第二話)米国、そして世の中の不思議
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そしてこの頃は、RCサクセションの活動も盛んであり、
優人達は日比谷野外音楽堂や日本武道館にワイワイと足を運んだ。たいがい由美や数人の女の子と、浩二が一緒だった。
浩二もザ・モッズだけではなくRCサクセションも好きであった。
もちろん、四人ともパワーハウスという「音楽学校」でRCサクセションやチャーのファンではあったが、
特に浩二と優人は気が合っていた。
冗談のセンスも二人の間では磨かれた。
浩二が「俺も金髪にする!」と言い出し、ブリーチ剤を買い、パワーハウスにおいてそのブリーチ剤を頭にまんべんなく混ぜ込み、
熱が逃げないよう暖める為に、頭にサランラップを巻いた。
当時の連中はみんなこうやって脱色していた。
優人はそれに立会い「浩二、そのまま買い物行こうぜ」と切り出したのである。
浩二も「それ、いいな!行こう行こう!」とノリノリで近所のセブン・イレブンに行った。
ビールやタバコをサランラップを頭に巻いたまま買いにレジに行ったが、店員は顔色一つ変えずに応対した。
そして店を出た二人は「なんで笑わね~のかな~?」と語り合った。
そりゃあ、お客さんのことを笑えないだろ、と翌日越後が金髪になった浩二に言った。
また二人は、顔に猿のような落書きをしたり、鼻の頭だけ赤くマジックで塗って同じセブンイレブンに何回も行ったが、
店員はいつも無反応だった。
馬鹿な二人はその無反応ぶりを心から楽しんでいたのである。
しかし店員も「ああ、またこの二人か」程度にしか思っていなかったのであろう。
そんなある日、一度、優人が大道具のアルバイトをしているときに、武道館のステージを作る仕事に恵まれた。
親方に「クリスマスは空いてるか?武道館の仕事だ」と言われ、優人はハッとした。
「もしかして・・」
急いで雑誌「ぴあ」をコンビニで立ち読みした・
「やっぱり!」
その日はRCサクセションのライブであった。
まだ開演前、浩二や由美と数人の女の子達はチケットを買って武道館の外でたむろしていた。
優人も浩二達がくることを知っていたので、ステージを造り終えると、外に出て浩二を探した。
ちょうど、入り口の左側にみんな集まっているときだった。
「あ、浩二!今ちょっと抜け出してきたよ!」
そう話しかけると浩二はもちろん由美や女の子達が振り向き、
「え~!もう中に入ってるの」
「ずる~い!」
と女の子達が口々に言った。
「だって仕事だもん!」
腰に手を当てて優人は胸を張った。
「やっぱタダで見れるの?」
優人がステージを作っていることを知っていた浩二が優人に聞いた。
「多分大丈夫じゃないかなあ」
関係者しか知らない道を通り、腰にハンマーやらをぶら下げ、作業員のシールを張った優人は周りを見渡した。
「いいな~!」
男女合わせた総勢五名は同時に言った。
「オレ、結構いい席なんだよ」
と、浩二が優人にチケットを見せると、一階席の最前列と書いてあった。
「多分、ここ、ステージのすぐ横だよ、スゲー近いよ」
ステージを造った優人はだいたいの位置を把握していた。
そんな話を少しして、テンションが少し上がり気味の優人は、仕事に戻ると言って武道館の中へと入っていった。
優人は中に入ると、図々しくもそのままステージの脇にいることができた。
腰にハンマーやいろいろな道具をぶらさげていたし、シールも張っていたので誰にも不審がられなかった。
親方にも「あんまりはしゃぐなよ」と言われただけである。この言葉は逆にとらえれば「見てていいぞ」という風にしかとらえられない。
しかしこのままここにいていいのだろうか・・・とステージの確認をする振りをしてブラブラと時間を潰した。
その間に、一階席にいる浩二達を発見した。
「お~~い!」
優人はステージから叫んだ。
優人の位置からは少し高い所だったが、叫べば聞こえるくらいの距離だった。
浩二や由美も気が付き優人に向かって満面の笑みで手を振った。
「やっぱ近いね~!」
優人が顔を上げて両手をメガホンにして叫ぶと
「そっちまで飛び降りれるよ!」浩二が叫んで返した。
そしてRCサクセションの武道館ライブの始まりである。
客電が消え大歓声が上がった。
優人の横をメンバーが通っていった。
最後にキヨシローが通った。
何も話しかけることができなかったが、感激した。
同じ高さのステージに清志郎がいる。
ライブは「よぉーこそ!」で始まり、キヨシローが歌い、真横からこんなに間近で見ることが出来なんて!
優人はさらに感激した。
キヨシローはステージの端から端まで歌いながら走り回った。
優人の手の届きそうな所までも来た。
「うわああああ!本物だ!」
優人は誰かに何か文句を言われないかドキドキしながら思った。
「やっぱかちょええ!」声に出さずに興奮してキヨシローを凝視した。
そんな興奮の中、一階席で見ていた浩二が、キヨシローに向かって飛び降りたのである!
優人は反対側から「あ!浩二だ!」と思い、職権を使って助けようと思ったが、浩二は同じくステージにいた男に数回蹴飛ばされ、
浩二はステージの下へ落っこちていった。
「うわっ!落ちた!」優人は心配して助けに行こうと思ったが、コンサートの最中に反対側へは行けない。
いや、裏に通れるところがあったのだが、気が動転してそこまで気が回らなかった。
ライブは盛況の中盛り上がっている。
浩二を蹴落とした男が裏を通ってこちら側へやってきた。
「今飛び降りた人、どうなりました?」
優人はあせって聞いた。
「ああ、俺が下に落っことして、警備員に連れてかれたよ」
自慢げに男が言った。
「で、どうなるんですか?」
「わからん、怒られるだろ」
「大丈夫なんすか?」
どうなるんだよ!?と怒鳴る勇気はなかった。
男はガードマンというよりも、ジーパンを穿いた同じ舞台関係者のようだった。
俺ってすげえだろ、的な態度と、やたら自慢げに言葉を発し、ふんふんと呑気に舞台を眺める態度が瞬間的に優人の琴線に触れた。
「ざけんなよ!てめえ!」
優人はそう叫ぶと、反対側へと走って行き、浩二が落ちた辺りを上から探した。
もう誰もいない。
舞台下へと飛び降り、通路を探した。
いくつもドアがあったので、いたるところを開けてまわった。
ドカドカと新井田耕造のドラムの音がそこら中に響いている。
三つめくらいのドアのない通路を覗くと、浩二がスーツを着た男数人に囲まれて正座させられていた。
優人も正式なバックステージパスを持っていた訳ではなかったので、スーツの男達にかかっていくのはためらった。
しかも、そのスーツ姿の男達は遠くから見たって、やたらと怖い雰囲気をかもし出していた。
つまり、どう見てもヤクザなのである。
浩二と同じように正座をさせられる可能性もあると思ったのは、ただで見ているという後ろめたい気持ちがあったからかもしれない。しばらく気づかれないように通路を覗いた。
特に、怒鳴ったり暴力的なことをされている様子はなかったが、怒られているのは確実だった。
そのうちに二人の男に両腕をつかんで立たされ、中へと連れ去られていった。
気づかれないように追いかけていくと、浩二は白いドアの部屋の中へと連行された。
もう、RCどころではない。
後ろからはまだドカドカとなんの曲だかわからない音が聞こえてきていた。
しばらくそのドアを遠めから見守った。十分・・二十分・・・どきどきしながら待った。
三十分くらい経つと、中から無事、やはり両腕を捉まれて浩二が出てきて、おそらく今度は会場の外へ出されたようだった。
ただの大道具である優人がのうのうと通路を歩く訳にはいかなかったが、勇気を出して探し回った。
大道具の格好をしていた為か、誰にも何も言われなかった。
多分、追い出されたんだろう・・しばし、探し回り外まで出たが浩二の姿はなかった。
心配だったが仕方なく優人はステージへ戻った。
コンサートが終了し、またキヨシローがステージ脇の優人の横を通った。
さきほどの警備のこともあったし、近寄れない殺気のような「本物のスターの息使い」を感じた。
メイクが汗で半分落ち、息遣いも荒かったキヨシローは、戦いを終え、人を殺した後のサムライのようでもあった。
「俺もああなりたい・・・」
強烈な欲求が優人を襲った。
しばらく身震いを覚え、親方の指示により仕事であるステージの撤去作業にかかった。
撤去作業は三時間くらいかかった。
その間も浩二のことが気になったが、仕事なので抜け出すことはできなかった。
追い出されただけであることを祈った。
祈りながら、仕事をした。
ステージの上にはメンバー用に曲順を書いた紙があり、「あっ」と小さな声で言い、他の関係者に見つからないように、
優人はそれをくすねた。
それを拾ったのは多分、チャボの立ち位置のあたりだった。
仕事が終わり、ラフな格好に着替え、深夜に入り口近辺にでると、もう誰もいなかったし、既に次の日のコンサートの準備が違う業者によって始まっていた。
当時のこういった仕事は電車のない時間に仕事が終わると、四十キロ以内ならタクシーで帰っていいルールで
パワーハウスも武道館から四十キロ以内であったので、タクシーの運転手にはパワーハウスへと急いで向かってもらう。
明け方パワーハウスに行くと、浩二が呑気に寝ている。優人はひとまず安心した。
なかなか起きない浩二を揺さぶり起こし、昨夜のことを聞くと、寝ぼけた様子で話しだした。
とりあえずあの通路でスーツの男に一発殴られたという。
鼻血が出たので「ふけ」とハンカチをくれたそうだ。その紳士的な行為が余計に怖かったらしい。
白いドアの部屋の中では長い沈黙の中、この業界がどうなっているのか知っているのか?
けが人の一人でも出ればどれだけ大きなカネが動き、どれだけ大きな騒ぎになるか分かるか?
