく息を吸った。

「姉さん、私と漫才コンビ組もう!」

 すぱーん。

 奈津美が言い終えるのと奈美恵が行動に移したのはほぼ同時であった。

 景気よい音が響き渡ると、直後、だだだだ、と、奈美恵が物凄い勢いで廊下を駆けて行く音が耳に入った。つまり、逃げた。

「おかーさん! 奈津美が変になった!」

 そんな姉の訴えを何処か遠くで聞きながら、今叩かれた部分を触ってみる。思わず感嘆の息を吐き出してしまうほどに、絶妙なツッコミであった。

 イケる。

 そう、強く思う。

 ぐ、と、握りこぶしを作り、奈津美は確信した。

 これが清楚気取りの美少女の姉と、前世の記憶がうっすらある妹の日常である。


 

 


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