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プレゼント
作:霜月 沙羅



 彼にされるがまま。何をされても、何を言われても。

 冷たい床に寝かされている私。鼓膜に伝わってくる冷蔵庫の排熱音は、低いうなり声のよう。彼は無表情で私を覗き込んでいる。蛇口から水が一雫落ちて音を立てた。

 ――ぽたり。

 ああ――温もりが欲しい。今の状態だと手は伸ばせない。だから、大好きって願いを込めて彼を見つめ返す。まばたきもせず、ずっと。

 細くて節の目立つ彼の手が、私の顔に伸びてくる。そろりと右の頬を撫でてきたので、少しだけくすぐったい。

「好きだよ」

 ええ、分かってる。私だって、あなたのことが好き。彼のことが好きだからこそ、どんなことにも耐えられた。

 例え、傷を付けられた部分がみみず腫れになっても。
 皮膚が破けて血が出ても。
 爪を一枚一枚剥がされても。

 彼のためなら耐えられた。この部屋から逃げようとするなんて、どうかしていたに違いない。一年前までは同じ家で暮らしていたけれど二人きりになることはほとんどなかったから、今こうして彼と一緒にいられるのは幸せだ。

 だから今もこうやって、何も言わずにじっとしている。彼は床に広がる長い髪を掻き分け、私の耳を触った。ひんやりとする。でも、何て心地いいの。うっとりと血のついた薄い唇を眺めた。

 ――ぽたり。

 突然、彼は私の耳に爪を立てた。そして低い声で言う。

「ピアスはどうしたんだ」

 彼が買い与えてくれた、真珠のピアス。今、それは私の耳に付いていない。あるのは小さな穴だけだった。私だけが行方を知っているピアス。彼にばれる日がいつか来るとは思っていたのだけれど、よりによって今日だなんて。

 耳たぶに爪が食い込んでゆく。彼は辺りをきょろきょろし始め、台所を視界に捕らえるとすっと手を離した。そして立ち上がり、台所の引き出しを開け、取り出したのはアイスピック。鈍く光る銀色の尖った先端。窓から漏れた廊下の蛍光灯の灯りが、彼の顔に陰影をつけていた。

 私の横に膝をつき微笑する。そしてアイスピックを握ると、私の耳を引っ張って勢いよく突き刺した。丁度、ピアス穴の辺り。冷たくてひやりとした。彼は微笑を浮かべたまま、機械的に手を動かす。

 何度も。
 何度も。
 何度も。

 私の血が彼の顔に飛び散った。穴が広がっていくのが自分でも分かる。彼は狂ったようにアイスピックを刺し続けた。
 そしてアイスピックの針が床に当たった時、私の耳を貫通したのだと分かった。酷いことをするものね。先端は血で染まっている。彼の手も、袖口も。私の身体から吹き出た色に濡れそぼっていた。

 私はあの頃を思い出していた。彼に“ここ”に連れられてきた日のことを。



 暖かい日差しの中、隣の部屋の前にある赤い花弁をもった花に、黄色い揚羽蝶がとまっていた。ぷるぷると震える羽はどことなく儚げだ。つい掴まえたくなって、私はそろりと忍び寄る。お前は子供の頃と変わらないな、と彼は額に汗を光らせたまま笑っていた、ある春の日。

 彼の引っ越しの手伝いに、私はここを訪れた。がらんどうの部屋に運ばれてゆくダンボール箱。本の詰まった箱を部屋の奥に持っていこうとしたらとても重くて、顔を真っ赤にして必死に持ち上げようとしている私を見て彼はまた笑ったっけ。

 それから、引っ越し祝い恒例の寿司を食べて。そろそろ帰ろうとしたとき、彼の手が私の手首を掴んだ。私はひどく戸惑った。だって、私達は恋人同士じゃない。でも、逆らうことなんて出来なかった。叶わぬ恋だと分かっていたから、ずっと自分の気持ちに嘘をついてきたけれど。

「一緒にいよう」

 私は迷わず首を縦に振った。

 それからずっとここに私はいる。逃げようだなんて、全く頭になかった。テレビに映る男性歌手に見とれていたり、彼と一緒に寝ることを拒否したりしただけで、ライターで皮膚を焦がされた。フォークでぷつぷつと穴をあけられた。でも、それはきっと私を愛しているがための行為だと信じていた。

 ピアスをもらって数日後、彼に恋人がいるのを知った。きっかけは彼の携帯電話に届いていたメールから。その時私に芽生えた、おそらく初めての感情。

 ここから出たい。

 ピアスは窓から投げ捨てた。暗闇の中、それは弧を描いて飛んでゆき、やがて見えなくなった。彼の想いを断ち切るためにとった手段。

 それから彼が出張中の三日間、もうダンボール箱のすっかりない生活感の漂うこの部屋を見渡しながら、じっくりと考えた。私は彼が好き。だけど、他に恋人がいた。

 やがて、ハート文字が使われた彼宛ての手紙が状差しに挟まっているのを見つけ、私は決心したのだった。

 さよなら。初めてあなたと出会った二十年前から、私はあなたを愛していました。
 しかし、ドアを開けたらちょうど彼と会ってしまい、私は仕打ちを受けることとなった。痛みつけられる度幸福感が高まってゆく私は、ちょっとおかしいのかもしれない。でも仕方がないじゃない。彼は愛の言葉を呟きながら、優しく切り刻んでくれたのだから。
 ノコギリでごりごりと――。真剣な眼差しで愛してると呟きながら、ごりごりと――。

 そんなことを考えている内に、彼は台所にかけてあった鏡を持ってきていた。鏡は私の右耳を映す。

「ほら、代わりのピアスだよ」

 血がたらたらと垂れていて、まるで赤いピアスをつけているみたい。彼からのプレゼント。すごく嬉しい。

「愛してるよ」

 そう言うと、彼は鏡を下に動かしてゆく。私の首が映り、何も身につけていない胸が映り――。





 そこから先は、ない。

 みぞおち辺りですっぱりと切られている。そこから下は、彼の晩御飯。さすがに骨は食べられなかったらしく、彼の右隣に無残に捨てられていた。側に置かれたノコギリは刃がぼろぼろで、全てが赤黒い。


 喋ることはもう出来ないけれど、もし可能ならば、私は声を大にして言いたい。



 私は、お兄さんを愛していました。



 お兄さんがそっと唇をつけてくる。彼からのプレゼント。愛の証。





 唇は、甘い甘い血の味がした。自分の身体の味がした。






 ――ぽたり。













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