ましてや清志郎に何かあったらどうなるか、と言ったような説教をされ、結局はやはり追い出されたそうだ。
優人は助けられなかったことを悔やみ、謝ったが、浩二は自分でやったことだから優人にはなにも責任は無いし
追い出されただけだ、と半分寝ぼけて言った。
その言葉を聞いて安心した優人も、隣の部屋で寝た。
もう、太陽は昇り始めていた。
そして昼になると、いつものように夕べのコンサートを見に行った連中が「パワー!」と叫びドヤドヤとパワーハウスへやってきた。
優人はたたき起こされた。
「なんだあ!」
浩二の事件を説明し、数人の仲間に曲順表を見せびらかし、自慢した。
由美や他の女の子達は浩二の事件は知っていたが、心配というよりも笑っていた。
「追い出されただけでしょ」「飛び降りたときはびっくりしたけどね~」「ね~!」と声を合わせて言った。
まったく女は呑気だな、優人は思ったが女性陣は曲順表をうらやましがった。
しかし優人は「あげないよ~」と言って誰にも渡さず大事にとっておいた。それは今でも取っておいてある。
浩二はまだグースカ眠っていた。
不思議なことに、誰からも、浩二を起こそうという声は挙がらなかったのである。
そうこうと、いろいろな事件や問題を起こしながらも模索のようなライブとアルバイト漬けの日々を送っていた
「タンジェリンツリー」のメンバー達であったが、
ある夜、いつものようにパワーハウスでビールを飲みタバコを吸いながらがら談笑していると、
ローリング・ストーンズがワールドツアーを開始する、という情報がテレビから入ってきたのである。
その中には日本、つまり「ジャパン」も入っているという。
彼らにとってストーンズは革ジャンのロックンローラーがストレイ・キャッツを崇拝するのと同じくらい
神に近い存在であったし、今までに日本公演をしていない、
1970年には、来日したのに薬物所持で追い返され、日本公演は全てキャンセル、という事実も知っていた。
そういった事実もまた、興味を十倍ほど上乗せさせられる「事件」であったのである。
「どうせまた日本には来れないだろう」
「ツアー自体、怪しいもんだぜ」
というような疑心難儀な話題であった。
彼ら四人は、ことストーンズにおいては、あらゆるビデオやヒストリー本から歴史や生き様、
そして現在の状況などを自然に勉強して追いかけていた。好きこそ物の上手なれ、である。
そこへ、パワーハウスにある電話がけたたましく鳴った。「ジリリン!ジリリン!」
家主は浩二であるが、いつも碌な電話はかかってこなかったので別に誰が出てもおかしくなかった。
しかしたいがい、重要な電話や、情報の交換をするのは健の役目だった。この時も、そんな予感がした。
「はい、もしもし」
「あ、浩二くん?」
「いや、健ですけど」
「あ~あ~みんないるのね、じゃあちょうどよかった」
「あ~岡野さん、はい、はい・・・・・」
「うん、うん、・・・はあ~い、分かりました、また電話しま~す」
電話を切ると健は、五秒ほど無言の後、たいしたことじゃないが、といった風にメンバーに話し始めた。
「ストーンズを見に行くツアーがあるんだって」
「へ~え、どこで?」
「ロサンジェルス」
「ってアメリカ?」
「そう」
「・・・ロス疑惑の?」
「そう」
「へ~え」
「行く?」
健が言うと浩二と越後と優人は、鳩が豆鉄砲を食らったようなアホ面をしていた。
あまりにも唐突で現実離れした話である。
そもそも四人は、日本国という島国の千葉県という地方に住む若者であって、
行動範囲は広いとはいえ、せいぜい関東地方くらいしか知らないし、
ロス疑惑という事件の名前こそ聞いたことがあったが、どこなのか、はたまたどういった事件なのかも分かっておらず、
海外旅行なぞ全くの別世界だと思っていたので、
「はあ?」というのが、素直な感想であった。
しかし、実際に現実になると思っていたのは誰一人としていなかったのは言うまでもない。
この話を持ちかけたのは、本八幡という東京と千葉の中間地点である場所にある
「ストリート」というライブハウスの店長をやっていた岡野さんという三十くらいの夫婦である。
タンツリは結成当初から、この「ストリート」に出入りしており、岡野さん夫婦もまた、タンツリを可愛く思っていたし、実際にライブ等をタダでやらせてくれたりと、可愛いがってくれていたのである。
岡野さん夫妻は当然、タンツリがストーンズを好きな事は知っていたし、
今回のツアーを見たいと思っているに違いない、ということは容易に想像できたのであろう。
優人達にとって、雲の上に手を延ばすような話ではあったが、とりあえず話だけでも、と聞いてみた。
聞くと、一週間、飛行機代と宿泊代とストーンズのチケットがついて、金二十万円也のツアーパックだという。
時は一九八九年一〇月、タンツリ結成から約二年を経過した頃だった。
世間ではバブル経済というイケイケ風潮の真っ只中で、優人達も、意識はしていなかったが、恩恵は受けていた。
このころ、優人はぬけぬけと実家に住みながら、
CD屋の店員、塗装業、運送業、大道具、はたまたウェイターなど、アルバイトを転々としながらも、
腕に見合わぬ報酬を貰っていた。
報酬といっても彼らには、月に十万か十五万もあれば十分だったのである。
ライブ活動と、酒とタバコを飲むことくらいしか使うことは無かったし、そのくらいの金額は手に職が無くてもいつでも稼げるような時代だったのである。タバコだって二百円くらいだったし。
健と浩二は既にレンタルビデオ屋を辞め、越後なども同じような方法で、毎日アルバイトをしながら
練習代や家賃、赤字のライブ代やタバコ代、酒代それにタンツリ号代を捻出していた。
四人が仕事を転々としていた理由は大体寝坊だった。特に優人と浩二はひどく、二人はほとんど毎日遅刻していた。
それでも、一日一万円稼ぐくらいのアルバイトはいくらでも用意されていた。
あるライブの日には、いつものようにパワーハウスに午後一時に集合であったのだが、浩二がいっこうに現れない。
いろいろな友人のところに電話をかけて探したが、どこにもいない。
もう、出発の時刻は一時間も過ぎていた。
「あいつ、なにやってんだよ」
「まったく!いつもいつも、しょうがねえな!」
健は本気で怒っていたが、呑気な優人とともに大声で花見川に向かってバン・ヘイレンの歌をCDに合わせて歌ったりしつつ、
ライブへのテンションを高めていた。
越後は家の中を黙々と、いるはずのない浩二を探していた。
待ち合わせの時間から二時間も過ぎた頃、越後が隣の和室から
「いた~~~!」と叫んだ。
実は誰も気付かなかったのであるが、隣の汚い和室の畳の上には布団が山のように積んであり、その中に浩二は寝ていた。
まったく以って布団と一体になっていたので誰も気付かなかったのである。
待ち合わせの時間は分かっていたはずだし、優人と健がアホのような大声で歌っていれば、普通は起きてきそうなものである。
そんな騒音の中ずっと寝ていたのだから浩二の睡眠欲も大したものである。
皆イライラし、怒っていたが、特に健が浩二を厳しく叱り、遅刻して五時ごろライブハウスに着いた。
ライブの日はたいがいメンバーは三時頃入り、リハーサルを実際に出る順番と逆に行い、
六時か六時半に開場し、七時くらいに演奏をスタートさせていた。
俗に「逆リハ」と呼ばれるものである。
タンツリはまだ一番目のことが多く、よってリハーサルは最後のことが多かった。
この日も出番は一番で、リハーサルは最後だったので、さして問題にはならなかったが、浩二は反省しきりであった。
そんな睡眠欲の持ち主の浩二に、長く続くアルバイトなどあるはずがない。
しかしそれは、それは同じような寝坊助の優人にも言えることだった。
電話から数日後の昼間、お決まりになったように、「パワー」と言ってまたしても四人はパワーハウスでごろごろしていた。
初夏の良い天気の日で、畳の上には心地よい陽だまりが出来ていた。
「ストーンズ、見に行く?」と健。
「そうだよな~行けるもんなら行きて~よな~、日本に来るかどうか分かんね~しなあ」
優人はあおむけに寝っ転がって言った。
「パスポートって知ってるか?」
健が優人に聞いた。
「そんなもん知ってるに決まってんじゃん!」
優人は寝返りを打ち、怒ったように答えた。
「でも、どうやって取るのかは知らない」
「パスポート取るのに年齢は関係無い、役所へ行けばすぐ取れる」というようなことを健がアドバイスした。
なんと!健、浩二、越後はロサンジェルスへ行くことを決意していたのである。
優人は訳も分からずパスポートを取った。
旅費の二十万円は分割払いで、月に一万円払えば出来るということを聞いて、
なんとなく流されるようにストーンズツアーへの参加を決めた、というよりは決めさせられたのである。
優人はまだ未成年だったため、両親の了解を得て分割払いの旅行を決定する必要があったのだが、
海外にはまだ疎い洋二と節子の両親二人も、治安などの心配はしたが、優人に何を言っても聞かないことは両親も分かっていたので
「まあ行ってくれば」というような態度であった。
由美や順子も優人の両親と同じように
「まあ行ってくれば」
という同じような半ばあきれた態度であった。
しかし葵は
「え~凄いじゃん!私も行きた~い!」
などと呑気というか、現実離れした答えが返ってきた。
他の三人もまた、同様の支払方法を知っていながらの決断だったが、
優人には秘密にして驚かせてやろうという彼ららしい、強引なイタズラじみたシナリオだった。
「ストーンズを見に、アメリカに行くぞ!」
しかしそれは、ディズニーランドに初めて行くよりももっと刺激的であり、
アメリカという未知の世界に足を踏み入れるという、
ある意味では命を懸けた、宇宙旅行のような、ものすごく、わくわくどきどきするストーリーであった。
一九八九年十月二十日正午、優人、健、浩二、越後は千葉県の成田空港にいた。
「アテンション・プリーズ・・・」という、テレビや映画でみたようなアナウンスが流れ、
色々な国のスチュワーデスや、パイロットと思われる人々が行きかっていた。
四人は、日本航空の切符だけ持ち、午後二時のフライトを待っていた。
タンツリのメンバー全員にとってもちろん、海外旅行というものが初めてだったし、
事前には戸田屋の仲間や由美から
「飛行機に乗る時は靴を脱げよ」とか
「機内でジャンプすると体は後ろに飛んで行くぞ」
などと脅されていたが、それが嘘であるということくらいしか飛行機について知らなかった。
この日は岡野さん夫婦もおらず、とりあえずロサンジェルス空港で待っていろ、
と言われて切符を手渡されていただけだった。
四人は電車に乗るのと同じ感覚だった。
「なんで、二時間も前に集合なんだよ」
浩二が言った。
「そんなもの知るか!」
健は言ったが、結局流れ作業のようにチェックインし、飛行機に乗れるようになったのは
健の物怖じしないリーダーシップによるものだった。
四人は荷物をぐるぐると回るベルトコンベアに預け、
あれは一体どこに行くんだろう?と思いながら、パスポートを見せたり、金属探知機をくぐったりして飛行機に向かった。
ん?これでいいのか?というようなことの連続で、
ディズニーランドのスペースマウンテンに向かうような通路を通り、ボーイング七〇七の座席に座った。
座席は通路を挟んで四人が並んでいた。
右の窓際から、健、浩二、そして通路を挟んで越後、優人という順だった。
それぞれのチケットには番号が振ってあり、必ずそれれを守らなければいけない、と皆思っていたのである。
なにもかも初めての体験であり、期待と不安で一杯であった。
「ほんとにストーンズ見れんのかなあ?」
「このまま座ってればアメリカに着くのかなあ?」
「十二時間ずっと座ってなきゃいけないんだよな?」
「着いたらどうすればいいのかなあ?」
「英語喋れる?」
?マークだらけの彼らのシートの上での会話の上に
「飛行機ってマジで空飛ぶんだから落っこちることもあるよね?」
「実際そういうニュースあったよね?」
「一人だけ生き残ったとか」
という優人の発言に、皆、一瞬沈黙を保った。
やがて、アナウンスによりシートベルトを義務付けられ、機体が旋回したのが分かった。
「うをおおおおお!」浩二は唸った。
優人は緊張していた。
窓から見える空港の曇った景色もぐるぐると廻っていて、目が廻った。
飛行機は前進し、そのうちに轟音が響いた。
と、同時に四人の背中が座席にピッタリとくっ付き、身動きが取れないほどの速さで機体がスピードを上げた。
「うおおおおおおおおおお!」
浩二はさらに唸った。
しかし、顔は嬉しそうだった。
優人も、中学生の時にジェットコースターに乗った時以来の記憶が蘇り、
「絶対に安全なはずだ!」と自分に言い聞かせながら、越後の顔を見た。
越後は、無言だったが「くっ」という顔をして、眉間に皴を寄せ、少し小さくなっていた。
健は、座席に身を任せ、お前ほんとに飛行機初めてか?
というくらいなんということもなく楽しそうに窓の外を眺めていた。
機体は離陸し、宙に浮いた。
「おおおおおおお!」
「飛んだ!」
その瞬間、四人は言葉を交わさずとも同じ感動を覚えた。
どんどんどんどん陸が離れていき、山を見下ろし、雲に突き刺さって通り抜けた。
そうして若い四人を、いや、三百人を乗せたボーイング七〇七は日本国を離れていったのである。
成田から見るボーイングは、だんだん小さくなり、宇宙へと消えていったのである。
ロサンジェルス空港に着いた四人は、空港のロビーにいた。
優人は、昼に出て十二時間たったはずなのにこちらも昼なのが不思議でたまらなかった。
もちろん、ボーイングの中で寝はしたが、二十四時間寝てはいない。
というより、いくら寝坊助の優人も普通は長く寝ても十二時間位で、二十四時間は寝ない習慣であった。
しかし頭はまだ半分寝ていた。
日本との時差はおよそ十二時間なので、日本は深夜である。
それに、見る人見る人みんな大柄な「外人」なことと、会話を理解できないことが、凄く不思議だった。
「ここがアメリカか?」
夢なのか現実なのかよく分からなかった。
入国手続きがかなりやっかいで、全て英語だったので質問に対し
「イエス」「イエ~ス!」と何回も答えた。
「バケイション」という単語は教えてもらっていたので、
「バケ~ション、バケ~ション」と言って、やっと入国できたのはなんとなく覚えている。
それと、ぐるぐる回るベルトコンベアがこちらにもあって、自分の荷物が出てきたときも夢を見ているようだった。
岡野さん夫婦からは、シンシアという女性が迎えに行くからロビーで待っていろ、という指令だけだったので、
本当に迎えに来るのか、いつ迎えに来るのか誰も知らない。
まるで、ボーイスカウトのオリエンテーリングである。
四人は待つしかなかった。
数時間後、大きなロビーに寂しく佇む日本人四人に向かって女性が声をかけてきた。
「あなた、中村健くん?」
健も半分寝ていたが、「はっ」と起きた。
見知らぬ国に見知らぬ人々、みんなデカいしおっかない。
会話も理解できない中で自分の本名を呼びかけられれば、誰でも驚く。
「あ、はい」
健は驚いて答えた。
「私、シンシア、今回の岡野さんのツアーガイドよ」
シンシアは到着時間や航空会社も知っていたし、この広いロサンジェルス空港に佇むアジア人四人を発見するのは容易であった。
他の三人も目が覚めた。
見ると、青い目で金髪、少し太っていたし、ピンクと黒という派手な服装で、
若々しくはあったが、健達からすれば「外人のオバさん」という印象だった。この先の四人を翻弄する人物である。
それにしてもこのアメリカの空港で青い目をした「外人のオバさん」が日本語を普通に喋っていることが変だった。
しかしすぐに気付いた。
「お迎え」に来た人だ。
心身ともに疲れていて眠く、訳も分からずアメリカに渡って
「ロビーで待て」という伝言だけを頼りにしていた四人にとって、この女性はその時こそ、女神のように見えたのである。
しかし後に、このシンシアが四人に大きな影響を及ぼす事になる。
「あ、どうも」
健と四人はとりあえず挨拶をした。
「この四人ね。向こうに車があるから、荷物持ってきて」
四人を見回しシンシアは言った。
四人は従うしかなかった。
外に出ると十月とはいえカラッとしたまだ暑い空気が、四人の目を醒ました。
空港内の道路に大きなワンボックスが止まっていて、
黒い腰まである長髪の、日本人と思われる男が運転席でハンドルに両腕と顔を乗せて待っていた。
アメリカ産車なのは分かっていたが、左ハンドルに右車線、日本とは通行方向が全く逆に車が走っていることにビックリした。
映画を見る時もそこまで気にしたことはなかったし、左ハンドルはヤクザの乗る車だろう、
という認識くらいしかなかったのである。
しかも、右折車は信号に関係なく曲がれた。
優人達は荷物を積み込んで「これからホテルに向かうから」と言われ、
車に乗り込み、その日本人風の男が無言で車を走らせると、左ハンドルの意味を理解した。
「うをお!左側が車にぶつかりそうじゃん!あぶねえじゃんよ!」
と左側に乗っていた浩二が慣れない右側通行の道を走る車中からハイテンションで言ったからである。
なるほど、車線の違いのせいか。
「しかしなんで車線が国によって違うんだろう?変だよね?みんな一緒にすればいいのに」
優人にはなんでもその理由を知りたがる「どちて坊や」のような一面があった。
しかし優人にも、いつまでも「どちて?どちて?」と聞き続ければ、たいがい「どうして仕事をするの?」そして
「どうしてご飯が必要なの?」さらに最後には「どちて生きてるの?」という質問になるのは約十八年の経験から分かっていたので、あまり追求することはしなかった。
「シンシアさん、これから俺達どうすればいいの?」
と、健が聞いた。
「大丈夫。一週間は私が案内するから」
しかし、運転手とシンシアは英語で会話しているので何を話しているのか分からない。
ほんとに大丈夫なのか?
と優人は思い、健に
「大丈夫なのかなあ?」と不安げに聞くと、
「大丈夫だろ」という健にしては短い答えが帰ってきたので、多分大丈夫なんだろうな、と自分自身で解決させた。
二人とも単純な男である。
健と越後はじっくりと、高いビルの立ち並ぶ町並みと広い道路を見つめていた。
シンシアの話では、シンシアの父はアメリカ人で母が日本人、いわゆるハーフで
年の頃は三十で、子供も六才と二才の二人がいるということだった。
皆、目をキラキラさせてロサンジェルスという街をみつめている。
「ここがアメリカか~」
「映画で見たのとおんなじだな」
皆テンションが高かった。
優人は窓の外を眺め、凄く広い道路に、日本とは反対側を走る対向車を運転している人達が
皆鼻の高い外人だということに気付き、また変な気分になった。
ロサンジェルスは元々砂漠で、人工的に水道設備を整え、年に三回くらいしか雨が降らないのだという。
なので雨が降ると、自動車事故が多く、雨が降る日には救急車の音がしょっちゅう鳴り響くような街ということであった。
だだっ広い青空の下、カーステレオから聞こえてくる聞いたことのないハードロックミュージックを聞きながら、
ああ、この街にはピッタリだな、と思った。
キラキラと輝くロサンゼルスの街をみつめながら、おぼろげに飛行機内でのことを思い出し始めた。
上空から見ると、雲はまるで地面に張り付いているように低かった。
そして、飛び立ってから程なく安定飛行の姿勢に入ると、メンバーはふらふらと機内を歩くことが出来た。
四人はとりあえず、ビールを買いに行った。
しかし、ビールはサービスで、お金はいらないということだった。
「飲み放題じゃ~ん!」四人は叫ぶと上空四千メートルの空でバドワイザーを乾杯した。
それから、すぐ酔っ払い、話した内容などはよく思い出せなかったが、トイレのことは思い出した。
例によって優人はうんこをしたが、流すときにこの汚物ははるか太平洋に落ちていき、イルカやその他の魚の餌になるのだろうか、
と不思議に思ったのは覚えている。
というのも、子供の頃、新幹線のトイレを流すと便器の穴から線路の石が見えた記憶があったからである。
「まあ、そんなことないだろうな」と解決させると、現実に戻った。
しかし、やはり気になり、越後にトイレのことを聞くと、そんなことをしたら気圧の関係でお前の体も便器に吸い込まれ、
まっ逆様に太平洋だ、というもっともな答えが帰ってきたので、納得した。
なにしろ優人にとっては驚くべきことばかりで、
いろんな意味でのロサンジェルスのデカさに感心していると、ホテルに着き、
シンシアがチェックインの手続きをしてくれ、四人は兎にも角にも寝床を確保できたのである。
ホテルは、日本でいうビジネスホテルよりは良さそうだったが、
かといってそんなに高級という訳でもなさそうだった。
この一週間はずっとこのホテルに泊まるという予定らしく、
二人部屋の二部屋に割り当てられたが、四人はグッパージャンケンで決めた結果、
優人と浩二、健と越後という割り振りになった。
よりによって寝坊助二人が同部屋で、しかも時差ボケという最悪の結果になってしまったので、
健と越後は「絶対に鍵をかけるなよ」と、きつく二人に念を押した。
ひとまず荷物を部屋に置いて、午後五時にホテルのロビーに集合しろといわれたので、
優人と浩二は時差ぼけにより睡眠し、その通り行動したが、
やはり、健と越後に起こされてからやっとノソノソと、と行動した。
健はいらいらしていたようである。
ホテルのロビーでシンシアが四人に
「顔くらいの大きさのポテトを食べさせてあげるわ」
と自慢げに言い放ち、運転手に英語で指示した。
聞くと運転手はやはり日本人だったが、何故か二人の会話は英語であった。
そういう慣習なのか、四人が英語を理解できないだろう、という企みなのか分からなかったが、二人とも友好的ではあった。
「早く食いて~」
浩二が言った。
若い四人は、ボーイング機内で「ビーフオアチキン?」と聞かれたあとは、
何も口にしていなかったのでとても腹が減っていたのである。
ビーフかチキン、どちらを食べたのか、覚えていないくらいであった。
そして、レストランで本当に顔くらいの大きさのジャガイモのピザを食い、
アメリカってほんとになんでもバカデケーな。これじゃあ、人間もでかくて当たり前だ。
でかい人間だから食い物もでかいのか、食い物がでかいから人間が大きいのか、鶏と卵のような関係だなあ、
と、食いきれなかったジャガイモを見ながら優人はしみじみ思った。
その食事の最中、この旅の予定を聞いた。
今日を含めた六日間、シンシアもずっと同じホテルに泊まり、いろいろなところに案内してくれ、三日目にストーンズのコンサート、という予定だそうで、実際にチケットを見せてもらった。
そのチケットを見て、四人は本当にコンサートがあるのだな、と安心した。
チケットには、
「リヴィング・カラー ガンズアンドローゼズ ザ・ローリング・ストーンズ」
と英語で書いてあった。
「ガンズ?」
優人はつぶやいた。
そんな二日目は皆ボケボケで、出発は一時間程遅れ、
ジャニス・ジョップリンが死んだホテルや、
イーグルスのホテル・カリフォルニアという名曲の舞台になったといわれているホテルの前を案内してもらったりした。
が、その辺りに関してはただ前を通っただけだったので
「はあ」とか「へえ」「写真と一緒だな」いうのが皆の感想で、ロサンジェルスに感激はしていたが、特別な感動はしなかった。
なにしろストーンズが早く見たかったのである。
しかし、越後だけはメモこそ取っていなかったが、ふむふむといった調子で、興味津々の様子だった。
三日目。
我らがローリング・ストーンズのコンサートである!
前の晩、四人はしこたまバドワイザーを健のパスポートを見せて買い込み、
またしてもストーンズの「悪魔を哀れむ歌」等を歌って踊っていた。
四人にとってこの曲は重要であった。
延々と続けられることと、サンバのようなリズムを刻むことで、リズム隊の二人の練習になったし、優人も踊りやすかった。
健も、アドリブのギターソロなど、いろいろ試せたので好んでいた。
ロサンジェルスでは水よりもバドワイザーの方が安く、まとめて買うのには持って来いだった。
日本ではまだ「水を売る」という常識は無く、水を売っていること自体が驚きであったし、
アメリカゆえの文化だと思っていたので「水を買う」という意識は四人には無かった。
パワーハウスでは水道水をがぶがぶと飲むのが普通であった。
「こりゃ、常にビール飲めってことか!?」
早生まれの優人はまだ十八才であったが、他の三人はアメリカでの飲酒の最低年齢である二十一歳を超えていた為、
パスポートを見せれば酒を買うことが出来た。日本人の顔なんて、みんな同じに見えるのだろう。
それに、異国の地で飲む酒は、不良になった気分というか、法律なんてカンケーねーよ!という雰囲気である。
もっとも日本にいたって関係ない「不良」であったが、そういった格別なものがあり、当然水などよりもビールがウマく、
大量に買い込んではホテルの部屋で大騒ぎしていた。
「頑張れミック!」という旗を作ろうか、という案もあったが、
多分日本語は読めないだろう、という理由と、ロックシンガーに「頑張れ!」という応援も
いくらミックが年寄りだといえおかしいだろう、という結論に落ち着いたので止めた。
そうして、朝方まで騒いでいた為、四人は当然起きれなかった。
四人というよりも二人か。
昼頃、健と越後が優人達の部屋にどやどやと入ってきて
「おめ~ら早く起きろよ!始まっちまうだろ!」
と、健が叫んだが、優人と浩二はまだガーガーいびきをかいていて、ビクともしなかった。しかも二人とも裸体である。
健は何を思ったか自ら服を脱ぎ、優人のベッドに入った。そして優人のシャツとパンツを脱がせた。
優人は「は!」と気付き、全裸の健を追いやったが、自分のちんぽもビンビンだったので、
掛け布団を剥し、仁王立ちした。
「ほれ!」
と優人は健に見せびらかした。
すると健も負けじと尻を突き出し
「ほれ!」
と言った。
「・・・・・掘るの?」
優人は眠い目をこすりながらそう言ったが、そのままバタンとベッドの上に倒れた。
まだ酔っ払っていたのである。
越後は浩二に「起きろよ!この野郎!」とビンタを喰らわせ、服を脱がせていたが、
浩二も「ふぅうん・・・」とセクシーな声で唸ったままだった。
しばらくすると、皆あまり遅いのでシンシアがドカドカと入ってきて、越後以外の三人が全裸の凄まじい光景を見ると目を丸くした。
「あなた達!何やってるの?もう出発するわよ!」
あきれた様子で、そう怒鳴った。
照り付ける日差しの中、タンツリ四人とシンシアは車で移動していた。
もう、ゆっくりと朝食をとる暇もなかったので、
車の中でバーガーキングの一ドルハンバーガーを半分眠りながら食っていた。
「ストーンズ、ストーンズ・・・」と浩二は呪文のようにつぶやいていた。
だだっ広い道路を約一時間程ひたすら走ると、大きなスタジアムに着き、シンシアに案内されるまま入場した。
午後三時くらいであろうか。
まだ夕刻になる手前であった。
「でけーなー」四人は一気に目が覚めた。
ロサンジェルスの空は、いつも晴れている。
フランスパンのような雲が、少し流れていく程度である。
スタジアムは八十四年にオリンピックを開催したL・Aコロシアムというところで、
日本でいえば国立競技場くらいか、もっと大きいかも知れない。
何人くらい収容できるのかシンシアに聞くと、十万人という答えだった。
なにしろデカい!というのが第一印象で、すでにリヴィング・カラーのステージは始まっていたようだったが、
客はまばらで、轟音は聞こえたが、何かのリハーサルをやっているような感じだった。
健や浩二、そして越後は日本でもバン・ヘイレンやエアロスミスといった、
「外タレ」を武道館や東京ドームで見たことがあったが、
優人にとってはRCサクセションを武道館で見た以来、
初めてといって良いほどだったので、まず、スケールの大きさが衝撃的であった。
どちらにしても、武道館とは桁違いだったし、日本のコンサートのように
整然とされていなかったことが楽しさを倍増させていた。
「すげーな!」「すげーな!」
ばっかりで、他に言う事は無く上空と会場を何度も何度も見渡した。
上空には「WELCOME STONES」と書いたセスナ機がバタバタと音を立てて飛んでいる。
「すげ~な、ストーンズってだけで飛行機飛ばしちゃうんだ・・」
日差しの中座っていると、隣の席からマリファナがまわってきた。
「何これ?」と優人が健に聞くと、
「マリファナだよ」
と健は答えた。
健と浩二はパワーハウスで何度か吸ったことがあるようだった。
勿論、ロックの歴史にドラッグは欠かせない、とみんな思っていたので、
マリファナを吸ったが、興奮していたし、一服くらいではこれといって変化は無かった。
「マリファナがまわってきちゃうの?」
「マリファナって違法じゃないの?」
こういった一つ一つの出来事に圧倒されっ放しの四人であった。
喧騒の中、知らぬ間にリヴィング・カラーは終了していて、
だんだんと客席は満員に近くなり、なにか興奮冷めやらぬ状態になっていた。
夕焼けが綺麗に空をオレンジ色に染めていた。
多分、明日も快晴なのだろう。おそらく、あさってもだ。
皆ガンズ・アンド・ローゼズを待っていたのである。
ガンズ・アンド・ローゼズはデビュー前から話題掻前で、一九八七年に「アペタイトフォーディストラクション」を引っさげデビューした後は、全世界であっという間に二千万枚を売り、押しも押されぬ世界的なモンスターバンドになっていた。
それに、ことロサンジェルスにおいては出身地であったためか、
向かうところ敵無し、まさに飛ぶ鳥を落とす、という程の勢いであった。
事実、後からシンシアに聞いた話によると、さすがのストーンズもロサンジェルスで十万人集めるのは難しく、
前座にガンズを立てて人を集めようということだったようだった。
かくいう優人達も、日本においてそのアルバムが発表された時には
わざわざ買って聞いていたし、へヴィメタルやパンクといった激しい音楽寄りではあったが、
無視できるようなバンドではないと感じていた。
特に優人は、アクセル・ローズのジャニス・ジョップリンのような歌唱力とルックスの良さに魅力を感じ、憧れていた。
そうこうするうちに、太陽があっという間に西に沈みかける頃、
ガンズ・アンド・ローゼズの演奏がウェルカム・トゥ・ザ・ジャングルで始まった。
ギターのイントロがしばらく響き、アクセル・ローズの高い声が爆音で会場内に響き演奏が始まった。
四人はそれまでキチンと自分の席に座っていたが、思いもよらぬ会場の興奮に自然と感化されていってしまっていて、立って叫んでいた。
またマリファナがまわってきた。
優人は一服し、浩二にまわした。
「すげ~~~な、浩二!」
演奏は大迫力で続き、ほとんどの観客はアメリカ人に見えたが、なにしろ大騒ぎである。
ガンズの激しいロックは次々と観客を魅了した。
「ぬを~~~~~~~!かっちょええ!」
今まさに乗りに乗っているバンドとストーンズを同時にアメリカで見られるということは、
ある意味では伝説のライヴに立ち会っているのかも知れないとも思えたし、
ただただその迫力に圧倒されっ放しだった。
「こ、これがロックか!」
「これがアメリカか!」
四人にとって、衝撃以外のなにものでもなかった。
ステージははるかかなたで、巨大なスクリーンはあったが、
遠すぎてメンバーがどこで何をしているのかさっぱり分からなかった。
それでも会場の雰囲気にすっかり飲み込まれていてしまっていた。
四人は言葉も交わさなかった。というよりは、そんな余裕は無かった。
本場のロックの演奏と歓声に完全に魅了されていたのである。
シンシアは隣のはずだが、どこをうろうろしているのか、見当たらない。
それでも四人は幸せで、なんの不安もなかった。
ガンズ・アンド・ローゼズ最後の曲らしき曲が終わる頃、最高潮の興奮の状態で優人は叫んでいた。
「アクセル~!」
アクセルはデビュー前から「七色の声を持つ男」と言われ、これからの音楽シーンを変え得る男だろう、と言われていた。
また、その奇行ぶりも有名で「癇癪持ち」というのがぴったりであった。
アクセルは最後の曲で競技場のトラックを一周しようと走り出したが、途中で息切れしてしまい、歩いてトラックを一周した。
それでも会場を興奮のルツボに巻き込み、魅了した。
優人も無意識のうちにその観衆の中の一人になっていたのである。
そしてガンズ・アンド・ローゼズが終わった。
が、未だもの凄い歓声が鳴り止まなかった。
優人、健、浩二、越後はシンシアが全くいないことにやっと気付いた。
どこへ行ったかは知らないが、また戻って来るだろうと優人は思った。
なんとなく直感で、シンシアはそのような人間だろうという印象を受けていたのである。
優人は一人でビールを買いに行き、トイレに入った。
トイレの中は思いのほか広く、さきほど嗅いだマリファナの匂いでいっぱいだった。
トイレは大混雑で、みんな手洗いで小便をしている。
手洗いといっても、十本くらい横に蛇口が並んでいて、
アルミでできた洗面台は三メートルほどの長さで全部つながっているので、まさに小便用の洗面台のようなものだった。
「なんだこりゃ!汚ね~!」
優人は思ったが、郷に入れば郷に従え、という言葉を頭に入れ、右に倣い、洗面台で用を足した。
それでも、中のキチンとした、日本にもよくあるような小便用便器の所に目をやると、
若いアメリカ人が顔を便器にこすりつけてのたうちまわっている。
「おお?こいつなにやってんだろう?」
驚きながら見物していると、そこへアメリカ人のオッサンがやってきて、
その若者の襟首をつかみ、グイと引っ張り起こし、立たせた。
「ユーアードランキング!」
「アーユーOK?」
若者はハッと気づいたようだったが、目はどこかへ飛んでいた。
「ユーアードランキング!」
オッサンは何回も本場の英語でその若者に何か言っていたが、優人が理解できたのはその言葉だけだった。
「OK」
何度も肩を揺さぶられた若者は辛うじて返事をしたが、見る限り完全に酒かドラッグで酔っ払っていた。
もしかしたら両方かも知れない。その一部始終を見ていた優人は、少し恐怖を覚えた。
みんなメチャクチャである。少なくとも谷村新司のコンサートでこんな事態は考えられない。
RCサクセションのコンサートでもこんなことは経験していない。
ここはどこなんだ?いったい何をしているのかわからくなった優人は、そそくさと席に戻った。
席に戻るとみんながいて、呑気に乾杯していた。優人はひとまず安心した。
健も浩二も越後も会場の雰囲気にすっかり飲まれ、まだ興奮していた。
外で飲む米国産の紙コップのビールは格別に美味だった。
「凄かったなあ!ガンズ!」
「すんげ~かっちょよかったな!」
健と浩二も感激していた。
「そんでこれからストーンズやるんだぜ!訳分かんね~よな!」
大人しい越後も顔が紅潮していた。
そこへシンシアが戻ってきた。やっぱり。
「あなた達どお?大丈夫?」
「なんだよ?大丈夫って?別に大丈夫だよ!どこ行ってたんだよ?」
「それにしてもすんごいね!カンドーの真っ最中だよ!」
優人は先ほどのトイレの事件も忘れ、興奮してビール片手に答えた。
「そう、分かった。これから、ストーンズだからね」
と何事もなかったように言うと、シンシアはまたフラフラとどこかへ行ってしまった。
「あの人何やってんだろうね?」
「分からん」
放っておけとばかりに、優人と浩二は再び意味もなく紙コップのビールで乾杯した。
すっかり夜の闇に包まれ、照明がこうこうと客席を照らしていた。入場してから大分時間がたったようだった。
「ストーンズまだかなあ?」
「ううむ!ほんとにミックが出てくんのかなあ?」
「チャーリーのドラムセットがあんじゃん」
「キースがあそこに立つんだよ」
「ちょっと信じらんね~な!」
等と話している間、観衆も大いに盛り上がってきた。
すでにステージ上のセッティングは終わったようであった。
だんだんと会場全体がヒートアップし、一部から
「ローリング・ストーンズ!ローリングストーンズ!」
と英語の発音で何度も叫びだす声が聞こえた。
そんな雰囲気が会場全体を覆いだした。セスナ機も暗い空をブルブルと音を立てて飛んでいる。
「wellcome stone」と電球で書いた翼をなびかせて。
それならば俺も、と優人は試しに力の限り、
「ミ~~~~ック!」と叫んだ。
すると客席の照明が消え、聞いたことの無い大歓声が上がった。
「ぬをおおおおおおおおおお!」
四人は腹の底から一斉に叫んだ。
「俺の声が届いたのかな?」
と優人はつぶやいたが、もう誰もその声に耳を傾ける場合ではなかった。
優人自身もつぶやいたことに気付いていなかった。
夢中でステージを見つめた。
イントロダクションのリズムが流れ、舞台は激しい照明によって演出された。
中にメンバーがいるのかどうかも確認できない程、激しい証明だった。
「キャ~~~~~~~!」
「ウォ~~~~~~~!」
という悲鳴とも怒号ともつかないような声が廻りから聞こえてくる。
優人達もイントロダクションに合わせて踊り、もうほぼ絶頂に達していた。
しばらくの間イントロダクションが続き、会場の興奮が沸点に達した時、
「ド~~~~~~ン!」と舞台が爆発すると同時に、煙の中からギターをぶらさげたキースが現れ、
「スタート・ミー・アップ」のイントロが鳴った。
完璧な演出により「ザ・ローリング・ストーンズ」のショウが始まったのである。
言うまでも無い。タンツリのメンバー四人全員が爆発した。
失神しそうだった。
優人は何かを叫びながら浩二の頭をバチバチと何回も叩いた。
さすがに「いて~よ!やめろよ!」と浩二は怒ったが、優人には聞こえても見えてもいなかった。
「ミックだ!」
キースもチャーリーもロニーもいたが、とにかくミックがいる!
優人にとっては、当たり前だがそれが一番の興奮であった。
あんなに憧れたスターが目の前にいる。
テレビやビデオで何回も何回も見た、本物の彼らだ。
CDやレコードを聴いて本気で彼らのようになりたいと思ってここまで来たのである。
肉眼では米粒のようにしか見えなかったので、
「実はニセモノ、ウソよね~ん」と言われてもおかしくなかったが、それでも良かった。
もう、ショウの一員になった。その事実だけで満足だった。
優人はつたない英語で合唱し、叫びすぎてうるさかったのか、前の金髪女性三人組みがわざわざ声をそろえて振り向き
「サンキュー!」と完全な嫌味を言ってきたりしたが、関係なかった。
「すっこんでろよ!ビッチ!俺たちは今サイコーの気分なんだ!」
ショウは興奮の中進み、往年の名曲が次々と披露された。
中でも「ルビーチューズデイ」というバラードが演奏された時には
十万人が一斉にライターを焚き、まるで、満天の星空の中にいるようになった時には涙を流した。
ショウの最中は会場が一体になっていることに感動した。
それに十万人全員が合唱する光景は想像を絶した。
「悪魔を憐れむ歌」も演奏された。
十万人が「ふっふ~!」と叫んだ。
タンツリのメンバー四人は、いつもコピーしていた曲の本物の演奏を聞いて、見ることができ、真剣に、うっとりと見つめた。
意識ははっきりしていたが、本当に夢の中にいるようだった。
別にストーンズの演奏力を確認しに来た訳ではなかったし、ミック・ジャガーの歌唱力を聞きに来た訳でもなかった。
ただただミーハーな心だけである。
そんな若い優人にとっては充分すぎる体験だった。
ストーンズが本当に見れた。
しかもアメリカで。
一生記憶に残るだろうな、と思うと同時に「俺もこんな風に十万人を魅了したい」と強く思った。
そんな素晴らしい時間も二時間ほどで終わり、終了を告げる大きな花火に見とれた。
「ああ、神様ありがとうございます」
優人は無宗教であったが、バンバン!バンバン!と音を立てて打ちあがる花火と歓声の中
どこぞの神様とも知れぬ神様にお礼を言っていた。
そうしてストーンズツアーは無事終わり、タンツリのメンバー四人はまた例のごとく「パワ~?」と時々疑問形になりながら
パワーハウスにいた。
なんとなく、時差ぼけと、アメリカでのコンサートの余韻が残っていたのである。
アメリカでのコンサートの後は自由時間などがあったが、
買い物をしたりハリウッドを見に行ったりして、シンシアの案内の下、普通のツアー客として帰ってきたのである。
シンシアともロサンジェルスの空港で別れた。
その間にはロサンジェルスでは非常に珍しい雨にも見舞われた。
確かに、救急車のサイレンらしき音が聞こえた。
雨が降らないということは、じっくりと物事を考えるといような時間があまりなく思え、
だからロスの人間はなんとなく能天気で、LAメタルと呼ばれる内容のあまりない音楽も流行るのだろうな、と理解することができた。
ロンドンやリバプールの、いつも曇った街でできる音楽とは違うんだろう。
それは、ロサンジェルスに行って初めて想像できたことなのである。
また、日本独特の古き良き伝統もなんとなくではあるが、理解できたような気がした。
ロサンジェルスには「君が代」の詩にあるように「苔の蒸すまで」という発想はなさそうだった。
パワーハウスから、健が岡野さんに電話をした。
「あ~岡野さん?俺、健!すげーかっこよかったよ!ありがとう!
ガンズが出るなんて聞いてなかったしさ、ビックリしたけど、おかげでいい経験ができたよ!」
「けどさ、あのシンシアって人、何者なの?」
機関銃のように、立て続けに健が高い声で聞いた。
昔からの友人だ、という健の質問の長さに対しては、短い返事だった。
そして四人それぞれが電話をかわり、思い思いの感想を伝え電話を切った。
電話の向こうの岡野さんも満足気であった。
翌年の二月にストーンズが日本のロック史に残る記念すべき初来日を果たし、優人達も勿論東京ドームへ三回程行った。
やはり感動も興奮もしたが、ロサンジェルスで見たストーンズの衝撃とは比べ物にならなかった。
日本のドームでは客席のブロックがいくつにも分かれ、おそらく避難用と思われるスペースが多く、
凄く整然とされているし警備員も多く、それがなんとなくパーティに水を差すような雰囲気だった。
そういえば、アメリカに警備員なんていたっけ?
間違いなくいたのだろうが、まったく気にならなかった。
警備員といったってアメリカ人のことだ、きっと一緒になってストーンズやガンズを楽しんでいたに違いない。
それにアメリカで見たときと同じように、バラードではライターを焚こうと思い火を付けたのだが、
すぐに警備員が飛んできて、
「消防法で禁止されていますので」
と、優人にとっては意味の分らない理由でライターを消すそうに注意された。
アメリカで見た、満点の星空は、東京ドームでは見られなかったのである。
そんなストーンズフィーバーの後の彼らは、ますます練習に励み、出来る限りのライブをやった。
ガンズやストーンズのようになりたい!
あのコンサートを見てからの四人はますます具体的にロックに取り組んだ。
オリジナルの曲を作るにしても、ストーンズっぽいブルージーな音楽がかっこいい。
大久保達のやっているビートパンクのように、ただ飛び跳ねる音楽ではなく、もっと心地よいリズムがあるはずだ。
四人の意識の中にはそんな具体的なイメージが確実に芽生えていた。
それは、あのコンサートを一緒に見たから共有できるものであった。
しかし、帰国後から、マリファナやアシッドといった薬が、六本木あたりに行けば
日本でも手に入ることに気付いた彼らは、簡単に手を出すようになっていた。
作曲の仕方は大体健がギターのリフレインを持ってきて、それをスタジオにて四人でリズムを作ったり、
歌詞をつけたりという風に料理していくようなスタイルであった。
そうこうして、見よう見まねながらも作曲と演奏力の向上に励み、優人ももっと歌唱力を付けるように意識した。
音程が定まることは当たり前だし、リズムにも気をつけるようになった。
車の中が良い練習場所になったのである。
大きな声を出して練習するのには実家ではなかなか難しい。気のふれた息子さんがいて大変ねえ、と両親が言われても困る。
しかしBGMに合わせて車の中で叫んでも、誰にも文句は言われない。
そうして車の中とスタジオで、少しずつではあるが、確実に優人は歌唱力を付けていったのである。
そうするとだんだんと、浩二と越後が刻むビートにも敏感になり、二人の良し悪しが分かってくるようになっていった。
ただ、歌詞に関しては、テーマこそ「あのアメリカの歌にしよう」とか、「UFOの歌にしよう」といった
アイデアはあったが、他の三人は無頓着で、口を挟むことはあまりなかった。
そのため、優人は一人で作詞に励んだが、自分自身にまだ自信がなく、なんとなくあやふやな部分もあったので、あえてはっきりと歌わなかった。そしてそれは長い間、優人にとって良い癖にはならなかったのである。
が、歌詞を除いて、四人一体となった演奏はアメリカでストーンズを見たことによって、
以前にもまして、一つの弾丸のように激しいパワーを持つようになった。
そうしてバンド、タンジェリンツリーは、渋谷の「パパス」や、新宿の「ソフト」にも出演できるようになった。
当時、これらの主要なライブハウスに出演するのにはオーディションというものが必要で、
平日の昼にお客さんを呼んで演奏する。
そこで初めて、動員数やら演奏力やらを問われ、夜の部に出演できるというシステムが主流であった。
このあたりのライブハウスのキャパシティはたいがいどこでも二百人程度で、多くの日本のバンドがこういったライブハウスを満員にしてから、メジャーデビューしていたのである。
タンツリはほとんどのライブハウスで、その「オーディション」を一回で通過した。
彼らの上手ではないがエネルギーに満ち溢れた演奏は、各ライブハウスの経営者にも自然に伝わり、
演奏できない店がほとんどなくなる程であった。
動員数こそ少なかったが、だいたいの経営者は若いタンツリのパワーや将来性を見抜けた。
そうこうして、若い彼らがライブ活動を続けて行く上で、
優人は、四年間「友人」として付き合い、スタッフを名乗っていた中田由美とついに恋愛関係になった。
優人はもともと由美に好意を寄せていたし、由美もまんざらではなかった。
そして、あるライブの夜に酔った勢いもありラブホテルで結ばれ、事後、ごく自然に恋人になっていたのである。
周囲も別に驚きはしなかった。
想定の範囲内だったのである。
というよりも、はたから見ていれば、同級生とはいえ、恋人でない、という方がおかしかったくらいであった。
由美と優人は告白というどきどきするような体験こそなかったが、確実に恋人という関係になった。
その頃、優人と浩二を紹介した、大久保の率いる枕草子も、タンツリと同じような練習やライブのペースで、
パパスやソフトに出演出来るようになった。
だがしかし、彼ら枕草子の音楽性はタンツリと違い、ビートパンクと呼ばれるジャンルに近かった。
ライブハウスにもそれぞれ、店のカラーがあり、ソフトはパンク系、パパスは流行りのロックンロール系、
という種のなんとなくのルールがあった。
いろいろなライブハウスで一緒に出演することはよくあったが、
枕草子はソフト、タンツリはパパス、という図式もこの頃から出来上がってきたのである。
枕草子は良い意味で、長い間タンツリのライバル的なバンドであり、良き友であった。
パワーハウスでも、よく一緒に酒を飲んだ。
いろいろなバンドがいろいろな意味で成長していく過程において、越後にはまだ彼女はいなかった。
タンツリはもちろん、枕草子や他のバンド仲間においても、彼女のいないバンドマンは珍しかったのである。
越後の存在は、想像するならば「ルパン三世」の石川五右衛門に、よく似ている。
いいライブをやっても
「・・・またつまらぬモノを切ってしまった・・・」
というセリフを今にも言いそうなタイプである。
そんなある日、パワーハウス及び、そこにたむろする連中にまたニュースが走る。
「越後に彼女ができた!」
「なにい!」
「そんなはずはないよな!?」優人は浩二に叫んだ。
たむろする連中、全員がビックリマークであった。それは想定の範囲外である。
無口で無骨な石川五右衛門のような越後に女は似合わない。皆そう思っていたからである。
もちろん、周囲の勝手なイメージであったが、五右衛門のように黙々と我が道を貫いていく、
というような目で越後のことを見ていたのである。
その悪い女性は、鈴木和美という女性で、やはり由美や順子、葵とスタッフなどを名乗り、いつもライブに来て手伝ってくれており、
痩せ型の、純和風な顔をした、少し気の強いタイプの女性であった。
越後と同じように「丸書いてちょん」というような顔であったが、少し目がつり上がっていて、
いかにも気の強そうな感じの伝わる女であった。
皆は、越後は騙されているに違いない、和美は魔性の女だ、という噂話で持ちきりだったが、越後にいくら聞いても、
「そんなことね~よ」という言葉しか返ってこなかった。
和美は和美の「カ」とその豪快さから通称「カーさん」と呼ばれていて、評判は悪くなかったが、優人は心配し、直接越後に問いただした。
越後によると、付き合いこそ長くはないが、経緯としては優人と由美とほとんど同じように結ばれたようだったので、
「うん、うん、そういうこともあるよな」と一番疑っていた優人も、手の平を返したようにだれよりも納得した。
「カーさん」はそのニックネームの通り肝っ玉かあさんのような性格で、
ある夜、皆で居酒屋にて夕食を摂っていたとき、カーさんがいきなり唐揚げを店員に投げつけた。理由は唐揚げにキチンと火が通っていない!赤い!という事だった。
皆は「まあまあ」とカーさんを説得したが、カーさんの怒りは収まらず、
「こんなもの出して金取れると思ってんのか?」とか
「それでも居酒屋って呼べんのかよ!」
等、暴言の数々を吐き、結局店長が折れ、お代を払わないで帰ってきたりした。
越後もホウホウノテイであったが、カーさんは、「みんな帰るよ!」と皆を強引に引っ張り、店を出た。
メンバーと、その彼女を含め八人分のお代なので、店側には随分高く付いたろうが、優人達は
「ラッキー」
「カーさんすげー!」
という程度でケラケラ笑い次の居酒屋に入っていくのである。
越後も「しょ~がね~な~」という感じで、いつも笑っていて、少し幸せそうに見えた。
こんな日々を送り、タンツリのメンバーとその彼女の八人はすっかりファミリーになり、
例えば山や川へキャンプに行ったり、健の親戚の山小屋で一週間程過ごしたり、といったいろいろな経験をした。
健の親戚の山小屋は、長野県は軽井沢の程近くにあり、森の中にポツンと立つ、築百年くらいの、だだっ広い別荘で、
部屋の真ん中には囲炉裏があり、風呂は薪を燃やして焚くという、まさに昭和の家であった。
避暑地というくらいなので気候もちょうどよく、Tシャツ1枚で眠るくらいがサイコーの場所である。
この時は夏真っ盛りで、健の親戚の同意を得て、楽器やらアンプやらを持ち込み、合宿という名目で夏に乗り込んだ。
近くのスーパーで食材を買い込み、ハンゴウでご飯を炊き、カレーやシチューなどを女性陣が作り、
時には山の食材やマジック・マッシュルームを探し、それを調理して過ごした。
マッシュルームについてはキノコの本を携行し、毒キノコを避け、よく調べて取ったのである。
これだ!と思うキノコに出会ったときの感動といったらなかった。
天井は五メートルほどあり、総ガラス張りの窓からは、庭とも森林ともつかない木々達の風景が見事に見ることが出来た。
二階に二部屋ほどあり、そこに二段ベッドが四つづつ置いてあったので、
眠るのには困らず、気候も涼しく、全く以って快適であった。
また、薪を割って風呂を焚くという原始的な方法も新鮮だったし、夜は寒い日もあったので、
火を焚く際には、誰かが浴槽に入って、すぐ裏の外にある火を焚く場所と
「冷たいぞ~」とか「熱すぎる!」などという連絡を大声で取り合い、
火を焚く側は「これでどうだ!」と竹の棒を思いっきり吹いたりして火の勢いを強めた。
「あち~!やめろ!」
「どうだ!この野郎!」
「もっとおおおお!ファイヤー・ゴー・オン!」
「やめろ!バカヤロー!」といったような会話が普通だった。由美も「火を吹いた」し、葵も順子もカーさんも同じように頑張った。
男女関係無く交代交代で行い、皆で風呂のひと時を楽しんだ。
また、合宿という名目なので、一階の和室にドラムセットを組み、アンプを並べた。ホコ天をやっていたため、マイクやミキサーなども揃っていた。が、あまり大きな音は立ててはいけないと言われていたので、小さな音で作曲をしたりした。
止められていたとはいえ、閑静な森の中で、爆音のロックはマズいだろう、と皆も思っていた。
そして一週間と言っても、いつも八人一緒に行動していた訳ではなく、各々勝手に買い物に出かけたり、風呂に入ったり、酒を飲んで寝たりしていたのである。
勿論タンツリ号で来ていた訳だが、駐車場という立派なものは無く、小屋の隣の泥の上に強引に泊めていた。
雨が降った日などはタイヤがスリップしてしまい、車を出すのに全員で押して、一時間以上かかったこともある。
特に免許を取ってまだ一年も経たない優人は、何度かみんなに迷惑をかけた。
雨が降った後の枯葉でできた駐車場はズルズルと滑り、全く身動きが出来なくなってしまうのだ。
「せーの!」と言ってみんなで車を押した。五回程トライした。一回目、まるで動かず。二回目、少し動いた。辺りは真っ暗な山の中である。女性陣からはため息がもれる。三回目は人事異動を行い、男性陣は全員後方に回った。運転手も優人でなく健に交代。また少し動いた。「せーの!」と四回目にトライ、もう少しで動きそうである。浩二が大きな声で「よおし!行くぞお!」とみんなを鼓舞し健がタイミングを合わせ、思い切りアクセルを踏んだ。すると、やっと泥から脱出できた。
みんなヒザまで泥だらけになった。
「ごめん、ごめん」優人はその度に言った。健は「まだまだだなあ、優人」などとイヤミを言ったが、その後に「ファイヤー」と叫びながら泥だらけになった体で入る風呂も、みんなにとって、また格別だった。
ある日、昼頃優人が起きると、一人ぼっちで車も無く、天気が良かったせいか、
皆、川遊びや山中散策か、買い物に出かけたようだった。
優人は他にやることもなく、インスタントコーヒーを入れ、砂糖とミルクも少しだが、入れた。
そして総ガラス張りの部屋にある年代物のステレオの前の大きな椅子に座った。
おそらく、この家の持ち主の、お気に入りの場所なのだろう。
ステレオの横には少しのレコードが並んでおり、ちょっとそれを拝借してみても罰は当たるまいと思い、ガサゴソと探すと、
その一枚にビル・エバンスの「ワルツ・フォー・デヴィ」というアルバムがあり、それを手に取った。
ビル・エバンスは一九七〇~八〇年代に活躍したジャズピアニストで、
特にこの「ワル・フォー・デヴィー」は現在でも名盤として名高いアルバムであった。
優人はまだジャズというものを良く知らなかったが、このアルバムの名前は聞いたことがあったので、
レコードを手に取り、ターンテーブルの上に置き、プレーヤーの針を上げた。
くるくるとターンテーブルがレコードと共に回りだした。
針を落とし、大きな椅子に戻り、ステレオと向き合いコーヒーを飲んだ。
ブチブチというレコード独特の音と、心地の良いピアノの音が流れ、優雅な時間がゆったりと流れる。
横を向き、眼前に広がる木々達を眺めていると、そのうちに優人は宙に浮いたような感覚に陥った。
まるで、全身が何か温かいものに包まれているような、非常に精神が安定し、時間が止まったような状態だった。
とても心地が良く、そのアルバムが終わるまでは、おそらく三十分程度、じっと椅子に座っていた。
音楽を聴いてはいたが、時間が経過した、という感覚はなかった。
今の感覚は・・・
優人はシラフだった。
完全に「何か」に守られているいるような感覚だった。
もしかしたら、森には何か力があるのかも知れない。
人間を癒す力や、まして森の精なんてものが、本当にいるのかも知れない。
ウォルト・ディズニーの作品がもともとは幻覚から生まれたという話も聞いたことがあったし、
確かに初期のディズニーの作品は、森が舞台の作品が多く、大きな木が喋ったり、キノコ達が躍ったりというシーンがよく出てきた。
多分、ここにいてマジック・マッシュルームやLSDを飲めば、ディズニーの世界に行ける。
これが、優人の不思議な体験の一番初めの始まりだった。
そこへ皆がドヤドヤと帰ってきた。
やはり、川に行って遊んできたらしい。
優人は、特に先程の「特殊」な体験を話さなかった。
「お前、いつまでダラダラ寝てるんだよ!」
浩二が言った。
優人は
「別にいいじゃん」
寝坊助二人が短い言い争いをしたが、たまたま早く起きた浩二が自慢したかっただけかもしれない。
別荘での一週間はあっという間に過ぎ、特に何か作曲や演奏力の向上といった収穫はなかったが、
とにかく、ただただ楽しんで帰ってきた。
しかし、こんな経験もバンドには良い経験であったのである。
この様な楽しい日々を、ほとんど毎日のように送り、
タンジェリンツリーと由美やカーさん、順子、葵を含む仲間達は、アルバイトをしながらであったが、
「パワー」という合言葉とともにライブと打ち上げ三昧の日々であった。
ライブの後の打ち上げでは皆が大概暴れ、
時には渋谷で酔っ払って路上駐車のベンツの上でジャンプしたり、新宿の街中を素っ裸で駆け回ったりした。
由美、順子、葵、カーさんは時に便乗し、時には心底心配した。
打ち上げ後の飲酒運転は当り前であった。
同時期のこういう馬鹿なロックバンド連中は大勢見られたが、不思議とタンツリには、喧嘩や警察沙汰ということには縁がなかった。
むしろ、そういう馬鹿をやってどんどん仲間を増やしていったのである。
もちろん戸田屋の遠藤さんや、ストリートの岡野さん夫婦も応援してくれていたので、
千葉や本八幡でも、そのやんちゃ振りは夜な夜な披露されていた。
大久保率いる「枕草子」もや他の同世代のバンドも同じような馬鹿や喧嘩をやっていたが、
大久保は以外に真面目で、作曲活動に手を抜くことはなかった。
しかしパワーハウスにて一緒に酒を飲んだり話したりする様子では枕草子の動員数はなかなか伸び悩んでいたようである。
まさに、タンツリと同じように、ソフトやパパスに出演してはいたが、枕草子の音楽はビートパンクという音楽から少し抜け出し、
少し真面目でポップな音楽に移行していた。
あまりポップな枕草子の音楽は、アンダーグラウンドのシーンでは逆に受けなかったようである。
健や浩二は「自分たちの音楽を貫けよ」とアドバイスをしたが「それじゃあ売れない」という趣旨の言葉が大久保からは帰ってきた。
「なんだよ、枕草子は売れるのが目的なのか?」健は言った。
「おまえらは違うのか?世界一になるのだって日本が先だろ?」
「まあ、そうだけど魂は売りたくないなあ」
「そんなこと言ってる訳じゃないんだよ。俺だって魂を込めて歌ってる」大久保はやけになったように反論した。
「優人なんて何歌ってるかわからんじゃないか」
優人は少しうろたえながらも
「俺だって魂で歌っているわい。それに動員も確実に増えてる」と答えた。
こういった会話はこの夜だけではなかった。
次第に活動の拠点を東京の中心に移し始めたタンツリは、皆引っ越しを試み、
優人と越後は相談し、近い方が都合がいいだろうという理由と不動産屋の斡旋と少々の値引きにより市川のムーンハイツの一〇一号室と二〇一号室の二部屋、健は小岩の貸家にそれぞれ居を移したが、浩二はまだパワーハウスにいた。
ムーンハイツは一〇一も二〇一も六帖一間で、広くはなかったが、
家賃も一部屋五万円と比較的安く、タンツリ号も停められたし、風呂にも入れたので特に問題はなかった。
健の貸家も古いながらも二階建てで二部屋だったが、駅から少し遠かったためか、家賃も六万ほどだ。
しかし、都内でのライブや、練習を考えれば良い選択だったのである。
というのも、練習スタジオも、津田沼から上京し、小岩のスタジオ「スタジオK」に移ったからだ。
このころは、彼ら四人にとって仕事などどうでもよかった。
なにしろ「世界制覇」をするのだから。
仕事=やりたくないこと。そういう意識が彼らを支配している。
しかし、アマチュアである彼らは生活の為に仕事、アルバイトをやらなければならなかった。
健と越後はそれでも案外とまともに働く方であったが、浩二と優人はぐうたらで、まず朝起きれないのが問題であったが、
その前に根本的に働きたくない、という意識が頭を支配していた。
物凄く天気が良い春の朝に、浩二は早起きをした為かムーンハイツにいる優人に横浜に行こう、と突然電話で誘った。
「今日、ペンキ屋のバイトだからダメだよ!」優人は反論したのだが、浩二に
「そんなもんカンケーねーよ!」
「この良い天気にバイトってっこともね~だろ!」
と猛烈に反対され、
「風邪をひきました」
という非常に単純な嘘を親方に電話で伝えアルバイトをサボった。
そして、意味もなくタンツリ号を走らせ「ヒャッホ~!」「ヒュ~!ヒュ~!」などと叫びながら湾岸道路を通って
横浜へとドライブをした。
「なんで湾岸道路で行くんだよ?京葉道路でいいじゃないか。安いし」という単純な質問を浩二がした。
「だって気持ちいいから」優人が答えると「じゃあ、しょうがねえな」浩二は答えた。
BGMはたいがいツェッペリンやストーンズといったドラマーが重要なバンドであった。
そして意味もなく、写真を撮ったり、横浜の小さな川でウンコをした。また、その姿の写真を撮ったりして。
それから、優人と健、二人でも箱根の方へ意味もなく行ったりと、まさに自由きままな生活が始まっていったのである。
健とのドライブではレイナード・スキナードやステッペン・ウルフといったアメリカ出身のバンドの曲が多く、
健の好みのギターバンドであった。
しかし優人は選り好みをせず、それら全ての音楽を吸収していった。それらの音楽を聞きながらのドライブはサイコーだったのである。
イギリスとアメリカでは、どうもリズムに関する認識や、歌唱力に関する認識が違うようであった。
それはあくまでロックに関する話で、黒人音楽にいたっては別なのだろうが。
由美や順子、カーさんと葵もアルバイトをしながら、それぞれの彼氏の部屋に、よく泊まった。
まだ、同棲とまではいかなかったが、半分は同棲のようなものだった。
そんなある初夏の日、由美と優人はドライブにでかけた。
昼頃にあてもなく出かけたのだが、水天宮のある隅田川大橋のあたりでぷらぷらと散歩をしてみよう。
二人はゆっくりゆっくり、すれ違う人に挨拶をしたりしながら、手を繋いだり離したりしながら川を眺めて歩いた。
とある五十才くらいのおじさんとすれ違った時に、優人の「いい天気ですね」という言葉に始まり、
「それじゃあまた、ありがとう」と会話が終わるまで三十分ほどかかった出来事がある。
「あんた達どこから来たんだい?」とおじさんが尋ねると、
「まあ、千葉の方からです」と優人は答えた。
「ほお・・千葉ね、あたしはもうここに六十年も住んでいるよ」
年の割りには元気に見えるな、と思いながら優人は
「はあ六十年ですか・・・当時はなにもなかったでしょうね、この辺も」と聞くと、
「そうだよ!子供の頃には裸で魚を捕って遊んだもんだ!ここから五十メートルくらいの所にウチがあってね」
と陸の方を指して嬉しそうに話し出した。
廻りを見渡すと、大きなビルや大きな橋がたくさんかかっていた。
「こんな堤防だってなかったんだから、ここいらに船がたくさん泊まっていてね」
「船、ですか?屋形船みたいな?」
「そう、船、昔は水路の方が発達していたんだから。江戸といえばこの辺が中心だったんだよ」
「はあ、じゃあ陸路は歩いて?」
「それか馬車だね、うんうん、原宿とか渋谷だってところはお屋敷街だったんだよ」
「ちょっと行けば、浅草や銀座だからね、この辺は。相撲だっていまでも両国にあるでしょ」
おじさんは両手を広げたり、手をぐるうっと横に回したりしながら言った。
「へええ、実家は幕張なんですけど」
実は・・という調子で優人が言うと
「幕張かあ、幕張はねえ・・・一応太陽系の中には入っているけど、冥王星ってぐらいの感じだったかな」
「でも太陽系には入っていたよ」
「そうなんすか」
肩まである長髪の青年が真面目に日本の昔の話をしている姿は由美から見ると不自然であった。
が、優人は昔から歴史が好きであったので、至って真面目に話した。
「だから千葉県の南の方、館山とかあっちのほうね、あっちが上総、つまり上って書くでしょ、
船で行くにはあっちのほうが近かったわけだ。
逆に市川だとか船橋だとかは陸路になっちゃうから行きにくかったの、ね、だから下総、下っていうでしょ」
「なるほど~」
この話には由美も納得した。
「じゃあ今こんなに道路やらビルがあるなんて・・・」
「そりゃあもう想像もしないさ、文明というのは凄いね」
おじさんは再びあたりを見渡した。
その後もしばらく当時の吉原が移動した経緯や雰囲気や遊びについて興味深く優人は聞いた。
まだまだ続きそうな話に由美はしびれを切らし、優人の手を引っ張った。
「分かった」と目で由美に合図をすると、
「じゃあ、おじさんありがとう、面白かったです」
「おお、仲良くやれよ!」
おじさんも元気にそう言って別れた。
その後も二人は手をつないで少しぷらぷらと歩いた。
「江戸時代かあ、行ってみたいなあ、面白かったんだろうな」
実際には六十年前年前は昭和であったが、優人はなんとなく江戸の時代に思いを馳せた。
そうだよなあ、きっと夏には夜な夜な船の上で遊んでたんだろうな。
おいらんやら夜這いやら、色恋沙汰もそうだし、酒を飲んで相撲に熱狂したり、今と同じように楽しいこともたくさんあったんだろう。
ある意味では今よりも平和で楽しい時代だったのかもしれないなあ。
今でこそ、水はどこの家からも出るし、暑ければエアコンもある。寒ければガスもある。
電車や車が発達して、日本全国、いや、海外にだって簡単に行ける。
しかし水は人間にとって不可欠な存在だ。水辺の周辺に村や文化が発達したのは当然のことだろうなのう。
古代の文明だってみんな大きな川沿いだった。
電気だって無かったのだから、夜だってさぞやロマンチックだったんだろうな。
頭を剃ったお侍さんがカッコよかったんだもんな~。
全く、文化や常識といったものは時代や場所によって大きく左右されるものなんだ、
今、俺が頭のてっぺんだけ剃って歩いていたら、確実に他のメンバーや友達に笑われる。笑われるどころか、絶交だな絶交。
そんなことを無言で考えると、
「ところでさあ、由美、六十年後、世界はどうなってると思う?」
優人は唐突だが真面目に聞いた。
「六十年後~・・・さあ・・・宇宙に簡単に行けるようになってんじゃない?」
由美は興味がなさそうに答えた。
「それは宇宙人が来るから?」
優人はいたずらっぽく聞いた。
「あんたねえ、宇宙人なんて来ないって言ってるじゃない!」
「来るって!来ないにしても九九年には絶対なんかあるよ!」
「なんにもないよ!」
由美は吐き捨てるように言うと手を離し歩を早めた。
「なんでわかんねえのかなあ?女は・・・まったく・・・すぐ怒るし・・・」
優人は追いかけようともせず、ぶつぶつ言った。
その後もしばらく過去や未来について想いを馳せて歩いた。
そうして、日が暮れる頃、二人はムーンハイツへ戻った。夕焼けがやけに綺麗に見えた。
ビールを持って越後たちの二〇二号室へ行き、「六十年後」について語った。
結局らちは開かず、十九九九年問題へと話題はそれ、由美とカーさんは「何もない」と言い張り、
越後と優人は必ず何かある、今に見ていろ、という結論のまま平行線をたどり夜は更けていったのである。
練習のペースやライブの数は変わらなかったが、
優人は、
「成り上がり」
などなど成功したミュージシャンの本を読んでは、ますます、ロックスターに憧れた。
また「パパラギ」という南の島の酋長が見た文明に関する演説集の小さな本には物凄く影響された。
南の島の酋長から見れば、時間に追われ、お金に追われ、あくせく働く「発展国の人々」は「人間らしくない」
という意味で、逆な差別に値するものだった。
その本を優人はいつも持ち歩く程愛読した。
その他のオカルトチックな本も興味深く読んでは、この現代は、地球上で三番目の文明で、
この文明の前に一万一千年前、もっともっと発達した文明があったことや、
地球の歳差運動により、西暦二千年には世界中の春分点・秋分点が当時の山羊座から水瓶座に移行するので、
皆の考え方が現実的な山羊座から、宇宙的な発想の水瓶座の影響を受けるようになる、
という科学的とも寓話的とも取れないストーリーをほとんど鵜呑みにしていた。
際差運動とは地球が自転しながら軸はコマのように円を描き、約二万五千八百年かけて一周するという運動のことである。
この際差運動については、現代科学でも証明されているらしい。
また、ギザのピラミッドは一万一千年前に建てられたもので、一万一千年前には獅子座の時代だった為、
横にライオンの体を持ったスフィンクスと呼ばれる守り神を造った。
当時の文明からのメッセージである、という説も優人を虜にした。
クフ王のピラミッドは底辺が二百三十メートルで高さが百四十六メートル、
その底辺の四角形には寸分の狂いも無く、また高さと長さの比は全て黄金比で出来ているという。
古代人にそこまでの知識と技術があっただろうか?
黄金比とは物体を最も美しく見せる比率で、レオナルド・ダ・ヴンチの作品や
現在のキャッシュカード、また自然界にも多く見られると言われ、現在の美容整形手術にも応用されているようである。
優人は黄金比が凄く気になり、本で調べると、黄金比は紀元前四百九十年頃にギリシアの彫刻家ペイディアスが初めに使ったと言われているが、それでもピラミッド建立の通説となっている紀元前四千年前からは随分後になってからである、ということだった。
あれだけの建造物を造った文明人が、黄金比を知らずに、ピラミッドがたまたまその数値になったとは優人には考え難かった。
それに、現代でもピラミッドを建設するのは難しいと言われているのに古代人に何故できたのだろうか?
優人は現代のピラミッドに対する通説に対して大いに疑問に感じていた。
地球の四十六億年という途方も無い歴史(それさえはっきり証明されてはいない)という観点から見れば、
この地球上に何が起こっていてもおかしくは無い。
それに、この想像も出来ない程の大きさの大宇宙の中で地球だけが知的生命体を持っているなんて発想自体がバカげている。
優人には宇宙人はいない、と言い切る学者の気が知れなかった。
が、もしも、ギザのピラミッドが一万五千年前の建造物であり、実際に際差運動により、
西暦二千年に水瓶座に入ったとしても、何がどう変わるのか見当も付いていなかったし、
第一その前にノストラダムスの予言があるから、宇宙人は一九九九年にやっぱりやってくるに違いない、
と優人は優人なりに解釈していたのである。
また、宗教的観点からも、優人はいつの間にか独自の持論を持っており、
人は皆教祖様であり、誰かの教えに従うものではないと考えていた。
それは、信じるものがあるのはいいことだが、好き勝手をやっていいということではなく、人間の心そのものが宇宙であり、
どこまでも広がっていく。
実際の三次元の宇宙ともつながっており、それならば、人間は無限のパワーを持つ。
つまり「想像」という言葉は「想像」ではなく、「創造」いわゆるクリエーションなのだ。
「想像できることはいずれ現実になる」という言葉をどこかで聞いた覚えがある。
百年前に「空を飛びたい」と思っていた人からすれば、現代の文明は願いが叶ったようなものだ。
それに、もっと昔の人々が「遠くに行ってみたい」とか「暑い寒い、を克服できないか」といった願いも、
想像したかどうかは分からないが、現在ではたいして困らない。エアコンというものがある。
善悪に関しても、自分で自然に判断できるであろう、という優人の思想であった。
そんな思想がこの頃から歌詞の中にも現れるようになっていた。
他の三人も優人が右から左へと説明するオカルトじみたストーリーを疑いはしなかった。
健も、浩二も越後も「なんとなくは理解できる」という思いであった。そして浩二の彼女である葵も。
その影響であるか、浩二と越後は独自の方法で「宇宙のリズム」というものを探求し始めた。
その探求方法は特殊で、浩二の住むパワーハウスから、
越後の住む本八幡のムーンハイツの中間地点まで国道をお互いに走り、出会った際にはハイタッチを交わしてまたお互いの家に戻るという、リズムに関係があるのか無いのか分からないアイデアであった。本八幡から幕張までは約十キロの距離である。
が、しかし、二人は真面目に実践し、しばしば倒れるほど疲れていた。
「今から出るぞ」
とお互いの家からの電話で確認して、浩二はまだか?越後はまだか?
とお互いに国道をただひたすら走り、出会った時には満面の笑みでハイタッチを交わし、
また走って家路を急ぐのであった。
毎日やっていたかどうかは定かでなかったが、浩二と越後が周囲に言うには
「毎日だよ!」ということである。
そんな「宇宙のリズム」訓練の甲斐有ってか、肝心のライブ活動も順調で、
動員数は平均三人から平均二十人に増えていた。
ライブの度にノルマ設定の自腹を切らなくて済むようになっていたということである。
演奏の曲目も、徐々に増え、四人の演奏力も団結力も成長していっていた。
四人にとっては、まだ世界制覇にいたる演奏ではなかったが、まだ、成長期であり、目標は日本であった。